第88話「四番目の月彦」

 彩子さいこが出て行くと、部屋はまた沈黙に支配された。


 あやはこの笑顔の剣客が苦手である。


 彼の貼り付けたような笑みが、自分の心の奥を堪らなく不安にさせるからだ。


 理由を明確に意識の上に載せるのは難しい。もしかしたら生理的なもので、言語化は出来ないのかもしれない。


 自分の身を護ってくれるはずの妖刀使いであるはずなのに、彼からはそういう雰囲気が一切感じられないのだ。


「やれやれ。狒狒ひひの居場所を聞かずに出て行ってしまった。よほど暇を持て余していたんですねぇ」


 彩子さんらしい。と、月彦は閉じられた扉に笑みを向けた。


「あの……父様や母様はこの部屋へいらっしゃらないのですか?」


 綾はそれが心配だったし、また気掛かりでもあった。当たり前だが、両親ともに妖と戦えるような人間ではない。この屋敷で一番の安全な場所である此処に居ないとなれば、一体何処に居るというのか。


「さぁ、知りません。ボクが受けた依頼は飽くまで貴女の護衛ですから」


 月彦つきひこは肩をすくめた。


「そんなことより『猿の手』という話をご存知ですか? 英吉利イギリスの怪奇小説ですが」


 綾はうつむいた。そんな小説は読んだこともないし、両親の安否を「そんなこと」で片付けてしまうこの青年は、やはり信頼が置けない。


「定められた運命を無理に変えようとすれば災いが伴う……」


「え?」


「そういう話なんです。『猿の手』。ネタばらしはしませんから、機会があれば読んでみてくださいな」


 何やら含みのある言い方である。まるで東次郎とうじろう氏の取った行動の全てを否定するような。いや、成明なりあきらの家族全てを揶揄やゆしているのかもしれない。


「どうして今、そんな外国の本の話をするのです」


「深い意味はありません。退屈を紛らわせるために、つい無駄口を叩きました」


 綾に比べて、月彦の声音には重さがない。そのくせ、妙に意味深である。


「貴女は蘭丸らんまるくんを気に入っているようですね」


 娘の表情が少し動いた。


「あの方は変わり者の妖退治屋の中では誠実そうですから、つい頼りにしてしまうのですわ。他意はありません」


 生まれてからの会話量が極端に少ないと分かる頼りない声音で、綾は一生懸命に弁解する。


 確かに蘭丸は真夜中にひっそりと咲く花のような色気がある。その美貌に目を奪われない女性のほうがまれであろう。


「どうして彼が誠実だと分かるのです。貴女は蘭丸くんのことを何一つ知りもしないで、随分と勝手なことを言う」


 綾はまたも押し黙ってしまった。それは月彦の言うことが本当だからで、だから反論できないのだ。


 されど乙女心にも言い分はある。憧れて遠くから夢を見ることくらい許されても良いではないか。


 そもそも、月彦にあれこれ言われる筋合いのない話である。


「ボクがこんな差し出がましいことを言うのもね。彼には近づかないほうが貴女のためだと思うからです」


「どういう意味ですか?」


「言葉通りの意味ですよ」


 この時代、女性の夫といえば親が見つけてくるのが当たり前だった。ある程度の身分、財産を持つ家ならば尚のことだ。


 中には好いた者同士で夫婦になれた者も居たかもしれないが、そんなものは少数にも入らないまれなこと。


 身分差があればある程、それは無理な相談であった。だから叶わぬ想いをあの世で添い遂げようと自殺に走る男女も多かったのだ。


 自由恋愛という言葉が輸入されて、たかだか数十年。その思想は、まだ産声を上げたばかりの頼りない幻想に過ぎない。


「だから貴女は、どんなに不本意であっても狒狒と一緒になるべきだ。貴女の父上が見つけてきた夫が狒狒なのだから」


「嫌です!」


 綾は力強い口調で月彦の考えを否定した。


「貴方はオカシイのではないですか? 私は人間で狒狒は妖です」


「それは偏見というものです。ボクが生きてきた時代には、妖と人が夫婦めおとになることも珍しくはなかったですよ?」


 月彦は自分が出来ないことに憧れるという困った性癖を持つ。結婚も死も、彼にとっては等しく憧れだ。


 狒狒が綾と添い遂げることが月彦の望みであったが、彩子が出たのではそれも絶望的だろう。狒狒は間違いなく殺される。彼女の慈悲一つ無い無情の刃によって。


「やれやれ、どちらにしても厄介なひとですね」


 月彦は立ち上がると、しめ縄を刀で斬った。


「な、何を?」


「こんな即席の結界、どうせ何の役にも立ちませんよ」


 『月下美人げっかびじん』で斬ったということは、しめ縄を結び直したところで、もう結界のていを成さないということだ。


「貴方は妖の味方なのですか?」


 綾の声は震えていた。


「ボクはボクの味方に決まっています」


 それと雨下石しずくいし 群青ぐんじょうの味方だ。自分よりも人から懸け離れた人間が傍に居てくれる。月彦にとって、これほど心安らぐことはない。


「貴方は一体……」


「しっ! 来ましたよ」


 月彦が細い人差し指を唇に押し当てる。暖炉の中で薪がぜると、扉が静かに開いた。


「どうやら彩子さんには会わずに済んだみたいですね。そういう意味では運気の流れは其方そちら側にあるようだ」


「妖刀使いか。確か……かすみ 月彦つきひこだったな」


 先ほど、廊下でった笑顔の妖刀使い。殺気をまるで感じさせないところがかえって不気味だ。


「覚えなくても良いと言ったのに。狒狒あなたは律儀な妖ですね」


 月彦は呆れると同時に奇妙な好感を持った。彼の固まっていた感情がわずかに転がる。


「景品はもうすぐ目の前です。随分と衰弱しているようですが、もう一頑張りですよ」


 狒狒の歩みが止まった。月彦の言葉に罠を警戒したのだ。


 妖刀使いは妖を斬るために存在する。無敵の五振りの妖刀は、妖の唯一の天敵なのだ。


 とてもじゃないが、今の狒狒の状態では妖刀使いと一戦というわけにはいかない。逃げるべきか迷う。


「さぁ、綾さんからも挨拶をしないと」


「嫌! 勘弁してください!」


 月彦が娘の腕を取って引っ張る。綾は半狂乱のまま、体ごと引きられてゆく。


 狒狒は意外な光景に言葉が無かった。


 月彦の行動はとても妖刀使いには見えない。やっていることが無茶苦茶だ。


「お前は……正気か?」


 思わずそんな言葉が口から転がり出す。それほどに奇異だ。


「さぁ? 長い年月ときの風雨に晒されて、ボクの心は既に壊れているのかもしれません」


 霞 月彦という名は妖刀『月下美人』の所有者が代々受け継ぐ名跡みょうせきである。このように名前を受け継いでいく妖刀は五振りの中でも『月下美人』だけだ。そういう意味でも、この妖刀は大層変わっている。


 妖刀に見初みそめられてから、何百年生きただろうか。月彦自身も正確には覚えていない。自分が何番目の「月彦」であるのかも知らない。ただ、分かっているのは人も動物も虫も妖も、命あるものは等しく尊いということ。


 だからこそ、狂気の妖刀『月下美人』は美しいのだ。


「念のために一つ確認させてください」


 月彦が妖刀を抜いた。『月下美人』の蒼く輝く刀身があらわになる。狒狒はその刃を見て後ずさった。やはり妖刀は妖にとって、例えようも無く恐ろしいものなのだ。


「貴方は彼女を嫁に貰うために此処まで来たのですよね。貴方はこの娘を愛している。で、間違いないですね?」


「その通り……だ」


「そうですか。それじゃ――」


 『月下美人』の刃が狒狒の体を通過してすぐに鞘へと収まる。瞬刻の出来事であった。


「貴方の持つさとりの能力と嘘を吐く知恵を斬り捨てました」


「なん……だって?」


 月彦の言っている意味が狒狒にはよく理解出来ない。妖刀『月下美人』と相見あいまみえたモノは大抵その異質な能力に驚く。


「これからの貴方には不要なモノです。人の愛は相手を信頼し慈しみ、自身が誠実であれ。というものですから」


 狒狒は黙った。さっきまで読めていた娘の心が読めなくなっているから、目の前の妖刀使いの言うことは真実なのだろう。


「改めて質問します。汝は健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、綾さんを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」


 月彦は神父を気取って祝福の言葉を並べ立てた。


「黙れ、れ者! 俺はこの娘を喰うために他の連中を喰らうのを我慢したのだ。味が混ざると嫌だからな。そういう意味ではその娘を愛している」


「それでは約束が違いますよ。貴方は綾さんをめとるために東次郎氏と契約を交わしたはずでしょう? 花嫁は食べ物ではありません」


 月彦は笑顔で困惑する。狒狒は妖というよりは獣に近い。所詮、愛するという気持ちは理解出来なかったのか。


「残念です」


忌々いまいましい妖刀使いめ! その軽口、二度と聞けなくしてやるわ!」


 狒狒が月彦に迫る。覚りの能力と嘘という武器を奪われた恨みに怒りたぎっている。


 まさかりのような手刀は簡単に月彦の首を吹き飛ばすだろう。もしかしたら石榴ざくろの実のように、弾けて裂けるかもしれない。


「感謝してほしいですね。嘘をつくとろくなことがないんですから」


 狒狒は無言だ。刀も抜かない妖刀使い相手に、交わす言葉はないのだろう。


 しかし、残酷な死は月彦の元へ届くことはなかった。


 突然、狒狒の体が胴から真っ二つに斬り離されたからだ。


「ほうらね。碌なことにならなかったでしょう?」


 明後日あさっての方向へ転がってゆく妖の上半身へ向けて、月彦の髪が揺れて乱れた。


「まったく、相変わらず危険な賭けをするな月彦殿は。私が少し遅れていれば頭を潰されていたぞ」


 其処そこには彩子が刀を鞘へと納めた格好で溜め息をついていた。


「貴女なら必ず間に合うと信じていましたよ」


 彩子の技のキレは昔も今も鋭いままだ。久々のコンビプレーに月彦が滅多に見せない喝采を送る。


「分かったか蘭丸。君が何を思ったのか知らないが、これが妖というものだ」


 蘭丸は膝を落として狒狒の死顔を見ていた。家族というものを知りたいと語った妖の口は、真っ赤な嘘と血に濡れていた。


「所詮は妖……」


 乾いた独り言が自然に零れて薄暗い部屋を渡る。


 蘭丸には経験というものが圧倒的に足りていない。彼が本当の強さを手に入れるのは、まだまだこれからだ。

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