猫の魔法のつかい方!
金巻ともこ
第1話
ハナの家にはウメという名の猫がいる。
斉藤ハナは日の出小学校に通う小学五年生だ。漫画家のお母さん、そして猫のウメと、日の出商店街から1本道を入ったところにある、小さくて古くて猫の額くらいのちっちゃな庭のある一軒家に住んでいる。
ハナが小学校から帰ってくると、いつものように台所のテーブルの上にお母さんが書いたメモが1枚置かれていた。
お刺身盛り合わせ
どうやら今日の晩ごはんはお刺身らしい。そのメモの下の方に猫のイラストつきで小さく吹き出しとセリフが描かれている。
今日はウメの誕生日!
今日がウメの誕生日だということをハナは知らなかった。気まぐれなお母さんが突然思い出しただけだろうけど、なんだかちょっとむかつく。だってお母さんはこの間のハナの誕生日をなんと10日も間違えてお祝いしたのだ。それなのにちゃんとウメの誕生日をお祝いするなんて。
「にゃおん」
そんなハナの足下にきれいな茶色と焦げ茶のしましまの体と、同じようにしましまの模様が入った長くてまっすぐなしっぽの猫がからみつく。ウメだ。
「あんた誕生日なの?」
話しかけたハナの言葉がわかっているのかわかっていないのか、ウメは自分のごはんのお皿の横にぴっちりと両手と両足をそろえて座るともう1回鳴いた。
「にゃう」
「ごはん?」
「にゃー」
どうやらお母さんはウメにごはんもあげずに寝てしまったらしい。ハナはウメのお皿にカリカリの乾燥キャットフードを1カップ入れる。ウメがお皿に顔をつっこんで食べ始めてから、ハナは電子レンジの中からおやつの小さなおにぎりを取り出すと、椅子に座って食べ始めた。おにぎりの中身はハナの大好きな佃煮屋さんの子持ち昆布の入ったおにぎりだ。商店街にある佃煮屋さんでは、アミとかジャコとかスーパーではあんまり見かけない、ごはんのおかずにぴったりの佃煮を大きな鍋で煮込んで作って、売っている。ちなみにアミは小さなエビで、ジャコはイワシのこどもだ。まだハナは食べたことがないけれど、イナゴだって売っている。イナゴはあのバッタのイナゴだ。おいしいのよ、と佃煮屋のおばさんは言うが、さすがに虫を食べる勇気はハナにはない。
猫マンガの連載を何本も持っているお母さんの仕事は忙しい。だから、毎日晩ごはんのおかずを商店街に買いに行くのはハナの役目だ。ハナはそれから遊びに行く。
ハナが家の手伝いをしなければならないことはお母さんが働いているんだから仕方ないとハナは思っている。晩ごはんの時間になれば、お母さんはちゃんとごはんを作ってくれるし、そういうわけにいかないときは、たいていレンジの中におにぎりが入っている。でもウメはそうはいかない。どんなときだってわがままで、自分勝手で、そしてハナよりえらかった。そしてそれは斉藤家のルールだった。お母さんは平気でハナよりウメをひいきする。もしかするとウメはお母さんよりえらいのかもしれないとハナは思うことがある。
一度ハナはお母さんに聞いたことがある。
「どうしてウメのほうがあたしよりえらいの?」
「だってウメはハナよりおねえちゃんなんだから仕方ないじゃない」
「猫なのに?」
ぜんぜん納得がいかない。あたしだってもうおねえさんなのに。
「猫とか人間とか関係ないでしょ? ねえ、ウメ」
「にゃう」
確かにウメはハナが生まれたときからずっと家にいて、たぶん猫としてはおばあちゃんといってもいい年齢で、ハナより年上だ。でもだからといってそれがウメがハナよりえらい理由にはならないとハナは思う。それにウメはつやつやした毛並みをして、いつもすました顔をして、しゅっとした細い体で、おばあちゃん猫にはぜんぜん見えなかった。お母さんのいうとおりおねえさんってかんじだ。
ウメはお母さんの言葉にはよく返事をするし、いうことをきくけど、きっとハナのことはたまにごはんを出してくれるめしつかいかなにかだと思っているに違いない。
そのうえ、ハナよりお母さんのことが大好きなくせに、寝るときだけはぴんとしっぽをたてて、すました顔でハナにくっついてきて、ハナのベッドに入り込み、ハナの邪魔をしながら寝る。そういうのもウメの気に入らないところだった。
ハナは食べ終わったおにぎりのラップを丸めてゴミ箱に捨てると、食器棚の引き出しから晩ごはんのおつかい用のお金が入った財布を取り出す。
ウメの誕生日のためにお刺身なのはちょっと気にくわないけれど、お刺身はハナもお母さんも大好きだった。
ハナはお財布を持って商店街へと買い物に出かける。
日の出商店街は、5分も歩けば60階建てのビルがあるようなところにある東京の商店街なのに、ハナの家と同じように古くて小さなお店ばかりが並んでいる。昔はもっとたくさんお店があってすごくにぎやかだったらしい。今商店街にあるお店で開いているお店は大体半分くらいで、あとの半分のお店はシャッターが降りたままだ。でも、今日も商店街にはたくさんの人が買い物に来る。なんといっても近所のスーパーより安いし、売っているものはおいしい。
「今日もかわいいね、ハナちゃん!」
まず声をかけてきたのは家から一番近いところにある天ぷら屋のおじさん。ちょっぴり太っちょで、油で汚れた白い調理用の服と、おそろいの帽子をかぶっている。おしゃべりが大好きで、買い物をしないお客さんやひとり暮らしのお年寄りともよく話し込んでいる。天ぷら屋といってそこで食べられるようなお店じゃなくて、お総菜の天ぷら屋さんだ。一番高い大エビの天ぷらは200円。イカの天ぷらは80円。一番安いちくわの天ぷらは60円だ。天ぷらもおいしいけど、40円で売っている天かすはもっとおいしい。
「彼氏とかできた?」
「そんなの、いないよ」
「じゃあおじさんが立候補しちゃおうかなあ」
ハナが答えるとおじさんが頭をかきながらうれしそうに言った。これもいつもの挨拶だ。
「おばさんがいるでしょ」
「いけねえ、あんまりにもハナちゃんがかわいいから忘れてた!」
ハナがあきれながら言うと、おじさんは笑いながら答える。
天ぷら屋のおばさんは外に働きに出ているけど、ふとっちょでお調子者のおじさんにはもったいないくらいのきれいなおばさんだ。おばさんというよりもおねえさんみたいに見える。ふたりの間には高校生の息子のケンイチくんがいる。
ハナは天ぷら屋さんとパン屋さんの間のすきまにするりと1匹の猫が入っていくのを見かける。クロだ。真っ黒で、細いわけじゃないけどすらりとした体をしている、まだ若いオス猫のクロはどこかで飼われているわけじゃないノラ猫だ。ハナから見てもかっこいい猫に見える。
天ぷら屋さんの前を歩いて行くと、パン屋さんに金物屋さんがあって、隣にはハナの大好きな子持ち昆布を売っている佃煮屋さんがある。子持ち昆布はまだちょっとだけ残っているから今日は買わなくていい。お店のおばさんがお客さんと話をしている横の地面で、ぴんと背を伸ばして両手両足をそろえてお行儀よく座っているのは、佃煮屋さんの看板猫のシロだ。
「にゃうん」
ちょっぴり甲高い声でシロがハナに向かって鳴いた。すると佃煮屋のおばさんがハナを見てちょっとだけ笑い、またお客さんの相手に戻った。
真っ白な体をしたオス猫のシロはおとなしくて、お店に来るお客さんたちにもすごくかわいがられている。お母さんのところに来るお客さんに、つんつんしているウメとは大違いだ。シロは、お客さんの顔を全部覚えているとおばさんは言っていたけれど、本当だろうか。確かにハナの顔は覚えている気がする。だってハナが来ると必ずさっきみたいに甲高い声で鳴いてくれるからだ。そういえば、シロもウメみたいにハナが小さな頃から知っている猫のうちの1匹だ。もしかすると結構おじいちゃんなのかもしれない。
それから八百屋さんに、お豆腐屋さん、乾物屋さんがあって、肉屋さん、その隣が魚屋さんだ。
「こんにちは」
「へいらっしゃい!」
ハナがお店に入っていくと、魚屋さんの威勢のいい声と一緒に、店の前に置かれている台の上でだらしなく寝ていた猫がちょっとだけ顔をあげた。魚屋さんちのトロだ。トロは商店街一のデブ猫として有名なオス猫だ。黒と灰色のまざったみたいなしましまの体をしているけど、おなかだけは真っ白だ。魚屋のおじさんはものすごくトロをかわいがっていて、ご飯には毎日魚のいいところをあげているらしい。トロのトロはマグロの脂身のトロから来ているともっぱらの評判だ。むっちりと太った体は、猫というよりトドみたいだ。
「お刺身の盛り合わせ、ください」
「あいよ!」
おじさんが威勢よく答える。魚屋のおじさんは商店街の野球チームの主将をやっていて、声が大きいし、体もスポーツマンってかんじで威勢だけじゃなくて姿勢もいい。でもトロに対してだけはものすごーく甘い。
「5つくらい盛っておけばいいかな?」
「お願いします」
お刺身を買って、ハナは店を出る。
「あ、ハナちゃん!」
そこに通りがかったのは同級生のカリンちゃんだった。カリンちゃんは短い髪にいつもズボンをはいていて、ちょっと男の子みたいに見える。ハナとは幼稚園から一緒の幼なじみだ。
「おばあちゃんちに行ってからハナちゃんところに行こうとしてたんだよ」
「私も今買い物が終わったところ」
カリンちゃんは、商店街からはちょっと離れたところにある高層マンションに住んでいるけど、そのおばあちゃんは、魚屋さんの裏でひとり暮らしをしている。カリンちゃんによると、それがカリンちゃんのお母さんとおばあちゃんのちょうどいい距離ということらしい。でも去年おじいちゃんが亡くなってから、カリンちゃんのお父さんはおばあちゃんと一緒に暮らしたがっているとか。
「いつも買い物しててえらいよね、ハナちゃん」
「そうでもないよ。じゃあ家で待ってるね」
「うん、あとでね!」
カリンちゃんが魚屋さんの裏の路地へと入っていく。買い物を終えたハナも家へと歩き始めた。
「遅刻するわよ、起きなさい! ハナ!」
「もうちょっとだけ……」
ごにょごにょと言ってハナはベッドの中で、声に背中を向ける。
昨日はカリンちゃんと遊んだあと、ウメのお祝いをした。〆切まっただ中のはずのお母さんはお酒も飲んでないのにものすごく元気で、ごはんがいつもより長引いた。ウメの誕生日とかいうのも、きっとお母さんが〆切からの現実逃避に思い出したに違いない。そのせいで夜遅くまで宿題の漢字の書き取りをやるはめになって、まだちょっとだけ眠い。
「起きなさいったら! ハナ!」
眠るハナのほっぺたをぺたりとなにかが触る。ウメの手(前足?)だ。ぺたっとしてる感触はウメの肉球で、外に出ないその肉球はぷにぷにしている。その肉球付きの小さな手がちょいちょいっとほっぺたを触って、ウメがハナを起こそうとするのは毎朝のことだ。このままハナがそのちょいちょいを無視し続けると、ウメの小さな爪がでる。ウメの猫パンチだ。傷にならないくらい、でもちょっぴり痛いくらいのパンチ。
「わかったわよ! ウメ!」
あきらめてハナが起きあがるのと同時に、ウメがベッドから飛び降りる。そしてベッドの下からハナを見上げた。
「にゃお」
「あれ? ウメだけ?」
ハナは首を傾げる。確かお母さんに起こされて、そのあとウメにほっぺを叩かれて起きたと思ったのに、お母さんは部屋にはいなかった。ハナが起きる前に部屋を出て行ってしまったのだろうか? それとも台所から呼んだとか? でも声はすぐ近くで聞こえたような……? 夢……?
「ハナーっ、起きてー」
今度は階段の下からお母さんの声が聞こえる。
「今降りる!」
ハナは答えると急いで着替えると、髪の毛をふたつに結び、カバンを持って階段を下りていく。その後ろからウメがついてくるのもいつものことだ。台所に行くと、朝ごはんの前でお母さんがテーブルにつっぷしていた。
「早くしてぇ、ハナ……お母さん眠い……」
どうやら昨夜は仕事で寝ていないらしい。
「その上なんだか昨日は外で猫たちがうるさくてさ……」
家の裏で猫たちがケンカでもしていたのだろうか。春先でもないのにうるさいのはめずらしい。
「だったら寝ていいよ、お母さん」
ハナはごはんと味噌汁を茶碗によそうとお母さんの前に座る。
味噌汁と納豆にもう1品、たいてい晩ご飯の残りのおかずと炊きたてのごはんが、斉藤家のいつもの朝ご飯だった。それに商店街で買った佃煮だの漬け物だのがちょこちょこと出てくる。
「いただきます」
「そういうわけには……ムニャ」
「にゃーん」
そんなお母さんの背中に向けてウメが一声鳴いた。
「あー……はいはい」
テーブルにつっぷしたままムニャムニャ言っていたお母さんがウメにごはんをあげるため、立ち上がった。ざらざらっとウメ専用の小さなお皿にペットフードがカップ1杯分注がれる。お皿にウメが顔をつっこんでカリカリ音をたてながらごはんを食べ始めると、お母さんはいつものようにウメの背中をするりと撫で、ハナに向かってニッと笑った。
「仕事終わったよー」
「え、終わったんだ。いつもより早い!」
お母さんの仕事はいつもギリギリで、〆切より早く終わることはあまりない。
「へへー。今日はおいしいもの作るね」
「うん! ごちそうさま」
ハナはお茶碗についた最後のごはんのひとつぶをつまんで口に放りこむと、食器を持って立ち上がる。食べ終わったお皿を流しに置いて、そのまま歯を磨いて、顔を洗って、家を出ればいつもどおり、ちょうどいい時間だ。ちなみに洗面台なんておしゃれなものはこの古い家には存在しない。玄関で靴を履きながらハナは台所に向かって叫ぶ。
「ちゃんとベッドで寝てよ、お母さん!」
「はーい」
「いってきます!」
「いってらっしゃーい」
「にゃうん」
お母さんの声のあとにウメの鳴き声が聞こえた。
商店街を抜けてちょっと曲がったところにハナの通う日の出小学校はある。
「おはよう、ハナちゃん」
「おはよ」
ハナを追いかけるようにやって来たのはカリンちゃんだった。
「昨日、あれから大変だったんだよ」
あれから、というのはカリンちゃんと遊んだあとのことだろうか。
「なんかあったの?」
立ち止まってハナが聞き返すと、カリンちゃんはものすごく大事なことを話すように一度大きく深呼吸してから言った。
「おばあちゃんのところに泥棒が入ったの!」
「えっ!?」
ハナは思わず叫び声をあげる。商店街で泥棒の話なんて聞くのは初めてだった。これはかなりの大事件だ。日の出商店街では基本的にあまり事件は起こらない。泥棒なんて話もハナが小学生になってから聞いたことがなかった。確かに日の出商店街はターミナル駅の繁華街まで徒歩15分の場所にあるし、すぐそばには大きなビルもある。でも日の出商店街に来るお客さんはほとんどが地元の人だし、暮らしている人は確かにいろいろだけど、それでも事件はほとんど起こらなかった。たまに起きるのは火事くらいだろうか。それもボヤ程度の小さな火事だ。
「それって夜?」
「ううん、ちょうどあたしがおばあちゃんちに行って、ハナちゃんちに行ったくらいの、おばあちゃんが晩ごはんの買い物にいったスキにだって!」
このへんの人たちは東京の都会に住んでいるくせに、ちょっとした買い物くらいなら家の鍵を閉めない。そこを泥棒に狙われたということだ。そういえば、お母さんは今日ハナが家から出たあと鍵を閉めたかな? ハナはちょっとだけ心配になる。
「こわいよねー。なんだかいろいろ持ってかれちゃって、昨日はお父さんもずっとおばあちゃんちだったんだよ」
「そっか……おばあちゃん大丈夫だったの?」
「大丈夫だったみたいだけど……心配。お父さんは危ないから一緒に暮らそうってまたおばあちゃんに言うって」
カリンちゃんが心底落ち込んだ顔をして言った。確かにひとり暮らしのおばあちゃんちに泥棒が入ったら、ハナもものすごく心配すると思う。
「おい、遅刻するぞ!」
クラスメイトの男の子がハナとカリンちゃんの横を駆け抜けながら言った。
「とりあえず、行こう!」
「うん」
ハナとカリンちゃんは駆け出す。
学校が終わる頃、ちょうど商店街はいい匂いがし始める。夕方に向けてお店が準備を始める時間だからだ。そして商店街の猫たちがうろうろし始める時間でもある。日の出商店街にはノラ猫が多い。といってもたいていの猫は半ノラで、それぞれのお店でごはんをもらったりしている。病気になったり事故にあったりするのがこわいからウメは家から出さないけれど、商店街の猫たちはおかまいなしだ。
「おかえり! ハナちゃん! 今日の髪型かわいいね!」
そんなハナに天ぷら屋のおじさんが声をかける。クロはたまに天ぷら屋さんでごはんをもらったりしているらしい。
「ただいま、おじさん。朝と変わんない髪型だよ」
「あれえ? そうだったっけ?」
いつも以上になんだかご機嫌そうなおじさんといつものやりとりをして、ハナは家に帰り着く。やっぱり玄関の鍵はかかっていなかった。朝からずっとあきっぱなしだったのかもしれない。お母さんにカリンちゃんのおばあちゃんの話をして、ちゃんと鍵を閉めてもらうようにしなくちゃ。
「ただいま」
「にゃん」
玄関まで出迎えてくれるのはウメ。お母さんはこの様子だとまだ寝ているみたいだ。またあのままテーブルで寝てるんじゃないかと心配になってハナは台所をのぞき込むが、さすがにベッドには行ったみたいだった。買い物のメモも置いていない。ハナはお母さんを起こさないように階段を昇る。階段を昇って左側がハナの部屋、右側がお母さんの部屋だ。お母さんの部屋の扉はウメが出入りしやすいようにちょっとだけ開いている。ハナはそのまま自分の部屋に入るとカバンを置こうとするが、その足下をウメがうろうろと歩き回る。
「にゃう」
「ごはん?」
「にゃー」
ウメがハナを見上げて甘えるように小さく鳴いた。ということは、やっぱりお母さんは朝から一度も起きてないらしい。ハナは階段を下りると、台所の床に置いてあるウメのお皿にキャットフードを1カップいれる。それからウメに背を向け、レンジを開いて、ラップに包まれた小さなおにぎりを取り出した。これがハナのおやつだ。
「いつも同じだと飽きるのよねえ……」
突然小さな声が聞こえた。女の人の声だ。たぶん若い女の人で、ハナが聞いたことのない声。慌てて振り返ると、そこにはウメしかいない。ウメはカリカリと小さな音をたてながらキャットフードを食べている。そういえば今朝聞こえた声もこんな声だった気がする。
「まさかね……」
寝不足でちょっと疲れているのかもしれない。ハナは冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐとおにぎりを食べ始める。いつもの子持ち昆布のおにぎりだ。いつも同じでも全然飽きない。
それにしても、この様子だと、お母さんは夕方まで起きないに違いない。
「ごちそうも怪しいなあ……」
つぶやいたハナの前でウメはすでに食事を終えて顔を洗っている。猫が顔を洗っているのは、顔を撫でているだけに見えるけど。
「どう思う?」
話しかけるとウメは顔を洗っていた手を止めてハナをちらっと見ると、また顔を洗い始めた。
「なーんて、ウメが話すわけないか」
ハナはおにぎりを食べ終わると、ラップを丸め、麦茶を飲み干す。
「晩ご飯の準備しとくかー」
立ち上がったハナはゴミ箱にラップを放り込んだ。
「なんにしよう」
冷蔵庫をのぞき込むが、たいしたものはほとんどなかった。ごちそうで、簡単で、なんだかうれしいごはんってなんだろう?
「やっぱりお刺身よ」
「えっ!?」
振り返ったハナを、ウメは両手両足をそろえてきれいに座ったまま見上げてにゃーんと鳴いた。
「ああああああ……あ、あんた今しゃべった?」
「しゃべったわよ。それがどうかした?」
ハナを見上げてすました顔でウメが言う。
「どどどどういうこと!」
あまりにも驚いて勢いよく後ずさったハナに椅子がぶつかり、がたーんと大きな音を立てて倒れる。
「あーあ、ユリが起きちゃうじゃない」
ウメがあきれたように言った。ユリはお母さんの名前だ。
「あ、そうだった……ってそうじゃない!」
「とにかく今日の晩ご飯はお刺身で決定ね。盛りつけだけですむしゴチソウだし、ユリも好きだしハナも好きだし、あたしも好き!」
それだけ言うとウメは大きく伸びをして、しっぽをたてておしりを振りながらのんきに歩き出す。
「ちょっと、ウメ!」
「なによ? おなかいっぱいになったから眠いんだけど」
ウメは顔だけ振り返って、大きくあくびをした。
「どういうこと?」
「なにが? 話があるなら早くしてくれない?」
「話……話……」
話があるかと言われると困って、ハナは考え込む。なにを話せばいいんだろう? そもそもどうしてウメがしゃべってるの? なんで? 意味がわかんない!
「えーとえーと、き、昨日もお刺身だったじゃない!」
慌てて思わずどうでもいいことを聞いてしまった。
「だって今日があたしの誕生日だもの」
ウメがなんでもないことのように答える。ということはお母さんはハナの誕生日のときと同じようにウメの誕生日を間違えたということだ。10日間違えるよりは1日の方がまだマシだ。ってそういう問題じゃない!
慌てるハナにウメはさらに言った。
「ついでにカリンんとこのおばあちゃんちに、お見舞いでお菓子でも持ってってあげなさいよ。やわらかいのね。パン屋のフィナンシェなんかいいかもね」
洋菓子も売っている商店街のパン屋さんのフィナンシェは、甘くてバターのいい匂いがして絶品の焼き菓子だ。遠くから買いに来る人もいるくらいで、お年寄りにも評判が高い。きっと入れ歯のおばあちゃんも食べられるだろう。
「心配ねえ、おばあちゃん。ひとり暮らしだし」
「そうじゃなくて!」
「そうじゃなくて? ちょっとそれどういう意味?」
ウメがようやくくるりとハナの方を向いた。ウメのきれいな眉間にシワが寄っている。
「あんたのくだらない話よりもカリンとこのおばあちゃんのことのがよっぽど大事よ!」
「そ、それは確かにそうかもしれないけど……」
確かにウメの言うとおりかもしれない。でも、今そんなことよりも目の前で発生している、ウメが―――猫がしゃべっているということがハナにとっては一大事だった。
「でも! なんであんたしゃべってるのよ!」
「そんなのどうでもいいじゃない。あー眠い」
ウメはもう一度伸びをすると台所から出て行こうとする。ハナにはもうひとつわからないことがあった。家から出ないはずのウメが、なんでおばあちゃんの話を知ってるんだろう?
「ちょっと待ってよ! あとなんでおばあちゃんのとこに泥棒が入った話を知ってるの?」
「さっき魚屋のトロが来て報告してったわよ」
トロがどうやって家の中にずっといるはずのウメに報告するのだろう。
「じゃああたしは寝るから。あんまり騒がないようにしなさいよ。ユリが起きるじゃない。晩ご飯楽しみにしてるわ」
考え込むハナにそれだけ言うとウメはしっぽをぴーんと立てたまま台所から出て行った。きっとハナのベッドの次に、お気に入りの昼寝場所になっている風呂場に向かったのだろう。ハナはウメを呆然と見送る。
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