第34話「艶姿」

 今夜の『左団扇』の夕餉ゆうげは特別だった。


 紫が紅桃林ことばやし家当主に就任したお祝いに、自腹を切って寿司を取ってくれたのだ。


 本来は祝われる立場の紫に、祝う立場の亜緒と蘭丸が御馳走するのが筋なのだが、当然『左団扇』にそんな余裕は無い。


 特上の大皿がビールと一緒に座卓に載っている。


 こんな豪勢な食事は『左団扇』始まって以来である。


「君らに金が無いのはお見通し。実は此処に来る途中、寿司屋に寄って頼んできたんや。金は払ってあるから――」


 紫の言葉が終わらぬうちから亜緒は寿司に手を付けている。「いただきます」の一言も無い。


「亜緒くん、僕を祝う気ゼロやね……」


 紫は楽しそうに目を細めた。


「一度大トロと中トロの味比べをやってみたかったんだけど、どっちも美味いな。これは引き分けだな」


 亜緒はどうでもよい独り言を一度だけ言ってから、また無口になった。


 鵺はイクラやウニなど、わさびの入っていないネタを選んで口へと運んでいく。


 二人とも一心不乱に食っては取り、取っては食う。


「すみません、この二人は礼儀と云うものを弁えておらず――」


 代わりに蘭丸が非礼を詫びた。羞恥心が顔に出ている。


「ええよ。亜緒くんのことは分かっとる。幼馴染みやさかい、よう分かってんで」


 紫がビール瓶の栓を抜いて蘭丸に酌をする。


「それより、蘭丸くんも遠慮せんとお食べ。この勢いやと早ようしぃひんと無くなってまうで?」


「この度は紅桃林家当主の御就任、おめでとうございます。では、失礼していただきます」


「蘭丸ー、呑気に挨拶なんかしてると食うもん無くなっちまうぞー」


 亜緒を鋭い視線で睨んでから、蘭丸も箸を取る。


「空腹なのは分かるがな。少しはプライドというものを持ってくれ」


 暫くの間、三人は言葉も無しに黙々と寿司を頬張り続けた。


「ひゃー。もの凄い食べっぷりやね」


「ここ三日間で口にしたものといえば、水だけだったからな」


 腹が膨れてきたらしく、会話に無気力だった亜緒が紫の独り言のような言葉に返事を添えた。


「依頼、ぃへんの? せっかくの蘭丸くんが宝の持ち腐れやわ」


 事実、その通りなので亜緒はまた寡黙に戻った。


「蘭丸くん、いっそウチへ来ぃへんか?」


 紫が空になった蘭丸のコップに二度目の酌をする。


「此処より妖を斬る機会も多いし、何より生活に困ることもあらしまへん。情報もぎょうさん入ってくるさかい便利やで」


 蘭丸の箸が止まった。


「それは闇子のことですか……」声に影が入る。


「気に障ったらすんまへん。覗き根性とちゃうねん。妖刀を所有する者の情報は入りやすいねんて」


 これは雨下石家でも同じはずだと紫は言う。


「ウチの蘭丸を誘惑するのはめて貰いたいな」


 亜緒が自分のコップにビールを注ぐ。


 白い泡が溢れそうで零れない絶妙のタイミングで瓶の口が引かれる。


「誘惑ちゃう。引き抜きってヤツや」


「どっちも同じじゃねぇか」


 久しぶりのビールを一気に飲み干す。


 寿司は殆ど亜緒と鵺、蘭丸が食べてしまって、紫が口にしたのはアワビ一貫とだし巻き卵くらいである。


 またしても蘭丸が自分たちの無遠慮を詫びると、紫は涼しい顔で「無用心やね」と呟いた。


「もしもの話やで? この寿司に毒が盛ってあったら、君ら全員あの世行きや……」


「言われてみれば、此処にいる人物の中で本当に毒を盛りそうな奴が一名いるな」


「でも、ソレを言うなら――」亜緒は続ける。満腹とアルコールで多弁になってきたようだ。


「君が薬を飲むのに使用した水にも毒が入っていたかもなぁ」


「お互い、もっと用心せなアカンね」


 二人の幼馴染みは意味深な笑顔を交わした。


 蘭丸は二人の仲が実は悪いことにやっと気づいた。


 幼馴染だからといって、仲が良いとは限らない。


「蘭丸くん、コップが渇いとるね」


「自分はそれほどイケる口ではないので、もう……」


 蘭丸は下戸げこではないが、飲める方でもない。


 すぐに顔が赤くなるし、酔いと一緒に眠くなるのも早い。


「まぁ、今日だけはええやないの。僕のお祝いやん」


 蘭丸は立場上、紫の酒を断りづらい。


 妖刀所持者には紅桃林家や雨下石家のような、上から直接といった形の依頼もある。


 懇意こんいになっておいて損はないのだ。


 それに紫は群青よりはくみし易い人物であろうことは間違いない。


 知らぬこととはいえ、先程刀に手をかけてしまった失礼もある。


 助け舟を期待して亜緒のほうを見ると、大の字になって眠っていた。


「前金だけでも一千万だーい」


 幸せそうに欲にまみれた寝言を発している。


 助けて欲しいときには本当に役に立たない相方であった。


「蘭丸くん。真面目な話、紅桃林ウチに来ること真剣に考えてみて欲しいわ」


 紅桃林の当主ともなれば、敵も多いのだと云う。


 妖はともかく、人に命を狙われるのが厄介なのだと紫はため息をついた。


「俺は人は斬りませんよ」


「人いうてもな。蠱毒こどくや犬神なんかを使った呪術師や。殺し屋やね」


 紫の着物の前がはだけている。発達しきっていない薄い胸板が覗く。


「僕の背中を任せられるのは蘭丸くんだけや。一目見てんときから確信したわ」


「紫様、薬の時間です」


 沃夜よくやが水の入ったコップと十数を数える錠剤を紫に手渡す。


 その表情も所作からも、相変わらず感情が読めないが紫を労わる気持ちは伝わってくる。


 薬を一気に飲み込むと、紫の口元から数滴の雫が形の良い顎を伝って細い足へと落ちた。


「蘭丸くんが妖だけでも斬ってくれると、随分助かるんやけどなぁ」


 いつの間にか蘭丸は自分の腕を枕にして眠っていた。


「蘭丸くん? 眠ってしもたん?」


 紫は立ち上がると蘭丸の傍まで寄った。どうやら酒に弱いというのは本当らしい。


 眠っている蘭丸は「妖殺し」なんて二つ名が似合わないほど無防備で穏やかで、そして何より優しい。


 繊細な細い指を蘭丸の衿の中へと忍ばせる。


 さらに奥へと白い指を滑り込ませようとすると、頭から顔にかけて水がゆっくりと滴り落ちてきて紫は薄く笑った。


「酷いなぁ。狸寝入りなんてズルいわぁ」


「頭、冷えたかい?」


 亜緒が逆さにしたコップを持って背後に居た。


 すぐさま沃夜が紫の頭にタオルを乗せる。


「僕も酔ってもたみたいやね」


 足元をふらつかせた紫を亜緒が支えた。善意からではない。


 酔いに乗じて蘭丸や鵺に何かしらのちょっかいを出されたのでは堪らない。


 警戒からの行為だった。


「もう寝ろ」


「そうさせてもらおかな」


 亜緒は足取りのおぼつかない紫を支えながら、二階の客間へと引っ張っていく。


 預けられた体は華奢で頼りなく、軽い。


 自分の父に比べたら、紫は随分と弱々しい当主に見えた。


「お前はどうして自分の父親を……」


 亜緒の呟きは独り言のように暗がりの中へ転がり落ちていった。


「ん? なんや?」


「何でもない」


 静かに階段を上ってゆく。


「すんまへんなぁ。手間掛けさせてもろて。今日の僕はどうかしてるわ」


 サイズの大きい着物の裾を引き摺るように、紫は亜緒にもたれた。


 着流しの衿が開いて、とうとう紫の上半身は殆ど全てが露になってしまった。


 紅藤色の間から覗ける肌は、やはり病的に白い。まるで夜の中で光っているようだ。


「きっと羨ましかったんやなぁ。蘭丸くんのような相方がおる亜緒くんのことが」


 客間に着いた。


 亜緒は紫の繰り言を聞かぬフリして襖を開けた。


「行灯は一人で点けられるか?」


「何言っとるん? 僕らの瞳は闇でこそより輝く特別製やろ?」


「そうだったな」


「まるで妖や……」


「酔ってるな」


「そやね。この僕が亜緒くんに愚痴言うなんて」


 紫は敷いてあった布団の上に倒れ込んだ。


「ほな、おやすみ……」


 客間の襖を閉めると、急に亜緒の背中が重たくなった。


 まるで重石でも乗せられたように体が沈む。


「なん……だ。こりゃあ?」


 重さに耐えられず、亜緒の膝が廊下に崩れる。


 最初は何が起こっているのか分からなかったが、すぐに紫の仕業であることを確信する。


 背中に赤子が一人、乗っていた。


 もちろん、ただの赤子ではない。おんぶお化けの類で、要は子泣き爺である。


 紫は調伏ちょうぶくした妖を自在に使役することが出来る。悪業罰示あくぎょうばっしという式神の一種の応用で、高位の術だ。


 亜緒は会話の最中に罠を仕掛けられたのである。


「染み染みともっともらしい話題を振りやがった狙いはコレかい!」


 赤子は泣き声一つごとにその重さを増してゆき、亜緒はとうとう廊下にうつ伏せに倒れた。


 骨の軋む音がする。


「あ、ヤバイかも……」


 亜緒の視界が立ち眩みを起こしたように暗く歪んでゆく。


 乗っかっている妖は精気を吸い取る効果もあるようだ。紫が付与した力なのかもしれない。


 背中に手を回して剥がそうとするも、腕が自由に回らない。もっとも、力ずくで何とか出来る代物では無いのだが。


 このままでは冗談ではなく、死ぬ。


「蘭丸の奴は酔い潰れているのか。まったく、イザというときに役に立たん――」


 意識を失う寸前で体がラクになった。文字通り憑き物が落ちたように軽い。


 顔を上げると鵺が赤子の首を掴んだまま持ち上げている。


 そのまま握りつぶすと、赤子は和紙の切れ切れとなった。


「鵺、助かった。サスガに今回ばかりは死にかけたよ」


 息も絶え絶えの亜緒に鵺が口づけをする。妖から吸い取られた精気をそっくり返したのだ。


「亜緒は死なせない。どんな奴にも……」


 亜緒は立ち上がると鵺の頭に手を置いた。


 今度は亜緒から鵺に接吻をする。


 精気などではない。親愛を超えた温もりの交換だ。


 月など知りもしない闇の中で、二人は少しだけの繋がりに心を濡らした。


「さてと……」


 亜緒が一枚の呪符を取り出すと、鵺の顔色が一変して体が震えだす。


「それを使うのは考え直せ。紅桃林の当主を殺ると後々問題になる」


「そうかなぁ……」


 一瞬だけ考えるような仕草を見せた後、、亜緒は躊躇ちゅうちょなく呪符を紫の居る客間の中に放り込んで襖を閉めた。


「一回は一回! 一枚は一枚だー!」


 鵺はネコミミを両手で押さえてうずくまった。


 亜緒が使ったのは不動明王の呪符である。


 辛い修行時代に、やっとの思いで奇跡的に不動明王の力の一部を封じた呪符を修法しゅうほうすることが出来た。同じものをまた作ろうとしても二度と叶わないだろう。


 実質、亜緒の持つ最強の呪符であり、文字通りの「切り札」である。


「死んでしまえ。死んでしまえ。死んでしまえーい! 大事なことなので三回言っちゃいました~!」


 これで依頼料と成功報酬、合わせて一億の金が手に入る。


 しかし、騒ぐ亜緒とは反対に襖の向こうは静かだ。物音一つしない。


「死んだのか?」


 鵺が瞑っていた瞳の片方を開けて問うた。


「いや、生きてるね」


 紫の響きが消えていない。


 そろそろと亜緒が客間の襖を開けて部屋の中を窺う。


「やぁ、亜緒くん。エライもん持っとるんやね」


 平然と枕元に佇む紫の姿があった。


 着物は穴だらけでボロボロだが、体には傷一つ付いていない。


 足元には亜緒が放った呪符が細切れになって散らばっている。


「やれやれ。また着物を替えなアカンなぁ」


「君、いつから本物のバケモノになっちゃったわけ?」


 亜緒が紫の強さを揶揄やゆする。


 放った式神は鬼や妖とはワケが違う。鬼神、神の力の一部を顕現させたものだ。


 これに打ち勝ったのだとしたら、紫は神の力に対抗できる実力を備えていることになる。


 それとも端正な顔を感情の欠片無く落ち着かせ、部屋の隅で正座をしている沃夜の仕業であろうか。


 突然、亜緒が血を吐いて倒れた。


 己の実力以上の式神を使役すると、放った力の一部に喰われることがある。


「身の丈に合わへん術は使わんほうが正解や」


 紫の軽い声音を、亜緒は薄れゆく意識の中で聞いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る