第二話 辻斬り 三

 農地確保が困難という状況は、江戸以前でもさほど変わりはない。

 そのため、日本人のメンタルの起源をそこだけに求めるというのは早計ではないかと思うものの、江戸時代に急激な人口増加があったのは事実であり、それにより傾向が強くなったとは言えるかもしれない。

 そこで具体的な数字を列挙してみる。

 まずは江戸時代の端緒。一六〇九年に江戸を訪問したロドリゴ・デ・ビベロは『日本見聞録』の中で「江戸の人口は十五万人」と記している。

 日本全体では一千二百万人だったと推定されており、現在の東京都と同じ規模である。

 その百二十年後の享保期に、江戸の人口は百万人となった。六.六倍の増加である。しかも、百万人というのはその当時の世界中の都市の中で最多である。

 日本全体で見ても三千百万人で、こちらも二.六倍近い増加を示している。

 この、江戸時代前期に江戸の人口が急増した理由として、「参勤交代により大名が居住させられた」ことと、「商人が江戸に進出したこと」が挙げられている。

 また、江戸時代前期には新田開発が積極的に行われたため、農産物生産量が飛躍的に増加した。食料が増えれば出生率が上昇し、日本全体の人口が急増する。

 しかし、農村で吸収できる人口には限りがあるため、その余剰人口を江戸という都市が吸収したと考えられている。いわば、高度経済成長期の集団就職のようなものだ。

 と、確かにここまでの事実は「江戸時代の人口増加が、日本人の労働集約型産業構造の基礎となった」という論を補強しているように思われる。

 ところが、さらに約百三十年後の弘化期における江戸の人口は百十万人。日本全体では三千二百万人と言われており、ほとんど変化が見られない。

 これは「ちょうど小氷河にあたっており、自然災害も多発したため飢饉が頻発したため」、「女性が商家や武家へ奉公に出るようになり、晩婚化がすすんだため」と言われている。

 おのおのの理由はもっともなのだが、全体を繋げるとどうにもすっきりしない。

 加えて江戸の就職事情を考えると、終身雇用や長時間労働が一般的な概念ではないことが分かる。

 江戸の町民は日雇いが多かった。職業が非常に細分化されており、しかも「定職」という考え方はなかった。フリーターは生き方のひとつであり、別に不思議なことではなかった。

 例えば、季節の商品を売り歩く仕事であれば、その時期の朝、元締めの親方のところにいって「物売りをやりたい」といえば道具を借りることが出来た。嫌になればやめて、他のことを始めればよい。

 また、大工のように修行が必要な職業でも、懐具合が温かければ「暑い」「寒い」で仕事に出ないことはよくあった。それで解雇されるかというと、そもそも労働集約型で人手が足りないので、ならない。

 そして、時代劇に出てくる岡っ引は、正式な役人ではなくただのアルバイトである。それだけでは生活が出来ないので他に仕事を持っており、兼業は普通のことだった。

 つまり、働きたい時に好きな仕事が出来る環境が整っており、今日言うところの「ワークシェアリング」や「兼業」が普通だったと言える。

 大店の奉公人についても、決して終身雇用ではない。番頭以外は、仕事を覚えたところで独立するのが普通である。

 滅私奉公というのは武士の話で、江戸時代の町民の基本は、個人事業主であり起業家精神だった。


 *


 宗太が大川から岸を見つめていると、巻き羽織の旦那に小汚い身なりの男が近づいていった。

 岡っ引である。

 幕府の下級役人である奉行所の同心は、全部で百人しかおらず、その中でも江戸の見回りをする「見回り同心」は三十人もいない。それでは江戸全体をカバーできるはずもないので、同心は岡っ引を手下としていた。

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