第8話 フンボルトペンギンのお出かけ
夜遅く、地下にある部屋で二人の男女が実験していた。
やや暗めのオレンジ色の照明が室内を淡く照らしている。
女の髪は長くカールした金髪であり、肩から背中にかけて流れている。
「もうちょっとゆっくりにょーん」
女が小声で男の耳元にささやく。
「悪いな。若い頃はもっとうまくできたんだが感覚が鈍ってね」
「もうちょっと奥にょん」
「そうだな。もう少し奥だな。もう一度やるぞ」
佐藤教授は圧縮気体伝達パイプをマリリンの持ってきた機械に挿入した。
佐藤教授と国際警察捜査官のマリリンは夜の地下実験室にいる。マリリンが持ってきた機械を、佐藤教授の機械に結合させる作業を進めていた。紫外線反応物質を使うため、室内はイエローランプで照明されている。
「夜しか装置が空かないからな。まったく小野寺君の実験好きにはあきれるほどだ」
佐藤教授は握りこぶしほどの小型の黒い箱を見たところライフル銃に見える機械に繋ごうとしている。ただし普通の銃とちがうところは、銃口がラッパ状に広がっており最大口径は人の頭ほどあるという点だった。
佐藤教授はしげしげと繋ごうとしている黒い箱を眺めている。
「しかし、この黒い箱は不思議だな。事実上無限大のエネルギーを取り出せるとは。反物質リアクタだそうだが安定性に欠陥があったはずなのだが、そこのところはどうなのかな?」
佐藤教授はマリリンに問いかけた。
マリリンは首を振った。
「詳細は機密なので教えられないわん」
「私としては、中身がわからないものは使わない主義なのだが、小林君の身体がかかっているからにはやむを得ない。とりあえず無限大のエネルギー源としてのみ考えよう」
「それでいいわん」
佐藤教授は結合した黒い箱にいくつかの配線をつないだ。
「完成したぞ。これで小林君を元に戻せるな。小林君の体は元に戻り、フンボルトペンギンの精神はフンボルトペンギンの体に戻るというわけだ。ちなみに、このスイッチは逆転スイッチだ。これを使うと小林君の体はフンボルトペンギンに逆戻りだ。まあ、使わなくてすむと思うがな」
マリリンが両手を口元に寄せて握り拳をつくり、目をきらきらとさせる。
「面白い機能にゃん。ちょっと改造すれば人間をフンボルトペンギンにできるかも」
マリリンの提案に教授は大きく頷いた。
「おお、そうだな。この回路をちょっと変えれば一度ピコブラックホールに記憶されたフンボルトペンギンの体の情報を転送できるモードにできる」
回路とスイッチが改造されて、正転・逆転・転送のモードが設定できるようになった。
「この装置はフンボルガンと名付けよう」
「いい名前にょん」
「ふふふふふ」
「にょにょにょにょにょ」
暗い部屋の中に男と女の不思議な笑いが響いた。
第八話 フンボルトペンギンのお出かけ
—一—
——東北東大学、海洋研究所附属水族館
佐藤研究室の小野寺真由助教によって、フンボルトペンギン水槽には大規模な監視システムが構築されて監視されていた。
警備員室では警備員が有機ニューラルネットワークによって制御された監視システムの状態をモニタしている。半透明のコンソールには各種センサからの信号が表示され、色とりどりのインジケータが点滅を繰り返している。ややニューラルネットワークの温度が上昇して、反応に遅延の傾向が見られる以外は正常値の範囲を保っている。
警備員の一人があくびをした。
ひょろりとした長身で、椅子に座っていても頭の高さが高い。名は八平(はちへい)という。
「ふぁあ。毎日代わり映えしないから退屈だなぁ。なあ、熊さん」
熊さんと呼ばれた警備員——熊五郎は身長は低めでやや太った体型で、黒く立派な顎髭を生やした顔をしている。椅子に座ってむしゃむしゃとお弁当を食べていた。
「ん? 退屈だって? ああそうだな。八さん。お、昼のニュースだぞ」
熊五郎は顔を上げた。
警備員室の壁掛けモニタには昼の立体映像ニュースが流れている。
『次のニュースです。国際的なペンギン誘拐組織ペンカイダの首領格と呼ばれている人物が国際指名手配されました』
モニタに表示された人物は、黒い覆面をかぶり、ややぼやけたような立体モデルのため詳細な姿は不明だった。身長は高めで、覆面の開口部から見える瞳は青色をしており欧米系の外国人のように見えた。
「へえ、ペンギン誘拐犯人がとうとう指名手配か。俺たちに関係あるな。名前はトーマスか。この前、国際警察からペンギン誘拐組織ペンカイダの注意勧告があったが、とうとう指名手配か。早く捕まって欲しいもんだ」
熊五郎はお弁当を食べながら立体映像に視線を送ってたが、箸を持ったままくるりと八平の方へ首を動かした。
「八つぁん弁当は食べないのかい?」
八平は首を左右に振った。
「いや、一人が弁当を食べているときにはもう一人は監視を続ける規定になっている」
「あくびをしていた八つぁんがそんなこと言っても、説得力がないねぇ」
——電子音
半透明の状態モニタに赤い警告が表示される。
『有機ニューラルネットワークの反応速度が閾値を下回りました。メンテナンスが必要です』
八平はコンソールを操作して警告をクリアした。暫定的に反応速度の閾値を下げることで警告をクリアすることをここ数日続けている。
「最近調子が悪いなあ。一度、小野寺さんに見てもらった方がいいかもしれない」
八平は左手を顎に当ててそう言った。
「そうしよう、そうしよう。餅は餅屋っていうしね」
熊五郎はうんうんとうなずいた。
壁掛けモニタの立体映像ニュースは次の話題に変わっていた。
『未知の人工的信号が断続的に深宇宙から届いていることがわかりました。特にここ一年の情報量が増加の傾向にあることがわかりました。知的生命体からの信号の可能性もあるということで専門家が分析を続けています』
——廊下
警備員室の半分開いた扉からニュースの音声が漏れてくる。
『東北東大学、海洋技術研究所はマグロの完全養殖に続いてウナギの完全養殖に成功しました……』
その脇の廊下を山下圭吾が通りかかった。元からほっそりとしていた身体つきではあったが、さらに頬がこけ表情はどんよりとしている。
廊下の向こうから受付の園田町子が、とたとたと駆け寄ってきた。
「あら、山下さ〜ん。暗い顔なんてしちゃって。ねえ、お願いがあるんだけど。トロシックス買ってちょうだい。マグロにちなんで売り上げの一部が水産資源の保全に還元されるのよ〜。十枚。はいまいどあり。一等前後賞併せて豪華三億円。夢は買わなくっちゃね」
あれよあれよと言う間に、宝くじを十枚も売りつけられてしまった。
—二—
水族館長の依頼を受けて、佐藤研究室の小野寺真由助教は東北東大学、海洋研究所附属水族館に赴いた。増川美保と小林大樹ことフンボルトペンギンも同行している。最近のフンボルトペンギンの様子も聞きたかったのだ。
「べ、べつに館長に会いに行くことが目的じゃないんだからね」
小野寺真由は聞かれてもいないのに美保と大樹に向かって同じ言葉を繰り返している。
浜辺にある松林の間の小道を二人と一匹が歩いてゆく。砂浜を歩くこともできるが、今日はスーツ姿の小野寺真由もいるので、ちゃんとした道を歩いている。フンボルトペンギンこと小林大樹は増川美保の足下で、てとてとと歩いている。フンボルトペンギンの歩みは思ったよりも速い。
海から吹いてくる風は潮の匂いがした。
松林を通り抜けるともうすぐそこが水族館の門だった。
水族館の入り口で小野寺真由は園田町子に挨拶した。
「こんにちは」
園田町子はいつも通りの丸い笑顔で応対する。
「あら〜。今日は美保ちゃんとフンボルトペンギンの大樹ちゃんも一緒なのね、小野寺さん。ふふふ。館長がお待ちかねよ」
細い眼鏡に左手を当ててかけ直しながら、小野寺真由は右手をひらひらとさせる。
「べ、べつに館長に会うのが目的じゃないんだから」
フンボルトペンギンこと小林大樹はくちばしを左右にふるふると振った。
『今日の目的は館長ペン』
増川美保はこくこくと頷いた。
「館長が目的です」
「館長が目的なのよね〜」
園田町子はにこにことしている。
小野寺真由は園田町子を見て、増川美保を見て、そして小林大樹を見た。
そして小さな声で言う。
「そ、そうよ。館長に会いに来たのよ」
そしておもむろに胸を張り、人差し指をびっとのばして園田町子に向けると大きな声をだした。
「館長で何が悪いの。早く館長を出しなさい。こっちは呼ばれたのよ」
小野寺真由は背中に気配を感じた。
「お待たせして申し訳ありません」
小野寺真由が振り返る。
相川守館長が立っていた。
警備員室奥のサーバ室で小野寺真由と相川守館長は有機ニューラルネットワークサーバの様子を確認していた。増川美保と小林大樹は、フンボルトペンギン水槽の方に移動してフンボルトペンギンたちの様子を確認しているので、ここにはいない。
つまり、小野寺真由と相川守は狭い部屋に二人きりだった。自然と互いの呼吸音が近く、体温によって放出される遠赤外線を互いに感じることができる距離にいた。
作業する小野寺真由の肩越しに相川守が声をかける。
「調子はどうですか?」
「わ、私は元気です」
若干、小野寺真由の声がうわずった。
「小野寺さんが元気なのは何よりです。サーバの方はどうですか」
「えっとサーバは……」
小野寺真由の制御パッドの操作がずれて、慌ててジェスチャで修正した。ぱたぱたとパッドを操作すると状態関数と遷移確率分布ならびに時定数一覧が表示された。ヒストグラムの分布はやや偏り、正常状態と比較すると温度は高めに推移していた。
小野寺真由は目を細めてじっと画面を見た。
「おかしいですねえ。一度バックアップから復帰させた方が良いかもしれません。今日明日では無理ですが、一週間後までにリカバリ細胞を準備しておきますので、今日のところは負荷を低減させることで凌ぎましょう」
小野寺真由はパッド端末から目を上げて相川守の顔を見た。
相川守が小野寺真由に笑いかけた。整った顔立ちだった。優しい笑顔だった。透き通る瞳だった。
「ありがとう。小野寺さんがいてくれて助かります」
「た、たいしたことないわよ」
小野寺真由が視線をずらした。
フンボルトペンギン水槽の岸辺の向こうにある柵の前に、増川美保と小林大樹は来ていた。美保が大樹を両手で抱えて、柵の上に立たせてフンボルトペンギンたちに最近の様子を聞いていた。
『最近の様子はどうペン?』
ぺたぺたと柵の近くまでフンボルトペンギンが二匹並んで歩いてくる。やってきたのは姉妹のおマツとおタケだった。おマツは身だしなみに気を使っているので、羽毛にはチリ一つついておらずに、つやつやとしている。
柵の手前でぴたりと止まって、二匹は首を上に伸ばした。
おマツの口がぱくりと開いた。
『最近、ヤマシタさんが、おかしいのよねえ』
『そうなの』
おタケがくちばしを上下に振ってうんうんと頷いた。
「ヤマシタさんて誰?」
美保が質問する。ちなみに、日本語とフンボルトペンギン語はペンリンガルマークツーを介して相互に同時通訳されている。
『ヤマシタさんは飼育員よ』
『そうなの』
おマツが答えおタケが頷く。
「どんな人?」
『前はイキがよかったわ。でも最近はいけてないのよ』
『そうなの。あなたたちみたいにホットで熱々の関係とは違うの』
そう言ってから二匹は顔を見合わせた。
『『ねー』』
そうして、くるりと後ろを振り返るとぺたぺたとペンギンハウスの方へ戻っていった。
美保と大樹も顔を見合わせた。
大樹の瞳はつぶらで透明感があった。くちばしは鋭くて格好がよかった。
美保の頬が紅色に染まった。
大樹には『ねー』がよくわからなかった。
館長室に帰ってから、大樹はフンボルトペンギンたちの様子を報告した。飼育員のヤマシタさんが怪しいことを説明した。フリッパーを動かして説明した。
相川守館長は思案げな表情をした。
「彼は小さい頃から苦労しているようですので、あまり疑いたくはないのですが……」
「いや、しかし先入観をもって物事の本質を捕らえ損なうことは問題です。犯人は近いところにいることが常識です。彼の身辺をもう少し探るように警察に連絡すべきです」
小野寺真由は応接セットの机を人差し指でとんとんと叩きながら、館長に進言している。
相川守は顎に手をあてて考えている。
「私は、彼が犯人と関係があるとしても、自分から打ち明けて欲しいのです」
「相川さんは甘すぎます」
相川守は天井を見た。
そして前を見た。
「そうですね。小野寺さんの言う通りです。山下君をここに呼んで話を聞きましょう」
そう言うと相川守はパッド端末を操作した。受付の園田町子を呼び出す。
「山下君を今すぐ館長室へ」
『承知しました〜』
まん丸の園田町子の顔がパッド端末に一瞬現れ、そして消えた。
しばしの間。
どたどたと足音が聞こえた。
こんこん、とドアがノックされると、中の返事を待たずにドアが開いた。
そこには仁王立ちになった園田町子がいた。
「たいへんよ〜。山下さんと連絡がつかないの。行方不明よ〜」
相川守館長が椅子から立った。
「至急、警察に連絡をして捜索願を」
「はい〜。すぐに連絡します」
ばたばたと園田町子がドアから出て行く。
相川守は美保と大樹の方を向いた。
「君たちは一旦、帰りなさい。私と小野寺さんで今後のことについて少し話がしたい」
美保と大樹は館長室から押し出されるようにして外に出た。
フンボルトペンギンこと大樹が美保を見上げる。
『蚊帳の外ペン』
「そうだね。でも今ここにいてもすることはないよ。山下さんの行き先に心当たりがあれば探したいけど……」
美保は大樹を抱き上げた。
大樹の身体は暖かかった。
そのまま美保は廊下を歩いて出口に向かった。
受付の前を通り過ぎようとする。
ちょうど、ばたばたと園田町子が受付に戻ってきたところだった。
「あ、美保ちゃん、大樹ちゃん。お願いがあるのよ〜。この喫茶店の無料券、今日までなの。ちょうど二枚あるのよ〜。行ってきてくれない? あたし、山下さんがいなくなって大変なことになっちゃったので、忙しくなっちゃって行けないのよ〜。山下さんを見かけたら水族館に戻るように行ってね。こんな顔よ〜。暗い顔で陰気な人を見かけたら山下さんと思った方がいいわよ〜」
園田町子が受付の端末を操作し『山下さん』の写真を表示させた。
「山下さんはその喫茶店にも行っていたことがあるのよ〜。はい、無料券」
美保と大樹は近くにある喫茶店のケーキセット無料券を二枚もらった。
—三—
美保と大樹は園田町子からもらった無料券を持って、水族館近くの喫茶店に入った。この喫茶店はケーキが美味しいことで有名で、店の入り口近くにあるショーケースには大きなホールケーキが並んでいた。
外観はクラシカルな洋風の建築にまとめられていた。木の柱を模した焦げ茶色の構造物に白い壁が印象的だった。石畳を模したタイル張りの床は滑らかに接続されておりでこぼこしていなかった。店内はきれいに掃除されており床には埃一つ落ちていなかった。店内の下半分の壁は茶色の木張りで上半分は漆喰の白い壁になっていた。
白い壁には額に入れた絵が飾ってある。葉っぱを描いたリトグラフでフラクタル風の精緻な幾何学模様に仕上げられていた。部屋の角には観葉植物の鉢がおいてあり、照葉樹の緑が目に優しかった。
壁際に丸い暖色系のブラケット照明がつけられており、柔らかく暖かい光が壁を照らし出していた。
「いらっしゃいませ」
女性の店員は清潔感のある白いシャツと濃いブラウンのエプロンを身につけていた。髪型はシニヨンで、こぎれいにまとめている。
増川美保と小林大樹は店員に奥の席へ案内された。
椅子はゆったりとした肘掛け椅子で麻の紐編み込まれており、茶色いクッションが置かれていた。
椅子は高くて大樹は自分では椅子に座れない。美保は大樹をクッションの上に優しく置いた。
机は木の丸テーブルで、四つ足は一本にまとめられており滑らかな曲線で床に向かって広がるような形状にされていた。
店内にはベートーベンのバイオリンソナタ第5番・春が流れている。ピアノの伴奏に情感が込められたバイオリンの旋律が乗っている。上昇し下降し流れる旋律が背景音として喫茶店の空間を満たしている。
「あたし、もう一度、ショーウインドウのケーキが見たい」
そう言って、美保はショーウインドウの前のケーキを見に行った。
大樹はしょぼん、と取り残された状態になる。
美保は店先に戻った。
ショーウインドウの前には人だかりができている。
ケーキを買いに来る人も多いのだ。
春である。イチゴが旬だった。
ショーウインドウのケーキ。ストロベリーショート。ストロベリーパイ。ストロベリーミルフィーユ。ストロベリータルト。ストロベリーチョコレートケーキ。等々、イチゴをふんだんに使ったケーキが並んでいる。
美保は迷った。
イチゴショートケーキはおいしそうだが、中のイチゴがスライスされていて丸ごとでない。キングストロベリーケーキには負ける。
ストロベリーミルフィーユも候補に挙がるが、洋梨のミルフィーユを食べたことがあったので味が想像できる。
ストロベリータルトとストロベリーチョコレートケーキで迷った。ストロベリーチョコレートケーキは丸ごとイチゴが入っているのでイチゴが楽しめそうだ。ただし値段がチョコレートケーキの方が高い。どちらも決め手に欠ける。
ストロベリーパイ。カスタードクリームがたっぷりと入っているがそれ以上に惹かれることはない。
ストロベリーレアチーズムース。チーズは好きだがイチゴがケーキの上にしかない。
さんざん迷ったがやはり、目玉はキングストロベリーケーキである。イチゴをふんだんに使い、三段のイチゴ風味スポンジ生地の間にさらにスライスされたイチゴが挟まれているのだ。ケーキは真っ白なホイップクリームに包まれ、上には丸ごとイチゴがぐるりと並び、イチゴに添えられたホイップクリームの上にはちょこんとブルーベリーの実が乗っている。
美保はキングストロベリーケーキに決めた。
席に戻ると大樹はクッションの上ですやすやと眠っていた。まん丸のお腹がゆっくりと上下している。
美保はくすりと笑った。
「そうだよね。だいぶ迷ったからね」
椅子にしゃがみ込むと、大樹のお腹をつんつんと人差し指でつついた。
『ペ、ペン?』
がばり、と大樹が飛び起きる。
目の前に美保がいる。
『びっくりしたペン』
「ごめん。ごめん」
美保は謝ると自分の席に戻った。
「小林君は、何を食べる?」
『ぼくは飲み物だけでいいペン。あんなに大きなケーキは食べられないペン』
美保は首を横に傾けて、頬に人差し指を当てた。
「そうだねえ。子供用のミニカットストロベリーチョコレートケーキがあるみたいだからそれを頼もうか。余ったらあたしが食べるよ。あたし、ケーキ大好きなんだ」
ちょうどやってきた店員さんに、二人はケーキと紅茶を頼んだ。それから、大樹がそのままでは机の上に届かないので子供用の椅子も頼んだ。
台に乗せられてケーキが運ばれてきた。
「こちらがキングストロベリーケーキでございます」
美保の前にお皿が置かれる。
大きなお皿だった。
そしてキングストロベリーケーキは大きかった。白いホイップクリームはふわふわとして見えた。上には大きなイチゴが高密度かつ整然と並んでいた。ホイップクリームの上にブルーベリーが乗っていた。堂々としたケーキで王様の風格があった。ケーキの脇に添えられたフォークに挟まったナイフは、ケーキの大きさに負けて小さく見えた。
美保は思わずため息をつく。
「こちらが紅茶、ダージリンでございます」
そっと置かれたティーポットは丸い形をしており、長い注ぎ口が特徴的だった。
紅茶のカップとソーサーとティーポットはお揃いの模様をしていて、カップは二次曲線の底面が切れたような断面形状だった。
「ごゆっくりどうぞ」
一礼して店員は帰って行く。
「いただきます」
美保は手をあわせてから、フォークに手を伸ばした。
切り口を包んである銀紙をフォークで外す。銀紙をはずすと断面が見えた。イチゴ風味のスポンジ生地が三段になっていた。生地の間にスライスされたイチゴがたっぷりと挟まれていた。切り崩して口に一切れケーキを放り込む。ホイップクリームが口の中に広がり、しゅわっと溶けた。癖のない上品な味わいだった。いくらでも食べれそうな味だった。
美保は夢中でケーキを食べた。
そんな美保を、大樹はフンボルトペンギンなりに笑顔でにこにことして見ている。
一息ついた美保と大樹の視線が合った。
「あ。小林くんもケーキ食べたいよね」
フンボルトペンギンこと小林大樹の前にはカットされたストベリーチョコレートケーキが白い丸皿に乗っていた。まだ手付かずである。フンボルトペンギンこと小林大樹は自分ではケーキを上品に食べることができないのだ。
『申し訳ないペン』
「いいのいいの」
美保は大樹のお皿のフォークを取ると、ストベリーチョコレートケーキを切り崩した。
「はい、あーん」
大樹は口をかぱりと開けると、美保がケーキを突っ込んだ。
上品な甘さが大樹の口の中に広がる。
『おいしいペン』
「よかった。よかった」
美保は優しく笑った。
ケーキを一気に食べ終わって、美保は紅茶を飲んで一息ついた。お腹は満腹だった。なんといってもキングストロベリーケーキを食べたあとで、大樹のストベリーチョコレートケーキを半分も食べたのだ。
美保はティーカップを口に運ぶ。
運ばれてきたティーポットには、美保の手には重いくらい紅茶がたっぷりと入っていたので、ゆっくりと紅茶を楽しむことができそうである。
大樹のカップにも紅茶は注がれており、ストローとくちばしで器用に紅茶を飲んでいる。
『まんぷくペン』
「お腹いっぱいだね」
美保はティーカップをソーサーに置いた。右手の人差し指を自分の頬に当てる。
「小林君は彼女いるの? 好きなペンギンとか」
大樹はおペンを思い出した。
慌てて、ふるふるとくちばしを左右に振る。
『いないペン』
「そっかあ。いないんだ」
美保は右手を頬から体の前に戻した。
嬉しそうに笑った。
両手の指を絡め合わせて前に伸ばした。
手の先の壁に案内の紙が貼ってあった。
「あ、この喫茶店の近くに植物園があるんだって。この喫茶店でお茶を飲んだ人はただで入れるらしいよ」
大樹は、ふんふんと頷いた。
『行きたいペン』
「いこうか」
美保が頷く。
つまりそういうことになった。
—四—
喫茶店の近くに植物園はあった。『奇跡の惑星植物園』という名前がついており、人工的な構造物と植物を合わせた植物園の様式になっているらしかった。喫茶店でお茶を飲んでいたため入り口はそのまま通過できた。
入り口からは緑の芝生の真ん中に白い大理石の道がまっすぐと続いていた。
フンボルトペンギンこと小林大樹は、ぺたぺたと大理石の敷石を進んで行く。そのあとを増川美保が付いて行く。
しばらく歩くと生垣で作られた迷路の入り口に出た。
白と赤の椿の花が咲いている。
「あたし、迷路苦手なんだよね」
大樹はフリッパー(翼)ぱたぱたとさせて自信満々に頷いた。
『単連結の単純迷路ならば右の壁を伝って行けば大丈夫ペン』
しかしこの迷路は庭師が腕によりをかけてつくった迷路で、決して単連結の単純迷路ではなかった。所々で壁の跳躍があり、そこで『右の壁を伝う』という条件では通過できない場所が多くあった。
焦って、てとてとと大樹は歩く。だんだんわからなくなってきた。
『道に迷ったペン』
美保からの返事が無かった。
『ペン?』
振り返る。
美保がいなかった。
美保は迷路の途中で立ち止まっていた。葉っぱの上にカタツムリがいたのである。目玉が左右に動いていた。ゆっくりとぬめぬめと前に進んでいた。
しばらくカタツムリを見ていた。
気がついたら大樹がいなかった。
「あ」
美保は左右を見渡した。フンボルトペンギンの気配は無かった。道は左と前と右と別れていた。美保の感覚は左が迷路の真ん中への方向と告げていた。
美保は左に曲がった。
生け垣の迷路を美保は歩いた。赤と白の椿の花は、不均一なランダムドットパターンを形成し、花の迷路に迷い込んだような錯覚を生じさせる。
不意に美保は開けた場所にでた。
そこは生け垣の壁に四角く囲まれた広場だった。
真ん中に円形の池があった。
間欠的に噴水の水柱が立っている。
池の畔にあるベンチに外を向いて男が座っていた。
暗い顔の男だった。顔は下向きにうつむいていた。眼窩は落ちくぼみ隈ができていた。
男の顔が上がる。
男は美保を見た。
「お嬢さんおひとりかい? あぶないよ」
ふらりと男が立ち上がる。
身体が細かった。頬がこけていた。
男が近づいてくる。
一歩一歩前に進むたびに、男の身体がふらふらと左右に揺れた。
「あ、あの」
美保は後ずさろうとしたが身体が動かなかった。
言いようのない恐怖が背を流れていた。心の冷たくなるような不快な恐怖感に手が震えていた。総身に冷水を浴びたようにぞっとして凝然と立ちすくんでいた。
男がにたりと笑った。
「誰か……助けて」
小さな声で美保はつぶやく。
そのとき、美保は噴水の向こうから、猛然と池に飛び込むフンボルトペンギンを見た。
小林大樹だ。
大樹はまっすぐ美保の方向へ泳いだ。
刹那、噴水が高圧力の水流を放出した。
大樹の身体が空中へ加速度を受けた。進行方向の速度ベクトルと加速度の時間積分によって、大樹の身体は斜方投射の方向へ軌道決定された。
大樹はフリッパー(翼)を広げた。水と空気の総合的なレイノルズ数と動圧とマグナス効果と重力の均衡によって、大樹の身体の進行方向は男の方向へ変更される。
大樹は空を飛んだ。
大樹は男を見た。
——アプローチ
フリッパーを動かし身体をひねる。
鋭い爪を男の顔に向けた。
そして男の顔を蹴った。
——衝撃
男が顔を押さえて倒れた。
大樹は姿勢を整えて、男と美保の間に着地した。
『増川さんから離れるペン』
フリッパーをを男に向ける。
倒れていた男が、手で身体を起こし大樹を見た。
「フ、フンボルトペンギン?」
元から青白かった男の顔が、さらに蒼白になった。
「フンボルトペンギンの亡霊だー!」
慌てて立つと男は去っていった。
美保がへたへたとその場に身体を崩した。
迷路花壇の先は少し開けた場所になっていた。
ストーンヘンジのような石のモニュメントが配置されていた。時刻は夕方になっており太陽は少し傾いていて、モニュメントの長い影が芝生に投影されていた。芝生にはミステリーサークルを模した形の刈り込みがあったり、ナスカの地上絵風の模様が描かれていたりなど、少し不思議な雰囲気のする庭だった。
庭のベンチに増川美保とフンボルトペンギンこと小林大樹が座っている。
白いおしゃれなベンチで、ライムの木がすぐ脇に生えていた。
目の前には犬が白いお皿を支えている形の丸い鉢植え——マーブルボウルがおいてあり、紫色の小さな花が咲いていた。
近くには水路があって水が流れており、魚が泳いでいるようだった。
『増川さん、大丈夫ペン?』
大樹が心配そうに美保を見上げる。
「うん。少し座って落ち着いた。小林くん、ありがとうね。助けてくれて」
美保は大樹に小さく笑いかけた。
ほっとしたような表情で、やや斜めに落ちかけた太陽の光でほんのりと頬が紅色に染まっていた。
大樹は美保の顔を見て、そして視線を庭にずらした。
時刻は夕方で、動物の形に剪定された植物にイルミネーションが点灯し始めている。
「イルミネーションがきれいだペン」
いろいろな動物がいた。
大樹と美保の視線は動物たちを追う。
ネコがいて、イヌがいて、クマがいて、ゾウがいた。そして、なまめかしく抱き合うキリンの人形があった。
「きゃっ」
『ペン』
美保は思わず大樹に手を伸ばす。
美保の手と大樹のフリッパーが触れた。
いったん、手とフリッパーは離れ、そしてまた一緒になった。
美保が大樹のフリッパーを握った。
温かい美保の手のひらの体温を大樹は感じた。
二人は夕焼けの空を見た。
金星が明るく輝いていた。
「宵の明星が綺麗だね。星を見ていると不思議な気がするよ」
美保のつぶやきに大樹が答える。
『星の一生も不思議だペン』
大樹は星の話をした。
太陽系が生まれて、地球や金星ができるまでの話をした。
星の一生について話をした。太陽がやがて膨張して地球を飲み込んでしまい、やがて大爆発が起こってまた新しい星をつくっていく話をした。
『こうやって増川さんと一緒にいることも不思議なことだペン』
「小林君がこうやってフンボルトペンギンでいることもね」
二人はしばらくそのままでじっと夕焼け空を眺めていた。
——帰り道
「あ」
美保が声を上げた。
「さっきの人、山下さんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます