第40話「神名付け」

 まだ明けぬ空の下、薄い白の欠片が紫の肩に止まった。


 その白は頭に触れ、次には手の平へと舞い降りる。


「桜の……花びら?」


 そんな季節ではない。が、白い花弁は次から次と控えめに踊りながら落ちてくる。


 それはまるで、真夏に降る雪のように。


 やがて、目の前に二人の子供が現れる。十に届くかどうかの年齢だ。


「誕生日?」


「そや。亜緒くん処ではお祝いやれへんの?」


 青い髪の少年が頷く。


「ええなぁ。羨ましいわ。誕生日って、めっさ痛いねん」


「痛いなら僕は一生やらなくてもいいや」


 子供の頃の記憶。


 紫の髪は黒く、薬の量も今ほどではなかった。何よりも自然体の笑顔の中には、子供らしい柔らかな暖かさが宿っている。


 御神木の力を借りて、亜緒が見せた在りし日の幻影。


 幻を前に紫は冷たい笑みを静かに湛えながら、桜の木を一刀両断してしまった。


 幻が消え去る。


 その気になれば石地蔵の首さえねるニッカリ青江である。紫の腕を持ってすれば、木を斬り倒すことなど造作もない。


「くだらん記憶や」無神経に吐き捨てる。


 紫にとって、思い出とは過去の一言ですべて総括される他愛無いものだ。


 それでも僅かなり郷愁と云うものを感じたからこそ、亜緒が仕掛けた術に捕らわれてしまった。


 かえって、その自分の甘さに怒りと嫌悪を感じる。


 紫は今ある自分以外、過去の全てを壊してしまいたいのだ。


「それにしても雨下石しずくいし家の慧眼、侮れんね」


 軽く頭を振る。銀色の髪が動きに合わせて揺れて光った。


 瞬刻の夢から帰ると、当然亜緒の姿は無い。


「鵺を置いて逃げ出すような亜緒くんやないやろうし……」


 神社の何処かに隠れて紫を狙っているのに違いない。


「かくれんぼとか鬼ごっことか、相変わらず好きなんやね。そんでいつも僕が鬼……そないなところも変わらへん」


 着崩れした着物を直す。


 それにしても静かだ。亜緒の気配をまるで感じない。


「少し早い気もしはるけど、アレ出しましょか」


 紫が今夜のために取っておいた奥の手。しかし、切り札を出すにはまだ頃合いでは無い気もした。


 何より、アレは無敵ゆえに扱いが難しい。


 思案していると闇の向こうから紫に向かって、素早く駆けて来る何者かがある。


 着物を着た童子。長い髪の分け目にはツノ。


 護法童子ごほうどうじという式神の一種だ。当然、亜緒が放ったものであろう。


「学習せんなぁ……」


 紫の赤紫色の見鬼けんきが鬼火のようにぼうと揺れると、童子の俊足が止まる。


「呼んだ人の元へ真っ直ぐにお帰り」


 童子の瞳を表情無しに見つめて言うと、式神はすぐにきびすを返して拝殿はいでんの中へと消えていった。


 亜緒は賽銭箱の置かれた拝殿の奥に隠れているということだ。


 紫はすぐに呪符を懐から取り出すと刀に添えた。刀身がくれないに染まると、紫の周囲に風が集まる。


「今夜は亜緒くんが鬼になってもらうで」


 束ねた風は刀身へまつろいながら回転を速めると、間も無くして真空の凶刃を生み出した。


 紫が上段の構えから、勢いもよく斜め下に刀を振り下ろす。その鋭さが生んだ剣風は三つの衝撃波へと変わり、さらに六つに分かれて空気を裂きながら拝殿へと飛んだ。


 ――刹那。


 拝殿はあっけなく、しかし暴力的な音と共に崩れた。埃の煙が辺りを覆う。


 ニッカリ青江にカマイタチの呪符を合わせて、さらに霊力を上乗せした一撃。否、六撃と云うべきか。


 雨下石家にとって妖は調伏ちょうぶくするものだが、紅桃林ことばやし家にとっては使役するものだ。


 この差は大きい。





 倒壊した拝殿から亜緒はうのていで本殿へと逃がれていた。


 本殿は大抵、拝殿の奥に位置する。


「紫の奴、本気で僕を殺す気だな」


 亜緒のほうも目的は同じであるはずなのだが、自分のことは棚の上に置く。


 それにしても、同業者と戦うのがこれほどやりづらいとは思いもしなかった。否、やりづらいのは紫だからだ。


 亜緒の手の内は全て読まれ、返されてしまう。


 自分よりも強い者と戦うのは初めてだから、どうしても切り札に欠ける。


 唯一、亜緒に利点があるとすれば、それは常に紫の居場所が分かることくらいである。


 「響き」と呼ばれる生命が発する固有の振動を感じ取る能力。これは紅桃林家には無いものだ。


 特に霊力の強い者の響きは顕著けんちょに感じ取ることが出来る。


 亜緒には紫の位置が分かるが、紫からは分からない。


 これは大きな優位性のはずである。


 本来亜緒は姿を隠しながら戦うべきなのだ。


 突然、亜緒の視界が後ろから遮られた。顔に伝わる冷たい手の温もり。


「後ろの正面、だ~れだ~」


稲荷神いなりがみ様」


 本殿に響く、間延びした気だるそうな声に即答してみせる。


「アッタリー! 此処にはウチしか居ないんだからハズレるわけないよね~」


 二十歳前後と思われる女性がジャレついてきた。妙にはしゃいで見えるのは、程程に長く絡みついた退屈から開放された瞬間であるからかもしれない。


 ゆるゆると流れる長い髪からデコを出し、眼鏡の奥の垂れ気味の瞳はどこか虚ろで何を見ているのかよく分からない。


 何故に巫女服を着ているのかは神のみぞ知る……だ。


 そんな曖昧な空気を纏った稲荷神。一応、狐の耳と尻尾も生えている。


 本殿は神様の住まう処。信じたくないが彼女? は、この神社に祀られる正真正銘の神様だった。


「そんなことより大変ですよ。稲荷神様のやしろが悪いヤツにブッ壊されています!」


「あー、ホントだー。どうしよー」


 外を窺う声には緊張感が無く、まるで他人事のように夜を滑り落ちてゆく。


「御神木も拝殿も滅茶苦茶ですね」


 そもそも神社の損壊は亜緒と紫が戦っているのが原因なのだ。しかし、神物しんぶつを率先して壊しているのは紫のほうなので、全ての責任を擦り付けることにする。


「私の……お金」


 倒壊した拝殿を見たのだろう。破壊された賽銭箱を確認して、稲荷神はようやく残念そうな声を上げた。


「亜緒ちゃん、あの狼藉者をちょっと殺してきてよ」


「無理です」


「え? なんで……」しょっちゅう賽銭くすねてたくせに。と、不満を口にする。


「僕が殺されそうなのです」


「あの子、亜緒ちゃんより強いの?」


 虚ろな瞳の奥には、着崩れした着物を引き摺りながら歩く少年の姿が映っている。


「外見で判断すると痛い目見ますよ。一応、紅桃林家の当主ですから」


「それじゃあ仕方ないねぇ。亜緒ちゃん、相手が本当に強い奴だと弱いもんねぇ」


 神様に悪気は無いのだろうが、棘を含む物言いが気に障る。


 もともと亜緒は、如何いかにもやる気がなさそうな目の前の神らしくない神が苦手なのだった。


 幼少の頃より顔見知りではあるのだが、ヘラヘラとした物言いと態度がどうもしょうに合わない。


 どこか自分と似たような言動も、映りの悪い鏡を見ているようで面白くない。


 ところが稲荷神様のほうは亜緒のことを気に入っているようで、神社を訪れるたびに声を掛けてくる。


 彼女が亜緒の賽銭ドロを大目に見ていたのも、『左団扇』の経済事情を知ってのことだ。


 黄泉帰りの少女といい、亜緒は人外の者に好かれやすい傾向にあるのかもしれない。


 もっとも、今は好き嫌いを気にしている場合ではないのだが。


「反撃の手段はあります! そのためには稲荷神様の名前が必要になりますけどね」


 亜緒としては出来れば彼女の力を借りたくは無かった。


 一線を越えて神に関わるとろくな事が無いし、何よりも雨下石家が祀るのは鵺なのだから。


 本心は敬語を使うのも不本意なのだ。


「私、名前とか無いけど……」


 互いが相手の沈黙と見つめ合う。


「全国にどれだけ稲荷神社があると思ってるの? その狐様一つごとに名前があると思ってる?」


 もっともな話であった。


「伏見の大社じゃないんだからさー」


 石を投げれば稲荷神社に当たる。と、云われるほどにその数は膨大だ。


 山野や路地の小祠まで入れると、とてもじゃないが数え切れない。


「では、僕が稲荷神様に名を付けましょう」


 今は問答の時間さえ、惜しい。


「それ本気で言ってる? っていうか、意味分かってる?」


 何やら愉快そうに稲荷神は顔を綻ばせた。


 名で縛るということは、付けたほうも責任というしゅに縛られるということだ。


 互いに呪を与え合うのが『名付ける』という儀式なのである。


 亜緒が短刀を取り出す。


「偉大なる宇迦之御魂神うかのみたまのかみよ。貴女様の眷属が一つを名で縛る無礼を許し給え」


 亜緒の髪が風無く騒ぎ、瞳の青に鈍い光が灯る。


「天のことわり、地の理、海の理、山の理。薄暗い昼、尚暗い夜。何も無い白をみ、夢を見るあかにたゆたう。雨の法則、目隠しと雨下石家亜緒の線形の欠落をって汝に『玉響たまゆら』の名を与えん」


 持っていた刃で手の平に紅い線を引くと、稲荷神の広いおでこに置く。


「あははは。本当にやっちゃった。ウチ、知ーらないよー」


 玉響は何が可笑しいのか、まだ笑っている。明るい笑顔と云うよりも、醒めた薄ら笑いに近い。


「玉響、宝玉ほうぎょくを貸してくれ」


「まだ何かやるのー」


 玉響が渡したテニスボールほどの水晶玉は、中心に炎のような青白い光が揺れている。


 稲荷神なら必ず持っている宝玉だ。もちろん、一時でも手放すなどってのほかの至宝なのだが、名付け親なら話は別になる。


一二三四五六七八九十ひふみよいむなやここのたり布留部ふるべ 由良由良止ゆらゆらと 布留部ふるべ


 亜緒が布瑠ふることを唱えながら宝玉を揺らすと、やがて玉から不思議な音が鳴り始めた。


 繰り返す言霊の詠唱に呼応するかのように、音は力を増してゆく。


 玉響が音に誘われて亜緒の傍までやってくると、突然本殿が半壊した。


 紫に見つかってしまったのだ。


「亜緒くん、見つけたで。今度は君が鬼や」


 名刀『ニッカリ青江』を構えて微笑んでいる。


 その姿は死を呼ぶ嵐のように、狂をはらんだ凶であった。


 夜明けは遠い。

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