第五話 狙われた絵(九月十二日 鞠子)
榊が受けた電話は、松本城の近くに住んでいる福岡家からのものだった。
馬垣が運転する警察車両で、三人が松本警察署を出て十分程度。こまくさ道路を蟻ヶ崎辺りで左に逸れて、狭い側道に入る。
その先を左に折れたところにある三階建の洋館が福岡家だったが、その途中の町や道路の様子を確認していた鞠子は、
「これは実に警備がやっかいな場所だな」
と考えていた。見通しが良くない上に道幅が狭い道路しかないから、車両による路上張り込みが出来ない。
車を降りた鞠子は、玄関のチャイムを押してインターホンで来意を告げる。
すると初老の小柄な女性――
鞠子と背丈はそう変わらない。こまめに手をかけているらしい白髪を、品良く纏めていた。
顔には、こんな時でなければ人の良い笑顔が浮かんでいるのだろう。そんなことが容易に想像できる穏やかな表情だった。
淑子は榊と馬垣を見上げると、
「あらまあ」
と言って、目を丸くして微笑んだ。
――ああ、この人はいい人だ。
鞠子は即座にそう思った。
警察官という肩書きと三人の姿を見た普通の人は、悪いことをしていなくとも警戒心を抱く。
何か悪いことを考えていた者は、最初から反発する。
本当の悪人は、何の反応も示さない。
応接に通されて、ご主人の
夫人よりは背は高いものの百七十センチには届かない孝蔵も、夫人によく似た雰囲気だった。
薄くなった白髪をオールバックにしている。目は糸のように細いが鋭い印象よりも穏やかな印象が強い。
二人並んでみると、実によい年の取り方をしたことがわかる。
ソファを進められたが、榊と馬垣は大き過ぎて古風な応接セットに収まり切らないため、私の後ろで控えることになった。
「いやいや、本当にすまないね」
二人を見上げてしきりに恐縮するご主人に、
「いえ、こちらこそなんだか威圧的ですみません」
と、鞠子も恐縮して言った。
奥様が奥からお茶のセットを重そうに運んできたので、榊が手伝う。
器はリチャード・ジノリのイタリアン・フルーツ。華やかな色彩であるがゆえに使い手を選ぶこの陶器を、自然に使いこなしていた。
静かに注がれた紅茶から、独特のマスカットフレーバーが立ち昇る。
紅茶が大好きな山田澄江の影響で、日頃はインスタントコーヒー派の鞠子もある程度ならば紅茶の違いが分かる。
この時も種類までは分からなかったが、相当高級なダージリンであろうと推測した。
しかし、今は仕事中である。
「それで、本題に入らせて頂いても宜しいでしょうか」
「ああ、そうですね。それじゃあ、まずはこれをご覧になって下さい」
孝蔵は手元にあった白い封筒から、一枚のカードを抜き出してテーブルの上に置いた。
「今朝の郵便でこんなものが届きまして」
「拝見します」
鞠子は手に取って、まじまじと見つめた。
名刺大のサイズの紙の中央に、絵が描かれていた。
宝石の周りを魚が取り囲む意匠である。
発色がさほどよくないことから、一般家庭用の印刷機でカラー出力したものと思われた。
最初の犯行で使われたカードは、文字しか記載されていない単純なものだったから、途中でバージョンアップしたのだろう。
他の署からまわってきた資料には、何度も複写された粗い画像しか添付されていなかったので、三人は初めて実物を色付きで見た。
にもかかわらず、鞠子は「今目にしているカードは本物に間違いない」と確信を持った。
このカードの存在は犯人と警察しか知らない。捜査上の秘密とされて、署内でも関係者以外には伏せられている。
カードを裏返して絵柄のない面を眺めると、そこにはこう書かれていた。
「ショコラ・デ・トレビアンが、九月十六日の二十二時四十五分に『女の子地蔵』の謎を頂きに伺います」
――まただ。この強烈な違和感はなんだろう?
まるで子供の遊びとしか思えない、この無邪気で天真爛漫な犯行予告。
榊と馬垣が鞠子の肩越しに左右から覗き込んだ。
「なんですか、この『女の子地蔵』ってのは」
「ああ、実物を持ってきましょう」
そう言って孝蔵はいったん奥に引っ込む。
しばらくしてから絵が入っていると思われる大きな平たい風呂敷包みを持ってきた。黴臭い匂いがするところをみると、普段はどこか奧のほうに収納されているらしい。
「これはうちの親父が持っていた絵の中の一枚なんだけどね。作者不詳で、描かれた時期も分からない」
風呂敷を解きながら孝蔵は懐かしそうに言う。
「親父は旧日本軍の軍人で無骨一辺倒な性格だった。絵画になんか興味はなかった。それなのにどうしてこれを後生大事に保管していたのか、死ぬ前に聞きそびれてしまった。だから、価値があるものなのかどうかも私には分からない。他は美術館に置いてあるけど、奥のほうで申し訳なさそうに展示されていますよ」
そう言いながら、孝蔵は紙に包まれたカンバスを大事そうに取り出した。
それは油絵だった。
「あら」と鞠子。
「おお」と榊。
「確かに女の子地蔵ですね」と馬垣。
寒々とした秋の野原と思われる風景の中に、八体の地蔵並んで描かれていた。
その中の一体だけが、市松人形のようなおかっぱ頭になっている。これが『女の子地蔵』なのだろう。
画面構成や筆のタッチから、素人目でも西洋絵画を本格的に習った画家が描いたものらしいことは推測できたが、それ以上のものではないことも一目瞭然だった。
松本市か安曇野市に住み着いた、技能は高いが才能は今一つの画家といったところか。
何故このような地味な絵を、わざわざ予告状まで出して狙うのかが、鞠子には分からなかった。
三人の刑事が絵を観察し終えて顔を上げたところで、孝蔵が言った。
「君たちは松本の出身かね」
鞠子が代表して答える。
「私は親の転勤で長野に住んで長くなりますが、生まれは兵庫県です。榊は高知県、馬垣は山形県です」
「あら、お二人は双子ではなかったのですか?」
淑子が驚いて言った。
「よく似てらっしゃるのに」
「ええ、他人の空似なのですが、よく言われます」
今度は榊が答えた。
「それでは知らないかもしれないね」
孝蔵は背後にあった、高さが天井まである書棚から、よく観光地のお土産屋さんで売られているような昔の民話をまとめた小冊子を取り出した。
さほど迷うこともなく取り出したということは、実際に読んだ本だけが棚に並んでいることを暗に示している。
「これは松本城の売店でも売られているものだけど、長野県内で伝えられている民話を集めた本です。この本に『女の子地蔵』についての話が出ています」
孝蔵は付箋が貼られたところを開いた。よく絵の謂れを聞かれるのだろう。手慣れている。
「この絵はおそらく、物語の冒頭の部分を描いたものでしょう。長い間、女の子地蔵に封印されて、すっかり改心していた妖怪が、女の子に助け出されて村人を救うという物語になります。松本近辺に伝わる民話らしいんだけど、美術館の学芸員はおおもとの話が見当たらないとか言っていましたね。まあ、実際に『女の子地蔵』を祭っているお寺が新村の交差点辺りにあると聞いたことがありますよ」
「実物は?」
「それは私も見たことがありませんね」
鞠子は冊子を受け取ると、それを最初から捲って女の子地蔵に関する記述の部分だけを抜き出して記憶した。五十ページの中の三ページ程度でしかない。索引処理して合計五秒。
「あらまあ?」
淑子がまた驚きの声をあげた。
「今日はいろいろと面白いことが起きますねえ」
謎の覆面怪盗に資産を狙われている人物とは思えない穏やかな声に、鞠子はまた好感を持った。
――お二人は他人の悪意に
――なんとしても守らなければならない。
鞠子がその思いを強くしている後ろで、馬垣がぽつりと呟いた。
「それにしても、どうして犯行予告時間が中途半端な二十二時四十五分なんでしょうかね」
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