待機者の憂鬱

阿井上夫

第一話 個性の自殺

 長年東京で電車通勤をしていると、平日二回、早朝と夕方に自分の存在を消去することにすっかり慣れてしまう。

 何故なら満員の通勤電車が、乗り込んだ人間から固有名詞や個性を根こそぎ奪って、物あるいは存在へと変換してしまうからだ。

 満員電車の車内における私は、乗客という一般名詞である。

 周囲の人間もまた、全員が乗客という一般名詞である。

 そこに固有名詞は一切存在しないし、存在してはいけない。一般名詞だからこそ、駅で乗り降りする際に多少強めに押し退けてしまったとしても、お互い同じ一般名詞の乗客だから恨みっこなしと思えるのだ。

 たまに、満員電車における暗黙の了解を知らないためか、車内でいらだった声をあげて自己主張を試みる者がいるが、首都圏の電車通勤者にとっては極めて迷惑な行為だ。

 禁忌(タブー)といっても過言ではない。それによって「そういえば、自分は名前を持った人間だったな」と思い出してしまうと、しばらくの間、車内で居心地の悪い思いをすることになる。

 誰もが、自分が名無しの乗客であることを了解しており、そう振る舞っていること――それが都内の満員電車における絶対的な掟である。

 そうでなければ、あんな非人道的な密集状態に長時間耐えていられるはずがないではないか。

 満員電車は、本人合意の上で個性が集団自殺する場だ。


 *


 とある平日の、午後七時半前後。

 私は、帰宅途中の会社員が大量に押し込まれた東急田園都市線を二子玉川駅で降りて、東急大井町線に乗り換えた。

 昔、通勤電車を開けてみたら、中から車内の空間の形に固まった人間が出てくる漫画があったが、実態を知ってからは笑えなくなった。都会では、満員電車の中で骨折しても、誰も驚かない。

 ところが東急大井町線は、実際の沿線は高級住宅街であるものの、都内を走る私鉄の中ではローカル臭を感じさせる路線である。

 そして、私はいつも大井町線に乗り込んだ途端に、自分が名前を持った人間であることを思い出した。

 そこそこ混んでいる電車内で、吊革を握りしめて窓の外を眺める。

 大井町線は二子玉川を出て、国分寺崖線の間隙から上野毛に入り、住宅地をとことこと走ってゆく。

 途中で、進行方向右側に二十三区内唯一の渓谷である、等々力渓谷のか細い流れが途切れ途切れに見えた。

 江戸時代に幕府が作ったと言われたら、信じてしまいそうな規模だが、その渓谷に沿って並んでいる家はすべて億単位である。

 箱庭のような自然が過ぎ去り、私は二子玉川から三番目の尾山台駅で降りた。

 駅前を環状八号線方面に向かって歩き出す。今日は少しだけ足取りが軽い。

 良いニュースというのは、元気の源だ。

 尾山台駅から始まって、環八で終わる駅前の通りは、「ハッピーロード尾山台商店街」という名前の地元密着型商店街になっている。

 チェーン店もちらほらあるものの、基本的には地元で昔から商売を続けている店が多く、その中間地点には世田谷区立尾山台図書館がある。

 その筋ではかなり有名なフランス菓子店も、以前はこの商店街に面していたが、少し位置がずれて今では環八側が入口である。

 そのことを残念に思った地元民は多かったが、私は尾山台図書館の裏手にある洋菓子店のシュークリームのほうが、庶民的で個人的に好みだったので、特に思い入れはない。

 ハッピーロードは環状八号線に向かって上り坂になっており、それを越えると今度は急な下り坂に変わる。

 駅から環八までは五分強。私の自宅は環八から更に五分強歩く。

 全体で十一分の道程で、よく似た三階建の建売住宅が密集した地域に出るので、東側区画の表通りから三軒目の家を目指す。

 それが、現在の私の居城だった。

 一階は、普通乗用車がぎりぎり入る駐車場とバスおよびトイレ。

 二階は、キッチンとリビングと夫婦の寝室。

 三階は、子供達の部屋。

 ありがちな間取りの一戸建である。

 にも拘らず、購入価格は総額で五千万円台。

 地方ならば同じ間取りの物件を、二軒買うことができる。

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