第19話「闇とナイフ」

 放課後になって授業が終わっても、教師の仕事は終わらない。


 亜緒は早くも一日で自分の置かれた状況に重い不満を感じていた。


 柄にも無い授業。


 慣れない生徒たちの相手。


 話の合わない教師たちとのやり取り。


 その他、雑用などなど。


 しょうに合わないというか、煩わしいことだらけなのだ。


 何よりも自分が教師をやっていること事態に納得がいっていない。


 平たく言えば、嫌になったのである。


「雨先生……」


 深いため息をつこうとした矢先に、一人の生徒に呼び止められて亜緒の重い足取りが止まる。


 小山内 誄は校則通りにキッチリと決められた佇まいで慎ましやかに立っていた。


「ウチのクラスにイジメがあったことは御存知なんですよね」


 誄は亜緒の授業を思い出しながらうつむいた。


「イジメを率先して行っていたのは北枕さんなんです」


「北枕?」


 亜緒はノコギリと鵺以外の顔と名前を知らない。覚える気さえ無かった。


北枕きたまくら 石榴ざくろ。先生が授業で意見させた生徒です」


「ああ……」


 気が強そうな目つきをした美少女の姿が頭の中を通り過ぎた。


 誄は所構わずといったふうに石榴の非難を続ける。


 それにしても、大胆な発言をする生徒だと思った。


 こういったデリケートな話は普通、場所を選んでするものだ。


 生徒たちが行き交う放課後の廊下の真ん中で、人の目と耳を意識しながら話すものだろうか?


「えーっと、君の名前は……」


「小山内 誄と云います」


 少女は少しだけ笑ったようだった。


 亜緒が生徒の名前をまるで覚えていないことが可笑しかったのかもしれない。


「薬師寺さんの次は私がイジメのターゲットだったんですけど、今のクラスは至って平和ですから心配しないでください」


 誄は平凡という個性に笑顔を浮かべて亜緒を見つめた。


「わざわざありがとう。別に心配なんてしていないから、君も気を遣ってくれなくていいよ」


 亜緒も笑顔を作って少女に応える。


「……それから先生――」


「雨先生!」


 他愛ないと思える会話に、鋭い声の横槍が刺さった。


 オカッパ頭と涼やかな目元。そして印象的な水色の大きな瞳。


 ノコギリが廊下で亜緒を呼び止めたのだ。


「やぁ、雨下石……桜子さんだっけ?」


 誄からすれば、臨時の担任が彼女の名前だけフルネームで呼んだことが意外に思えたかもしれない。


 生徒の中でも個性のある外見だから名前も覚えやすかったのか?


 それとも、単にクラス委員の名前くらいは覚えたのだろうか?


 二人が兄妹であることを知る者は、この学院には蘭丸と鵺しかいない。


「質問があるので、ちょっと来てください!」


 半ば強引に腕を引かれながら、亜緒は足取りも力強いノコギリに連れて行かれてしまった。


 誄は何かを考えるような仕草をすると、亜緒とは反対方向へと廊下を蹴った。




 ノコギリが亜緒を連れて来たのは、例のバルコニーだった。


「ここは立ち入り禁止だよ」


「ちゃんと人払いの札を張ってありますわ」


 抜かりは無い。といった言い草だ。


「それで先生に何を聞きたいのかな?」


 亜緒はインテリ風を意識した仕草と声で伊達眼鏡に触れると、唇の端をワザとらしく吊り上げて見せた。


 どうやらコレが亜緒のイメージする教師というものらしい。


「何が先生ですか。教職免許も持っていないくせに」


「それは親父に言ってくれよ。何も好きで教鞭をっているわけじゃない」


 群青ぐんじょうの言いつけだから仕方なく教師の真似事をしているのであって、本意ではないと言いたいのだ。


「わざわざそんなことを言いたかったのかい?」


「もう少しちゃんとしてくださいと言いたいのですわ」


「僕はいつだって、ちゃんとしているじゃないか」


 亜緒は気だるい調子で伸びをした。


「だったら欠伸とかお腹の虫を鳴らすなんてしないで、もっと背筋を伸ばして普段から真面目な態度でいてくださいませ」


 そうすれば兄はもっと格好良く見える。見えるはずなのだ。


 そういう昔の記憶にあるような兄の姿でいて欲しい。と、ノコギリはせつに思うのだった。


「僕とノン子が兄妹だなんて誰も思わないさ」


「そういう問題ではありませんわよ……それと――」


 ノコギリは亜緒に背を向けてから、バルコニーの手摺りの飾りに目線を落とす。


「明日は兄様が私のお弁当を用意してくださいませ」


「面倒だからヤダよ」


「面倒でもやるのです」


 二人の時間に暫しの間が開く。


「……闇が深くならないうちに帰れよ」


 持っていたクラス日誌でノコギリの頭を小突くと、それから亜緒は弁当の件を約束した。


 結局、妹に甘い兄なのだ。





 鵺は誰も居ない教室で独り、黒板に向かってチョークで絵を描いていた。


 帰り支度はとうに済んでいる。


 亜緒の仕事が終わるのを待っているのだ。どうせ帰り道は一緒なのだから。


 まだ陽は沈んでいないが、窓の外にはもう夜が降り始めている。


 夕暮れという表現にはまったくそぐわない、この世界の黄昏だ。


 蛍光灯の眩しさに、鵺は思わず掌で目元に影を置く。


 今日、彼女は初めて蛍光灯の明るさを体験した。


 不可思議な光の白。何もかもを晒け出すデリカシーも情緒も無い白だと思った。


「綺麗な髪ね……」


 いつの間にか北枕 石榴が背後から鵺の髪に触れていた。


「貴女、人ではないでしょう?」


 今度は耳元から抑揚の無い声が囁く。


「オマエからも人とは別の匂いがするぞ」


「それなら私たち、気が合うかも……」


 石榴の指が不吉な無音を伴って、鵺の白い喉に伸びる。


「何をやっているの!」


 突然教室に入ってきたのは小山内 誄だった。


 特徴の無い声は、静かな室内にすぐに溶けて消えた。


「もうすぐ下校時刻ですよ」


 丸眼鏡の奥の瞳が無機質に石榴を見据えている。


「大きな声なんか出して大袈裟ね。転入生と親睦を深めようとしていただけよ」


 それだけ言うと、石榴は無関心な足取りで教室を出て行った。


「大丈夫?」


「何がだ?」


「あの人、気に入らない人には強く当たるから。自分がクラスの中心でないと我慢できない性分しょうぶんなのね」


 誄が黒板に描かれた絵に気づいて首を捻った。


「これは何を描いたものですか?」


 鵺の指先に付いたチョークの粉を見て、誄が尋ねる。


「鬼だ」


「鬼?」


 誄が聞き返したのも無理はない。


 黒板に描かれたモノは姿形が有って無いような、ワケが分からないモノだったのだ。


 大きな口と牙、それとツノが鬼らしいと云えば、らしいかもしれない。


「こやつは隠れるのが上手い鬼でな。厄介なヤツなのだ」


 なかなか黒板から視線を外さない誄に向かって、鵺が注釈を加えた。


「そう……なのですか。この絵は帰る前にキチンと消しておいてくださいね」


 誄は震える声で教室を出た。





 下校時間が近づく廊下をノコギリは急ぐ。


 乱暴な歩き方には、焦る気持ちが現れていたかもしれない。


 職員室で運悪く化学教師に捕まってしまい、実験の後片付けを手伝わされるハメになったのだ。


 おかげでこんな時間になってしまった。もう外は暗く、人の領域が狭くなり始めている。


 まったく、学級委員というものは面倒ごとを押し付けられる損な役割だと思う。


 ――そうだわ。兄様に送ってもらおう。


 ノコギリは心の中で手を叩いた。


 こんな時間になってしまったのだから仕方がない。


 ノコギリは亜緒の響きを探るために意識を集中させる。まだ校内の何処かに居るはずだ。


 彼女の響きを感じ取る力は弱いが、校舎内くらいなら何とかなる範囲だ。


 刹那せつな、ノコギリの目の前が真っ暗になった。


 言葉の綾ではない。本当にノコギリの周囲に暗闇が覆い被さって、何も見えなくなったのだ。


 特別な現象が起こったわけではなく、誰かが電灯を消したらしい。


 それでも人為的というところに、ノコギリは警戒を感じた。


 そして闇の中を這うように迫って来る殺気。


 ノコギリは目を凝らす。水色の瞳が闇の中で光る。


 この世界の人間は夜目が利くが、慧眼けいがんは闇夜を切り裂くように視覚が働く。


 どんな暗闇でも、雨下石家の人間を縛ることは出来ない。


 ワケの分からないモノが彼女の目の前で蠢いている。


 大きな口と牙、それとツノのようなものを確認してノコギリは構えた。


 ――あやかし……ですわね。


 ノコギリの両手が虚空に滑ると、殺意を乗せた数本のナイフが妖に向かって飛んでいく――が、その容赦無きやいばは虚しく妖を突き抜けて廊下に突き刺さった。


 手応えが無い。


 カチカチと妖の牙が噛み合う音が、まるで嗤っているかのようにチカチカとノコギリの耳へ届いた。


「なるほど……」


 ノコギリも薄い笑みを浮かべる。


 実態がハッキリとしない相手と戦うのは初めてでは無い。


 彼女も雨下石家の人間なのだ。


 ノコギリは襲い来る牙をかわしながら、両手の内にナイフを持って広げた。


 しなやかに体を一回転させながらナイフを投じた後、すぐに二本目が放たれる。


 一本目と二本目のナイフが妖の存在領域で交差して火花が散る。


 三本目、四本目、続いて五本、六本と終わることなく投じられるナイフは火花を生み続け、火花はやがて放電現象を発生させた。


 その影響なのか、消えていた天井の蛍光灯が出鱈目でたらめに点滅を始める。


 放電の中心にいる妖は大きな口を数回くねらせて抗った後、やがて動きを止めた。


「雨下石流操刃そうば術の四、五月雨さみだれ……ですわ」


 得意気に言ってから口元を着物の袖で隠す。


 間髪入れずにノコギリの細く長い腕がしなると、高速で放たれた十本近いナイフが妖のツノに傷を付けた。


「雨下石流操刃術の七、白雨しらさめ!」


 もちろん只のナイフではない。妖を退けるための銀を練り込んで鍛えた刃である。


 妖が苦悶とも怒りともつかない叫びを上げた。


 それが威嚇であったとしても、ノコギリに効果は無い。


 そんなものは彼女にとって、鎖に繋がれた犬に吼えられたようなものだ。


「次の刃でトドメですわよ」


 ノコギリがナイフを広げ持った両腕を交差させて構える。


 このとき、突然頭上の蛍光灯が鈍い音と共に破裂した。


 ノコギリがほんの一瞬だけ気を散らせた隙を突いて、妖は何処かへと姿を消してしまった。


 五月雨の結界に綻びが生じたのだ。


 本来なら、あと四、五本投げて放電を完成させる技なのである。


 けれどノコギリの技量では、ここまでが精一杯であった。


「修行不足……ですわね」


 不本意そうに独りちながら、ノコギリはオカッパ頭の一部、青く変色した部分を撫でた。


 妖を倒して亜緒に褒めてもらおうと思っていたのに、逃げられてしまったのが悔しい。


 ノコギリの不満は小さなため息に変わって闇に零れ落ちた。

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