第三章

裸の王様

 暁学園の一年生、灰島義和は自分をエリートだと思っていた。


 自惚れているつもりはない。

 それは、正しい自覚だと信じていた。

 父は民自党の有力議員。

 祖父と曾祖父に至っては、大臣まで務めたことのある閣僚経験者で、由緒ある一族の後継ぎだった。

 兄弟はなく、義和は灰島家を継いで政治の世界に飛び込むことを、幼いころより周囲から嘱望されていた。


 彼はその期待に応え、勉学に励んだ。

 小学校時代は神童と呼ばれ、中学はトップクラスの進学校に特待生で入学した。

 勉強だけでなく、彼は運動にも努力を怠らなかった。

 体を鍛えるため高名な道場で柔道を習い、中学時代には全国大会で優勝を飾った。

 まさに文武両道。

 家に関係する大人たちだけでなく、学校の友人たちからも尊敬の念を集めていた。


 集めていると、信じていた。


 中学校に入学したとき、彼は一人の同級生の少女に恋心を抱いた。

 少女の名前は芹香・シュバルツェンベック。

 ダークブロンドの髪を持つ、ドイツ人と日本人のハーフの美少女だった。


 容姿端麗な彼女は、人形のように美しく、ころころと変わる表情は愛らしく、中学生とは思えないグラマーなスタイルを持っていて、入学当初より同級生たちの、特に男子たちの注目の的だった。


 義和は、彼女をチヤホヤする友人達の輪に入ることはしなかった。

 芹香ににこやかな笑顔を向けられてはいるが、「その他大勢」にまとめて括られているだろう彼らと同類に見られることなど、プライドが許さなかった。

 自分はエリートだ。その時がくれば、必ず彼女の方から自分に近づいてくる。

 そう信じていた。


 時が過ぎ、義和は芹香が一部の女子たちから嫌がらせを受けている事を知る。

 芹香は自分の見た目に驕ることなく、快活で朗らかな性格だった。

 しかし、どんなに本人に咎がなくとも、「男子から人気がある」という一点だけで彼女を疎ましく感じる人間はいるものだ。


 自分の出番がとうとう来た。

 義和はそう思った。

 生徒会長を務めていた彼は、学内のいじめを見過ごす事などできない。

 そういう大義名分を得たのだ。


 彼は、教室で芹香が幼稚で姑息で陰湿な嫌がらせを受けたとき、ドラマの主人公よろしく声を上げた。


「君たち、やめたまえ」


 正義を行う自分に酔いしれながら。

 美しい彼女から感謝と尊敬の念が贈られると信じて疑わなかった。


 男子から極端に好かれ、そのせいで疎まれているのに、その男子が正面切って庇うことは逆効果にしかならない。

 ヒーロー願望を満たしたいだけの義和は、それに気付く事はなかった。


 かくて、芹香への嫌がらせはエスカレートする。


 芹香を好いていた男子達も、過激さを増す女子のいじめに巻き込まれることを嫌がったのか、徐々に芹香から離れていった。


 そんな中、義和は芹香を庇い続けた。

 なるべく人前で。

 なるべく芹香にアピールできるように。


 そして嫌がらせがピークに及んだある日。

 誰が彼女の家庭環境を調べ上げたのか。

 生徒達が登校してくると、複数の人間の筆跡で、黒板にこう綴られていた。


「金髪のドイツ女は娼婦の娘」

「売女の子供は売女」


 親が娼婦というレッテルは、精神的に未熟な中学生に強烈な影響力を持っていた。

 芹香は学校で孤独になった。

 義和はそれを自分の行動の結果とは欠片も考えず、可哀想な彼女を救う事ができるのは、もう自分しかいないと考えた。


 そして、中学三年生となったある日。

 義和は芹香への告白を考える。

 彼女が頼る相手は自分しかいないだろうと、確信していた。


 すべてのクラブ活動の終わった、人のいない学校の裏手に芹香を呼び出す。


「僕は、君が娼婦の娘だろうと何も気にしない。そんなことは、僕と付き合えば吹き飛んで消えてしまうようなレッテルだ。君は、僕のことを…」


「ちょうどよかった灰島君、私も話があったの。もう私に構わないで。付きまとわないで。迷惑なの。私、あなたの自己満足の為の道具じゃない。もう、わざとらしく庇ったりしないで」


 義和は、芹香がいったい何を言っているのか、理解できなかった。

 自分が守ってやっていた人間が、自分を迷惑がるなどあってはならないことだ。


 告白を拒否し、踵を返して学校から出て行く芹香の後ろを、義和は黙ってつけた。

 駆け寄って芹香に真意を問い質したかったが、男のプライドとせめぎ合い、結局なんの行動もできないまま、ただただ彼女の後をつけた。


 自分を尾行している義和に気がついた芹香は、その日は自宅に母がいなく、一人になってしまうこと恐れ、帰り先を変える。


 携帯で誰かと話した後、電車に乗って明らかに家に帰るわけではなさそうな芹香。

 義和はその彼女を無言で追い続けた。


 やがて芹香は、ある住宅街にあるマンションの前に着く。

 高級そうなマンションの一階で集合インターホンを押す前に、中から細身長身の学生らしき男が出てきた。

 男は芹香に声を掛ける。


「大丈夫か?」

「ごめん、お兄ちゃん」


 離れていた義和に会話の内容は聞き取れなかったが、二人の距離感を象徴するように男の腕を掴んでいる芹香を見て、義和は脳の血液がすべて沸騰するような感覚に襲われた。


「ふざけるな!」


 人目も憚らず大声で叫ぶと、二人に向かって突進していく。


「この俺を拒んでおいて!こんな男と何を…」


 芹香に向かって叫び続けながら、直也の胸倉を掴もうと手を伸ばす。

 伸ばしたが、その手は直也の体に届くことはなかった。

 直也は義和の手が届くより僅かに早く、まるで暖簾でも押すかのような軽さで手を伸ばし、突進してきた義和の肩を平手で押した。

 たったそれだけのことで、義和はバランスを大きく崩し、不様にコンクリートの地面に両手をついて倒れこんでしまう。


「……!」


 自身が柔道の有段者で、大会優勝の経験もある猛者であるだけに。

 義和は頭に血が上っているとはいえ、こうも簡単に重心を崩され、地面に倒されたことが信じられなかった。


「なんだ君は」


 這いつくばる義和を見下ろしながら、直也は冷たい声で誰何する。


「きっ、キサマこそなんだ! 芹香とどういう関係……!」


 惨めな格好をさらされた屈辱感に憤った義和は、直也を投げ飛ばしてやろうと、立ち上がる勢いそのままに再び直也の胸倉に手を伸ばす。

 鋭く突き出された義和の腕は、しかしあっさりと直也に片手で掴まれ、動きを止められる。


「この…!」


 だが、義和も柔道の熟練者だった。

 掴まれた腕を即座に引き寄せて、直也の体勢を崩そうとする。


 崩そうとしたが、片手で掴まれた腕はピクリとも動かなかった。


「なっ…」


 義和は巨漢とまではいえなかったが、中高生の中ではかなり大柄で、筋肉の塊であるその体は七十キロを超える。

 その義和が体重をかけて全力で引いた腕が、一ミリたりとも動かなかったのだ。


「ぐあっ…!」


 万力で挟まれたように、掴まれた腕が絞られる。

 恐ろしい程の握力だった。

 細身の体のどこにこんな力があるのか、義和には信じられなかった。


「二度と芹香に近づくな。でないと……殺すよ」


 直也は表情一つ変えずに、ミシリ、と骨が砕けそうな力で義和の腕を掴みながら、囁いた。

 それは悪魔のような脅しだった。義和は背骨の中の空洞に氷水を流し込まれたかのような感覚に襲われる。


 本気だ。

 こいつの目は、本気で俺を殺せる目だ。


 義和は痛みと恐怖に耐えきれず、、必死で首を縦に振る。


「…わかったっ…わかったから…!」


 直也は手を離した。

 腰から力が抜け、へたり込む。


「失せろ」


 短く、反論を許さない絶対的な命令を直也は下す。


 勝てない。

 こいつとケンカするくらいなら、ライオン相手に素手で挑む方がまだマシだ。


 義和は尻を引きずりながら直也から遠ざかると、四つん這いで更に距離を取ってから立ち上がり、振り返らずに逃げ出した。


 惨めだった。

 エリートのはずの自分が、どこの馬の骨か分からない男を相手に、ケンカにもならずに逃げることしかできなかった。

 そして、その姿を芹香に見られた。

 ほうほうの体で自宅に戻り、恐怖感が和らいでくると、どうしようもない屈辱感と怒りが湧き上がってきた。


 許せない。

 未来の日本を指導する立場の自分が、娼婦の娘とその男にこんな屈辱を与えられるなど、絶対に間違っている。


 義和は父親の部下に依頼して、芹香が頼った男の身元を調査させた。

 腕力では勝てそうになかったが、それならば社会的に抹殺してやる。

 あの男を屈伏させれば、きっと芹香も自分を頼るようになるに違いない。

 そう信じた。


 ある日、調査を依頼した父親の部下でなく、父親が直也に言った。


「お前の彼女に手を出したという、男のことだがな」

「パパがわざわざ調べてくれたの! ごめんなさい。いや、芹香の奴が迷惑そうにしててさ……僕一人の力でもなんとかなったんだけど」

「その男の正体は、分からなかった」

「え?」

「分からなかったが、近づくな」

「え? え?」

「いいか、絶対にその男には近づくなよ。これは命令だ」

「う、うん……わかったよ、パパ……」


 父親の命令には、逆らうことなど出来ない。


「それと、お前の彼女の芹香という子と、その男の関係だがな」

「うん。……え、なに? なにか分かったの?」

「……いや、いい。お前と芹香さんは、付き合っているのだな?」

「うん。もちろんだよ」


 エリートの自分が、女に振られたなど言えるはずもない。

 幼稚な嘘を、義和は吐いていた。


「そうか。これからも仲良くするといい」


 政界では強引な手法で鳴らしている父親らしくない、奥歯にものの挟まったような言い方をしてから、もうこの件に関しては父は何も言わなかった。


 こうして、義和は残る中学時代を芹香と距離を取って過ごさざるをえなくなった。

 彼女の背後に、あの悪魔のような男がいると思うと、手を出す気になれなかった。

 しかし、このまま引き下がる気にもなれない。

 それでは、敗北を認めてしまう事になる。

 灰島家の四代目として、あんな一般人に負ける訳にはいかなかった。

 だが腕力では勝てない。

 政治的な手段も理由は分からないが、通じない。

 どうすればいい。


 義和は、時間をかける事にした。

 あの男が何者か分からないが、芹香と永遠に付き合うわけではないだろう。

 あの二人が別れた時に、再びチャンスが回ってくるはずだ。

 鳴かぬなら鳴くまで待とう、だ。


 そうして義和は、芹香が志望した高校と同じ高校を受験する。

 幸いにも彼女の志望校は私立暁学園で、一流大学への進学率も高い、昔の大物政治家が設立した進学校だ。

 エリートである自分の進学校としても、ふさわしい高校だった。


 しかし、入学を決めたその日。

 義和は父親から衝撃の事実を聞く。


「なんということだ」

「なにが? パパ」

「いいか。お前が通うその学校の三年生に、前にお前が調べろと言った……九龍直也という男がいる」

「九龍……直也? 正体は分からなかったんじゃ……」

「そんなことはどうでもいい。いいか、絶対に逆らうな。近寄るな。彼が卒業するまでの一年間の辛抱だ」

「そんな……」


 なんということだ。

 あの女は、あの男とたった一年同じ学校にいる為に、わざわざ暁学園を選んだと言うのか。

 義和は「腸が煮えくり返る」という表現は、実に的確な表現なのだということを、身を以て理解する。


「それと……お前と同じ学年で、御堂という苗字の男も入学するだろう。彼にも絶対に逆らうな。目を付けられるなよ」

「なに……なんなの? あの学校」

「お前が選んだ学園は、そういう学園なのだ……ああ、何故よりによって暁学園なんだ……」


 自分の前で頭を抱える父親を、義和は初めて見た。

 しかし、それでも義和は暁学園に入学する決意は固かった。芹香を諦めるということは、自分のエリート人生に傷がつくことだった。


 そして、暁学園の入学式。


 幸いにも、芹香と同じクラスになったことに運命を感じた義和だったが、講堂に向かう途中で目のあった彼女が、無視して通り過ぎたことに改めて怒りを覚える。

 さらに、入学式の壇上に九龍直也が生徒会長として立ったときには、屈辱感と劣等感で頭がどうにかなりそうだった。


 どんな様子であの男の話を聞いているんだと、前の方に座っている筈の、ダークブロンドを探す。

 すると、芹香は後ろを向いていた。

 自分を探しているのか!

 義和はドキリとする。

 ……違った。芹香は後に座るとりわけ特徴のない、小柄なクラスメイトの男に話しかけていた。


 自分を無視しておいて、そんなチビには話しかけるのか。

 義和の怒りは最高潮に達していた。


 式が終わると、義和は早足で講堂を出る新入生たちの波を掻き分け、誰よりも早く教室に戻る。

 黒板の前に立ち、チョークを手に取る。


 芹香・シュバルツェンベックには、身の程を教えてやらなければならない。


 自分というエリートがいなければ、お前はどんな存在であるか。

 忘れずに憶えさせておかなければならない。


 義和は自分が行っていることの正しさを信じて疑わなかった。

 黒板にその言葉を書き殴ると、黒板消しを窓の外に投げ捨てる。

 手についたチョークの粉を落とした直後、クラスメイト達が教室に入ってきた。

 義和の黒板を眺めて「なんだこれは……誰がこんなことを……」という表情は、演劇部も裸足で逃げ出す芝居だった。


 武士の制服の袖を摘みながら教室に入ってきた芹香。

 黒板に気づくと、さっと顔色を青くする。

 武士の服を摘んでいた手が、ストンと落ちる。


 そうだ。それでいい。


 義和はその表情にようやく溜飲が下がる思いだった。

 自分が守ってやらないお前がどんな存在か、しっかりと確認するといい。

 ドス黒い満足感を得ていた義和は、芹香の隣に立っていた武士が、黙って黒板の文字を、制服の袖で拭き消し始めたのを目にする。


 そして、その武士の後ろ姿を見つめる芹香が、強張っていた表情が少しだけ緩めたことに気がついた。


 なんだあのチビは。

 なんだその顔は。

 かつて自分が庇ってやっていたとき、そんな表情をしたことがあったか。


 義和の満足感は煙のように消え去る。


「もう男掴まえたのかよ。さすがだな」


 思わず口をついて出てしまった、蔑みの言葉。

 その言葉に芹香は再び顔を強張らせ、武士は慌てて教壇の段差に足を踏み外し、無様に転ぶ。

 武士が失笑を買っている姿に下卑た快感を覚えていると


 ガァンッ!


「ウゼーな。どこの中坊だ? オメエら」


 入学初日に早くも制服を着崩した男が、乱暴に机を蹴り飛ばして雰囲気をガラリと変えてしまった。

 そして、遅れてやってきた教師の言葉を聞き、義和は愕然とする。


「……ん? お前もしかして、御堂か」

「もしかしなくても、御堂です」


 粗暴なあの男が、父親が言っていた男だった。

 逆らっていはいけない、目を付けられてもいけない。

 もう一人の男、「御堂」だった。


 その後の自己紹介では、完全に立ち直っている様子だった芹香。

 ホームルーム終了後、廊下でいくら待っていても出てこない芹香にしびれを切らし教室を覗き込む。

 芹香は、武士とあの「御堂」ハジメと楽しそうに話していた。


 義和は、自分の足下がガラガラと音を立てて崩れて行く音が聞こえるようだった。


 なんだ。

 なんなんだ、あいつら。

 みんな芹香の仲間なのか。

 これでは、高校三年間、身動きが取れない。

 御堂ハジメに目を付けられては、父親に迷惑がかかるかもしれない。

 義和は拳を握りしめながら、教室を離れる。

 もう、どうしようもなかった。


 そして、現在。

 

 義和は芹香に対し何もできないまま、三ヶ月が過ぎようとしていた。

 中間考査も終わった六月の終り。

 武士とハジメは揃って一週間近く、学校を休んでいた。

 心配そうな様子の芹香に、一層の苛立ちを覚える義和。


 ある日の放課後。

 教室を出てから、玄関や弓道部の部室とは反対方向へ向かう芹香を見て、義和は後をつけた。

 中学を卒業し、高校に入ってからまだ一度も芹香と会話していない義和は、ハジメが学校を休んでいる今をチャンスだと考えたのだ。


 芹香が向かった先は、生徒会室。

 一年前のことを思い出し、背筋を凍らせる義和。

 九龍直也が所属している剣道部の練習場は、一週間ほど前に原因不明の床板破損があり、同じ建物に練習場がある柔道部とともに、部活動は休止中だった。

 柔道部員である義和はそれを知っているため、九龍直也が今は生徒会室にいるのではと考えた。


 芹香が直也に会いに来たことに対する怒りと、その直也に対する恐怖で体を強張らせる義和。

 生徒会室には近づかず、離れた場所に隠れて芹香を待っていた。


 やがて戻って来た芹香が浮かない顔で一人だったことに、義和は胸を撫で下ろす。

 そして、念のため生徒会室から充分に離れてから、ついに芹香に声を掛けた。


「よう、芹香」


 極力自然に、肩に手を置いて芹香を呼び止める。


「ひっ……!」


 当然、芹香に取ってはその接触は不自然極まりない。

 彼女は、ホラー映画のヒロインがゾンビに肩を掴まれたような反応を示した。

 義和から離れ、持っていたカバンを抱きかかえながら身を守るように体を丸める。


「なんだよ……最近つれないじゃないか、芹香」


 その反応に傷つくのは後回しにして、平穏を装い続けながら、義和は話し続けた。


「九龍先輩、いなかったのか? 残念だったな。挨拶したかったのに」


 義和の虚勢に芹香は何も答えず、じりじりと後ずさる。


「なあ芹香。お前、御堂とか、アイツの金魚のフン……田中っつったか。あいつとはどういう関係なんだ。もともとの知り合いなのか?」


 そこはきちんと確認しておきたかった。

 もし彼らと深い交友関係でないなら、「御堂」の影におびえる必要はないのだ。

 芹香は武士とよく話しているが、ハジメと直接話しているところは、そこまで頻繁に見かけない。

 ハジメと武士が気持ち悪いくらい親しいのはクラス周知の事実だったが、そもそも芹香とはただの知り合い程度なら、話は変わってくる。


 芹香はなにも答えない。

 なおも問い詰めようと義和は口を開きかけたが、


「あ、芹香ちゃーん。どしたの? 部室行こうよー」


 廊下の角を通りかかった、紺色の布袋に入った矢筒と弓を持った女子弓道部員に声を掛けられる。

 芹香は助かった、とでもいう風に


「わかった! 行こう!」


 安堵の表情を浮かべて振り返り、そのまま義和の元から走り去った。

 残された義和は歯を食いしばった表情で、立ち尽くしていた。


 帰宅後、義和は家にいるお手伝いの女性に声を掛けられる。


「あ、お坊ちゃん。お帰りなさい。お父様より、学校から戻られたら書斎に来るようにと、言づけを預かっております」


 まだ夕方の五時前だというのに、こんな時間から父親が家にいるのは珍しかった。

 何事だろうと、自室にカバンを置くと、着替えもそこそこに書斎へと向かう。

 父親の書斎の前まで来ると、ちょうど部屋から女性が出てくるのと鉢合わせした。

 ビジネススーツをかっちりと着た女性。

 年は二十代半ば、ショートカットのやり手美人キャリアウーマンといった様相だ。


 義和を見ると、女性は薄く笑った。

 義和は何故か、背筋に冷たいものが走るのを感じる。

 見るものすべてを蔑むような、氷のような笑顔。

 義和は直也に「殺すよ」と脅された時のことを思い出した。

 この女性は何も言っておらず、ただにこりと笑っただけなのに。


「こんにちは。義和さん?」

「は、はい……」

「頼もしい体をしてるのね。よろしくね」


 よく分からない台詞を残して、氷のような笑顔の女性は義和の横を通り過ぎ、歩き去っていった。

 なんとなくその背中を見送ると、義和は書斎の前に立ち、ドアをノックする。


「誰だ」

「義和です」

「入れ」


 ガチャリと古い趣のある木製のドアを開けると、豪奢な外国製のデスクの向こうに、父親が座っていた。


「早かったな」

「うん。柔道場が今、使えなくて。部活が休みだからね。パパこそこんな時間にどうしたの? 今週は衆院の予算委員会じゃ…」


 昨年秋の政界再編の折、主流派から転落した形になった父親は、今国会でなんとか鬼島政権の動きを止めようと、苦心している時期のはずだった。


「まあ、いろいろあってな。そこに座れ」


 父親は、デスクの前に置かれた応接セットのソファを指し示す。

 革張りのソファに、義和は身を沈ませる。

 父親も向いのソファに座り、煙草に火をつけた。


「どうだ、学校は」

「うん。順調だよ」

「彼女とは……芹香さんとはうまくいってるのか」


 予想外の名前が出てきて、義和はドキリとする。

 父親は政争の最中で、家族のプライベートに構っている余裕などないはずなのに。

 いったい何故このタイミングで、彼の口から芹香の名前が出てくるのだろう。


「う、うん……うまくいってるよ。今日も放課後、話をしてきたところさ」


 一方的に問い詰めることを「話をする」と言っていいなら、義和は嘘は言ってない。


「そうか。どうだ今度、家に連れて来ては」

「はぇっ?」


 予想外の言葉の連続に、義和は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


「なんだ? どうした」

「い、いえ……」

「お父さんも、しばらくお前の相手ができていなかったからな。お前がどんな女性と付き合っているかも、知らない」

「は、はあ……」


 義和は、顔から嫌な汗が噴き出るのを止めることができない。


「どうした?」

「い、いえ……なんでもありません」


 父親は、ふーっと煙を吐き出す。

 この時、もし義和が父親をよく観察する余裕があれば、その煙草を持った手がほんの微かに震えていることに気が付いただろう。


「さっそく、どうだ。明日にでも学校帰りに連れて来い」

「ちょ、ちょっと待ってよ、パパ」


 義和は顔から噴き出る汗をハンカチを取り出して拭う。


「か、彼女にも予定があるし……いきなり明日だなんて」

「明日だ。お前の彼女だろう? 彼氏の父親が会いたいと言っているんだ。連れて来い」


 義和の言葉を遮って、父親は命じる。


「パパ……?」


 そこでようやく、義和は自分の父親の様子がいつもと違うことに気が付いた。

 父親は、まだ半分も吸い終わっていなかった煙草を灰皿で乱暴に揉み消すと、また新たに一本取り出して火をつける。


「できないのか?」


 煙を吐き出しながら、義和を睨みつけた。


「できないわけじゃ、ないけど……」


 俯き、言葉を失う義和。

 その様子を見て察することができないほど、父親は普段から義和に無関心なわけではなかった。


「本当は、付き合っていないのか」


 俯きながら、義和はなにも答えることができない。

 父親は、煙草の煙とともに深いため息をついた。

 そして、何かを決意したかのように、鋭い視線を息子に向ける。


「お前はいくつになった」

「え、じゅ、十五……」

「十五歳といえば、私はもう親父の仕事の手伝いを始めていた。お前にも、私の仕事を手伝ってもらう」

「な、なに……?」


 嫌な予感に、義和はもう逃げ出したかった。


「今、私のいた民自党は分裂し、鬼島が主導する改革派が政権を握っていることは知っているな」

「……うん」

「なんとしても奴を引きずり下ろさなくてはならん。その為に、われわれ旧主流派は工作活動を行っている。だが、細かい説明は省くが、複数の手段で行っている工作のいずれも、決め手を欠く状況だ」

「うん」


 それが芹香を家に呼ぶ件とどう繋がるのか。義和にはまるでわからなかった。

 その義和の不審がる顔を見て、父親は言った。


「なんとしても、鬼島の弱みを握らなくてはならない。そこで私たちは、ひとつの情報を手に入れた。……芹香・シュバルツェンベッグは、鬼島の摘外子だ」


 摘外子という言葉が義和の耳から脳に届き、いわゆる隠し子だと理解するまで、少し時間がかかった。


「芹香が……?」

「ああ。実はもう一人、奴には子がいるが、そっちはいい。お前にどうこうできる相手ではない。それよりも娘の方だ。母親がドイツ人というのがいい。外国の人間を、政府中枢の人間が身内に隠していたということだからな」

「パパ、まさか……」


 義和の声が震える。


「立派なスキャンダルだ」

「芹香を、誘拐しようって言うの」

「人聞きの悪いことを言うな。お前の学校の友達に遊びに来てもらうだけだ。まあ、その時に彼女の方から相談を受けて、我々はマスコミを紹介するという、そういう段どりだな」

「そんなうまく……」

「うまくいくんだ。お前も、この世界に入るなら覚えておけ。身柄さえ手に入れてしまえば、一般人ひとりくらい、都合のいいように動かす方法はいくらでもある」


 義和は俯き、肩を震わせている。


「あんまり、使いたくない手段だがな」


 衝撃を受けている様子の義和に良心の呵責を覚えたのか、父親は言い訳めいたことを言い始める。


「このまま、手をこまねいて鬼島の暴走を許すわけにはいかんのだ。この国の為にも、灰島家の為にも。親父もじいさんも閣僚経験者なのに、私だけ入閣もできずに、このまま終わるわけにはいかないのだ」


 国を思う発言をした直後に、自らの権力欲を語る父親。

 それを聞いた義和は、ゆっくりと顔を上げた。


「パパ……」


 声が震えている。

 父親は、息子に酷なことをさせようとしているのかも知れないと思った。

 だが。


「素晴らしいよ!」


 義和は顔を紅潮させて立ち上がる。


「僕が芹香を手に入れることが、悪の総理大臣、鬼島を倒すことに繋がるんだね!」


 彼は、道を踏み外す大義名分を得てしまった。

 父親が言う『人を都合のいいように動かす方法』とはなんだろう。

 脅迫か、洗脳か。

 方法はなんでもいい。

 人道に外れるかもしれないが、仕方のないことだ。

 この国の為だ。

 素直に自分のものにならない、芹香が悪いんだ。

 素直に中学時代に自分の求愛に応えていれば、こんな手段は取らずに済んだのだ!


「パパまかせて。明日、必ず芹香を連れてくるよ。そのかわり、芹香には僕の言うことをなんでも聞くように、命令してね!」


 義和の目の色は、既に尋常ではなかった。

 父親は少しだけ後悔する。

 大切な息子を外道の世界に落としてしまう、きっかけを作ってしまったのかも知れないと。


 しかし、この計画は義和の協力なしでは実行することができない。

 誘拐まがいのことをするわけにいかず、あくまで彼女の意志で来てもらわなければならないのだ。

 父親は、まともな人間の道から足を踏み外し始めた息子に向かって、こう告げるしかなかった。


「約束しよう。だがいいか、あくまで合意の上で連れてくるんだぞ。それと、くれぐれもこのことを御堂と九龍には知られるな。それだけは気をつけなさい」


 民自党旧主流派の影の権力者、御堂征次郎には秘密の計画だった。

 知られれば、一般人を巻き込むことを嫌うあの老人は、決して灰島を許さないだろう。


「わかったよ。大丈夫。僕に任せて、パパ!」


 義和の目は輝いていた。

 彼は、使命を得た英雄の気分だった。

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