第四話 覆面作家の噂(九月十二日 瞳子)

 瞳子は七時半に家を出た。

 家の玄関前では雄の柴犬が、忙しく尻尾を振りながらわうわうと吠えている。

「おはようカニコ二号。いってくるわね」

 柴犬なのに「カニコ」、しかも「二号」という名前になったのには理由がある。

 まず、瞳子が物心ついてから初めて家で飼育した生き物が、サワガニだった。

 まだ小学校の低学年だった頃のこと。長野県辰野町のホタル祭りに行った時に、瞳子はその会場の芝生の上でのそのそ歩いているサワガニを見つけた。

 そして、見物客に踏まれないように避難させたところで、別れがたくなってそのまま家に持って帰ってしまった。

 しばらくは元気に生きていたのだが、さすがに環境変化に弱いサワガニは、三ヶ月で死んだ。

 落ち込んでいる瞳子のために飼われることになったのが柴犬で、だから名前もカニコ二号である。豆柴のはずがどんどん成長して、四年たった今では立派な成犬だ。


 門の向こうには聡子が立っていた。

「相変わらず変な名前の犬ね」

「いいの!」

 瞳子はそう言うと、聡子の手を握って歩きはじめた。家から小学校までは歩いて三十分ぐらいかかるが、季節の変化が感じられる瞳子の大好きな時間だった。

 朝も感じた通り、その日の空気は微かに秋を含んでいた。

 長野県の小学校は他の地域に比べると夏休みが短い。その夏休みが終わると松本平の空気は秋へと変わり始める。ひまわりからコスモスまでの期間が短かった。

 瞳子はそんな移り変わる空気の中を聡子と二人で歩くのが、楽しくて仕方がない。

 瞳子と聡子は、信濃大学付属松本小学校の五年東組である。もっと言えば、聡子とは幼稚園の時から一緒の学校である。行き帰りの方向が一緒で、いつも一緒に登下校しているうちに仲良くなった。

 登下校の間は、ほとんど瞳子がしゃべっている。聡子は肩のところで切りそろえた癖のない黒髪を静かに揺らしながら、にこにこと笑って聞いていることが多かった。

 一重瞼の切れ長な瞳や落ち着いた動作から、聡子は大人しい気の弱い女の子と思われることがあったが、そのような意見を聞く度に瞳子は同じことを考えた。


 ――知らないというのは、本当に恐ろしいことだ。


 ある日、瞳子と聡子が教室で話をしていた時のことである。

 男子生徒がふざけてほうきを振り回し、悪乗りしすぎて聡子の頭を箒の柄で軽くこづいてしまった。

 聡子は黙って立ち上がり、箒を振り回した男子生徒に歩みよると落ち着きはらった声で言った。

「婦女暴行の現行犯ね。目撃者多数だから勝ち目はないわよ。今すぐ職員室に同行して保護者を呼び出してもらいましょう。保護者の謝罪する姿勢によっては、告訴を取り下げるかもしれないわ」

 そして、事態が把握できずに茫然ぼうぜんとしていた男子の手をしっかりと掴むと、そのままつかつかと歩いて職員室に連行してしまった。

 事情を聞いた先生は、男子生徒に謝罪させることでその場をおさめようとしたが、聡子は、

「未成年の謝罪では不十分です。保護者を呼んでください」

 と言って、全く聞く耳を持たない。とうとう親が呼ばれて、謝罪することになった。

 十分ほど親子の謝罪の言葉を聞いた後で、聡子はやっと納得して許してやることにした。


 後日、瞳子は聡子に聞いてみた。

「もしも相手の親が分からず屋で、どうしても謝ろうとしなかったらどうするつもりだったの?」

 彼女はにっこりと微笑みながら言った。

「それはもちろん、相手が謝罪するまで事を荒立てるつもりだったわ」


 ちなみに彼女の両親は弁護士だ。

 聡子の父親――山田幸一やまだこういちは、聡子曰く「しゅっ」としている。

 背が高くて細身、色黒だから確かにしゅっとして見える。言葉からは牛蒡ごぼうを連想してしまうが、実はかなりのイケメンだ。

 聡子の母親――山田澄江やまだすみえは、これまた聡子の言葉を借りると「ポッチリ」している。

 ポッチャリではない。その手前の「全体的に肉は多目だが、バランスが絶妙で可愛い」状態を指すらしい。肩まで伸ばした柔らかにカールしている髪と丸い眼鏡が、さらに澄江の印象を柔らかにしている。

 聡子の父親と瞳子の母親を並べて見ると、優秀な狩猟犬を連想させる。

 聡子の母親と瞳子の父親を並べてみると、日向にいる猫のようだ。

 それぞれ、入れ替えたほうがなんとなくお似合いのカップルだと瞳子は思うのだが、人生というのはなかなか複雑らしい。

 聡子の父親は、瞳子の母親が苦手、という話だった。


 さて、前述の事件の後、聡子の家では、

「事件直後に凶器であるところの帚を速やかに確保したほうが、より有利に交渉出来たのではないか」

 という点が、わりと真剣に検討されたらしい。

 また、聡子ははっきりとは言わなかったが、いざとなれば瞳子の母親が警察官であることも、最大限に利用したのではないかと瞳子は思う。

 彼女のその容赦ない性格を、瞳子は嫌いではない。

 いずれにしても、それ以来、瞳子と聡子の周りでは平穏な空気が保たれることになった。


 その日の放課後、他愛もない話をしていた時に、聡子はこんなことを言った。

「名前だけど、たまに読み方が難しい人がいるよね。例えば西組の――」

 そう言いながら、聡子は目の前のノートの端にさらさらと美しい字で『眼目』と書いた。

「これなんか、どう考えてもガンモクとしか読めないけど、実際はサッカだよね。名字は好きに選べるわけじゃないから仕方がないところもあるけど、下の名前なんかもうクイズだよね」

 彼女は小首を傾げながら、さらに文字を書き込んでゆく。

「何でわざわざ洋風にするのかな。外国に行っても通用するように、とはいうけれど、行かなかったらどうなるのか考えたことはあるのかしら」

 紙の上には、真凛や詩音、可憐という文字が並んでいた。いずれも同じクラスに実在する女子生徒の名前である。

「人の名前に直接ケチをつけるなんて、趣味の悪いことはやらないけどね」

 ――サトちゃん、それで充分だよ。

 瞳子は心の中でツッコミを入れた。

 物静かそうに見える分、聡子が毒舌を吐くと実によく効く。

「そうそう、お昼休みに図書室に立ち寄ったら、山根やまね先生から最新刊が予約できましたと言われたよ」

「最新刊って――あ、児玉水力の!?」

「そう」


 児玉水力というのは、全くプライベートを公表していない、所謂いわゆる『覆面作家』である。

 中高生をターゲットにしたミステリーのシリーズで人気だが、平易な表現で語られる物語は大人向けの小説と比べても見劣りしないほど、丁寧に書き込まれていると評価されている。

 小学生には難しい漢字が多く手強い内容だったが、瞳子はすっかり慣れて、むしろ積極的に楽しんでいた。

 小説を出版している会社が行った作家アンケートで、たまに差しさわりのない範囲で私生活をのぞかせているが、それによると児玉水力の知り合いに子供がいるらしい。

 現在書き進められているシリーズ作品は、もともとその子が抱いていた空想世界を舞台として、物語を作ったのが始まりだという。


 瞳子が聡子と顔を見合せること、二秒。

 瞳子は教室を飛び出して図書室に向かった。

 瞳子と聡子は図書委員をしており、図書館司書の山根とはとても仲がよかった。図書委員でなかったとしても、頻繁に図書館に出入りしていたから結果にさほど違いはなかったと思われる。


 二人が一緒に図書室に駆け込んできたのを見て、山根は笑いながら貸出机の中にあった、折り目がひとつもついていない新刊本を取り出した。

「はい、予約した本ですよ」

 そう言って、まだ息が整わない瞳子の手にしっかりと渡す。

 実際は予約なんかしてはいないのだが、瞳子がこの作家のファンであることを山根は知っており、新刊が届いた時には予約扱いにしてくれていた。

 小学校の図書室司書として、このような特定の生徒に対する特別扱いは許されないのだが、この闇取引の裏にはとある事件の際に瞳子と山根が取り交わした秘密契約があった。


 山根淳子やまねじゅんこは殆どの場合、長くて癖のない髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。

 瞳子と聡子の間では、山根がポニーテールを留めているアクセサリが定番の話題だった。

 これがほぼ毎日変わる。今日は水色の可愛い魚である。同じものもあるのだろうが、瞳子と聡子には全く分からなかった。

 分からないと言えば、「休日を利用して自分で髪留めを作ることもある」と瞳子は山根から聞いていた。

 しかし、つけているところを見ても市販のものなのか、自家製のものなのか区別がつかなかった。

 普段、山根は二重瞼の大きな瞳を細身の黒いセルフレーム眼鏡の向こうで穏やかに輝かせながら、司書机の向こう側に座っている。

 真夏でも長袖で、下もズボンかロングスカートしか瞳子は見たことがない。

 肌の露出が極端に少ないので、なんだか西洋のメイドを思わせる。その雰囲気が、また図書館という空間にはよく似合っていた。

 たまに図書館の中で大きな声をあげている生徒を見つけると、流れるような優雅な足取りで傍に近づき、顔を覗きこむと、

「静かにして頂けますか?」

 と、悲しげな目をして注意した。

 この圧倒的な大人の女性の魅力に抗うことのできる子供はいない。

 次第に、大きな声をあげている生徒がいると、他の生徒が、

「山根先生がかわいそうだからやめろよ」

 と注意するようになった。

 その時の山根先生の本当に嬉しそうな姿は、男子生徒にとっては一生の思い出になるに違いない。女子でもそうだからだ。


 最新刊を手にして、わくわくしながら図書カードを記入している瞳子の隣で、聡子と山根は誕生日の話をしていた。

「山根先生は何月生まれですか」

「私? 四月生まれですよ」

「私も四月です」

「あら、だったらお得ですね」

「どうしてですか」

 山根先生は、珍しく悪戯いたずらっぽい目をして言った。

「だって四月の誕生石はダイモンドですよ」

 カードを書き終えて山根に提出し、新刊書を大事に胸に押し当てながら瞳子が図書館を出ようとした時、同じ五年東組の鈴木真凛すずきまりんが入口から入ってきた。

 真凛の父親は警察官である。

 松本警察署の交通課に勤めており、学校で行われる交通安全教室で腹話術を担当していたので、瞳子も顔を見たこともある。

 そして、親が同じ警察官ということで、瞳子はまったく意識していないにもかかわらず、真凛のほうでは激しい対抗意識を持っていた。

 事あるごとに瞳子や、一緒にいることの多い聡子に絡んでは、主に聡子から手厳しい一言を貰っていた。

 その真凛が、なにやら勝ち誇ったような顔をして瞳子に近づいてくる。

 そして、瞳子の胸元にある児玉水力の最新刊を覗き込んで、こう言った。

「それ、私のパパよ」

 そして、そのまますうっと立ち去ってしまう。

 取り残された瞳子は、真凛の言葉の意味を理解するのにしばらく時間がかかった。

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