飼育員の憂鬱
阿井上夫
第一話
ある冬の日の、よく晴れた早朝のことである。
前日の夜から園で宿直をしていた私は、仮眠から目覚めたばかりの惚(ほう)けた頭をぐるりと回して、僅かに残っていた眠気を振り払った。
続いて、裏地が起毛した厚手の外套をしっかりと着込むと、まだ寝ている他の飼育員を起こさないように気をつけながら、静かに飼育員控室を出た。
放射冷却により、外気は堅く冷えている。
そうでなくとも、山の斜面にへばり付くように立地している園は、朝夕の風が殊(こと)の外(ほか)厳しい。
斜面を吹き下ろしてくる風は、途中で熱をすべて放出してしまうために、温もりの欠片も残っていなかった。
朝の風が、堅く、鋭く、冷徹な刃物のように、私を斬り刻もうとする。
私は外套の襟(えり)を立てると、両の手を揉(も)み解(ほぐ)しつつ、飼育員控室から園の前庭方向へ向かった。
飼料業者の搬入作業があるので、宿直の者は朝一番に表門を開錠しておかなければならない。
宿直は毎日五名と決まっており、その日、表門を開錠する担当は私だった。
私は園で勤務している飼育員の中でも最古参の部類に入る。
そして、若手の飼育員を指導する責任者の立場にある。
従って、普通はこのような厳しい労働を免除されてもおかしくはないのだが、
「誰もが嫌がる厳しい作業ほど、経験や年齢に関係なく全員で平等に分担すべし」
というのが園の方針であり、私もそのほうが望ましいと考えている。
「役職が上になったら楽が出来る」
という動機づけで上昇志向を煽るやり方もあるのだろうが、私は率先して見本を示してこそ管理者だと思う。
前庭の中央には、冬でも枯れることのない背の高い北方原産の木々が、それでも寒さを避けるかのように密集して立ち並んでいる。
その更に向こう側にある表門は、太い幹と針のように細い葉の陰になって、飼育員控室からは見えない。
前庭の木々の周囲には、左右から回り込むように小道が設けられており、私は進行方向左側の道に入ってゆっくりと歩いた。
右方向に緩(ゆる)やかに湾曲している小道を半ばまで進むと、鋼鉄の棒を縦と横に組んだだけの素朴な表門が前方に見えてくる。
さらに今日は、表門の上部横棒部分に園内を向いて、白いビニル袋が括(くく)りつけられていた。
そのことに気がついた途端、私は棒立ちになった。
冬の寒さとは無関係な、身体の震えに襲われる。
「こんな日でもやるのか……」
大きく息を吐くと、白い呼気が私の周囲に盛大に拡散した。
これだけ外気温が下がってしまったら、中のものが何であれとても無事とは思えない。
「他の飼育員が担当でなくて良かった」
私は、今度は小さく溜息をついた。
朝一番に悲惨な現実を直視しなければならないのは、とても辛いことだ。
少しだけ両足に力を込めると、私は寒風の中でゆらゆらと頼りなく揺れている白い袋に近づいた。
*
最近、園に動物を引き取って貰おうと試みる輩(やから)が急増している。
勿論(もちろん)、
「急な転居でどうしても動物が飼えなくなってしまった。なんとか園で引き取って頂けないか?」
という相談自体は、昔からよくあった。
三十年以上前であれば、飼い主から丁寧なご連絡を頂いた後で、園の担当者が実際にその家を訪問し、飼い主の事情を念入りに伺った上で、園としての対応を検討したものだ。
園の現状と照らし合わせて、最終的に受け入れることにした例もあったし、残念ながらお断りせざるを得ない場合もあった。
しかし、双方とも極めて大人であったから、いずれの場合であっても最後にはお互いの顔を見合わせて、
「仕方がありませんね」
と溜息をついたし、飼い主を慰めることに苦労したことはあっても、ついぞ揉めたことはなかったように思う。
いや、揉めるどころか、園で受け入れることが出来なかった場合でも、
「いろいろとご面倒をおかけしました」
と、自ら頭を下げる飼い主が殆どであったし、園で引き取ることになった場合には、
「些少ではありますが……」
と、飼い主から当座の飼育費用を手渡されたほどである。
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