序章
1
何だか、おかしい。
何となく、そんな気がした。
朝から俺は、ねだってもない不信感に苛まれていた。
八月二十四日、俺は家の自室で寝転びながら別に面白くもないまっさらな天井を見上げていた。まるで地球ごと火あぶりの刑にでも晒されているかと思うぐらい、炬燵に放り込んだような熱気が飽和する朝だった。
それもそうだろう、今が八月下旬とはいえ夏真っただ中だからだ。ほんの一か月前の、一学期の俺が急かすよう切に願った超特盛休暇である夏休みも、残すところおよそ一週間。今になってこうしてみると、なぜあれだけ心待ちにしていたか理解できない。多分、夏特有の伝染病か何かのせいだろう。
布団による俺への過剰なスキンシップでうっとおしいほど纏わりつく熱によって、俺の思考はびくともしない。それから、俺が急いで着替えて部屋を出たのは、今日が補習授業だと知り、そのとき既に遅刻だと知ってしまう、ずいぶん後のことであった。
今世紀最大だともいえる自転車での全速力と、補習授業であることで荷物が少なかったことと、その他様々な偶然であろう何かが重なって、俺は何とか二時間目までには間に合い、こうして教室で一息ついてる。
「よう、海崎」
ふと、後ろから軽々と呼びかける男は机に伏せている俺の肩をポンとひとたたきした。眠気抜けぬ体を動かすのも面倒なので振り向くだけでいた。
「あぁ、坂田か」
と俺は応答し、また外側に顔をそらし窓枠の外に広がるグラウンドに目をやる。少し塩っぽい海風が額をなで、アブラゼミからツクツクボウシへ打者交代した夏の大合奏が俺に夏の終わりを訴えかけてる。
夏だ。これ以上夏という言葉が似合う景色はないだろう。街を張り巡る自動車が日光を反射し、眼球への絶え間ない攻撃を仕掛けやがる。窓際からは涼しいような生ぬるいようなはっきりしないそよ風が吹き、便乗してカーテンが何やら楽し気に踊っている。
「なんだ、とうとう海崎も夏バテになっちまったか?」
「夏バテならまだ良かったが、あいにくバテてるのはもとからでな」
「最近、やたらと暑いよね。女子がスカートなのが少し羨ましいよ」
隣から、河内がよくわからん願望を伝えに参戦してきた。
すると、後ろの席に座った坂田はネクタイを緩ませながらわざとらしく長いため息をしてみせた。
「ったく、お前らだらしねえな。抜け殻になったような顔しやがって。俺なん、もう課題も終わらせちまったよ。時間はかかったが、終わっちまえばどうって事無かったさ」
そんな元気どこから湧いてくるんだ、俺にも少し分けてくれ。
その後も特に変わり映えしない、妥当な風景に俺は安堵する。今日という日も特に記録するような事もない意味のない日だ。しいて言えば誰かの何かの記念日ぐらいだろう。
「海崎隼人!またボーっとしてたのか!」
いつの間にか授業は始まり、とっくに俺は取り残されたままであった。
だが、授業には間に合ったとは言え、間違っても本心から勉強したいわけじゃない。
進学校の高校において、夏休み中に補習授業があるというのは一般的だ。誇るべきわが高校でも、夏休みをお盆を境に前期後期と分けて補習授業を実施している。そして今はその後期にあたるのだが、それだけなら順当な普通授業に比べて負担は少ない。
だけど、それでも夏休み中ほぼ毎日のように学校へ足を運んで授業を受けるという生活に、夏休みである事を忘れさせてしまいそうだ、全く不思議も不思議。せめて、週二日にでもしてくれれば教師共々も楽だろうのに。しかもその上、課題もたんまりあるのだ。
こう、考えるだけで背筋が凍りそうだ。いかに暑いとはいっても、そんなことは望まない。いや真っ平御免だね。
その後も、窓際最後尾という特等席でボーッとしながらも補習授業は淡々と過ぎていく。
「よっ、海崎」
「今からゲーセンにでも行かねーか?」
肩に一撃くらわしておいて第一声がそれか。坂田。
「俺はお前と違って暇じゃないんでね」
「あぁ、宿題か。早く終わらせろよな、あと一週間もすれば始業式だぜ」
ふん、そんなのぐらい知ってる。
「だいたい、夏の昼間から人工光と騒音に囲まれて遊ぶなんて、体に障るぞ」
教室から呑気な笑い声やらが次第にフィードアウトしていく中、隣でアホな提案してくるのをよそにせっせと帰り支度をまとめる。
「なにジジ臭いこといってるんだ。今年の夏は一回しかないんだ、楽しまなきゃ罪だぜ?」
どの夏も一回しかないだろ。アホか。
「それ以前に、俺は今所持金ゼロだしな。じゃ」
一方的に別れを切り出し、教室を後にする。
廊下ではまるで集団デモかストライキでも起きてるんじゃなかろうかと思うほど人が集まり、良く暑くないなと感心しつつ、間を縫うように廊下を抜ける。こんなに苦戦することだったか。
そして、俺は部室を経由して帰路についた。
ちなみに、部活にはほとんど行っていない。教室棟の階段で四階から三階まで降り、渡り廊下を通って部室棟へ行き、また一階分昇って角を曲がってすぐという立地の悪さが大きな理由だ。
そこは地学室とは名ばかりの書道用の教室であり、放課後は我が科学部の部室へと変わる。
慣れない先輩との会話にしどろもどろしつつ、恋人といちゃつく部長から今日の活動はない事何とか聞き出した。ここにも真夏の魔の手が迫っていたのか、ありゃ俺にとって目に毒だ。
とまあ、こんな感じで変わったこともなく八月二十四日は過ぎていったのだった。
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