第74話「主よ、人の望みの喜びよ」

 ゆらゆらと掴みどころの無い少女の後を付いて行くと、風景は次第に寂しいものへと変わっていった。


 通学路から少し離れただけで、こうも人気ひとけが無くなってしまうことに蘭丸は驚いたが、彼の行動範囲といえば家から学校までの往復、あとは精々せいぜい商店街を歩く程度だ。


 行動範囲というものは、心の余裕に比例して広くも狭くもなる。


 改めて自分の生活の変化の乏しさと、自身の余裕の無さを思い知る蘭丸であった。


 目の前の少女は、まるで踊るように軽やかな足取りで歩いてゆく。そして時折、クルリと回っては蘭丸の姿を確認すると少しだけ笑うのだった。


 ちゃんと付いて来ているのか心配なのだろう。


 表情に比べて、行動のほうが感情的で分かり易い。可笑おかしな娘だと蘭丸は内心、硬い緊張が緩んでいくのを感じた。


「先に言っておくが、そんなに時間は取れないぞ?」


「大丈夫。もうすぐ近く」


 親の言いつけで勧誘などしているのだと思った。あるいは牧師の娘なのかもしれない。


 それにしても、あんなに無愛想で話を聞く者などいるのだろうか。他人ごとながら心配してしまう。


 蘭丸の警戒心は、すっかりと解けてしまっていた。


 見かけで物事を勝手に判断し、相手の事情を良い方向に想像して感情移入しまうのは蘭丸の悪い癖だ。


「余計な世話かもしれんが、神とやらの布教に何か意味があると思うか? 国、哲学、自分自身、果てはイワシの頭に到るまで、人の信心というものはそれぞれだ。此処ここ八百万やおよろずの国でもあるしな」


 少女が黙ったままなので、間の抜けた独り言になってしまった。


 蘭丸は一呼吸置くと、再び少女の感情豊かな足取りの後を辿り始める。


 彼は神よりも刀を信じる。


 圧倒的な力の差というものを目にし過ぎた。大切なものを問答無用で奪ってゆく嵐に出会ってしまった。


 みぎわ 彩子さいこ雨下石しずくいし 浅葱あさぎのほうが、蘭丸にとっては神よりも説得力がある。


 歩く二人の横を、子供の影が通り過ぎていった。


 これは影法師かげほうしという残像で、亡くなった者が影となって見える霊的現象である。


 話しかけてはいけないし、話しかけられても返事をしてはいけない。


 こんな怪異が日常に溢れている世界なのだ。神様に祈りたい人達だって、数多くいる。


 人と人ならざる者の世界は、左右対称のように重なっているのだ。


 汝の隣人を愛せよと云うのならば、妖も愛せという意味にも取れてしまう。


 唯一絶対の神を盲信する。それはとても危険なことのように感じられた。


 とはいえ、宗教の自由は万人に保障されたものだ。


 穿うがった見方をすれば、蘭丸の育ってきた環境が神を信じる隙など与えてくれなかったということだろう。


 程なくして、少女は町外れの朽ちた建物の前で止まった。


此処ここ……」


 少女が指差した建物は礼拝堂のようであったが、もう何年も人が使っていない廃墟のように見えた。


 止める間も無く少女が中に入ってゆくので、蘭丸も仕方なく後に続く。


 意外なことに、礼拝堂の中は外見から想像もつかないほどシッカリとしていた。


 ただ、やはり所々に埃が溜まっているし、窓ガラスにもヒビが入っている。


 現在も使われているとは思えない。此処は神の残痕ざんこんなのだろう。


 奥の扉を開けると、沢山のキャンドルが静謐せいひつな光を蘭丸に浴びせた。


 蘭丸は祭壇に据えられた十字架を見てつぶやく。


基督キリスト教か」


「神様は今、中身が空っぽだから寂しがって泣いているの」


 表情無く、とつとつと喋る少女の言葉は蘭丸には理解できないものだ。


「君の信仰を否定するつもりは無いのだが……」


 どうにも反応に困る。空っぽなのは、この娘のような気がしてならない。


 ――ああ、だからこそ彼女は祈るのか。何の疑問も無く、ただ純粋に。水の中に光る、優しい淡水魚のように迷い無く。


 彼女の世界には静かな情熱が息づいている。その領域は確かに不可侵で、おいそれと蘭丸が立ち入って良い場所ではないのかもしれない。


 人はそれぞれがたっとぶ世界を持っている。其処そこは他人の肯定や否定を必要としない、絶対にして神聖なものだ。


 いつか少女の祈りがしかるべき何処どこかへ届くようにと、蘭丸もまた祈った。それからきびすを返し、出口に向かって静かに歩き始める。


 やはり、この場所は蘭丸に相応ふさわしくない。


 弱者か強者でいうならば、蘭丸は間違いなく強者側に立つ人間だ。だから神を信じない。神よりも自分を信じる。それは彼に名前が無かった頃から、ずっと一貫している信念だ。


 扉に手をかけようとした直前、背後からの鋭い音が蘭丸の足を止めた。


 振り返るとステンドグラスが割れている。


 少女が基督像をステンドグラスに投げつけたのだ。


 同時に礼拝堂の静謐な空気も壊れて散っていた。


「何をしている? それは君に取って大事なものではないのか?」


 少女の行動は変貌といっても良いほどに乱暴であったが、蘭丸の言動は極めて冷静だ。


 彼女が何者であろうと、自分をおびやかすことは出来ない。それは日々の鍛錬に裏打ちされた自信。


 油断とは違う。もしも自分が敵わぬ相手なら、相打ち、または死する覚悟すら出来ている。


「これは偽物の神様。私が言っているのは、彼のことではないのよ」


 少女の息が荒い。怒りというよりは熱い興奮が声に乗っている。


「では、君のう神とは何なのだ?」


「名前……」


「名前が神……」


 云いえて妙だと思った。


 名は体を縛る。一つのしゅだ。信仰もまた、一つの呪に例えることが出来るのかもしれない。


「でも、私に名前は無いの」


傀儡子くぐつというのが君の名前ではないのか?」


「それは最初の御主人様が付けてくれた名前……」


 名付け人はすでに亡くなっているから、その名は使えないのだという。


「今まで沢山の人が私に名前を付けてくれたけれど、皆もう何処どこにも居なくなってしまった」


「では、好きに名乗ればいい」


 冗談ではなく、蘭丸も過去にそうしていた。もっとも、彼の場合は名など要らぬと割り切ってもいたが。


貴方あなたが付けて。貴方なら、本物の神の空白を埋められると思う」


「何を言うかと思えば」


 蘭丸は突き放すような笑みを表情に溶かして少女を見た。呆れもしたが、やはり可笑おかしかったのだ。


「神様は名前を欲しがっているの。名前はね、奇跡なのよ」


 確かにそうなのかもしれない。名前があるということは多分、奇跡のような幸せなのだ。


「その言い方は、まるで君自身が神なのだと聞こえるな」


 少女は黙った。もくして蘭丸の瞳を見つめている。


「悲しみと後悔を沈めた漆黒しっこくの瞳……それでいて慈悲深い光りが宿っている瞳」


 祈るように蘭丸の瞳を覗き込んでくる。その視線にすがるような孤独を見た気がして、蘭丸は言葉を見失った。


「名前をください。そして私をまつってくださいませ」


 名付けるという行為は呪だ。付ける方は責任を、付けられた方は存在を名で縛られる。


 元より蘭丸は少女に名前を与えるつもりは無い。


 この娘は怪しい。さすがに蘭丸も彼女の素性を疑っていた。


 あとはあやかしである決定的な確証が欲しい。斬るための確たる理由さえあれば、斬る。


「私を祀れば、闇子やみこという者も生き返らせることが出来ますよ」


「貴様……俺の心を読んだな!」


 他人に触れられたくない過去に、蘭丸の目の色が変わった。


「私は名をくれた人の願いを叶えることが出来る」


「つまり、君は妖か?」


 蘭丸の口調は激しく脈打つ。


 対照的に少女は緩慢かんまんな動作で首を横に振る。


「人では無いのだろう?」


「私は妖でも人でもない。つくられたモノです」


「ホムンクルスか?」


「多分、そんなようなモノです……斬りますか?」


 斬るべきなのだろうか。しかし、人に危害を加えるようには見えない。


 蘭丸の中で、少女と過ぎ去りし日の闇子が重なる。


 自身の弱さゆえ、守ることが出来なかった初めての友達。尊い思い出。


 罪悪感という鎖で蘭丸は今も縛られ、その鎖の端は闇子と繋がったままだ。


「蘭丸くん、彼女のごとに騙されてはいけない。奴らには初めから中身なんて在りはしないのだからね」


「浅葱殿!」


 いつの間に礼拝堂に入ってきたのか、花浅葱の着物を纏った水色の髪と瞳の青年が気配無く立っていた。一体の女人形にょにんぎょうが刀を抱えて後ろに控えている。


「妖の人形とはどういうものかと楽しみにしていたのだが、何のことはないただ人形神ひんながみか」


 期待外れだ。と、浅葱は意地悪く、しかし春の日差しのようにわらった。


「蘭丸くん、こいつは間違いなく妖だよ。いや、どちらかというと呪物じゅぶつに近いかな」


「呪物?」


 七つの村の七つの墓地から取ってきた土を人の血でね、自分の信じる神の形とし、さらに人のよく通るところに置いて千人の人々に踏ませる。


 こうして作り上げた人形神を祀ると、どんな願い事でも叶うという。


「人の願いを叶えるために、人によって創りだされた神のまがい物だ」


 浅葱の言葉を受けて、少女がゆっくりと目を伏せる。


「貴方の名前は蘭丸というのですね。それにしても、此処は簡単に見つかるような場所ではないはずなのだけれど……」


「可愛らしい結界なら、処分させてもらったよ」


 とはいえ、破るのに手間を取られた。浅葱の霊力は、それほど強いわけではない。


「雨下石家の者か!」


「御名答。明確な意思を持った人形というのは目障めざわりだ。君は土にかえって貰おうか」


ぬえを祀る一族が偉そうに!」


 突然、少女の顔が険しくなった。感情らしい感情を蘭丸は初めて彼女に見た。


「浅葱殿、この者は人に危害を加える気はないようです」


「だから言ったじゃないか。そういう話ではないんだよ。コレが人側にある限り、妖と共存なんて出来るはずはないんだから」


 浅葱は女人形の抱えた刀を取って、腰に差した。


「それは妖モドキとて同じこと」


 金色の鞘に収まった打刀うちがたな。妖刀『落花葬送らっかそうそう』。能力は未知なれど、同じ妖刀使いである彩子が怖れるほどの妖刀だ。


「君はすじは良いんだ。あとは実戦あるのみさ。丁度良い。蘭丸くん、その妖を斬りたまえ」


 蘭丸は軽く躊躇ちゅうちょした。少女自身に殺傷能力は無い。彼女はただ、人の願いを叶えるために存在している。人の都合で作られた呪物だ。


 少女と闇子の面影が重なる。それでも蘭丸はマントをひるがえして刀に手をかけた。一瞬、自分の救われなさをうらむ。


 少女はうつろな瞳でうつむいていた。何か言いたそうである。


「君を見ていると、辛そうだ」


 無意識に出た言葉は、蘭丸自身に向いていた。


「蘭丸は今、幸せ? 私なら何だって願いを叶えてあげられるのよ」


 そうではない。何の努力もせずに、欲望だけをただただ受け取り続ける人生なんてむなし過ぎる。


 人の生き様が、そんな簡単であって良いはずがない。


「君は神と云うものを多分、誤解している」


 蘭丸は居合いの構えを取った。鋭い剣気が少女の華奢きゃしゃな体を震わせる。


「私は自分の中の空っぽを埋めて欲しいだけなの。同じ空っぽの貴方あなたなら、それが出来ると思った」


 少女の傍を漆黒の風が滑り抜けてゆく。まだ未熟ではあるが、それはまぎれもなく嵐であった。


 彼女の首は祭壇まで跳んで、意外に重い音を立てながら三回ほど転がった。


「生きるのが辛くなったら、殺してあげることだって出来たのに……残念」


 やはり抑揚よくようの無い声で少女が呟く。


 蘭丸が刀を鞘に納めると、もう彼女は何も言わなくなった。


「素晴らしい! 私の見込んだ男はそうでなければいけない。ウチの馬鹿弟子が何やら小細工をしたようだが、無用だったな」


 浅葱が興奮気味に手を叩いて感心した。


「人形神は人の願いを叶える代わりに、魂を取るんだ。甘言かんげんに惑わされなくて何よりだ」


 蘭丸が人形神に願うようであれば、浅葱は二人とも斬るつもりであった。杞憂きゆうに終わり、内心胸を撫で下ろしていたが、何処どこかで物足りなさを感じてもいた。


 雨下石 浅葱には困った一面がある。気に入ったものを手に入れるためには手段を選ばず、入手した後は壊したくなるという精神衝動だ。


 本人も、この気性だけはどうにもならないものと諦めている。


「どうした? 蘭丸くん」


「どんな人の願いから彼女は生まれたのかと考えておりました」


 そして、どれだけの人の願いを叶えてきたのか。


「願いを叶えるなんて云うと聞こえは良いがね。人の欲には際限が無い。願いが次々と簡単に叶うものなら、人の人生はしまいだよ。そんなものは退屈な地獄でしかないじゃないか」


「そうですね……」


 きっと、そうなのだろう。願いは高きにあって望むもの。簡単には手に入らないからこそ『願い』なのであって、努力も無しに手に入るものは途端に『欲望』へと姿を変える。


 人の心は弱いから、こんな万能の神を手にしては駄目なのだ。


 蘭丸は土塊つちくれになった少女をあわれんだ。願われれば、人さえ躊躇ちゅうちょ無く殺したであろう神は昔の自分に似ている。


「情を残していたらキリが無いぞ。これから君は最後の一呼吸まで、妖を斬り続けていくのだから」


 それは地獄とは云わないのだろうか。蘭丸は妖刀使いである彩子や浅葱に対して、わずかながらの感傷を抱いて礼拝堂を去った。


 もうは沈みかけて、太陽の光輪が稜線りょうせんから空に向かってぐに輝いて見えた。

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