第48話「こころ」

 美しい……と思った。


 美しい人の姿をした鬼を見たのだと思った。




 むらさきは方膝を参道に突きながら、自分に何が起こったのか理解できずにいた。


 斬られたのは分かる。多量の出血と刀傷、そして張り付いた痛みには現実的な説得力があったからだ。


 ただ、いつどのようにして斬られたのかが皆目かいもく分からない。


 紫は蘭丸らんまるの間合いの外にいたはずで、警戒もしていた。精神だって切らすこと無く、常に研ぎ澄ませていたのだ。


 死合う場の心構えにおいて、ミスは一つも無かった。無かったはずだ。


 しかし、斬られた。


 蘭丸は人を斬らない。その言葉を信用し過ぎて、意識の奥底に隙を生んでしまったのだろうか。


 そんな甘い気持ちで立ち合った覚えは紫には無い。


 『電光石火でんこうせっか』の黒い刀身を見たとき、一瞬未経験の戦慄を覚えた。


 頭では理解できない本能的なものだ。


 只事ではないと気を引き締めた刹那、既に斬られた後だったのだ。


 見鬼けんきを持ってしても見切ることが敵わないほどの早業。


 恐ろしきは妖刀『電光石火』の能力を十二分に引き出す蘭丸の腕の冴え。


 しかも、手加減をされてこのザマなのだ。


 紫はもう、戦意を失っていた。気力まで斬られた気さえする。


「申し訳ない。これは自分の過ちです」


 紫が顔を上げると、蘭丸が頭を下げていた。本当に済まなさそうに、その声は沈んでいる。


「あれは本当に蘭丸くんやったんか……」


「すぐに止血を」


 紫の言葉に記憶の混乱を認めたのだろう。蘭丸は応急処置を施すために懐から包帯と血止めの薬を取り出す。


「大事あらへん。心配無用や」


 既に『客死静寂かくしせいじゃく』で傷は塞いである。亜緒あおに肋骨を折られた時に比べれば、傷そのものは浅い。


「蘭丸くん、一つだけ頼まれてくれへんかな?」


 蘭丸の瞳に哀感の情が浮かぶ。


「僕の首を落としてくれへんか」


 紫の力無い声は淡々として、蘭丸の耳から入って心へ落ちた。


 蘭丸には紅桃林ことばやし雨下石しずくいしに生まれつくことの意味は、どうしたって理解することは出来ない。


「俺は人は斬りません」


 だから、こんな無責任で救いようの無いことしか言えない。人が人を救うことなど出来ないし、救えると考えること自体が傲慢なのではないかとも思う。


 不器用な蘭丸なりの、これは見解の一つであった。


「人……。こんな僕でも人か」


 気が遠くなるくらい妖を斬った。他愛無いモノから大妖まで、その類は数知れず。


 同じくらい人も殺めた。同業の術士や剣士、女子供に至るまで。


 仕事の依頼、当主である父の命令、紅桃林に仇なす者の始末、斬った理由は様々だ。納得がいくときもあれば、理不尽だと思ったこともある。


 そのうちに己を「人」と呼ぶには相応しくないと思うようになった。


 ――自分は一つの狂った刃だ。関わったが最後、相手にも等しく命を賭けてもらう。そういう、「紫」という名の災厄なのだ。


 そう思わなければ、生きているだけで死にそうだった。


 とうとう父さえ斬った時には、思いも寄らない歓喜の声が自然と喉から漏れた。


 自分がやっと完成された一つの「死を運ぶ現象」になれたと思ったからだ。


 目の前の黒衣の妖刀使いには、それでも自分が「人」に見えるらしい。


「人を捨てなければ、蘭丸くんには斬ってもらえへんのやね」


「貴方にとって、命は何故そこまで軽いのですか?」


 夜に暫し間を空けてから、紫の視線は何も無い虚空を泳いだ。


「…………わからない」


 独り言のようにそれだけ言うと、空を仰ぎ見てから深い息が宙に儚く溶けた。


 一体、自分は何故こんなにも死と云うものに惹き付けられるのか。


 個人が抱える空虚の意味は誰も触れることは叶わない。


「お前は自分の命を軽んじているから、他人の命も軽んじるんだ。命とはお前が思っている以上に重いものだ」


 いつの間にか亜緒がぬえの肩を借りながら、すぐ傍まで来ていた。彼の息も荒く渦を巻いている。


「なんや。また似合わん説教かいな。言うておくけど意味不明やで?」


 そこにはもう死を望む危うさは消えて、あどけない少年らしい表情の声が呆れているだけだ。


 この二人は分かり合おうと歩み寄ることは永遠に無いのかもしれないが、何処か他人からは見えないところで絆にも似た繋がりがあるのかもしれない。


 そんな思いを漠然と抱いて、蘭丸は胸を撫で下ろした。


 一先ず無意味とも思える私闘は終わったのだ。取り敢えず今日のところは。


「そうだ。殺子さちこに謝っておいてくれよ。余計なこと言って怒らせちゃってさ」


 わざわざ殺子の夢の中へ邪魔するのも、こちらから出向くのも面倒くさい。


 更には亜緒自身、別に許されなくても良いと思っている。


「何言うてんの? 殺子なら三年前に亡くなってるやろ?」


「なんだって!」


 亜緒の理解はワンテンポ遅れた。紫の言葉の意味が上手く滑り込んで来なかったからだ。


「そういえば、亜緒くんトコには伝えてへんかったな」


 両家は仲が悪い。殺子の葬式は一族だけでしめやかに行なわれたのだという。


 ではここ数日に渡り、自分が会っていた殺子は何者であったのか?


 たった一つの回答に辿り着くまで時間はかからなかった。


「紫。お前、闇子やみこと手を組んだな」


 目的はもちろん、雨下石 亜緒を殺すため。


 お膳立ては闇子。実行者は紫ということなのだろう。


 事実、蘭丸が来なければ亜緒は今頃、三途の川を渡っている。


 ――今回は失敗かしらね。


 闇子の声が気だるいぬるさを伴って、亜緒の頭の中を回った。


「はて? 何のことやら」


とぼけるならそれでもいいさ」


 紫の肯定など必要ない。ここで話を混ぜっ返しても闇子が歪んだ笑みを浮かべるだけだ。


 少し前に土下座させてしまった仕返しかもしれないし、単なる気まぐれかもしれない。


 そもそも、闇子が亜緒を殺そうとするのは今に始まったことではないのだ。


「妖殺し! 雨下石の者! それ以上、紫様に近づくな!」


 聞き覚えのある独特の低音が夜露を震わせた。


 紫の元に向かう沃夜よくやの足取りは頼りない。蘭丸から与えられたダメージが激しく尾を引いている。


「君がガラにも無く峰打ちにするからさぁ」


「先を急いでいたものでな」


 とはいえ、入れた一撃は手加減無しの全力だ。峰打ちというわけでもない。


 てっきり仕留めたと思っていたから、蘭丸にとって沃夜の登場は意外だった。


「沃夜、無事やったんか」


 紫が口を開くと、美丈夫は主の前に跪いて頭を下げた。精悍せいかんな顔立ちが情けなく鈍っている。


「二度も不覚を取り自決も考えたのですが、紫様に断り無く死ぬわけにもいかず……処断を請いに来た次第で」


 主の言いつけを完遂できなかった事実が、御付きとしての矜持きょうじいたく締め付けている。


 自分で自分を許すことが出来ない。許されるべきではない。


 その自責という名の重力が圧し掛かっているせいで、沃夜は顔を上げることが出来ずにいる。否、上げてはならないのだ。


「紫様、此度こたびの失態に何の釈明もございませぬ。どうか貴方の手で、この役立たずの首を刎ねてくださいませ」


 おずおずと『童子切安綱どうじきりやすつな』を差し出す。


 蘭丸と亜緒は、まるで何処かの三文芝居を見せられているような気分で顔を見合わせた。


 忠義の精神は結構なことだが、傍で見せられると気恥ずかしくなる。


 亜緒は苦笑いを浮かべ、蘭丸はやれやれとため息をついた。


「この二人、結局は似たもの同士なんだな」


 亜緒は死に価値を見出そうとする思考が理解できない。


「類は友を呼ぶというヤツか」


 蘭丸は死ぬことで失敗の責任を取るという考えが分からない。生きていればこそ、汚名もすすげるというものだろう。


「沃夜、自分の命をそない軽く見るもんやあらへん。お前の命は僕にとって、お前が思っとる以上に重たいもんや。これからも僕を支えて貰わな困るなぁ」


「紫様……」


 感極まった沃夜がますますこうべを垂れた。彼にとって、主の度量に対する感服の念は己の自責よりも重いようだ。


「あの野郎!」


 覚束無おぼつかない足取りで身を乗り出そうとする亜緒を鵺が止めた。消耗しきった体を気遣ってのことだ。


 「意味不明」「似合わない説教」などと小馬鹿にしておきながら、その言い回しを臆面なく目の前で使われたのでは不愉快にもなる。加えて、どの口が言うやらだ。


 当然、紫は亜緒を怒らす目的で使っているのだが、本心でもあった。


 余程、沃夜のことがお気に入りらしい。


「ほな。僕らは帰るわ」


 覚めたような、飽きたような一言だった。紫が亜緒の元へとやって来た目的は終わったのだ。


「もう二度と顔を見せるな!」


 穴だらけの着物が張り付いた後姿に鵺が叫ぶ。


 その声には混じりっけ無しの嫌悪というものが露骨に現れていて、目を凝らせば見えるようだ。


「また遊んでやー」


 紫も面白がってわざわざ鵺に向けて手を振るものだから、ますます彼女のイライラはつのってゆく。


「今度来たら殺す! 絶対に殺す! 群青ぐんじょうに殺させる!」


 敢えて雨下石家当主の名を口にするところが亜緒の耳には痛い。事実、敵わなかったのだから弁解のしようもないのだが。


「亜緒、いつまでも狐と一緒にいるな。出ていってもらえ!」


 紫の姿が見えなくなると、感情の矛先が亜緒に向いた。やはり、今の状況がどうしようもなく気に入らないらしい。


「いやいや。今、玉響たまゆらに出ていかれたら僕が死んじゃいますから」


 玉響の神気のおかげで深刻な事態にならずに済んでいる。それは鵺だって分かっているのだ。


 世代ごとに雨下石家に最も霊力の強い当主を残す。


 それが鵺の存在理由であり、気が遠くなるくらい遠い時代に交わされた契約だ。


 使命と云うと陳腐ちんぷな響きを纏ってしまうが、鵺にとって最優先されるべきは亜緒の命でなければならない。


 ここで玉響を否定することは矛盾である。


「うー!」


 面白く無さそうに亜緒の周囲をぐるぐると回る。


 鵺は雨下石家の次期当主に憑いて護るという本能を持つが、それはくまで本能であって感情ではない。


 人と融合して生まれた感情というものが、本能に背反はいはんして鵺を悩ませるのだ。


「なんだか今日の鵺は妙に情緒不安定だね」


「それも全部、亜緒のせい!」


 行き場の無くなった思いは着地点が定まらずに彷徨さまよう。水鏡に映る世界が跳ねて揺れるように、心という以前は存在しなかった不確かな場所が苦しい。


「僕たちも帰ろう。こんなところに何時まで居ても仕方ない」


こんなところ・・・・・・にしたのは亜緒ちゃんだけどね~』


「そうは言うけどな。神社を壊したのは紫なんだぜ?」


『どっちでも同じじゃ~ん』


 ペラペラと厚みの無い声音だが、玉響なりの悔しさにも似た残念な気持ちが亜緒には伝わってくる。憑依されているせいで、今の二人は文字通りの一心同体のようなものだ。


 ただ、怒りのような根の深い感情を感じないのは玉響の気性なのか、神様ならではの執着心の無さなのか。


 いずれにしても俗な煩悩とは無縁であるのかもしれない。


 突然、体勢を崩してよろめいた亜緒の腕を蘭丸が取った。


 鵺が貸していた肩を外したのだ。玉響の言葉に返事を返してしまったのは迂闊であった。


「何があったか知らないが、早く仲直りしてくれ。調子が狂う」


「そうは言ってもねぇ……」


 亜緒はもっと鵺の立場や心情を考えて行動するべきであるが、そんな繊細な気遣いが備わっている男ではない。その言動は大抵考え無しだ。


「兄様、鵺の不機嫌は女の子の日だからです」


 神社の出入り口。鳥居のところでノコギリに会った。


 まだ夜明け前だ。女学生が出歩くような時間ではない。といっても、彼女を「普通の女学生」で括るのは適当ではないのだが、鉢合わせというよりは待ち伏せにも似た頃合いの良さである。


「こういう時は放っておくのが一番ですわよ」


 頭上に疑問符を浮かべる亜緒に、ノコギリはどこか得意気だ。


「いい加減なことを言うな。鵺だぞ」


「その鵺に人の体を与えたのは兄様ではないですか」


 ノコギリは着物の袖で口元を隠しながら、コロコロと愉快そうに笑った。


「信じられないのでしたら、本人に直接聞いてみたらどうですか?」


 三人が鵺に注目する。視線の真ん中で俯いた鵺の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。


「の……」


「あら。何ですか?」


「ノコギリの性悪者しょうわるもの!」


 羞恥心を無神経に撫で回された鵺が、逃げるノコギリを追いかける。


 亜緒は鵺の不調に漸く得心が行った。


「あいつ、何でこんな時間に此処にいるんだ?」


「オマエのことが心配で様子を見に来たのだろう」


 ノコギリの千里眼は道具を必要とする占いのようなものだが、外れたことがない。


 蘭丸は彼女から亜緒と紫の居場所を教えてもらったのだ。その際に亜緒の危機をそれとなく匂わせるような物言いをした。でなければ、素直に協力してくれそうもない雰囲気だったのだ。


 眠った世界で瓦礫の神社を駆け回る少女二人が、何処か眩しくて蘭丸は目を伏せた。


「オマエは幸せ者だな……」


 相方に聞こえないように声を押さえる。鵺もノコギリも、立場は違えど亜緒のために此処にいるのだ。


 では紫はどうか? 沃夜とは主従という縦の関係はあっても、横の繋がりがあるようには見えなかった。


 魂の虚ろさを映し出したかのような赤紫色の瞳は、対等な何かを求めていたのではないか?


 同じ妖刀を使う者として、自分だけがその手を取ってやれたのではないか?


 すぐに蘭丸は首を横に振った。長く滑らかな髪が、葛藤を振り払うように左右に流れる。


 人が人を救うことなど、出来はしない。事実、自分には出来なかったではないか。


 何かが空に光った。


 まばゆいほどの光が蘭丸、亜緒、鵺とノコギリを照らし出して、濃い影たちを同じ方向へと伸ばしてゆく。


 この世界、朝日でもこうはいかない。


 その突然は一層輝きを増しながら天へと昇っていった。


「ふん。やっと帰ったか」


 亜緒は舌を出しながら、金色に輝く龍を見送った。


「何だアレは……」


 怪訝けげんそうに蘭丸がこぼした言葉は、行き先を決めかねて迷う独り言のようでもあった。


「沃夜だよ。あいつの正体は龍神だ」


 何故、紫に付き従っているのかまでは分からない。


「なんと!」


 冷静沈着な蘭丸が驚嘆して息を呑む。鵺とノコギリも遠ざかってゆく黄金を黙って見送っている。


 それほどまでに神々しい光景だった。


 暫しの静けさが辺りを包む。


「兄様……」


 沈黙を降らせた光が小さくなって西の彼方へ消え去ると、ノコギリが口を開いた。


「何ですか? そのケモ耳は」


「ちょっとね……」


 話せば長くなるし、事の次第が面倒だ。


「それは……そのケモ耳は……所謂いわゆる、萌えというヤツなのですね!」


 何が楽しいのか。ノコギリは鳥居の柱を叩いて喜んでいる。


 亜緒は萌えという言葉の意味するところが分からないので、ノコギリの言動自体が意味不明だ。


 女学生の間で流行る造語は理解出来ないものが多い。


「その程度で喜ぶほど、私はお安くありませんわよー」


 尋常ではない精神の高揚である。そもそもノコギリを喜ばせるために狐耳を生やしているわけではない。


「萌えって何だ? 蘭丸」


「俺に聞くな」


 亜緒が疲れた体をもう一方の柱に預けたとき、鳥居が不吉な音の中で傾いて倒れた。


「あら、やだ」


「この鳥居、老朽化が進んでいたんだなぁ」


『亜緒ちゃん達のせいでしょ~』


 玉響のやるせない声が亜緒の中で泣いた。


 雨下石家に関わると、割とろくなことがない。

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