最期の願い
阿井上夫
前編
病室の消毒薬臭い空気を掻き混ぜるように、春風が吹き抜ける。
カサブランカの大きな白い花弁が微かに揺れ、芳香がたなびく。
遠くに聞こえる鳥の声は鶯。来るべき最良の季節を寿ぐ天上の祭歌。
彼は清潔なベッドの上でぼんやりと考えた。
――この季節に逝けるとは、何という幸運であろう。
その病院の個室には、何も妨げる物音や夾雑物がない。
外から風に乗って声が聞こえてくる。親に急かされながらやって来る見舞客の、その場にそぐわない弾んだ子供の声。一緒に出かけるのが嬉しくて仕方がないのだろう。帰りに何か買ってもらえることになっているのかもしれない。
彼は微笑む。
病室のドアが気遣うように静かに開いた。
続いて、痩身で小柄な七十代ぐらいの女性が、手に大きな花束を抱えて入ってくる。長く伸ばした白髪を几帳面にポニーテールにまとめている。
顔全体で笑うことが多かったのであろう、人生の痕跡を顔中に美しく刻み込んだ女性である。
――美しい。
彼は思った。花束だけでなく、女性の佇まいもそうだ。
「あら、起きていらしたのですか」
「あ、うん」
「いいお天気ですね」
「そうだね」
断片的な会話が落ち着く。齢を重ね数を必要としなくなった関係、ということだろう。
「寝ている間に酒井さんがいらっしゃって、花束を置いていかれました。どうです、立派じゃありませんか」
白を中心に、部分的に黄色やオレンジの花を配した花束に、女性は目を細めた。
「花瓶に生けようと思うのだけれど、これでは入りきれませんねえ」
カサブランカの周りに丁寧に差し込みながらそう呟く姿を、彼は眺める。
そして、そこでやっと彼女のことを思い出した。
――そうだ、私の妻だ。
「どうしたんですか。さっきから何も言わずに見つめてばかりで。なんだか恥ずかしいですわ」
そう言って顔を赤らめる。品の良い恥じらいが心地良い。
廊下の方で何人かの人間がやってきた気配がした。先程よりも元気に扉が開かれると、小学校高学年らしき少年が勢い良く入ってくる。
「お爺ちゃん、こんにちわ、元気だった」
その後ろから入ってきたわずかに白髪が混じり始めた、四十代半ばのふくよかな女性が優しくたしなめた。
「静かになさい。それからお病気の方に対して元気だったはありませんよ」
「はあい」
少年は注意されて一応しおらしく反省した後、やはり元気な表情に戻って彼の方を向いた。
「昨日ね、サッカーの大会があってね、僕たちのチームがね、優勝したんだよ」
道すがら、話したいことを考え続けていた、ということだろう。
張りつめた風船が割れるように、勢い良く話し出すその姿がなんとも微笑ましい。
「そうなんですよ。克彦もゴールを二つ決めて大活躍でした」
幼稚園児くらいの女の子を促しながら、長身で肩幅の広い四十代後半の男性が入ってくる。
「お加減はいかがですか」
気遣いに満ちた声と視線。彼は、そう、娘が嫁いだ大企業のサラリーマンだ。
確かこの若さで部長に抜擢されて、執行役員の確かな道筋の上に載っていると聞いている。
「ほら、佳代もご挨拶なさい」
佳代と呼ばれた少女は、なにやら渋々という風情で手に持っていた封書を差し出した。受け取って中を開けてみると、
「おじいちゃんおげんきで」
という文字が大きく、上手とは言えないが丁寧に書かれており、その下に皺だらけの笑った人物が描かれている。
――私、ということらしい。
「有り難う」
「どういたしまして」
彼が礼を言うと、少女はなんだかそこだけ大人びた返事をした。
病室の雰囲気に気圧されているのでぎこちないが、本当はお爺ちゃんが大好きで仕方のない、礼儀正しくて大人しい女の子ということか。
彼は手元の絵に再び目を戻す。
長女夫婦とその子どもたち。そして、その敬愛を一身に集める自分。
なかなかに心地良い。
「さあ、みんな。ぼおっと立っているのもなんですから、めいめい椅子を出してお座りなさいな」
妻が厳かに命じた。
全員が落ち着くと、妻と長女は果物の皮を向いたり、見舞いの品と思われる菓子のたぐいを子供に与えたりと、こまめに手を動かし始める。そのような甲斐甲斐しさというのは見ていて気持ちがよい。
ぽろぽろと菓子を溢す子供を叱りつつも、愛情に満ちた親の声というのも安らぐ。
そんな物静かな風景の中に、今度は春一番が舞い込んでくる。
廊下の向こう側からパタパタと落ち着きのない足音が、次第に大きくなってきたかと思うと、病室のドアが勢い良く開かれ、
「おじいちゃん――」
と半ば叫びながら、今度は三十代後半のまだ落ち着くところまでは至らない、その代わり活力に満ちた女性が現れて、彼に抱きついてきた。
「お父さん、大丈夫?」
途中で呼び方が代わってしまっていることにも気が付かないほど、動転している。
顔中に汗を浮かべ、瞳には涙まで浮かべていた。
(心配で心配で、本当に心配で駆けつけてきたということだろう)
その後から、やはり三十代後半の横幅の広い、それゆえ包容力を感じさせる男性が入ってきて、右腕で女性の右肩を穏やかに引き上げる。
「正枝、お爺ちゃんのお体に触るじゃないか。落ち着きなさい」
「あ、ああ、そうね。取り乱しちゃってごめんなさい」
男性の控えめな力に従うように、女性は体を起こしてゆく。
そう、この二人は次女夫婦。次女はなかなか親離れできなくて、旦那さんは苦笑しつつも好きなようにさせている。オーナーシェフとして切り盛りしている店は順調だそうだ。
「こいつ、来る途中泣き続けていたんですよ」
「あっ、そんなことバラさなくてもいいじゃない」
言われなくても目を赤らめた様子で明らかだったが、今度は周囲が苦笑するほどの可愛い小競り合いを始める二人。
「貴方だって、靴下バラバラじゃないの」
「これはファッション」
「黒と茶じゃ、ファッションとは言いません」
「イタリアではこれが最新」
「それならば緑と赤でしょう」
「それはフランス」
他愛もない会話が小気味良く続く。
「まあまあ、貴方達も椅子を出してお座りなさいな」
ここで大御所の妻がやはり命じて、二人は大人しく腰を下ろした。
これで役者が全員揃ったことになる。
彼は思いやりに満ちた目で私を見つめる彼らを、順番に見つめてゆく。
妻はもう達観しているらしい。全てを受け入れた静かな目をしていた。
その隣の次女はまだまだ納得していないらしい。瞳に灯るのは、最後の瞬間までを残さず心に焼き付けようとする強い光だ。
その隣の夫は知恵者の象のような、すべてを受け入れる目をしていた。この男ならばやんちゃな娘を最後まで支えてくれるだろう。
長女の夫は礼儀正しい思慮深さだ。ただ少しだけ憂いを帯びているのは、芯は強いが脆いところもある長女を気遣ってのことだろう。
長女の娘の方は大きな瞳を見開いていた。まだ人の死というものを直接感じたことがない、それゆえ若干の恐れを含んだ瞳である。
長女の息子の方は好奇心に輝いていた。彼の目は未来を見ているに違いない。悪いことは起こりそうにもない輝かしい未来だ。
長女は――ちょっと複雑な目をしていた。そういえば、最近、彼女は身近な者の死を実際に看取ったという。そのことを思い出しているのだろう。
全員が彼のほうを真摯に、それぞれのやりかたで見つめていた。
最終の幕が降りる時間だ。
妻は静かに尋ねた。
「貴方、最期に何かやりたいことはありませんか」
「いや――もう何もない。良い人生だった。有り難う」
彼は長い息を吐くと、そのまま死の柔らかな布地がその身に降りかかるのを受け入れた。
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