第29話「寂しい遊びの終わり」
整然とした学院の昇降口で北枕 石榴は困惑していた。
どうしても校舎から外へ出られないのだ。
強靭な鬼の力で押しても、引いても扉が開かない。鍵は掛かっていようが問題ではない。
爪で切り裂こうにも効果は無く、まるで力そのものが吸収の後、飛散してしまっているようだ。
亜緒が張った結界は人なら出入り可能の、鬼だけを閉じ込める檻である。
「その結界は貴女では破れないわよ」
背後から薄暗い声がした。
振り返る石榴は信じられないものを見て、腰が砕けたようにその場に座り込んでしまう。
「や、闇子さん……」
石榴が震える唇で名を呼ぶと、異形は狂気が宿った瞳を大きく歪ませた。
「御機嫌よう」
闇を引き連れて闇に彷徨う単眼の都市伝説。『闇子さん』。
彼女の瞳を二回見た者は永遠に闇の中に捕らわれるという。
その噂は当然、石榴も知っている。
「貴女は蘭丸を傷つけてしまった……」
闇子の声には珍しく倦怠の中に憂鬱が含まれていた。そして高揚に音が取って代わる。
「彼を傷つけて良いのは私だけなのにね」
石榴には闇子が何を言っているのか分からないが、そんなことは現在の状況に比べたら些細なことだ。
闇子が石榴の頭の上にそっと華奢な手を置く。
戦慄の中で石榴は自分の運命を覚悟した。本能が逃げられないことを強く告げている。
まるで足場の狭い崖の上から底の無い闇を覗き込んでいるような、救いようも無い絶望感。
都市伝説というものは人が創り、人を縛る。消えることの無い呪いのようなものだ。
今日も何処かで誰かが彼女の話を口に乗せるだけで、闇子の存在は保証される。
消しても消しても、決して消えない影。
それが闇子という人格らしきものを持った存在意義だ。
石榴は声も消え去る永遠の静寂と暗闇の中へと堕ちていった。
ボロボロになった血だらけの女袴。割れた眼鏡のレンズ。
三つ編みの片方が解けた乱れ髪を引き
その姿はおぞましくも痛々しい。
「霞 月彦……人間が聞いて呆れる」
息も絶え絶えに鬼がほざく。
不死の体で妖刀を振るうなど、どちらがバケモノか分かったものではない。
妖刀と
斬り付けられさえしなければ、青い髪の人間が使った体術にも引けを取らない自信はあった。
今更考えたところで無意味な仮定の話でしかないが。
――さて、何らかの原因によって受信機が壊れたとします。心が何も感じ取ることが出来なくなった状態です。
「人を殺しても平気でいられるほうが、それはもうバケモノよ」
誄の声だった。相変わらず、か細くて弱い。
「まだ消えていなかったのか……」
鬼の存在が揺らぎ始めたことで、誄の意識が切れ切れに浮かんできたのだ。
「私たちはもう終わりだわ」
「冗談ではない。まだ我には生き延びる手立てがある」
誄の体を捨てて別の
新しい体の中で休めば、もしかしたら回復できるかもしれない。
もちろん状況は変わらないかもしれないが、何もしないで消えてゆくなら試してみる価値は充分にある。
そのための眷属、北枕 石榴であった。
だが、既に誄の代わりは永遠の闇の中に居ることを鬼は知らない。
「あはは。私、もうボロボロだね。こんなんじゃあ、もう蘭丸さんは私を見てくれないよね」
「誄?」
様子がおかしい。
バルコニーまで来て、鬼はやっと違和感に気づいた。体が己の意思に反して動いていることに。
――それでも発信機のほうは生きています。思考して肉体に命令は出来る状態です。
「雨先生が教えてくれた。心が死んでも思考は生きているって」
「何を言っている? 何をする気だ!」
誄の心(受信機)は壊れても、思考(発信機)は辛うじて生きていた。
誄は最後に残された時間を使って自らの体を動かしている。
バルコニーへの扉を開けると、風がもう一方の三つ編みを解いた。誄の髪が儚げにゆるゆると流れる。
「ここから飛び降りても死ぬことは出来ぬぞ! オマエの体は人のそれとは違うのだから」
「そう。私はバケモノだから、殺してもらうの」
なけなしの力を振り絞って手摺りをよじ登ると、下には墨色の着流しを着た剣客の後姿があった。
薄暗い世界の中心のように佇む青年は、さながら黒い沈黙だ。
「妖……殺し……」
天敵を前にして鬼は誄の中で震えていた。ただ、ただ、震えて縮こまっていた。
偶然ではない。蘭丸は鬼が出てくる場所を亜緒に教えられて知っていたのだ。
逆に誄がバルコニーまで来たのは偶然だった。何となく、此処へ来れば会える気がした。
「蘭丸さん、私……」
続く言葉を飲み込んで、誄はバルコニーから身を投げた。
同時に蘭丸の白く細長い指が『電光石火』の柄に掛かると、誄は何処か遠くで雷鳴の音を聞いた気がした。
それは誄にとって、祝福の鐘の音と同義だったかもしれない。
電光一閃。彼女の体は地に衝突する前に霧散して無くなった。
蘭丸は少しだけ目を閉じた後に刀から指を離すと、振り向くこともせずにゆっくりと場を立ち去ってゆく。
目的は済んだ。最早この学院に蘭丸の居場所は何処にも無くなったのだ。
「これでやっと
帰り道で亜緒は安堵の息をついた。
「残念ですわ。教卓に立つ兄様、なかなかサマになってましたのに」
ノコギリが亜緒の背におぶさりながら含み笑う。
『渦潮』を使った体力が回復せず、まだマトモに歩くことが出来ないのだ。
闇子と月彦は、事が済むなり何処かへ消えてしまった。
二人とも用件の無くなった場所にいつまでも留まるタチではない。
それは亜緒や蘭丸も同じだ。
『左団扇』という彼らの居場所へ帰る頃合いだった。
――果たして鬼は誰だったのか。
自身の弱さに負けて契約した誄か。
イジメを行った一部の生徒か。
見て見ぬふりをした周囲か。
知っていて何もしなかった担任か。
或いはその全員か。
「人間なんて弱くて当たり前なんだ。だからこそ、弱さを克服することに価値が出るのさ」
ノコギリは救われる思いで亜緒の背に顔を埋めた。
「オマエが言うと説得力が無い気もするが……」
蘭丸がいつものように相方へ呆れたような言葉を返す。
何処からか吹いてきた風に夏の気配を感じて、蘭丸は一度だけ来た道を振り返った。
鬼は誰の心にも、自分の心の中にも棲んでいることを自覚しながら。
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