真夏のサンタクロース

阿井上夫

序章 相澤澄子

過去

 二ヶ月振りに会った夫は、とても小さくなっていた。

 心労からやつれて見えた、という意味ではない。慣れない環境で体調を崩し、痩せていたということでもない。

 物理的に、即物的に、とても小さくなっていた。

 電力供給が不安定なのか、天井から下がっている電球剥き出しの簡単な照明は、時折暗くなる。それでも四畳半程度の、真四角な室内を隅々まで浮かび上がらせるためには、十分だった。

 コンクリートの壁は素地のままで、ところどころに雨漏りの跡と思われる染みが浮かんでいる。窓はないから、壁自体に防水能力がなくなってひび割れているのだろう。驚くほど大きな蛾が飛び回っていた。

 電球の明滅と蛾のはためく陰影。それに加えて壁面の不定形な染みが、部屋の真ん中に置かれた何故かとても新しい白木のテーブルと、その上にあるやはり不自然に白い素焼きの壺から、現実感を奪っていた。

 しかし、その壺が『現在の夫のすべて』であることは、まぎれもない現実である。


 *


 四日前の真夜中、私は携帯電話のバイブレータに叩き起こされた。

「――はい」

(相澤澄子(あいざわすみこ)さんの携帯でしょうか)

「そうですが、どなたでしょうか」

 非常識な時間の電話だったので、思わず声が尖る。 

(夜分、恐れ入ります。私、聡(さとし)さんの会社の上司で、秋田と申します)

 恐れ入るなら電話をしないでほしいと思いながら、私は上体を起こし――いや、そんなことを考えている場合ではないと慌てる。こんな夜中に電話ということは――

(お時間を少々宜しいでしょうか)

 秋田と名乗った人物は、ほとんど抑揚のない平板なアクセントで、感情が抜け落ちたような非常に印象の薄い声音で、話を続けた。

「夫に何かあったのですか」

(――現時点でははっきりしたことは申し上げられないのですが、聡さんが海外出張先で事故に遭ったらしいという第一報が入りました)

「事故って、一体なんですか。彼は無事なんですか。はっきりしたことは言えないって――」

(現時点で生死すら不明なのです)

 私が息を吸い込んだ間合いで、秋田はすらりと言い放つ。一瞬、何も考えられなくなった。

(相澤さん、大丈夫ですか?)

 電話の向こうからは落ち着いた声が聞こえてくる。

 このような「ご遺族への第一報」にとても慣れているらしい抑揚に、急に『会社の仕事』という名の紙ヤスリで『配偶者の忍耐』という名の桃の表面を広範囲に逆撫でされたような、反射的な怒りが沸き起こる。

 その脊髄直結の怒りをそのまま舌にのせかけたところで――ベビーベッドで眠っていた娘が泣き出した。電話の主に一言断って、娘を抱き上げる。

 生まれてからやっと半年を過ぎたばかりの小さな命が、全身を使って異議申し立てをしている姿を見つめると、

(今、私が同じことをしている場合ではない)

 心の温度が下がり、私は大きく息を吐いた。

 深呼吸は吐く息だと誰かが言っていたことを思い出す。ホーリー・ファミリー・ホームの園長先生だろうか。まだまだ取り散らかった思考のままで、取り敢えずの落ち着きをかき集めると、私は言った。

「状況は理解しましたが、それで、どうしたらよいのですか」

(通常であればご家族には状況がはっきりするまで、ご自宅で待機して頂きます。もちろん現地での待機をご希望であれば、そのように取り計らいます)

 通常という言い方が、近所のクリーニング屋でしきりに進められる「通常ならばこの方法だが、こちらだとより綺麗になる」という宣伝文句のように聞こえる。これは被害妄想だろう。

「現地で待機したいと思います。緊急時であれば、できるだけ夫のそばに居たいので」

(分かりました。そのように手配します。この電話の後、グローバルSOSという会社から連絡があると思いますので、具体的にはそちらの指示に従っていただけますか。同時に部下がそちらに向かっておりますので、分からないことはその者に仰ってください)

 重ねて印象の薄い声でお悔やみの言葉を言いながら、とても手慣れた印象を強く残して、電話は向こうから切れた。

 こういう時は相手が切るのを待つのが礼儀ではなかろうかと、小姑めいた思考が浮かぶ。自分は人より寛容な人間だと思っていたのだが、そうではないらしい。

 娘は泣き止んだものの眠れないらしく、しきりに身体を動かしている。この圧倒的な存在感がなかったら、今、私は正気を保っていられなかったかもしれない。小さい右掌に左手の人差し指を差し込んでみる。

 ぎゅっという音が聞こえそうなほど、娘の掌は力強かった。


 その後、すぐにグローバルSOSの担当者から電話が入った。

 冒頭のお悔やみの言葉が流暢で、会社の上司と同じように慣れた印象を受けるものの、むしろそれが安心感につながるような声の女性だった。いくつかの質問を受ける。

(パスポートはお持ちですか?)

「持っていません」

(では、外務省に緊急パスポートの発行手続きを取ります。お子さんは7ヶ月ですね)

「その通りです」

(予防接種はどこまで受けられましたか)

「まだほとんど受けておりません」

(奥様のほうは、予防接種やお薬で気分が悪くなったことはございますか)

「いえ、特にそのような覚えはないです」

 他にもこまごまとしたこと、例えばオムツや粉ミルクの銘柄などを聞かれたが、落ち着いた応対のため、特に嫌な感じは受けなかった。

 後日教えて頂いたところによると、渡航先でオムツや粉ミルクのストックが心細くなった時のために、事前に確認したのだという。

 そのような気の使われ方をされたのは初めてだったので、とても新鮮な驚きを感じたが、じきにそれが「遺族に対しての」気の使い方であることに気がついた。

 ともかく、準備作業は私を避けて周囲をかき回すように流れてゆく。たまに指示されたことを指示された通りに実行する他は、何もすることがなかった。

 家にやってきた『会社の同僚』と名乗った人々は、上司とはうってかわってとても思慮深かかったので、最初のうちは構えた対応だった私も、次第に頼りにするようになっていた。

 すると、自然に会社の上司の対応が私の怒りの対象となる。

「あなたに比べて上司の方は」

 という言葉が慣用句のように口から迸り出て、同僚の皆さんを苦笑させたが、その苦笑の裏側にある意味に、その時の私は気がつかなかった。 

 パスポート及び航空機の手配が済んで現地に向かう航空機に乗り込んだのが、真夜中の着信から二日後。

 そして、最悪の連絡は目的地の空港に到着した時に、またしても会社の上司の声を通して、私の携帯電話から漏れ出してきた。

(残念ながら、御主人の死体が見つかりました。死後、時間が経過していたために損傷が激しく――)

 上司の無神経な業務報告は、そこまでしか覚えていない。私がそこで気を失ってしまったからだ。

 付き添いの方に娘を託しておいてよかったと思う。娘を抱いたまま倒れたらどんなことになったか分からない。

 いや、多分倒れることなく、業務報告を聞き続けたに違いない。それがどんなに自分を傷つけることになっても。

 気絶した後、意識を取り戻して病院の天井を見つめていた時に気が付いた。

 夫が亡くなった事実を静かに泣きながら受け入れていくという一連の出来事は、私の心が現実世界にソフトランディングするために必要なことだったのだろう。

 その後は、自分でもモードが切り替わったことが実感できるほど、私はすべてを受け入れられるようになった。

 夫の遺体は損傷が激しかったため、私が意識を失っている間に荼毘に付されていた。

 今ならば「遺族の同意は必要ないのか」という疑問が浮かぶし、さすがにそれが異例のことだという認識もできる。しかし、その時はそんなことを考える思考能力すらなかった。

 ひたすら、言われることを言われたままに受け入れることしかできなかった。

 そして、あえて私をそのような状態にするために、わざと秋田は直接的な物言いをしたのではないか、と思ったのは大分後のことだった。


 白い素焼きの壺をかかえて帰国し、夫の会社関係と私の友人関係を中心とした、ごくささやかな葬儀を行なった。

 夫も私も施設出身で係累はない。訪問客もすぐに尽きて、私と娘だけがぽっかりと空いた空間と時間の中に、ぽつりと取り残された。

 夫が残した資産はかなりのものらしい。

 だから、すぐに働く必要はないらしい。

 慎ましく暮らせば、長持ちするらしい。

 「らしい」というのは、私はその実態を把握していなかった――いや、正確には把握することを避けていたからだ。夫が数値に変換されたようで、嫌だったのだ。

 娘の世話だけを丁寧に繰り返しながら、私は一か月を過ごした。

 思い返しても、その時の記憶が殆ど残っていない。友人がたまに様子を見にきてくれたはずだが、誰がいつ来て、どんな話をしたのかもまったく覚えていない。

 後で友人から「笑顔が出るようになっていたので、大丈夫だと思った」という話を聞いたが、本人にそんな自覚はまったくなかった。

 娘がいなかったら何もできなかったのではないかと思う。

 そして、娘がいたからそこに留まることもできなかった。

 あの『秋田』という男が葬儀の時に残していった名刺が、簡単な仏壇ともいえない机の上に置かれていた。そして、彼はそれを置き去りにする時に、こんな風に言っていた。

「落ち着かれて、何かお仕事をしたくなったらお電話頂けますか。ご紹介できるとおもいますので」

 他の記憶は霧の向こう側にあるのに、この時の言い方だけはアクセントまで明確に思い出せる。

 なんだかとても事務的な言い方だった。


 *


 ここで少々、私の生育過程を説明しておきたい。

 私は生まれてすぐに東京都世田谷区の乳児院に収容された。

 そして、そこに併設されている児童養護施設を経由して、小学三年生の頃に神奈川県川崎市の児童養護施設に転園し、中学二年生で養育家族(所謂、里親)に引き取られている。

 乳児院というのは、生後間もない段階で「何らかの理由」により親が育児できなくなったために、他の人の手で育てられなければならなくなった乳児を収容する施設である。

 従って、理由が解消されれば自宅に戻ることになり、理由が解消されなければ児童養護施設に収容先が変わることになる。

 いずれも経過した私は、つまりは「何らかの理由」が解消されなかった子供であり、しかも自分の実の親の記憶がまったくない。

 生まれた直後に親から離されたらしいし、成長してからも実の親からのアプローチはなかった。私も実の親のことは気にはなっても、聞きたくはなかった。

 子供の頃、その経緯を知った大人から「可愛そう」と言われたが、そんな子は私の周囲にはたくさんいたし、中途半端に親に面倒を見られたことで、むしろ深い心の傷を負ってしまった子も知っている。

 だから、この手の事情を知らない大人の「可愛そう」には、あまり同感できなかった。いや、同感できないどころか、場合によっては大人の「可愛そう」は有害でさえある。

 小学三年生の頃、クラスで物(正確には覚えていないが確かシャープペンシルか何か)が無くなったことがある。

 物をなくした子が大騒ぎを始めたのが四時間目の始まる時で、その前の三時間目の授業は体育だった。そして、着替えて外に集合するにあたって、一番最後に教室を出たのは私だった。

 私の前には仲良しの五人組が一緒に出て行っており、彼女たちは私が残っていたのを全員目撃していた。

 目出度く、状況証拠が完成する。

 四時間目の算数の授業が告発大会に変わり、最後に教室を出た私が容疑者として担ぎ出されて弾圧されそうになった時、それまで黙って進行を見守っていた先生が急に口を挟んで、私に言った。

「澄子さんにはご両親がいらっしゃらないので、大変でしょうが――」

 私は耳を疑った。とてもこのタイミングで言ってよい台詞ではない。後で聞いたところでは、それに続けて、

「だからといって『貴方がやった』と色眼鏡で見ることはないので、正直に話してほしい」

 ということを言いたかったらしい。

 しかし、私はさんざん身に覚えのない告発を受けて、すっかりうんざりしていた。何も言わず、何も持たずに教室を飛び出すと、そのまま施設まで走って帰り、自室に閉じこもってしまった。

 その先生は、施設を訪ねてきて園長先生と話をしたらしい。

 前述の「正直に話して」のくだりを持ち出して、「せっかく優しい言葉をかけていたのに、私が最後まで話も聞かずに急に飛び出した」という話をして帰ったという。

 そして、肝心のシャープペンシルは持ち主の自宅に置き忘れられていた。

 そのことを転園時に同じ施設の子から聞いたが、私は別な施設に転居となるまで自室を出なかったので、その後の顛末を詳しくは知らない。

 ただ、誰も謝罪しようとすら思わなかったことは確かだった。


 *


 親という盾なしで世間と向き合うことになった子供たちは、安心や安全を確保しようと一所懸命になる。

 大人の顔色を常に伺って「今、自分のいる場所」が危険ではないことを確認し続け、時にはどこまでの逸脱なら許されるのか試してみたりもする。

 私は生まれつき視覚と記憶の連携が優れていた。

 小学校の低学年まではあまり意識はしなかったが、小学校の高学年になると「大人たちの言葉と、声や仕草に現れる感情の間にかなりの違いがある」ことに気がつき始めた。

 いつも笑顔の先生が顔をそらした瞬間に見せる目付きの鋭さであるとか、言葉では優しいことを言いながらも体のあちこちに見られる震えや強ばりなど。

 中学生ぐらいになると、私は昼に見た出来事を夜になってから頭の中で再生することができるようになった。

 テレビ番組を録画再生するように、場面を選んで再生することが出来たし、部分的に拡大することも出来た。

 そして、自分でも驚いたことに、その時には決して見えていないはずの反対側から見た情景すら見ることが出来るようになった。

 もちろん、そうなると実際に見た出来事から私の脳が類推して作り上げた仮想現実に過ぎない。それは自分でも分かっていたので、参考程度に考えることにした。

 再生し、精査した行動観察の記録は、必要な部分のみ切り取って保存する。マスターの記憶は消えるに任せる。

 厳密に測った訳ではないが、どうやら一ヶ月程度で細部の情報が抜け落ちた解像度の低い荒い映像になり、二ヶ月も経過すると、イベント記憶に結び付かないものは消去されるようだった。

 私はそうやって蓄積した膨大なリファレンスを抱え込みながら、実際の世界とはなかなか折り合えずにいた。

 裏の感情に気がつくのは常に事後である。リアルタイムな関係では活用ができない。また、裏の感情が分かったところで、その原因となっているものがなんであるのかはまったくわからない。

 無数の失敗を繰り返した結果、相手に裏の感情を指摘しても強い否定や怒りの感情を呼び起こすか、さもなければ薄気味悪いと敬遠されるだけであると痛感し、以降はこの能力を極力表に出さないようにした。

 その後も「こんな機能になんの意味があるのか」と思いつつも、データだけが整理・蓄積されていく。

 それは、撮影はしたものの棚の上に放置されて顧みられることのない、成育の記録と同じだった。


 次の変化が生じたのは、高校を卒業した時だった。

 児童養護施設で育った子供は、高校卒業と同時に施設を出なければならない決まりになっている。

 私は里親家族に引き取られて施設外にいたので別に義務はなかったのだが、高校を卒業したら自活すると前々から決めており、そのように里親にも話をしていた。

 高校時代のアルバイト代に、里親からの援助を足して、大学入学と同時に一人暮らしを始めた。

 自分の他には誰もいない生活――実はこれが初めてである。

 児童養護施設は常に誰かが施設の中にいた。里親家庭でも養母が専業主婦で、殆ど家にいた。里親が気を遣ってくれたらしく、そういえば留守番をすることもなかった。

 施設を卒業した先輩から話には聞いていたが、想像以上に静かである。部屋にいる時にはテレビを付けっ放しにしていたが、お仕着せの一方通行な声が侘しさをかきたてる。

 だからといって音がしない生活は絶望的に寂しい。

 そんな温かい人間関係に飢えた生活のせいだろうか、ある日、とうとう人間関係を幻視するようになった。

 テレビで新しいドラマが始まる時に、それを紹介する雑誌に『人間関係図』が載っていることがある。

 矢印の種類や太さを変えて、誰と誰は恋愛観系にある、誰と誰は敵対している、誰と誰は密接な関係にある、という例のあれである。

 ある日、テレビガイドに載っていた人間関係図を見ながら、私は「現実にもこのような補足情報が見られたら、生きやすくなるのだろうか」と考えた。

 人間関係がベクトルのように表示される。

 しかもその関係性に従って、矢印に具体的な意匠が施される。

 恋愛関係は古典的な赤い糸だろう。

 敵対関係は黒だろうか。激しい憎悪だと黒い煙を伴いそうだ。

 友達関係は黄色だろうか。毛糸のようなほわほわした糸だ。

 関係の親密さによって太さが変わるとか。

 激しい愛は赤い鎖で、仄かな想いは赤い絹糸で。

 そんなことをあれこれ考えているところで、その日は眠ってしまった。


 その翌日。家を出るまでは、いつもの日常だった。

 鍵を閉めて、自転車に乗る。ちょうど向かいの家のお爺ちゃんが、犬の散歩から帰ってくるところだった。新聞を取りに来たらしいお婆ちゃんが玄関でその姿を見つめていた。

「おはようございまあす」

 私はお婆ちゃんに挨拶する。

「あら、おはよう。お元気ですね」

 お婆ちゃんはにっこりと笑うと、右手の指から木綿のような素朴な材料で出来た、丈夫そうな赤い糸を垂らしながら、手を振ってくれた。


 ――赤い糸?


 そんなベタな、とは思いつつも赤い糸を追っていくと、飄々とした足取りで帰ってくるお爺ちゃんのほうに、赤い糸は風に靡きながら伸びており、そしてお爺ちゃんの手の中に消えていった。

 なんだか恥ずかしい。

「おお、おはよう」

「あ、あ、おはようございます」

「顔が赤いが風邪でも引いたのかね」

「いえいえ、大丈夫です。それじゃあ急ぐので」

 私はあたふたと自転車に跨り、急いでその場を離れた。

 大学に行ってからがまた大変だった。私が親しくしている人の相関関係が、画像として見える。

 もともとの私の特殊能力である、隠された感情を見抜く能力が基礎となり、それが画像記憶の能力と結ぶついて、とうとう相関関係のマーカーを付加するに至った――と、整理するとこうなる。

 しかし、実際にそれを見ていると頭がくらくらしてきた。

 薄々気が付いてはいたのだが、無理に仲良しだと思い込もうとしていた女性グループの相関が、あちらこちらで黒(憎悪)や紫(嫉妬)や紅(羨望)の煙を上げている。

 ああ、こっちでは話し方はとても明るいのだが、矢印が紅の槍だ。

 自分に向かってくる矢印もあり、それが黄色だとほっとするが、紫と黒の斑模様だと思わず仰け反りそうになる。

 流石に超能力ではないので、ある程度の関係がある人との間にしか見えないし、もともと感じていたことがビジュアル化されただけだ。

 しかし、ものによっては今まで「敢て知らないことにしていた」ものもあり、それが容赦なく具体化されているのにはへこんだ。

 そう、あえて分からないことにしていたものでも――

「坂崎さんどうしたの。机の上でへばって。なんか疲れているようだけど」

 体が硬直する。坂崎は私の旧姓だ。

 そう、これもその一つで――最も見たくない相関だ。

「大丈夫ですか?」

 同級生の戸惑ったような声が背後から聞こえてくる。

「だ、だ、だ、大丈夫ですっ!」

 声が裏返る。不味い。非常に不味い。

「何だか大丈夫じゃなさそうな雰囲気ですが――」

 戸惑いから心配へと移行する声。

「坂崎さんからお願いされていた講義のノートです」

「あ、はい、すいませんでした」

 お願いした手前、つい勢いで向き合ってしまう。同級生の聡さんから私へと向かっているベクトルは――


 神社に特別に奉納される注連縄のように、それはもう太くて赤い糸だった。


 私たちは大学を卒業した時に結婚した。


 *


 これぐらいで回想はやめておこう。

 その夫はもういないし、「神社に特別に奉納される注連縄のような太くて赤い糸」も、もはや見ることはできない。

 娘と二人で生きていくために必要な資金は、夫の残した退職金や生命保険のお陰で潤沢だった。でも、それだけでこれからを生き抜くつもりはない。

 だから、私は電話をすることにしたのだ。

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