とあるハジメの家庭事情

 エレベーターを出ると、そこは一見普通の高級マンションの共有フロアのようだった。

 ヤクザの親分が住んでいる場所ということで、仰々しい門構えなどを想像していた武士は、やや拍子抜けする。

 ハジメを先頭に廊下を進むと、ふたつ並んだ玄関ドアのうち、手前のドアが開いてエプロン姿の妙齢の女性が出てきた。


「ハジメ!」


 その姿を見て、ハジメは額を手の平で押さえる。


「おふくろ、なんで出て来んだよ……」

「ハジメ! あなたその血……どうしたの!?」


 女性はハジメの母親で、ハジメの服にこびり付き、既に黒く変色していた血に気づき青ざめていた。


「俺の血じゃねえよ。それより、すぐにジジイに会わないといけねえんだ。まだ起きてる?」

「起きてるけど……ああ、もうあなた、今度は誰を殺したの……」


 ハジメの母親は、両手で顔を覆う。


 ――今度は?


 その言葉を聴いた武士は全身の血の気が引くような感覚に襲われ、友人であるはずのハジメの横顔を見る。

 あまりの非現実続きに麻痺していたが、武士は剣道場でのことを思い出した。


 ハジメはあまりに慣れた手つきで、銃を扱っていた。

 そして正体不明の襲撃者たちに対して、躊躇うことなく発砲していた。

 慌てて止めた武士だったが、何人かはハジメに撃たれ、倒れていたことを思い出す。

 彼らは生きているのだろうか。


 ――ハジメが、人殺し?


 恐ろしい考えがおそらく事実であろうことに、武士は今更ながら足が震えた。

 ハジメは視界の片隅で武士の震えを見て取って、絶望的な気分に落ちる。

 深いため息をつき、自分の感情を何も考えずに垂れ流すだけの、目の前の愚かな母親を見下ろした。


「ああ、ハジメ、どうしていつも……お父さんがいれば、こんなことには」


 母親は顔を覆いながら、その場にへたり込む。


「あの男がいたところで、なんになるってんだ! いいかげん黙れよ!」


 感情的に叫ぶハジメ。

 そのハジメに、


「ハジメさん」


 時沢が肩に手を置いて声をかけた。


「お母様のことは私が。組長には簡単に連絡を入れてますので、ハジメさんは先に皆さんを部屋にご案内して下さい」


 そういうと、時沢は玄関前に座り込んだハジメの母親の肩を支える。


「……いつも悪い。時沢さん」


 ハジメは座り込んだ母親の脇を抜けて、母親が出てきたエレベーター近くのドアの前を通り過ぎる。

 そして奥の方の玄関ドアの扉を開けた。


「みっともねえとこ見せちまったな。入ってくれ」


 直也たちに家に入るように促す。

 開いたドアの奥に見えたのは、普通の広い高級マンションの玄関だった。

 直也と翠、葵は促されるままに玄関へと入り、靴を脱ぎ並べられたスリッパを履く。

 一人、武士が玄関で立ち止まって動かずにいた。


「田中君」


 直也が立ち尽くた武士に声を掛けるが、武士は動かない。

 その様子を見たハジメは、苦しそうに、しかしはっきりとした声で武士に告げた。


「武士。ナイン・サーガやってるときに話してたけど……俺んちは暴力団だ。母方の祖父が組長やってる。その時には言ってなかったけど……もう気づいてると思うけどよ、俺自身、もう構成員になってる。訓練を受けて……人を殺したこともある。本当はお前の友達だなんて、言えるような人間じゃねえんだ」


 俯き立ち尽くした武士に、ハジメは身を切る思いに耐えながら、話し続ける。


「任務とはいえ、暁学園に入学して、ネットで知り合ったお前と会って、クラスメイトやって、普通の高校生やって……俺は本当に楽しかった。頑張るお前を見て、俺も頑張ろうって思えた。お前を巻き込んで……すまなかったと思ってる」


 ハジメの言葉を、葵に翠、直也も背中越しに聞いている。

 それぞれ普通ではない生い立ちに育ち、人の生き死に関ってきた彼らにとっても、ハジメの言葉は他人事ではなかった。


「これだけは信じてくれ武士。俺は無関係の、普通の人を殺したことはない。そもそも御堂組は、普通のヤクザ組織じゃない。さっきの刃朗衆の支援組織うんぬんを置いたとしても、裏の組織なりに筋の通ったことだけをしてきた。奇麗事ばかりじゃねえけど……俺は……」


 言葉を詰まらせるハジメ。

 それ以上、自分のしてきたことを正当化できる言葉を彼は持っていなかった。


「武士……もう友達を続けてくれなんて言わない。さっきはあんなことを言ったけど、ジジイに聞いて、必ずお前の体を元に戻す。普通の高校生に戻す。だから今は、俺を信じて協力してくれねーか」


 翠は、言葉を絞り出すハジメの横顔を、じっと見つめていた。

 少しの沈黙の後、武士は顔を上げる。


「あまりに」


 武士の表情は、ハジメが恐れていた、ハジメを拒絶するようなものではなかった。

 武士は、自分を恥じていた。

 自分は被害者だと。

 どうして自分がこんな目に遭うのだと。

 そればかりを考えていた。


 自分を騙し、利用していたハジメ。

 人殺しだったハジメ。

 そのハジメを責めて、拒絶していた。


 しかし、ハジメも苦しんでいたのだ。

 当たり前だった。

 ハジメも選んで御堂の家に生まれてきたわけではない。

 隠していることがあったとはいえ、家のことで苦しんでいたのは、ナイン・サーガで話してきた三年間で武士も知っているはずだった。

 自分が父親に認められないなどという苦しみよりも、遥かに大きな苦悩だったはずだ。

 その彼を、これ以上自分が追い詰めようというのか。


「あまりに、非日常なことがいきなりあってさ。まだ混乱してるけど……ハジメは、ハジメだよね」

「武士」


 笑顔はまだ出せなかったが、武士はまっすぐな瞳でハジメを見ることができていた。


「行こうハジメ。ヤクザの組長を待たせてるなんて、僕怖いよ」


 武士は靴を脱いでスリッパに履き替えると、ハジメの前に立った。


「……サンキュ」


 ハジメはとりあえずホッと息を吐き出すと、踵を返して廊下を歩き出した。

 すれ違いざまに、翠がハジメの肩を無言で軽く叩く。


「てっ……なんだよ」

「別に。さっさと案内しなよ」

「わかってるよ。リビング抜けた奥の部屋だ。ついて来な」


 ハジメは先頭に立って一行を案内する。その様子を葵は暗い瞳のまま見つめていた。


 ビルの十五階は、御堂家当主にして、旧清心会系御堂組組長である御堂征次郎と、その娘であるハジメの母親、そしてハジメとその兄の居住フロアだった。

 5LDKの広い間取りの家が二つ入っており、その家のひとつが征次郎の家で、隣がハジメ達の住まいだった。


 だがハジメの母親は征次郎の世話の為、征次朗の家にいることの方が多かった。

 ハジメは以前に体を壊した兄に代わり、御堂組の跡継ぎとして育てられた。

 幼い頃より厳しい訓練を受け、時として必要になる戦闘要員としても役に立つように育てられてきた。


 ハジメの父親は、御堂組とは関係のない一般人だった。

 ハジメの母親がOLをしていた時期に出会い、ハジメの兄を身ごもった為に、御堂組に婿入りする形となった。

 父親はいわゆる普通のサラリーマンだった為、一般社会からいきなりヤクザの組長一家に婿入りすることになり、そのギャップに苦しみながらもなんとか折り合いをつけ、妻との間に第二子のハジメも儲けることもできた。

 しかし、その子供たちの教育方針も組長である征次郎に決められ、逆らうこともできず、ハジメが中学に上がる前に家を出たきり、戻らなくなった。


 ハジメにとっては、厳格な祖父の征次郎が父親のような存在だった。

 成長し、その類まれな運動能力と胆力から、中学に上がる頃にはハジメは征次郎に命じられる仕事をこなすことができる子供になっていた。

 その仕事は、普通の組員ではできない、中学生の子供だからできる、相手を油断させたところを突く汚れ仕事が多かった。

 征次郎の方針は、組のトップに立つべき人間だからこそ、汚れ仕事を知っておかなければならないというものだった。


 ハジメは祖父の期待に応える為、心に大きなストレスを受けながら育った。

 そんな中で、体を壊して以来引きこもりになっていた兄が、少しでも弟のストレス解消になればと薦めたのが、ナイン・サーガというネットゲームだった。


「このふたつ向こうの部屋だ。まず俺がジジイに会って事情を説明してくるから、ここに座って待っていてくれ」


 三十畳はあろうかという広いリビングで、これも桁外れに大きい革張りのソファを指してハジメは言った。


「全員で会って、説明すべきじゃないのか?」


 直也が一人で部屋に入ろうとするハジメを止めるが、


「一応、筋を通さなきゃならねーんだ。いきなり初対面の人間を、なんの説明もなしに会わせるわけにはいかねーんだよ」


 ハジメはそれを拒絶する。


「しかし……」


 なおも食い下がろうとする直也だったが、早くもソファに体を沈み込ませた翠が、それを止めた。


「まあまあ九龍さん。郷に入っては郷に従えって言うじゃん? 唯一生き残ってる支援組織トップの不興を買ったら、後々やりにくくなると思うからさ? うおー、ソファやわらけー! 葵ちゃんも早く座ってみなよ」


 直也は仕方なく、ダイニングテーブルに並べられていた椅子を引いて座る。


「じゃ、すぐ戻るからよ」


 ハジメはリビングを出て行く。

 葵は翠に腕を引かれ、ソファに引き倒された。

 武士はすることもなく、ソファの上で重なり合っている葵と翠を見る。

 翠が葵に戯れつき、葵がそれを困ったような顔で引き剥がしている。

 重大な任務の失敗に落ち込み、本当にその失敗を取り戻す手段があるのかと気が気でない葵を、翠は見かねて、あえて明るく振る舞っているのだろう。


 あの二人はどんな関係なんだろうと、武士はぼんやりと考えた。

 どう見ても翠の方が幼いが、葵よりもひとつ上だという。

 葵は翠を「翠姉」と呼んでいるが、二人の顔は特に似ているわけでもない。

 会話の様子からも、本当の姉妹とは思いにくかった。


 それほど間があかず、ハジメがリビングに戻ってくる。


「じゃあ、ついて来てくれ」


 ハジメは短い通路を経て、襖で仕切られた部屋の前まで武士達を案内した。


「和室だから、スリッパ脱いで上がってくれ。組長、ハジメです。開けてよろしいでしょうか?」

「入れ」


 枯れた声が襖の奥から響く。


「失礼します」


 ハジメはゆっくりと襖を開けた。

 こちらも十畳以上はゆうにある、広い和室だった。

 部屋の照明は点いておらず、あかりは窓側に並ぶ障子越しの街明かりのみで、部屋の詳細な様子は分からなかった。


 部屋の中に人影は見当たらない。しかし、奥の方の黒い影の塊から先ほどの枯れた声が響く。


「早く閉めろ」

「わかりました。おい、早く入れ」


 ハジメが慌てて、直也たちを中に入れ襖を閉める。


「暗いか?」

「いえ、大丈夫です」


 ハジメの声から、かなり緊張して喋っている様子が武士たちに伝わってくる。


「お前がよくても、皆さんが見えんだろう。障子を開けろ」

「分かりました」


 ハジメは窓際まで行くと、障子を開け放つ。

 二重になっている一面のガラス窓から、町明かりが差し込んできて部屋の中を薄く照らし出す。


 黒い影の固まりは、和服を着て布団に横たわっている一人の老人だった。

 枕元には点滴の台や小型の酸素のボンベ、心音、脈のモニター機器が置かれ、無数の管を通して老人に繋がっている。


 武士たちは驚きを隠せなかった。

 とても暴力団の組長とは思えない姿だった。


「見ての通り、余命幾ばくもない老体でね。横になったままで失礼するよ」


 枯れた小さい声だったが、不思議と通る声で、離れたところに立っていた武士たちにもしっかりと聞き取ることができた。


「近くに来なさい。あまり大きな声を出すことができなくてね。部屋の電気も、すまないね。明かる過ぎると、目が辛いものでね。ハジメ、座布団くらい出さないか」

「はい」


 ハジメは急いで部屋の隅に積まれていた座布団を運ぶ。


「手伝うよ」

「サンキュ」


 武士はハジメと一緒に、座布団を老人の前に並べる。

 座布団は武士が触ったこともない滑らかな肌触りで、柔らかく、高級品であることが分かった。

 ハジメは老人の枕元に座り、向かい合わせになる形で葵、翠、直也、武士が座った。


「はじめまして。刃朗衆、命蒼刃の管理者、葵といいます」

「私も、直接は初めてお目にかかります。刃朗衆、碧双刃の使い手、翠です。英雄の情報ありがとうございました」


 葵と翠が征次郎に頭を下げる。征次郎は二人を見ると、その目を細めた


「ああ、あなた達が。無事でよかった。御堂組当主、御堂征次郎だ。一年前、里への襲撃を防ぐことができず、申し訳なかった」


 謝罪の言葉を口にすると、征次郎は目を伏せる。

 近くに寄って座り、武士はようやくはっきりと組長の顔をよく見ることができた。


 歳は八十を越えているだろう。

 頬は痩せこけ、頬骨が浮かんでいる。

 光の加減もあるが肌は浅黒く、点滴などの管がなくとも病人であることは明らかだった。


「いえ……鬼島の台頭を止めることができなかったのは、御堂組のせいだけではありません。お気遣いなさらずに」


 翠が征次郎の謝罪に応える。

 幼い容姿にゴスロリの服装の翠が、先ほどソファでじゃれていた時と打って変わり大人びた言葉遣いで話すことに、武士は激しい違和感を覚えた。


「ご当主は、体の具合はよろしいのですか?」

「大したことはない。といいたいが、長くはないな。碌な跡継ぎが育たんで、こんな体でいまだに組長なんぞを続けているよ」


 ハジメは表情を硬くしたまま、何も応えなかった。


「当主」


 葵が、悲壮な面持ちで震えた声を出す。


「申し訳ありません。英雄、九龍直也との契約に失敗しました」


 葵は手をついて、頭を深く下げた。

 隣に座る翠も、一緒に頭を下げる。

 征次郎は、ゆっくりと翠の横に座る直也の顔を見た。


「お前か」

「はい。初めてお目にかかります。九龍直也です」


 直也は、背筋の通った美しい正座の姿勢で、まっすぐな視線を征次郎から逸らさないまま答える。


「鬼島の息子だな」

「はい」

「やはりお前が、予言の英雄で間違いなかったか」


 征次郎は、直也を見定めるようにその顔を見つめる。


「だが、お前に命蒼刃の力は与えられなかったというのだな」

「申し訳ありません」


 葵が顔を伏せたまま、震えた声で謝罪を繰り返した。


「……ハジメ」

「はい」


 征次郎は直也を見つめたまま、ハジメに声を掛ける。


「貴様は何をやっていた」

「俺は……刃朗衆のことも、予言のことも詳しく知らされてなくて……ただ九龍の動向を見張れ、正体を探れとしか」

「それで何も出来なかったのか」

「……申し訳ありません」


 うな垂れるハジメ。


「使えないやつだ」


 征次郎は吐き捨てるように呟いた。

 ハジメはキッと顔を上げる。


「俺だって始めから予言の存在や内容を知っていれば! ……組長は知ってたんでしょう? そこのゴスロリ……翠とかいう女には、九龍のことを英雄だと伝えてたわけですから」

「お前がノロノロしている間に、別ルートで調べがついたのだ」

「なら、俺に教えてくれても」

「貴様が一介の工作員だったら、連絡してやっていただろう。だか、お前はこの御堂家の跡取りだ。そのお前が、一から十まで知らされないと何もできんのか? 自分がどんな任務を与えられているのか、その背景を自分で調べようと思わんのか? 指示の通りに動くだけで、自らで考えて行動せん人間に、御堂組は任せられんのだ!」


 老いて病に臥し、細く小さくなったその体から発せられたとはとても思えない、鋭く張りのある声が、ハジメを打ち据えた。

 ハジメは何も答えられず、膝の上で拳を握り俯く。


「葵さん。翠さん。頭を上げて下さい」


 打って変わった柔らかい口調で、征次朗は頭を下げたままの二人に声を掛けた。


「……はい」


 二人はゆっくりと顔を上げる。


「葵さん。あなたはどこから、英雄の情報を手に入れられた?」

「刃朗衆の諜報部からです」

「やはりか。我らも同じだ。連中は真っ先に鬼島に潰されていたはずだったのだがな」

「私も知っている人物ではありませんでした。しかし、極秘であるはずの私の名前を知っていました。命蒼刃のことも。少なくとも刃朗衆のトップクラスの人間であることは間違いありません」

「そうか。鬼島に政権を奪われて以来、我々は横の繋がりを絶たれてしまっているからな。情報を守る為の相互の秘密主義が、仇となっていたな」


「当主」


 直也が征次郎に声を掛ける。


「私は、鬼島の私生児です。ですが、私はあの男のやり方を認めることが出来ません。あの男にこの国を任せていては、この国は滅びてしまいます」


「……だから?」


 征次郎は、横たわったままギロリと直也を睨む。

 直也の横に座っていた武士は、自分に向けられているわけでもないその視線に、身震いした。

 病に冒され、床に伏したままの老人の目とは思えない覇気が感じられた。

 心の奥底まで見破られそうな視線だった。

 しかし直也は、その御堂組組長の厳しい視線に怯むことなく、自らの決意を伝える。


「私はこれまで、自分なりのやり方であの男に対抗してきました。しかし、昨年の秋に奴がこの国の最高権力者になって以来、私とあの男との距離は開くばかりです。もし予言にあるような役目が私にあるのなら、私は奴を必ず倒します。その為に、九色刃の力を私にお貸しください」


 征次郎は、しばらく無言のまま直也を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと口を開く。


「予言の通りなら、お前は父殺しとなるのだぞ」

「もとより、そのつもりです」


 その答えを聞いた征次郎は、天井を見つめて再び黙り込む。

 少しの沈黙の後、また直也に視線を戻した。


「しかし、命蒼刃は君を選ばなかった」

「それは……」

「それは違います!」


 葵が慌てて声を上げる。


「私がミスをしたんです! 焦りのあまり、説明もないままに契約を行おうとしたせいで……彼を刺すべき刃が、彼を守ろうとした人間を……刺して、しまったんです……」


 自己嫌悪のあまり、葵の言葉の最後は小さく、消え入りそうだった。


「彼を守ろうとした人間」


 征次郎は、初めて末席に正座する武士の顔を見た。

 武士は自分だけ名乗っていなかったことに気づき、慌てて挨拶をする。


「はっ……は、はじめままして……たたた田中武士しと言いましす…」


 床に臥してなお凄みのある征次郎を前に、緊張のあまり武士はろれつが回らず、声も裏返る。

 ハジメは思わず吹き出してしまった。


「ハジメ! この馬鹿者、何を笑っておるか!」


 征次郎が再び厳しい声でハジメを叱責する。


「す、すみません」


 ハジメは慌てて頭を下げた。


「武士君、はじめまして。ハジメの祖父です。ハジメが学校でお世話になっているようだね」

「いや、そんな、こちらこそ……」


 これまでの厳しい言葉から想像できない、「普通の親」らしい言葉に武士は驚いた。


「そうか。君が九龍君を身を挺して庇ったのか」

「す、すみません。僕が余計なことをしてしまったせいで、こんな……」

「何を言う。学友を身を挺して庇おうとする行為は褒められこそすれ、決して責められるものではない。君は胸を張っていいんだよ」


 征次郎は枕元のハジメの方に視線をやる。


「責められるのは、それを止めることができなかったウチのバカ孫の方だ」

「……返す言葉もありません」


 ハジメは何度目だろうか、深く頭を下げる。

 あのふてぶてしい態度が売りのハジメが、こんなにも腰を低くする姿を武士は初めて見た。


「……いえ、すべては命蒼刃の管理者たる、私の責任です」


 葵がまた、頭を下げる。

 その葵を見た征次郎は、穏やかな声で武士に話しかけた。


「武士君。ウチのバカ孫はともかく、葵さんや翠さんは責めないでやってほしい。刃郎衆の子供達、特に葵さんや翠さんは、九色刃と予言の為に、人生を犠牲にしてきたのだ」

「人生を……?」


 武士は、並んで座る葵と翠の横顔を見た。二人は無言のまま畳を見つめている。

 征次郎は言葉を続けた。


「刃郎衆では、誰がどの九色刃の管理者や使い手になるか、すべて予言により決められておる。本人達の意思とは関わりはない。そして管理者や使い手は、特殊な訓練を幼いころより受ける。普通の人生を送る事など許されんのだ」


 葵と翠。

 自分の日常に突然の非日常を持ち込んで来た二人の背景など、武士は考えようとも思っていなかった。


「特に二人は、九色刃の中でも重要な力の管理者と使い手だ。幼少のうちより課せられた義務と期待は、とてつもなく重い。特に鬼島によって里を滅ぼされた後は、孤立無縁のまま、想像を絶する孤独な戦いを強いられてきただろう」


(任務を失敗するなら、斬られて死んでいた方がマシだった)


 武士は剣道場での葵の言葉を思い出す。


「二人の出自も普通では考えられんものだ」

「当主、そのことは」


 翠は語ろうすると征次郎を止めるが、


「翠さん。この男達には話しておいた方がよい。そうしなければ、伝わらん」


 征次郎に諭されると、少しの沈黙の後、翠は微かに頷く。


「二人は、刃郎衆のいわば人体実験で生まれ育ってきたのだ」


 その衝撃的な単語に、武士は身を固くした。


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