第七話 ミズ・エイプリル(九月十二日 瞳子)
その夜、瞳子はなかなか眠れなかった。
いつもであれば二十時には自然に眠くなるのに、その日は全く眠気が訪れない。
放課後の図書室で真凜が放った一言が、勝ち誇ったような表情と一緒になり、瞳子の頭の中で繰り返し再生されていた。
「それ、私のパパ」
真凛の声が、ばらばらに分解されて頭の中をぐるぐる回る。輪舞が終わらない。
「それ」
「それ」
あ、そーれ。
「私の」
「私の」
よいしょ。
「パパ」
「パパ」
はあ、どっこい。
輪舞というより盆踊りだ。次第に『松本ばんぼん』の節回しに乗り始める。
「だからどうしたというのよ。児玉水力の小説の面白さがそれで変わる訳じゃない」
瞳子は理性ではそう思うのだが、感情は堂々巡りを繰り返す。
とうとう二十二時を過ぎても寝られなかったので、喉が乾いた瞳子は水を飲みに階下へ降りることにした。
瞳子にとっては真夜中である。階段をなるべく音がしないように降りた。その歩き方も、仙台の祖父からこっそり教えてもらったものである。
「夜は静かに歩かないと、人さらいがくるからね」
と、笑いながら祖父は言ったが、その時の瞳子には「人さらい」の意味がよく分からなかった。
「夜歩いている人を転ばせるお化けのこと?」
と祖父に尋ねて、さらに大笑いされた。
キッチンはまだ明りがついていた。中からキーボードを叩く音が聞こえている。
――パパが仕事をしているのかな?
瞳子はさらに気配を殺して近づく。
かなりの速さでキーが叩かれていた。
なんとなく近づきがたい空気が、キッチンからリズミカルな音に乗って廊下に溢れ出している。
瞳子は隣のリビングに忍び込んで、扉の隙間から部屋の中を覗きこんだ。
洋は流し台のほうを向き、リビングに背を向けた姿で、ダイニングテーブルの真ん中に座っていた。
卓上のライトが灯されており、キッチンの食器棚に反射した洋の表情を見ることができる。
あ。
あれ?
うーん。
気のせい?
いや、違う!
やはりそうだ。
変な感じがする。
声がかけられない。
知らないパパがいて、
厳しい表情をしている。
キーを激しく叩いている。
タバコの煙があがっている。
壁掛けの時計が時を告げて、
パパがゆっくり顔を上げ、
キーを打つ指がとまる。
パパが上を見あげる。
表情が溶けていく。
いつものパパだ。
長く息をはく。
目を閉じる。
キーの音。
電子音。
送信!
あ。
洋は立ち上がってコーヒーポットを取ると、カップに静かに注いだ。
湯気が柔らかく立ち昇る。一口だけコーヒーを啜ると、彼はスマートフォンを取り出して、どこかに電話をかけ始めた。表情はいつもの穏やかな洋の顔だ。
――今なら何食わぬ素振りで、キッチンに入れるかもしれない。
瞳子がそんなことを考えたと同時に、電話がつながったのか、洋が話を始めた。
「もしもし。私、笠井と申します。こんな夜中に大変申し訳ございませんが、ワタヌキさんはまだいらっしゃいますでしょうか?」
(相手が何かを答える)
「そうですが。それは大変失礼しました」
(相手がさらに何かを話している)
「いえ、伝言は必要ございません。また明日にでも、こちらからお電話致します。それでは失礼致します」
電話を切った洋は、なにやら楽しそうに微笑んで、こう呟いた。
「ミズ・エイプリルと呼ばれているのか……」
瞳子は、見てはいけないものを見てしまったような気分になり、静かにその場から離れた。
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