第二話 辻斬り 一
佃島漁師の押送舟と大川最速対決をした翌日のことである。
前日の疲れが少し残る腕で、清二は勤め先である扇屋に向かって、猪牙舟の櫓を漕いでいた。
その日は朝靄(あさもや)が酷かった。それでも江戸湾上には大小の舟がごったがえしており、白い靄の中から急に現われては、即座に消えていった。
それを右へ左へと捌いているうちに、清二はあることに気づいた。
――震えが出ない!
そう、彼を長年悩ませていた「正面から来る舟に対する恐怖心」が、それこそ憑き物が落ちたように消えていたのだ。
以前であれば、向かい側から押送舟が来ると身体が強張って震え出したものだが、その時は朝靄の向こうから押送舟が間際まで迫っていても、余裕を持って行き交うことが出来た。
「すまねえ、恩に着るぜ」
と、むしろ押送舟のほうが、その軽やかさに狼狽したほどである。
扇屋の一番船頭を務める嘉助は、前日と全く違う清二の舟捌きを見て、
「どうやら最期の楔が、根こそぎ引っこ抜かれたようだな」
と、目を細めて言ったが、清二にはそんな実感はなかった。
ただ、扇屋の女将であるお国が、
「清二、本当に良かったねえ」
と言いながら瞳を潤ませた時には、思わず貰い泣きしそうになり、清二は顔を伏せてしまった。感情を表に出すのが苦手なのは、以前と変わらない。
さて、扇屋での奉公は「清二が普通の船頭として仕事が出来るようになるまで」という約定である。そのため、お国はその日のうちに信濃屋の番頭経由で仙台藩上屋敷御用人にお伺いを立てた。
すると、翌日戻ってきた書状にはこう認(したた)められていた。
「今暫く、市井の船頭稼業を続けさせたいと思うが如何」
無論、お国に嫌はない。むしろ、おかしな癖が消えた清二は、頭を下げて迎えても惜しくない凄腕の船頭である。
清二自身も、
「今後とも御厄介になりてえんですが、如何ですかね」
と乗り気だったので、話は直ぐにまとまった。
従って清二は今も扇屋の船頭である。
お陰で大江戸暴漕族も解散せずに済んでいる。さすがに大名屋敷の船頭を好きに使う訳にはいかない。
また、佃島漁師との大川対決に勝利した時、清二は彼らのまとめ役である仁吉と、約定を交わしていた。
「兄を死に至らしめた押送舟勝負について、その原因を作った人間を探し出して欲しい」
というのが、約定の内容である。
それから三日後に、仁吉から扇屋に繋ぎが入り、清二は一人で江戸湾まで出向いた。
海の上ほど秘密の会話に向いている場所はない。暫くすると仁吉も一人で猪牙を操り、湾にやってきた。
仁吉は訝しげな顔をしながら清二を見つめると、破顔して言った。
「何だよお前、憑き物が落ちたようなすっきりした顔になってるぜ」
「馬鹿なこと言ってねえで、約定を果たせよ」
清二はそう無表情で言ったが、仁吉の目の確かさに内心驚く。
「へいへい、馬鹿で悪うございましたね」
仁吉は軽口をたたいてから、ある男の名前と特徴を口にした。
それから何日かが過ぎ、夏の暑さが和らぎ始めた頃。
練習前の大江戸暴漕族一味が、清二の櫓で大川の川面をゆっくりと漕ぎ渡っているところに、押送舟が近づいていた。
舟の舳には仁吉が腕組みをして立っており、その表情は険しかった。
先日の勝負の件を蒸し返しに来たのかと、清二以外の三人は身構える。
だが、仁吉は他の者には目もくれず、清二に向かって予想外のことを口にした。
「今回のことはすべて俺の胸に仕舞っておく。見事だ、とだけ言いに来た。これで貸し借りなしだからな」
それだけを一気に言うと、仁吉は立ち去った。
清二は、何も言わずに仁吉の後姿を眺めている。
その二人の様子を黙って見つめていた宗太は、仁吉が十分に離れたところで猪牙の上に立ち上がった。
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