第10話
頭が、体が、何もかもが揺さぶられる。受身ができないまま倒れこんだ背中の痛み、それすらあやふやになるほどの感覚神経の暴走。
「ちっ・・・くしょ、予想通りか!」
「そうですか・・・でも、これだけじゃないんですよ?」
プリムの言葉にタイミングを合わせたかのように、鉄の扉が軋みながら開いた。
入り口を塞ぐように、拳銃を構えた男が何人か立っている。のが、視界の端に映った。
ひしゃげた意識では、望む方向を見ることもできない。目に映った世界さえ、頭がぼーっとしたままでは満足に理解することもできない。
何をされたか、やっと理解する・・・いや、されたことはキスなんだけども。
おそらく、ドラッグか幻覚剤を流し込まれた。それも口移しで。おそらく事前に口の中に潜ませておいて、隙を見て私に、その・・・キスをしてグロッキーに落とし込もうという算段だったのだろう。私がリブ・タイムズの編集室にかくまわれていることはすでに筒抜けになっていたらしいので、このようなトラップを仕掛けてくることも可能だろう。
とにかく、彼女がそれほど犯罪組織に従順になってしまっていること。いわゆる洗脳を受けてしまっていることは明らかだった。
「どうも、プレスタ編集長。わたし、プリム・リグラっていいます。ご存知の通りリタリアの友人で・・・」
「今回の事件の被害者、だろ?」
「あら、ご冗談が上手なこと」
ふふふ、と笑うプリム。そのいつも通りの仕草と彼女の言葉の内容、その間にある隔絶に本能的な寒気がした。
「勘違いしてなさるようですね。本当の被害者は無様なコック長、そして貴方。ふふふ、違います?」
「はっ、昔の上司を無様だと?故人に対してあんまりじゃねえの?」
「ふふっ、おかしいことを仰いますね?」
目に嫌な光を浮かべ、プリムは笑う。
「フィーネ様に逆らうものに、無様以外の言葉は必要ない!のですよ、ふふふっ」
虫唾が疾る。
彼女は料理人見習いとして小さな頃から努力を重ねた結果、今年やっと王都のレストランに認められ、ウェイターとして働くことができた。国の誇るシェフ達から技術を教わり、素敵な料理を作るんだ。夢を捨てた私にとって、その笑顔がどんなに眩しかったことか。劣等感と同時に僅かな安堵感を感じていた。私が夢を破いた分も、彼女が幸せになってくれる。そんな安心感を感じていたのに
それを滅茶苦茶にぶっ壊した国が、プリムの顔で勝手に嗤う目の前の女が、憎い。
許せないものを目の前で眺めているだけの自分が、本当に腹立たかった。何もかもをぶん殴りたいくらいに。
「まあ?貴方のような反逆者には、理解することもできないかもしれませんけど?」
「反逆ねえ?」
「当たり前ですよ。フィーネ様の計画を邪魔する者はみんな反逆者も同然!」
「国を言いくるめて陰でこそこそやっているような野郎を神扱いしやがって、見上げたわんこだなお前は!」
そこでふっと編集長は私を見つめて、というか睨んできた。
その合図に頷き、私はポシェットの中を探ろうとした。
入り口で右手が引っかかる。確かめる余裕もなく、力ずくで取り出し口に突っ込むと、枷が外れるように違和感が解けた。慌てて手探りで目当てのものをひっつかむ。
半透明の白い液体で満たされた注射器。危険ドラッグの抑圧作用を緩和する薬品だった。
『えええぇぇ!なんですかこの怪しい注射は!』
会議室にて、キーアイテムとしてこれを渡された時、私はあまりの怪しさに叫んでしまったのだった。
『うるせえな、何って鎮静剤だけど?ドラッグの作用を一時的に抑える薬品』
『そんなもの、なんで私が!』
うるせーな、と耳を塞ぐそぶりを見せる編集長。
『いいか、お前の友達は十中八九洗脳されてると思っていい。そして、奴らはお前も同じように自分たちの陣営に引き込もうとするだろう。なんらかの方法でお前にドラッグを盛ろうとするはずだ』
『ひ、まじですか・・・』
『そこで、だ。完全に無力化したと思い込んでいたお前が、実は薬で回復してピンピンしていたならどうなる。少なくともお前だけなら逃げ出せる、そのくらいの守衛の乱れを引き起こせるだろ?もちろん大騒ぎになってくれれば俺たちの行動を錯乱してくれる。その注射はお前の身を守り状況を切り崩す、まさにキーアイテムだ』
『わ、わかりました・・・期待しないでくださいよ?』
『馬鹿か、全員が全力を尽くさないと成功しないぞ。突入作戦に自信のなさなんて持ち込んでたら、一瞬でやられちまう』
『ひ、ひええ・・・』
そんな適当な説明しかされて無いうえに、実際に注射をうったこともない。静脈ってどっちだよって話である。
だが、やるしかないようだ。
・・・こっわいなぁ。
「ふふ、同じ猿族でも貴方とフィーネ様では出来が違うみたいですね。まあ、すぐ思い知ることになるでしょうけど!」
「誰かを崇め奉るのはお前の勝手だ。だが、お前はそいつのすべてを知っているのか?」
「フィーネ様のすべてを知る?そんなおこがましいこと、よくのうのうと言えますねぇ!」
再び編集長がこちらに目線を送る。わずかに焦燥を含んでいるのが伝わってきた。
異常な感覚に揺さぶられながら、両手足に力を込める。吹き出した汗を握り、錆びた鉛のように重い体を無理矢理に動かす。
「あの姿を見て!その素晴らしさに気付かなわけがないんですよ!」
「話の通じねえやつだな、犬族ってのはどいつもこいつもこうなのかねぇ!」
「ふふふ、話が通じないのは貴方の方ですよ!小汚い糞拾いの猿め!」
ヒステリックに叫ぶプリム、その言葉に合わせて私は動いた。
「さあ、皆さん!この男を取り押さえてくださ・・・」
突然、その声は途切れる。
私が急に彼女に抱きついたからだ。
「は?リタ?」
唐突に後ろから抱きしめられ、困惑するプラム。
「なに?どうしたの?ちょっと待っててね、今はリタの相手してる場合じゃないから」
ゆるい口調とは裏腹に、乱暴に振りほどこうと暴れられる。力の入らない体がきしむ。左腕を下腹部に回し、彼女にしがみつくようにしてなんとか両腕を抑え込む。
「なんなのよ、もう!」
彼女の左肘が私の脇腹に打ちこまれる。息が止まる苦しさと鈍い痛みに目が回る。
涙で歪む視界のなか、私は彼女の首筋を一瞥する。そして、決心が鈍らないうちに、
右腕に隠し持った注射を、真白な肌に差し込んだ。
「いっ!た、なにして・・・!?」
プリムの怯えたような瞳が目の前に現れる。心底驚いているらしい。
驚いているのはプリムや敵の男たちだけでない。編集長もまた、驚愕の目でこちらを見ていた。元の計画と違うのだから当たり前か。
だが、その間抜け面をからかっている余裕はない。
見よう見まねで正しく行えているのかもわからない。が、躊躇していられない。一か八かで中身を肌の下へ注入していく。
「くっそ、お前も敵か!」
鬼気迫る表情で彼女が私を振りはらおうと身をよじった。慌てて注射針を彼女の中から引き抜く。銀色の針の先から液体が滴り落ちていった。
「ぐっ・・・あぁ!?あぁぁぁ!?」
注射が終わるや否やプラムは目を見開いて苦しみだした。痙攣し崩れ落ちそうになる体をどうにか支える。香水のきつい体がめまいを誘うが、ぐっと持ちこたえた。
その時、意識を吹き飛ばすような銃声が監獄の中を疾った。
入り口の前に立っていた男のうち一人が発砲したらしい。中央の男が持つ銃から白煙が立ち上り、硝煙の匂いが辺りを漂い始めた。
「ちっ」
編集長を狙ったらしい銃弾は彼の右へ逸れ、部屋の角にめり込んでいた。
「くそが!」
編集長がポケットから何かを取り出す。拳銃の形をしているが、それはカメラのはず・・・
放たれた弾丸は、男の手の指を吹き飛ばした。
「ええっ、えええええぇぇぇ!」
何でもないかのように、編集長は手に持った自動拳銃、正真正銘本物の凶器を次の標的に向けた。
カメラじゃないの!?本物!?
何でそんなものを!?
悲鳴、怒号、発狂。ありとあらゆる異常が、部屋の中でぐるぐると回っていた。
編集長に腕を撃たれた男は地面にうずくまって唸っている。残りの二人は一目散に逃げ出したようだ。
「リタ、脱出するぞ!」
「えっ、はい!えっ!?」
全くもって状況が読めてない中、いつの間にか意識を失ったプリムの体を抱きかかえる。
ぐらっと視界が揺れる。当たり前だ。自分に使うための鎮静剤をプリムに使ってしまったのだから。
編集長が駆け寄ってくる。気持ちの悪い熱を持った体、歪んだ視界の中、意識を保つのに苦戦する。
「容疑者は俺が担ぐ!走れるか!?」
「は・・・はい!」
「だよな、薬を他人に使っておいて、走れませんわおーんなんて許せねえぞ」
「言ってる場合ですか!」
プリムの体重が消えた。ふっと体が軽くなる。
「行くぞ!」
「いけます!」
緊張による疲労と体調不良で今にも倒れそうだ。が、ここから出ないことには始まらない。
監獄から抜け出し、来た時の半分もない速度でなんとか走り出す。
「くそ、シャッターが閉められてる!入り口からは出られねえぞ!」
「ど、どうするんですか!?」
「とりあえずここを離れるぞ!」
今すぐ敵が現れてもおかしくない。それでも目の前に向かって走る以外にできることはなかった。
「焦るな、絶対どこかに入り口とは違う搬入口があるはずだ。あんなふざけた入り口から荷物は運び出せない」
「それを探しに・・・?」
「いや、できれば敵の下っ端でも捕まえて尋問したいところだが・・・っと、分かれ道か」
またもやT字型の分かれ道に出たのだった。
「ちくしょう、どっちだ?」
「匂いじゃ判断できないですね・・・」
ヒントのないまま途方に暮れてしまう。
むしろ来た道を引き返して先ほどの監獄に倒れたままの男に聞くべきか。いや、あそこはスラーさんが暴れている場所に近いので、追ってが近づいてきている可能性がある。
自滅覚悟でどちらかを選ぶべきか。編集長に提案しようと口を開いたところで、
「そこ・・・右です」
編集長に抱きかかえられ、ぐったりとしたまま、プリムが唐突に答える。
「プリム!?」
「おい、今の本当か!?」
慌ててプリムに問い返す、が反応がない。
彼女は感情を失ったように虚ろな目で、床をただ見つめていた。
「・・・プリム?」
名前を呼ぶとぴくりと反応した。が、こちらを見る瞳に感情が灯ることはなかった。
「これって・・・?」
「・・・わからねえ、が」
編集長が少しずつ言葉をこぼす。
「おそらく洗脳を鎮静剤で解かれた・・・自我を失った状態だ。質問に対して条件反射的に答えたって感じだろうな」
「それって・・・大丈夫なんですか!?」
「心配すんな、病院で治療したら回復する、と思うぞ」
思わず言葉を失い、彼女を眺めてしまう。普段の大人びた仕草もさっきのような威圧的な態度もなく、ただ荒い息を繰り返すだけの彼女。胸が締め付けられるような思いに、涙がこぼれそうになる。
「ここから出なけりゃ元も子もねえ。今は彼女の言葉を信じて右に進むぞ」
少々の休息を終え、再び走り出す。自分でも異常だと分かるほど、鼓動が激しくなっているのがわかる。体が熱い。脳がふやける。
「そもそも、他の出入り口の存在は見つかってないんですか?」
「山の向こう、兎族や熊族の領地につながってはいない。まあ距離的に無理だろうからな。おそらく山の少し上のあたりにもう一つ出口があるだろう。が、今の俺たちじゃ距離的に難しい。おそらくもう一つ、市街地から荷物を搬入する場所があるはずなんだが・・・くっそ、一刻を争う状況だったとはいえ、地図が手に入らなかったのは痛いな」
「・・・方向すらわからないのはきついですね」
「せめて・・・いや、ないものねだりはやめておこう。ナビゲーターがいるだけありがてえ」
そんな会話をギリギリの状態で交わしていると、またもや分かれ道が現れる。
「おいわんこ、どっちだ?」
「ちょっと、そんな聞き方やめてくださいって!」
「・・・寝てねえか、こいつ?」
「え、本当ですね・・・ちょっとプリム、お願い!起きて!」
編集長の背中で眠る彼女を揺さぶってみるが、一向に起きる気配がない。
「どうしましょう・・・このままじゃ」
「おい、なんか変な音鳴ってないか?」
「え?」
耳をすますと、キュルキュルとした奇怪な音がかすかに聞こえてきた。
「なんですか、この音」
「工場の設備が稼働した?まさか、こんな時に?」
「ってか、近づいてきてますよ!?」
「は、はぁ!?」
次第に音は重みを帯び始め、体を揺らすほどの轟音となった。
「こ、これやばいですよ・・・」
「伏せろ!」
次の瞬間、地面が割れるような衝撃を感じた。
体が跳ね飛ばされ、何かに背中から叩きつけられるような衝撃に、意識が遠のく。
な、なにがあった?
そっと目線を上げる。
狭い廊下が赤い焔で焼かれていた。少し離れた場所にプリムと編集長が倒れているのが見えた。
助けないと、と体を起こそうとした瞬間、再び地面が揺れた。
「ぐ、ぇぇ・・・!」
壁なのか床なのか、何かに強く叩きつけられ、私の中の何かが切れた。
急激に暗くなっていく視界。その中で、揺らぐ炎が眩く輝き続け・・・そして何も見えなくなった。
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