第十四話 竹馬の友

「春瀬。汗だくじゃないか」

 統治府の三階。テラスのある部屋に接する控え室で、正装に着替えた真仁は案ずるように言うと、紫のハンカチをスラックスの後ろのポケットから取り出す。

「あ、いや、大丈夫だ。陛下。ハンカチなら持っている」

 同じくスーツにマントを羽織って畏まっている春瀬は、慌てて上着の内ポケットから青いハンカチをするりと抜いて、額に浮かぶ汗を押さえる。

「昔から変わらないな」

 隣のソファーに掛けながら、その姿に苦笑いする。

「合一の儀を軽視しているわけではないが、たかだか人前で抱擁し合うだけだぞ? 演説もないのに、どうしてそんなに上がるんだ?」

 そう言うと、けらけら笑う。

「た、たしかに、スピーチはないのだが……」

 顔が強張り、はっとして、深呼吸を繰り返す。

「究極のあがり症だな。人に見られて興奮するとは」

「へ、陛下!」

 また楽しそうに声を立てて笑うが、春瀬は眉を寄せて苦言を呈す。

「陛下。私は興奮などしていないし、そのように低俗な発言は控えるべきだ」

「まあ、僕も大王である前に、一人の男なんでね」

「陛下」

「分かった分かった。もうやめるよ」

 本気で睨まれ、両手をひらひらさせる。が、しばらく後、ふっと優しい笑みをこぼす。

「久しぶりじゃないか。こんなやり取りは」

 春瀬はどきりとして、しどろもどろになる。

「そ、そう、だな。色々、あったからな」

 色々とは、要はパンゲア政策を巡る対立のことだ。それ以外にない。

 真仁はほっと安堵の息を漏らす。

「しかし、良かった。政治的な対立が、お前と僕の仲まで引き裂かなくて。正直、心配だったんだからな。ここしばらくの間」

「そ、そうか……。それは、申し訳なかった」

「なに、詫びることじゃないさ。立憲君主制の母、氷野春成宰相の下で導入された、人民人権主義思想は健在だよ。千年以上前から君主以外の者にも守られるべき権利がある。自由に思いたまえ」

 そう言いながらも、内面は複雑だ。以前七海に語ったように、本心では未だに保守派の春瀬を政府から排除する口実を探し続けているのだから。

 だが、同じ理由から春瀬が除かれるのではと心配されていた合一の儀は、結局、両家の当主二人で執り行うことになった。春瀬としては自身の立場と氷野家の名誉を守るために当然の選択であったが、注視されていた大王は、検討の末に、春瀬を退ければ二人の仲の回復を望む臣民の期待を裏切ることになり、結局は自分への支持率の低下に繋がりかねないと判断した。パンゲア政策をより確実に実行するためには、焦らず、地道に地盤を整える必要がある。また、目下戦争の危機等の急務もないので、その時間的余裕がある。大王は明るく笑う腹の底で冷静に現状を見詰め、賢く現実的な道を選び取ったのだった。彼は理想家と言うより支配者なのかもしれない。

 けれども、個人的な信頼関係を心配する気持ちは偽りではない。その証拠に、真仁の顔には、子供のように純粋な喜びが湛えられている。

「昔は、よく一緒に氷野邸の庭で遊んだものだな」

 そう幼馴染に言われ、竹馬の友もつられて微笑む。

「そうだったな。……また遊ばれたいか、陛下」

「出来ることならな。だが、最近、めっきり体力が落ちた。と言っても、昔から貧弱な訳だが……」

 真仁は高齢出産だったためか、生まれつき体が弱く、基礎的な体力もあまりない。

「どうしてだろうね、幼い頃の方が、まだ元気だった気がするよ。剣などで多少は鍛えた今よりはるかに体は酷かったのに。そう、だいたい、親政を開始してから、そういった若さが……」

 そこまで言って、はっとする。

「いけない。こんなことを話したいわけじゃないのに」

 乾いた笑いをこぼす。忠臣は目を気まずそうに伏せると、用意されていたティーセットに手を伸ばし、大王が好きな英国のミルクティーを入れて差し出す。茶を濁す、ではなく、茶で濁す、だ。

「スコーンはあるかな?」

 作戦成功。真仁はもうお茶菓子のことしか頭にない。きらきら目を輝かせて、すさまじい変わりようである。

 春瀬が自分にはストレートティーを淹れている間、控えていた大王近衛兵が部屋を出て行き、間もなく、銀盆で、まるいスコーンを二つ、濃厚なクロテッドクリームとイチゴジャムを添えて持って来た。適度に冷めた紅茶を一口すすると、早速スコーンを横向きにナイフで二つに切り、たっぷりクリームとジャムをのせて頬張る。

「いやー、素晴らしい。甘いものには、格別のおいしさがある」

「そうだな」

 首肯しつつも、春瀬はクリームを自重して申し訳なさ程度にしか使っていない。もう一度言おう。“濃厚な”クロテッドクリームである。その脂質は推して図るべしだ。

 真仁が半分食べ終わりティーカップを手持ち無沙汰に持ち上げていると、春瀬がおもむろに口を開く。

「今日は秘書はどうしたのだ? 姿が見えないが」

 ぼうっとしていた目の焦点が、青目にぴたりと合う。

「お芭瀬は暇を出した。伊達派最大の祝祭日だからな。今日くらい休ませてやらねば」

「良いのか、それで。陛下は働いておられるのに……」

 相変わらず七海への当たりが強い。眉根を寄せて苦言を呈する。ところが、大王は笑った。

「何を言うか、春瀬。それなら、お前の従姉いとこなどもっと前から休暇を取ってるじゃないか」

「華穂お従姉ねえさまか?」

「そう。大王近衛騎兵隊隊長氷野華穂だ。本来なら、儀式中の余の護衛任務があるが、今年はどうしても里帰りして父に会いたいと言ってきたから、休みをやったんだ。秘書の七海より彼女の方が今日重要な仕事があったにも関わらず、休暇とした。それでいて、あいつにやらないというのは理不尽な話だろう? ただでさえ、就任以来、ほぼ無休で働いてもらってるのだから」

「それも、そうか」

 やや不服そうながら、とりあえず納得する。

 それからしばらくは、時事的な話や、氷野邸の庭に咲いた花の話、お互いの新婚の部下の話などをして、一仕事前に休日らしい時間を過ごす。そうして気付けば、数時間が飛び去り、日はだいぶ西に傾いてきた。合一の儀は日没の直前に行われる。儀式の会場がある統治府の三階は、最終準備のため、にわかに慌ただしさを増してくる。合一の儀の裏方仕事は、もっぱら氷野市の市職員に任されている。近衛兵が空になったティーセットを下げると、入れ替わりに黒いスーツで身を固めた市の職員が入室する。黒髪の下の表情は緊張し、目が少し泳いでいる。

「どうした?」

 良からぬ空気を察して尋ねると、その職員は震える声で説明し出す。

「合一の儀に先だって読み上げます祝電を整理していたのですが、何度確認しても、議会代表たる議長閣下からのものが見当たらないのです。その由を一応、陛下の耳にお入れしておいた方がよろしいかと思いまして……」

「……ほう。議長閣下がねえ」

 決定的な沈黙の後、遅れて聞こえてきた静かな怒声に、職員は思わず固唾を呑む。

「始祖両家への祝電を拒否するとは――反乱に等しい蛮行だ。図らずも春瀬をも侮辱して、もはやパンゲア政策から乖離しているではないか!」

 大王が木でできた椅子の柄を両手に握り締めると、ぼっと音を立てて燃え始めた。

「へ、陛下。落ち着くのだ。能力が暴走している」

 春瀬が青冷めてなだめる。しかし、彼女も激しい動揺で制御を逸したのか、辺りに突然冷気が立ち込める。

「まま誠、申し訳御座いません」

 死の恐怖を感じたのか、職員が咄嗟に頭を下げる。その後、冷気のおかげで火はおさまり、大王ははっと我に返ると、両手を空中でひらひらさせる。

「いや、いいんだ。お前は何も悪くない。……ところで、余の秘書を知らんか?」

「春川辺様でございましたら、まだ祭りに出掛けておられるかと」

「そうか。ありがとう」

 そうして、右手で一度払うような動作をすると、職員は頭を深く下げ急いで退室した。

「議会は愚かだな。馬鹿ばっかだ」

「正直、私としても心外だ。反徒を庇うことはさすがに出来ぬ」

 二人の君主が揃って遺憾の意を示す。国家一と二の権力者たる彼らに楯突いて得なことは一つもない。本当に愚かな選択をしたとしか言いようがないだろう。

 揃ってため息をつくも、反抗期なのか春瀬はすぐ様身を翻す。

「それよりやはり秘書が必要になったではないか」

 先ほどの会話を蒸し返して睨めつける。が、

「暇を言い渡したのは余だ。用件は帰って来てから言えばいい」

 ドライな顔をして非難を受け流す。

「だが、もしそれを頼めない状況になっていたりでもしたらどうするつもりだ?」

「例えば?」

 なおも食い下がるのに、議会への対応を考えつつ言葉を返す。

「例えば……そうだな――酒を飲んで、などだ」

 ははっと笑い飛ばす。

「それはないだろう。事故ならまだしも、酒はない。あいつは飲まないからな。職務後もいつもお酌ばかりで、自ら口をつけたことは一度もないんだ」

 明るい調子で言い切ってから、はたと何かに気付いたように固まり咳払いする。

「ちょっと手洗いに」

「陛下」

 立ち上がりかけると、その腕をぐいと握られる。

「な、何かな? 春瀬。用を済ませてきたいのだが」

「ほほう。手洗いが近いのか? だとしたら、腎臓が弱っている可能性がある。お酒の飲みすぎではないか?」

 幼馴染、または忠臣の咎めるような強い視線に身をすくませる。

「ままさか。そんなこと」

「では、昨夜と一昨日の晩とその前の晩は何を飲まれたのだ?」

「ああ、どれもいい酒だったよ。昨夜はねえ、フランスの上等な赤ワインを。濃厚でね、香りが実に素晴らしかった。チーズが進んだよ。一昨日は、日本酒だったな。酒は酒で、甘くていい。大好きだ。その前の晩は……そう! スコッチウィスキーだ! アイラ島のシングルモルト! これがまた驚くほどスモーキーで人によっては受け付けないらしいんだが、僕はたまらなかったねえ。あの独特の風味がほんとに素晴らしいんだって引っ掛けたな!?」

「自分で話したのだろう。余計なことまで微に細に」

 手を放し呆れた様子でため息をつく。

「ちなみに、今日の昼食と朝食は覚えているのか?」

「え? あー、えーと……その………何だっけ?」

「私は陛下の記憶力が本気で心配だ」

 がくっとうな垂れる。

「仕方なかろう。興味のないことは忘れるものだ。記憶は興味に比例する」

「なるほど。では、お酒の類には、並々ならぬ興味があると」

 さっと顔を背けて唇を突き出しうにゅうにゅさせる。

「鳴っていないぞ」

「えーい、うるさいなあ。飲むのは僕だ! 関係なかろう」

「陛下はお体が弱いのだ。心配にもなる」

「さ、酒は万薬の長だ」

「薬は適量を飲まねばならない。副作用の危険もある」

「口出し無用」

「家臣としての義務だ」

「僕の意見を尊重したまえ」

「時に周囲は事情を問わず悪童を叱る必要がある」

「悪童だと? おい、撤回しろ」

「一般論を言ったに過ぎない。誰も陛下だとは言っていない」

「要はそういうことだろう」

「撤回には応じない。必要がない」

「何だと、貴様っ」

「あ、あの、陛下。殿下」

 先ほどとは違う白髪の市職員が開け放されたドアの外側から呼びかける。二人はそちらを不満げに見やる。

「お時間で御座います」

 そう言うと頭を垂れる。

「ご苦労」

「手洗いは大丈夫か、陛下?」

 意地悪い笑みで問う。

「分かっているくせに」

「だからこそだ」

「まったく……」

 鼻からふーと息を吐き出す。春瀬も椅子を引いて立ち上がると、ぽつりと漏らした。

「本当に、このようなやり取りは久しぶりだった……」

 感慨深げな嘆息に、黒髪も縦に揺れる。

「子どもじみた喧嘩も懐かしきかな。これからも、よろしく頼む」

 忠臣は引き締まった笑顔で頷くも、すぐに霧がかかった。

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