となりのあがりもん

鱗青

第一話  いたみ ①

 黒い水の中に時折ぬらりと鯉の鱗が照らされて、また闇の奥に沈んでいく。僕は魚類、つまりサカナには痛覚を感知する受容器が無いのだと、何かの本で読んだことを思い出した。

 痛みがないというのは、それは楽なんだろうか、辛いことなんだろうか。確か何かの番組で、無痛症というのは肘膝の曲げ伸ばしにセーブがきかなくて(痛くないからどこまでも伸ばしたり曲げたりしてしまう)関節が極端に柔らかい(傷ついた)状態になってしまうのだと言っていた。

 あり得ない方向にぐにゃらぐにゃらと膝を曲げた女の子。顔にモザイクもかかっていなかった。TV局も適当なことをする。自分達こそ相手の痛みを識っているんだろうか?小中学の残酷な現実が分かってない。きっと今頃学校でも苛められているんじゃないだろうか。

「痛み、か…」

 石畳が敷かれた、城跡の堀端に屈み込んでこんなとりとめのない思考。ここは佐賀県佐賀市。その市街の中心地、東京で言うなら丸の内にあたる。いにしえの古城の石垣と、モダン建築が隣り合う場所。

 他でもないモダン建築のうちのひと棟、懐石料理店『きぬぎぬ』で腹に入れた懐石がこれでもかと胃にもたれている。もともと大食いではないが、脳細胞が腐ってきそうなかったるい会食だったせいなのか。

 前の学校の制服が小さくなってきていて、こうしてしゃがめばズボンの太腿がつっぱらかる。これもどうせ替えるんだから、どうでもいいけど。

 何とはなしに伸ばした指先。それが水に触れる前に大きな、棘を生やすクラゲの触手のような声がして、身体が固まる。

「やぁおおきにおおきに!そうしたらですよ、打ち合わせは来月の第二月曜日ということで。おお、ハイハイハイ、そちらさんも気ぃつけて。それじゃあそいぎ

 後ろを振り返りたくない。料亭の玄関口の方、ちょうど背後から聞こえてくる声。その発声点が上下しているのが分かるし、オクターブも高くなっている。

 へこへこと会釈をして、おべっかを繰り返してる───そんなお調子者づいた父親の姿なんか、見たくもない。

「───おい、帰るぞ。聞こえているのか───氷裂ひょうれつ!」

 名前を呼ぶのはいらついている証拠。全く、そんなに気分を害すのならプライドを捨ててまで金主にへばりつくなんてみっともないことやらなきゃいいのに。しかも陰で相手を「田舎の知障」とか最低な言い方で嘲笑しているもんだから、そのストレスが余計に高まるのだ。

「父さん、もうやめたら?その板についてない不自然な佐賀弁」

 僕は───刀指とざし氷裂ひょうれつは、水に一回右手の指先を全部沈めてから、おもむろに引き抜いた。冷たくて気持ちがいい。汚いぞそんなところの水に触って!…と、がなる父親の文句を無視する。

 濡れた手の先は皮膚が輝いて釉薬を使った陶器みたいだ。そのまま天に向かってかざすと、大きな半月が人差し指と中指で挟めた。

 溜息をついて肩の力を抜く。それから呼吸を止める。意識を集中。手の甲、いや指の爪の先まで。そこにだけ力を込めて、空中に停止した指からもう一本、新たな指を生やす気持ちで───

 ざり、と爪が伸びた。それだけでなく形を変える。みるみる灰と黒の混じった鉤爪になって、指の背に剛毛が生え揃う。それはもう人のものではなく、獣の───

「氷裂!お前!!」

 後ろからの声が拳に変わり、脳天をバコンと叩かれた。

 なんてことないショートカットの高校生。頭蓋骨は小さく手足は長く、顔立ちは端正というよりカワイイとか言われるほうで、バスケをしていたから身長はそれほどでもないけど贅肉もない。東京都内ならどこにでもいる、平均よりちょっとだけ容姿の優れた、そんな、僕。

「何をやっている、早くしまえ!!」

 外見は40台半ば、実際年齢は38歳の、アイビールックに身を固めた中年男。上背は僕よりあるけれど、横幅は僕より少しばかり細い。おまけに下腹がポコンと出っ張ってきている。ちょっとだけオシャレな、でも隠しようもない中年体型の男。そんな、父。

 ぶりぶりと汗を水蒸気に変えて頭皮から噴煙を上げる父に、右手首を乱暴に握られる。痛いな、と言うとそのままズボンのポケットに突っ込まれた。

「何を考えているんだ!こんな往来でアガるなど」

「父さんこそ考えた方がいいよ。ここ、高級なお店じゃないの?店先で大声出すなんておかしいよ」

 ハッとして周りを見やる。すれ違う人たちが親子喧嘩かと笑うのを、別な意味で心底恐れている様子で。

「───もう帰るぞ。その手、早くサゲろ」

「もうサゲといたよ。それにアガったのだって指先だけじゃ───」

 うるさい、口答えするな!そう強く言い放つワックスべったべたの頭髪が薄い父───刀指高坏たかつきのくしゃくしゃに赤らんだ面に、僕は内心であっかんべー!をする。

 タクシーは父が携帯で呼んだ。10分も待たせず到着した、いかにも人の良さそうな禿頭とくとうのワイシャツのおじさん───確か父の知己の同級生で、こっちでの生活では地域の顔役として各方面との調整に奔走してくれている。森野々宮もりののみやさんだっけ。

 あぁちなみに、このひとも、あがりもんだ。

 歩道から父は後部に、僕は助手席に、そしてさっきまで完全に気配を消していた弟は父の隣にぴったり寄り添って座る。

 弟、刀指青磁せいじ。僕よりも寡黙で僕よりも整った顔立ちで、僕よりも父に可愛がられている5歳児。最近第一回目の成長期に入って背丈が伸び、もう僕の腰につくまで頭が高くなった。

「セイ、さっきの店にあった飴、いる?」

「またおまえ手癖の悪い───」

「いーじゃんレジんとこに置いてあったんだから。無料でしょ?サービスはできるだけ利用しないと損だっていつも言ってるくせに」

 僕の指につままれた飴の包装…妖怪ウォッチの例のアレがプリントされてる…に青磁の瞳が反応する。手を伸ばしてこないので、半ば無理やり押し付けた。

 あり、が、と。青磁は薄く唇を動かして発音する。

「いいって、ところでそれ何味だった?」

 僕は自分の分の飴の青い包装を広げてぱくりとやる。これは…ソーダ?

「…たぶん…オレンジ…?」

 なんだそれ、キャラの体の色まんまじゃん。ひねりが無いな!と言うと、そうだね、と言うように小さく笑う。

「仲のよかご兄弟ですねぇ」

 不意に会話に参加してきた森野々宮さん。父は「いやぁ、下の子は素直なんですけどおとなしゅうて、上のそいつは反抗期でかなわんです」と頭を掻く。

「上のお坊ちゃん、学校はどこになるんです?もう明日から?」

「ええ、明日から通わせます。市内の、お城の近くの公立高に」

「へぇ、そうしたら鍋島高校!へぇ〜、君、頭よかねぇ」

「まぁ、頭が良いと申しますか…息子のことは教育関連の世話役が推薦してくれてますから」

 ああそうかそうか、そいけんがぁ成績とかチョビっと下駄履かせとるばいね!開けっぴろげにそんな事を口にする森野々宮さん。対してバックミラーの中では父が顔を引きつらせている。

 きっとあの薄い髪の下で「もっとオブラートに包むかしろよ、お前の息子も大したことないなって言うようなものだぞこの田舎者!」…とか考えてるんだろう。

「九州はあれよ、あがりもんの多かけん。ぼっちゃんもすぐ友達のできよらすよ」

「そうですかねぇ、こいつ、誰に似たのか愛想ってもんのなかで」

 いきなり身体が前に飛び出した。シートベルトが肩と胸と腹に食い込む。青磁が声にならない悲鳴を上げ、父が「なんだ、急に!」と誰に対してか毒づく。

 森野々宮さんが血相を変えて窓を開ける。

「こぉらぁ!!ヒトシぃ!!」

 闇の中で浮かび上がり動きを止めた、自転車の相手。ブレザーのズボンにジャケット、ワイシャツの前ははだけてネクタイをしていないけれど、どこかの制服だっていうのは分かる。

 いや待てよ、僕が行く予定の市立高校のブレザーだ。

「よー、お父ちゃん」

 タクシーのライトの端に照らされたのは、敬礼のポーズで眩しそうに目を細める前髪以外を坊主頭にした高校生だった。

「よぉ!やなか!お前なんして飛び出しすっとか!危なかやろが!」

 自転車に跨ったそいつは、TOMMYの大きなウレタンバッグを入れた前カゴに腕を突っ込んで引っ掻き回し、ビリビリに千切れかけたチラシを抜いた。

「お母ちゃんがなー、マックスバリューでなんか色々買うてきて欲しかって。偶然見つけたばってんが、ちょうどよかけんお父ちゃんに乗せてってもらお思って」

「アホかお前、今お父ちゃん仕事中やぞ」

「あの、近かとこでしたら構いませんよ。そちらのボクも同乗しても」

 またこの父は、いいところを見せようとして見栄をはる…僕は頬杖で外を見る。真っ暗闇の田んぼが広がるだけだ。

「いやそりゃ悪かけんですよ、こいつはここで待たして」

「良かですか?そんならおっ邪魔っしまーす!!」

 おいおい、断ろうとする森野々宮さんちちおやを無視して乗り込んできたぞ。こいつマジかよ?

 気を利かして右側に寄る父と弟の横にヒトシはずずいと身体をねじ込む。車体が一瞬みしっと左に傾く。こうして三人並ぶと、森野々宮さんの息子とやらはガタイが良い。ちょっと太り気味だが身長(座高かもしれない)があって身体に厚みがある。

「やどーもオジサン助かります!あ、オイは森野々宮ひとしです。よろしくお願いします‼︎」それはいいが自転車は?と尋ねる父に「あー、またスーパーの帰りに父ちゃんに拾ってもらうんで、それまであそこに置いときます」

 なるほど、スーパーで買い物をしてる間に森野々宮さんが僕達をマンションに送り届けると計算してるのか。

 しっかし、うるさい奴だな…声もでかいよ…

「ちょい狭かろ?キミ、兄ちゃんの膝に乗るか!」

 僕はバッと振り向いた。無遠慮なソイツは、今まさに青磁を大きく開いた自分のガニ股の間に据えたところだ。名前の通りロクロに立てた青磁のように、可哀想な弟 は目を見開いて固まっている。

「おい!あんた、ちょっと馴れ馴れしくないか⁉︎」

「ナレナレ…?」

 鼻が潰れたように低くてでかいところと目玉がギョロッとした三白眼であるところは森野々宮さんとよく似た斎とやらは、肩をすくめる。僕の中で何かがブチッと切れた。

「セイが…弟が怯えてんだよ!元に戻せよ!!」

「そっかー?なー、お兄ちゃんあんなん言うてるけど、兄ちゃんのこと怖いかー?あ、兄ちゃんてなオイのことな。お兄ちゃんてな前に座っとるスカした奴のことな。な、どがん?怖かか?」

「す、スカしたつったか!?おいセイ、イヤだろ?イヤなことは僕に言っていいんだぞ!?」

「なんーもう大袈裟やんなぁ、うちの婆ちゃんみたいや」

「婆ちゃん!?普通そこはお母さんだろ!!」

 キャキャッ!聞いたことのない音がした。

 今度は僕が刮目する番だった。言葉による意思の疎通が図れるようになってこのかた笑ったことなどない僕の弟が、軽度自閉症を患っていて治療中の青磁が、当たり前の5歳のようにケラケラ笑っている。

「マジかよ…」

 ほらー、なー?歯をむいて笑うガチムチ野郎が神経を逆撫でする。

「おー、セイって言うたっけ?お前良かー匂いさせてんなぁー!もっと嗅がして!くんくん。何の匂いかなこりゃー」

「お、お、…オレン、ジ」

 青磁が家族の誰よりも懐いている僕に話すときみたいに、いやもうちょっと嬉しそうに、デカブツに髪や頬っぺたを嗅がれている。

 僕はぶんむくれて前を向く。父は愛息の人生初の高笑いを引き出した斎に興味津々、色々話しかけている。

 トトトントン、と肩口を叩かれた。

「なぁなぁ、氷裂」

 なんだこいつ!下の名前でいきなり呼ぶとか信じらんねぇ!

「名前で呼ぶなよ」

「じゃヒョウ。レッツがよか?ヒョウレッちのがよかかにゃー」

「だから仇名で呼べとかそういう意味じゃないから!第一そんなに親しくないだろ!」

「こいから親しゅうなればよかろうもん。お互いあがりもんなんやし、さ」

「知らないよ…僕は特に誰かと馴れ合うつもりないから」

「一つ聞きたいことのあっさ」

 本当に人の話を聞かないな!

「お前のお母ちゃんはどがんして来んと?仕事か?」

 車内の刻の流れが変わった。

 森野々宮さんは、佐賀のあがりもんの、特に僕達がこれから住む地域の顔役だ。この馬鹿もその息子だというのだから、こちらの動向や素性などある程度のことは聞かされているのは当然のこと。

 けれども内情の詳細は別だ。東京で陶器デザイナーとしてそれなりに成功していた父が、本州から離れてなぜこんな田舎に来たのかと、その田舎に暮らしてきた人間なら気になって仕方がないのだろう。

 悪気は無い。無いからこその、暴言。時間という医師が緊急に縫合しかけた傷口へ、オペ室に乱入してきたチンパンジーがフンまみれの指を突っ込んだようなもの。

 さすがの父も押し黙る。青磁はいつも通り返事なし。

 僕はこの能天気な野人に通じるよう、その無邪気な顔に言葉を丁寧に叩きつけた。

「うちの母親は、あがりもんじゃないよ。普通の人間さ。だけどあがりもんのこともよく知ってる。もう離婚したけどね。今はいくつかの条件と監視付きで、あがりもんのソーシャルネットから解放してる。…あとまぁいざこざがあって、僕達は佐賀こっちに引っ越してきたんだ。分かった?」

 離婚、のあたりから斎の視線が下がってきた。今更ばつが悪い風にしたって遅いんだよ!

「あんた、他人の家庭にズカズカ踏み込むの好きなの?ゴシップとかそんなに聞きたい?これで満足した?」

「…うーん」

 さて、これでひと段落かな。自分の息子と東京からの移住者の息子がいがみ合うのかと気まずい苦笑を浮かべている森野々宮さん。あんたには安心しろと言いたい。

 僕はさっき言ったように、ここで、この土地では誰とも馴れ合うつもりはないんだな。それがたとえ同類のあがりもんだとしても。

 歴史で習うユダヤ人や華僑やロマ民族のように、一つの国の中の多数の潜在的な脅威───普通の人間に混じって暮らす、普通とは異なる存在。

 それがあがりもん。

 あがりもんが普通の人間と異なる点は単純明快、たった一つ。

 あがりもんは変身することができる。獣と人の混じった姿へと。

 外国のあがりもんのことは知らないけど、日本では僕達は卑屈ではない意味で分際をわきまえ、厳しい掟を自分達に課すことで平和裡に生きている。

 特別なことじゃない。きっとほかの国にもあがりもんやそれに近い人々がいるはずだ。一般常識や建前は大多数と変わらず、コミュニティが国という枠の内にもう一つあるだけで他のことは普通の人間と何も変わらない。礼儀とか付き合いとかちゃんとあるし。

 だからこの後の斎の発言に僕は肘ごと窓からずり落ちた。

「そしたら氷裂の漢字からとってアイスってアダ名で良かな?がばカッコ良かし」

 ちょっとは人の話を聞け!



 森野々宮のおじさんは気を利かせてマンション入口までタクシーを横付けしてくれた。それはありがたかったけど、別れ際に近所にいる噂好きのおばちゃん(あがりもん)のこと、そのおばちゃんと仲の悪い半分ヤクザみたいな一家(こっちもあがりもん)のこと、そのふた組の熾烈なるご近所戦争のこと、などなどなどを聞かされてしまった。

 親切とお節介で総合点は±プラマイゼロ。残念な人だよなぁ。マイナスじゃないからまだいいけど…

 まだ幼稚園児のセイは眠たいのだろう、エレベーターに乗ると僕にぴったりくっついて重い頭を僕の足にもたせかけてきた。

 手を握ってきたので握り返してやる。小さな掌から指先まで、ほっくりと温かい。

「今日は色々連れてかれたし疲れたよな。眠いか」

「…ん」

「ははは、お兄ちゃんもだ。はぁーぁ、早く16階に着かないかなぁ」

「眺めが良くなったんだぞ、文句言うな」

 新居にケチをつけていると勘違いしてる父親がこれまた、ウザい。

 腹に抱えた不満をぶち撒けたらこんなもんじゃ済まないっての。

「…別にそんなつもりじゃないよ」

「ならいい」

 東京の江戸川区にあった前の家は賃貸に出した。管理も専門の業者にお任せにしてしまったので、後顧の憂いも無い。

 一軒家よりは面積は少ないけど、築年数が新しくてそこそこ快適なこのマンション。1602号室が今の僕達の生活空間。

 玄関を入ってすぐ左にトイレとバスルーム、右手には短い廊下があってそっちに折れると右側に僕と青磁の部屋、突き当たりに父の部屋。で、さっきの入ってすぐの廊下の先がキッチンとリビング。

 今日はもうヒットポイントがゼロだ。転居の当日に地元の製陶関係の偉い人との会食に付き合わされて、なんだかよく分からない転校先の先輩になるとかいう奴にイラつかせられて、ドッと疲れている。

 玄関をくぐるなりリビングに突進、ソファに思い切りダイブする。青磁が、てとてと、と後からついてきて手持ち無沙汰なまま僕の傍に立ち尽くす。

 顔立ちの中に父さんと母さんの良いところだけ集めたような弟は、無表情で俯いたまま。その視線は僕よりも自分の手にぶら下げているもの…あの後、車内で斎から貰っていたゲーセンの景品…ジバニャンストラップに注がれている。

 言葉は無い。でも分かる。僕はそっと手を伸ばして、不器用な弟の心配を取り除いてやるように、瞳にかかりがちな前髪をいてやる。

「大丈夫だよセイ。お兄ちゃんもちょっと疲れただけさ。あのアホがね、ちょいウザかったから。休憩中!」

 ん、と首をかしげる仕草。珍しいな、セイは他人を気に入ることは滅多にないのに。

「…別に喧嘩したわけじゃないよ。僕みたいなタイプとあのうるさい奴だと相性が良くないだけ。でも、セイがあいつのこと好きなんだったら、一応切らずに仲良くしてやるよ」

 大きな湖のような瞳の底で喜びが閃いた。正直、ああいう粗雑ガサツで乱暴な歳上の人間にそんなに懐くとは驚きだ。ちょっと嫉妬さえ覚えてくる。

 青磁はこちらの物思いなど無頓着、大事な宝石みたいにストラップを掌でくるみ、頬ずりしている。夢を見る小動物のようで、クスリとしてしまう。

「まぁまぁ良さそうな子だったな、あの斎君というのも。少し品がないが、都会の子のようにすれた印象はしないしな」

 クローゼットに上着をしまってきた父が、首を廻してパキポキ鳴らしながらリビングにやってきて、カーテンを開く。

 16階のベランダは夜景に浮かんでいた。地上が遥か下方にあるようにガラス戸に映る。

「うん、高みから街を見下ろすのも悪くはない」

「そーゆー科白言ってるとアニメの悪人みたいだよ。で、そーゆー奴ってさ、すぐヒーローにやられちゃうの」

 振り返る父親も少し表情から棘が抜けていた。「お前もテレビばかり観ていないで勉強の方をしっかりしろ。市立に入れたのは半分以上お前の実力だが、転校してすぐは授業に追いつくのに手一杯だろう」こちらに来て、青磁の頭をポンとタッチしていく。

「今日はもう早く風呂に入って明日に備えろ、何せ初めての登校なんだからな。私も明日はホテルで取引相手との打ち合わせだ。忙しくなるぞ」

「うん」わかってるってうるさいな、と続けざまに言うだけの気力ももう無いや。「じゃセイ、一緒に入ろうか」

 コクリと頷く弟は、しっかとストラップを握ったままだ。こりゃバスルームの中まで持っていくつもりだな。

 んー、よいしょっ!と勢いで体を起こし、バスルームに繋がる洗面所へ。

 浴槽に湯を張って、バスタオル準備して、あと身体を洗うものを用意しないといけないのか。

 洗面台の下を探る。ええと、シャンプー・リンス・ボディソープ…

 ビオレ。買ってきたまま未開封のそれを手にしたら、声がした。

───ねぇ、今度身体洗うときはこのボトル使ってね。中身を詰め替えてみたのよ、これに変えたら肌荒れおさまったって、お隣の内田さんに聞いたから。氷裂くんにもいいかなーって。どう?

 肩にかかる髪、僕よりちょっと背が高い。細い肩に長い手、少し鼻にかかる声優みたいな声。CMを真似て、ビオレママにっなっろっお〜弱酸性ビ・オ・レ‼︎と調子をつける。

───え〜、なんかこれ使うの恥ずかしいよ〜!完全なママブランドじゃん!普通のやつでいいのに〜

───そう言わないで!騙されたと思って試してみたら?意外といいかもよ。

 茶目っ気たっぷりの母の顔。結局あの家ではこのソープを使うことはなかった。

 母さん。今頃あの人はどうしているんだろう。1人でどこかのマンションで夕食を済ませて、1人でこんな風に風呂に浸かる準備をしているのだろうか。

 僕の肌荒れはボトルの中身の効果を試すまでもなく、始まってからすぐにおさまった。あれは皮膚の不調ではあったけれど、第二次性徴であがりもんとしての体内バランスが不安定な時期に起こる自然な現象だったのだ。

 父からそう教えられた僕はいさんで母に報告した。そして末尾はこうだったのを憶えている。

───お母さんは、普通の人間であがりもんじゃないから、知らなくてもしょうがないよ!

 母さんはそれを聞かされた時、眉を少しだけ上げる感じで微笑んでいた。

───そう、ちょっと早とちりしちゃったね。

 僕に悪気はなかった。そのぎこちない微笑が、崩れかけの泣き顔なんだと分からずにいた。

 あの一言がどれだけ母さんを傷つけたのか、今なら少し分かる。あのとき母さんは痛かったはずなのだ。それなのに気取らせまいと努力をしていたんだ。

「ー…なんだかな」

 このことだけじゃない。僕が母さんをもっと深く傷つけたのは、ついこないだのことだ…

 僕は目元をぬぐった。そして、深呼吸をしてこみ上げる嗚咽を飲み込んでから、青磁を呼んだ。

「おいでー、セイー!お兄ちゃんとお風呂に入ろうー‼︎」



 この高校は、商店街が近くにあるというのに、まるで静謐な針葉樹林帯の中に建っているようだ。

 僕は今朝おろしたての鍋島高等学校の制服である上着が濃緑でズボンが灰色のブレザーとワイシャツ、ワインレッドのネクタイに身を固め、無意識に肩をガッチガチにいからせて校門を抜ける。

 マンションから学校までは徒歩圏。通学に10分とかからない。昨夜「一人じゃ心細かろうもん?おいが一緒に行ってやるよ」という斎の提案をああだこうだと理由をつけて断ったが、やはりちょっと緊張する。…別にそれを後悔はしてないけど。

 青磁のほうは父親に付き添われて幼稚園に行っているだろう。あのアホな父親が青磁の担任の前で、またぞろ珍妙な佐賀弁を使っているのを想像しただけでも顔から火が出そうだ。

 いやいや、まずは自分のことだな。今日はこの学校のあがりもん仲間にもできるだけ挨拶して回らないといけないんだ。ここでまで村八分にされたら、相当面倒なことになるぞ。

 もうほとぼりが冷めるまで関東には戻れない。それだけの失態を刀指家はやらかしている。だからこの土地に逃げてきた。

 馴れ合う気はないけれど、些細な義理を欠かしたせいでいらぬ反感を買って、後々余分なエネルギーを使うのだけは避けたいからな。それぐらいなら今日明日だけは愛想良くしておくとも。

 下駄箱で自分の靴箱を探す。出席番号28番はA組の並びのど真ん中。一人二人のクラスメイトらしき生徒がチラと僕を見たが、大きな関心を寄せるでもなく離れていく。

 群れなす大勢の中に見たことのない生徒が一人混じっていたところで、それこそアニメとかドラマみたく

「ねぇ、あの子見かけない顔だよね?」

 などと、これ見よがしにヒソヒソ話を交わすことはない。

 職員室での扱いも素っ気なかった。ヨーロッパの寒村のお祖父さんかというような古びたチョッキとウール地のズボンの、爆発白髪頭な先生が

「ん・む」

 と頷いて、氏名を名乗り神妙にする僕に校則その他が記載された生徒手帳と季節外れの入学のしおりを渡した。

え、これだけ?

「ほんじゃ教室に行っとって。もう担任は先に行っとるけん」

 学年主任と校長・教頭のミーティングだからと職員室を追い出され途方に暮れる。予鈴が鳴ってる。廊下を駆け抜ける生徒に声をかけるタイミングがつかめず、ぽつねんと取り残された。

 だんだん心細くなってきた。どうしよう。どっちに行けばいいのやら全然見当がつかない!

 冷静に考えれば教室に『◯-A』といった学年クラスが振られているのだから、ゆっくり歩いて探せばいいのだという事に考えすら及ばなかった。

 あー、と右へ、うー、と左へ。僕は獲物を見失ったホラーゲームのクリーチャーみたいに廊下を右往左往。

 もうこうなったら馬鹿とかトロいとか思われても構うもんか、大人しく職員室のミーティング終了を待てば良いんだろ!?

ドスン!

 肩口に何かぶつかった。「いてっ」さほど痛くもないのについ言ってしまう。

「きゃっ!!」

 相手のほうが突き飛ばされたようによろめいて膝をつく。僕と同じ濃緑のブレザーの上着に、下は灰色のスカートだ。女子用ネクタイのリボンが白いワイシャツに映えて眩しい。って、ヤバ、女の子じゃないか!

「ごっごめん!大丈夫?」駆け寄って何も考えずに肩に触っていた。「本当に、ごめんね!」

 うわ。物凄く艶のある黒髪だ。余った分を後ろに垂らしてサッと結んである。瞳が大きくて鼻も高いし口はちっちゃい。それで頭自体が小さい。肩幅も細い。清楚な東洋人のビスクドールみたいだ。けど胸がたっぽりしてて…お尻が…

て、何考えてんだ自分は!転校でテンション上がってるのか!

「あ、うん平気。私もぼうっとしてたから」

 スカートの膝を軽く払って立ち上がる、その相手は窓から見える青空が背景によく似合う子だった。

「っ…」

 女の子は唐突に左肩を抑えてうずくまった。びっくりしたような横顔が己の肩口に向けられている。思ったより強くいためたのかもしれない。

「やっぱどっか当たってた!?保健室行く!?」

 ああでも保健室がどこなんだか分からない!

「ううん、いらないわ。そんな大騒ぎしないで大丈夫。宿題してて寝不足なんよ」

 よく見ると、表情は照れている感じだけれど顔色が悪いような気がする。

「あなた綺麗な言葉しゃべるのね。どこから?」しっかり立ち上がる。ひとまずは安心した。「転校生?」

 その言葉を待ちかねていた。僕は、相手の質問に「東京の江戸川区からだよ」と答え、さらに教室がどこなのか分からないことを矢継ぎ早にまくし立てる。

「1-Aなら、隣のクラスか。もう予鈴鳴っちゃったけん、一緒に行きましょう」

「あ、ありがとう。そうだ、僕は刀指氷裂。君の名前聞いてもいい?」

「私は市原いちはらアサヒ。E組よ」

 願ったり叶ったりだ。肩の上にのしかかっていた鉄の鎖のような緊張が、ジャラジャラ音を立てて解(ほど)けていく。

 教室に行くまでに、2.3質問混じりの会話をしながら、僕は鼻先に意識を集中した。結果に満足して、頷く。

 この子は、あがりもんじゃないな。

 同胞でないのは残念だけど、かえってほっとした部分もある、そんな気分。

 美少女に転校初日に曲がり角でぶつかるなんて、ありがち度合いでは一周どころか何百周も回ってバターになってしまいそうなシチュエーション。さらに相手があがりもんであったなんてことになったら、ちょっと運命の歯車が噛み合いすぎてて僕には荷が重い。学校でぐらい余計な気は遣わないでいたい。

 鼻で判別。そう、僕達あがりもんは、匂いからお互いをそうと知ることができる。普通の人間からすれば多分に動物的な判別法。でもそれほどまでに外見も内面も戸籍も職業も、宗教だって普通の人間と変わらないのだ。

 果たしてそれがホルモンなのかそれ以外の分泌物なのかは謎だが、あがりもん同士はあがりもんに特有の匂いを自然と覚え、嗅ぎ分けてきた。

 うちの父親も青磁も、森野々宮さん達も、東京で親交のあった人達も、あがりもんの匂いが多かれ少なかれ漂っている。

 匂い自体は珍しいものではない。敢えて例えるなら僕には林檎の香るがごとく感じられる。他の人では「味噌臭い」とか「紫蘇の匂い」とか受け取り手により感じ方は異なる。

 父の理論によると「感覚が統一されていないということは、まだ我々が発展途上の人類であるという証拠だ。つまり、普通の人間達に比べたら、明らかに我々が進歩的な種族なのだ。誇っていいぞ」だそうで、自分で自分の考え付いたというという理屈に酔ってそっくり返っていた。

 僕の見解は父とは90度異なる。普通の人間に比べて劣ってはいないことは確かだが、裏を返せばアガることができるという特徴の他にはこれといって取り柄のない人類なのだ。

 種の優劣から話を戻して。

 大体が、もしもあがりもん臭にそんな激しく特徴的な点があったならば、とっくの昔に普通の人間達に狩り尽くされていたろう。犬やその他の家畜を利用して。

 ともかく、この子にはあがりもんの確たる匂いがない。まとわりつくような微かなものは感じられるけれど、それはあがりもんに生まれてからこのかた嗅ぎ続けてきた同胞の匂いにしてはあまりに軽く、仄(ほの)かだ。多分友達かクラスメイトにあがりもんがいて、そいつの残滓なのだろう。

 誰かが長く座って、体温を移されたベンチのようなものだ。

「ほらここ」

 歩いてきてそう示された教室は、廊下の左側…もう片方には、そちらも教室が並んでいる。

「それじゃね」

「あ、ありがとう!」

 市原さんはパチリとウインクしてきた。

何にもなーん。刀指君こそ頑張ってきんしゃいね!」

 するりと引き戸の向こうに消える彼女のなびく黒髪が、僕に勇気を与えてくれる。

 頑張ろう…素直にそう承服したくなる、野に咲く花のような励ましだった。うん、女の子の方言ってこう…なんていうか、ドキドキするよなぁ。

「───転校生、遅いな」

 引き戸の隙間から漏れてきた科白で意識を取り戻す。いかんいかん、きっとデレっとしたニヤケ面してたぞ。

「ウチからここまでに迷ってるんじゃないですか?」「えー、市内住みやぞ?ありえんありえん」「腹でも下しとるんやなか?」「そんな、ヒビキじゃあるまいし」「やべ。俺、物理の課題家に忘れてきた。あとで取りに行こっかなー」

 僕に関係する会話、しない会話。高い声低い声、男声女声の混交。

 すー、はー。深呼吸。バスケのスタメンを務めた時と同じように、緊張したら息を吐く。息を吐く…

 よし。引き戸に手を掛けて、落ち着いて開ける。静かすぎてビクついてると思われないように、乱暴に開けて「何あいついきがってんだ?」とか見られないように。

 砂利道を踏み荒らすようにざわめいていた室内が、すうっと静まる。こちらに向けられる顔、眼、視線。うっかりしたら右手右足が一緒に出そうな緊張感。

「おう!君が刀指君か。随分と遅かったなぁ。早よこっちゃ来んね」

 壇上には有名スポーツメーカーのジャージを窮屈に着込んだ男の教師がいて、こちらにせっかちな手招きをする。

「あ、は、ハイ」

 僕は言われるがままに担任らしい赤ジャージ教師の横に立つ。途端に鼻先をかすめたのは、雑菌が分解する汗の悪臭と、林檎のような匂い。

 僕は反射的に鼻を凝らす。間違いない。汗の匂いとは別の、果物の林檎のようでいてちょっと異なる臭気が、隣の教師の全身から立ち昇ってくる。

 のっけから一人目。この先生、あがりもんだ。

 横目を投げると、向こうもこっちを見ていた。こっちより頭ひとつ分高いがっしりした体格。獅子鼻で二重顎、猪首でスキンヘッド。威圧的な数々のパーツの中で、キューピーちゃんのようにつぶらな瞳が異彩を放っている。

 一瞬だけ交差した視線はしかしすぐに離れる。そう、事前に情報が伝わっていないときのあがりもん同士の出会いは大体こんな感じなんだ。

「えー、彼が今日からA組の一員になります、とざ」

「どーでもえぇ組!」

 茶々を入れたのは、秀でた額と切れ長の目で口の端が歪んだ、ちょっと太り気味の男子だった。いかにも小狡そうな笑みは、揉み上げの伸びた頬に張り付いて離れないのかもしれない。

 前のボタンを掛けず、ベルトの上に腹の脂肪をせり出させ、片肘を椅子の背に置いたふてぶてしいポーズ。伸ばした顎髭は切りそろえ、癖のある金髪を後ろで束ねている。もちろんハーフなんかではなく染めてあるのだ。一目でそれと分かる安物のアクセサリーを腕と言わず足首と言わず大量にくっつけ、身体を揺するたびにチャラチャラ鳴っている。総合的な印象は、悪人顏の小肥りなEXILE。

「野次んな、シュン。えー、そんでまぁ、刀指氷裂君です。じゃあクラス皆とお互いに自己紹介しようか。オイ石丸勤いしまるつとむ。担当は一年生の体育と保体。じゃ、刀指君も皆に向かって自己紹介!」

「あ、えーっと…」転校するのは初めてなので、流れがよく分からないな。「刀指氷裂です。よろしくお願いします」

 僕は緊張から申し訳程度の会釈をする。ぱちぱちぱち、と意外に大きな歓迎の拍手。それに乗っけて、さっきシュンと呼ばれた男子がまた茶々を入れてきた。

「えー。そんだけぇー?刀指くんの!ちょっとイイトコ見てみたい!アソーレ!」

 まるで大学サークルの新歓コンパみたいな掛け声を、大柄な男子が後ろから止めに入る。

「シュンやめぇよ、きっとアガりよんさっと。なぁ、刀指君?アガっとるんやろ?ばってんがアガっとる言うても、すぐなんてことなくなっさ」

 しつこいリフレインで「アガる」を強調してきたのは、堂々とした逆三角形の体格の男子だった。石丸先生と同じぐらい身体が横に大きく、縦にも高く、フレスコ画の天使のようにもっちりした容貌の真ん中で団子っ鼻が鎮座ましましている。

 癖のある髪の下から、石丸先生のよりもっとキラキラした瞳が僕を伺っている。繰り返された単語の意味は、悪戯っぽい笑みに垂れ下がる目尻で分かる。

 ───僕も同類だよ。だから、よろしくね。

 もう二人もあがりもんを見つけてしまったぞ。でもこいつは、見るからに人が好さそうだな。

 シュンをたしなめた“あがりもんその2”がハーイ!と挙手。

「刀指君、なんか趣味とか得意なもん無かと?前居た部活は?東京では何やってたと?」

 普通の質問がきたぞ。「えー、一応、バスケ部にいました」デスマス口調は疲れるな。

 するとさっきまでそっぽを向いてアイドルの話に夢中になっていた短髪の3人組がサッと振り向いた。縦に伸びた身体つき、スポーマンらしいのに日焼けはない。バスケ部なんだなとすぐ分かる。

 そこからはありがち質問が続いた。彼女はいるのか、それとも都落ちで別れたのか。得意なことは何か、血液型は、苦手な食べ物はあるか。佐賀をどう思うか。それが済むとホームルームを延長して皆が自分自身のPR…

 1時限目の保体はだいぶ遅れて開始となった。あてがわれた僕の席は教室の机の並びの真ん中の列、最後尾。男女交互の席順のため前も両隣も女子。その子達も次の休み時間に何を訊こうかと考えを巡らせている雰囲気がダダ漏れで、さすがに話しかけてはこなくても授業中チラチラこちらを見てくる。

 そして次の休み時間にクラス総勢から質問攻めにあい、特にバスケ部の3人から積極的な勧誘を受け、すっかり何もかも情報を吐き出させられ喉がカラカラになったところへシュン───相葉あいばしゅんがペットボトルを差し出してきた。

「お疲れ。どう、やっていけそうか?」

 意外にも親切なのと、こいつもまたあがりもんであるのに気付いて僕は戸惑った。

「サンキュー相葉………だったよね」さっき聞いたところでは、趣味が音楽全般で軽音部バンド声楽部グリーをふらふらしてるらしい。僕と同じく関東からの流入組とのことで、訛りがない。「顔と名前が一致するまで時間かかりそう…って、これ蓋空いてない?」

「あーそれ飲みかけだから」

 えー?と辟易する僕に、細かいことは気にすんなよー、と鷹揚にそっくりかえる。渋谷の裏道でしゃがんでいたら似合うだろうという外見を裏切って、アプローチの仕方も、むゃひゃはは!という笑い方も、何もかもが軽い。

「あのー、とー、とー、刀指君」

 斜め後ろからいきなり声をかけられて肩が飛び上がる。あがりもんその2…古賀こがひびきだ。

「ぶ、部活ってやっぱ体育系が良かと?音楽とか好かん?」

 でかい図体をもじもじさせて、表情を硬くしている。こっちは相葉とは反対に、柔らかそうな顔と身体をしているが性格は真面目そうだ。おまけに声のトーンが女の子のハスキーボイスくらい高い。

「カラオケぐらいなら行ったことあるけど、僕あんまり得意じゃないんだよ」

「それなら大丈夫!!」

 机に手をつき僕の方へせり出してきた。

「譜面の読み方とかはそのうち教えるばってん、難しかことは慣れていけば良かし、グリーは楽しかよ?やり甲斐あるよ!!」

 カラオケの延長と思って貰うたら問題なか、早速今日練習見にこんね?放課後まだ用事とかある?女の子もたくさんごっとっとよ!!

 矢継ぎ早の古賀に手をかざしてストップ。

「タンマタンマ!急ぎすぎだって古賀!」

「タマタマがどがんしたー」

 ラッ!と戸を引いて現れたのは、斎の巨体だった。そのまま周囲に「どもどもー」と笑顔を振り撒いてこちらに来る。

「よぉアイス、調子はどがんかね、友達100人できたかな?」

「なんでこんなとこにまで来るんだよ、森野々宮さん。あんた二年だろ?」

「慣れんとこに放り込まれたお前んことが心配やっさ。なぁ韻、隼、アイスはこんクラスん中で浮いとらんか?誰かにイジメられてたりせんか?」

「余計なお世話だよ!大体、転校早々イジメもないだろ!!」

「そうだよ斎ー、誰もそがん人居らんよー、貴重な人材を勧誘しとるんやけんが邪魔しんさんな!もー」

「うぇーんアイスぅ〜韻がイジメよるぅ〜」

 韻に邪魔だとばかり突き押しされた斎は、こちらへヨヨヨと泣きついてくる。

「おい刀指、そういや斎は運動部全般に顔がきくぞ。バスケじゃなくても、身体動かしたいんだったらこいつに聞けばいい」

「あっ汚いよ隼!裏切んなよもー!!」

「逆に音楽にちょっとでも興味あるんなら、韻のグリーとか俺の軽音部でも遊びにくればいんじゃね?グリーは韻以外の部員が全員女子だから、今入部したらハーレム確定だぞ」

「ありがと隼!大好き!」

 感情の起伏が激しい韻はリアクションも外国人みたいにオーバーで、身体を乗り出したり仰け反ったりするたびにぽちゃぽちゃと音がしそうだ。

 そして学年が違うというのに闖入してきた斎は

「おお、仲良うやっとるばいね、安心した!」

 と、僕の肩に顎を乗せてにんまりする。ついでに「あがりもんやもんな、こいつらも。気の合うぶんに損は無かさ」と囁いた。

「てかあんた顔が近いよ。いい加減離れろって」

「まぁまぁ。韻、隼、アイスんちはうちの父ちゃんが世話係しとっけん、なんかあったら俺に言わんばだめよ。あ、あと青磁ってゆー弟もおるけん」

「そいはさっき自己紹介で聞いとるよ。ねぇ、君のお母さんは何してる人なの?専業主婦?」

 韻の焦点は部活勧誘から僕の詳細な家庭事情に移ったらしい。ただ内容がわずかばかりディープであるのも相まって、舌が自然重くなる。

「アイスん母ちゃんのことね」

 斎は前だけでなく頭頂てっぺんの伸びてきている己の丸刈りをわしゃっとこじる。

「あれ、なんで母ちゃん来とらんやったっけ」

 僕は机についた肘ごとガクッとこけてしまった。

「だから!うちのところは離婚してるんだって昨日言っただろ!?なんで憶えてないんだよ!!」

「いやー悪い悪い。やってさ、俺はアイス以外のことにあんま興味なかさ。セイは可愛いやぁらしかけん憶えとるばってん、その他んことはあんまりなんや」

 この馬鹿!知能指数低いんじゃないのか!?

 と思いながら、なんだかやけに胸が軽くなった気がして眉をしかめる。今のやり取りが少し引っかかってくるのだ。僕の言ったことをぺろりと忘れている斎の脳細胞についての疑問?…いや、そうじゃないな。

 変といえば変なのだが、その理由と対象が定かでない。

「っとに……キモいこと言うなよ。ホモかと思われるぞ」

「ぐふへへぇ、案外そうかもよぉ?ねぇ〜ん氷裂ぐぅ〜ん、あだじを抱いでぇ〜」

 抱きついてくる斎の巨体。黄色い女子達の悲鳴…かと思えば歓声が上がる。何人かは「ぎぁぁ〜森野々宮先輩がぁ〜♡」とかなんとか喜びに悶えつつ写メを撮っている。何がそんなに興味を引くんだろう、女の子の心理は分からない。

 気を良くした斎がピースサインを女子の構えるスマフォに向けて、こちらの頬に唇をつけてきた。生臭いを通り越して焼肉のような臭い、べっとりした感触に僕は震え上がる。

「うわキッモ!ホントにキッモ!!寄るな触るなアンタッチャボー!!」

「良かやんスキンシップスキンシップ!」

 僕が嫌がるのが楽しいのか、斎はしつこくまとわりつく。毛深い腕がじょりじょりぞぞぞ、と首に巻きついて、あがりもん臭と汗の入り混じる体臭をもってして僕を辟易させる。

 ふと見ると、横で相葉がブツブツつぶやきながらスマフォの画面に何事かフリップ入力している。この会話のはじめからそうだったのだが。

「…何打ってんの?さっきからずーっとさ」

 隼は悪びれることなく「Twitterだけど?」と言う。

なーんね隼、またそれかい!いい加減にせんね、やずらしかぁー」

「ほっとくほうが良かよ斎、隼のはビョーキみたいなもんなんやもん」

「そ。ほっといて、俺Twitter廃人!…えーと…野球部兼柔道部の先輩、が、転校生、と、ホモホモしいカラミをして、い、る、が、転校生も、まんざらでもない、様子、だ…と。送信っ」

「おいおい相葉ちょっと待てよ、相葉!!」なんだ今の不穏な科白は、聞き捨てならんぞ!「お前変なことネットに流すなよ!本物のソッチ系と思われたらどうしてくれるんだ!?」

「どれどれ見せてみ?」

「わっちょっ、斎ぃ!返せよ俺のスマフォ!」

「わっ、こいつほんに送信しとる!ほれアイス、お前んことツイートされとんぞ‼︎」

「えっマジで⁉︎てマジかよ、うわわわホントにしてるし!しかもこれフォロワはここの生徒ばっかじゃん!僕まで巻き込むなよ!」

 画面に傷のたくさん付いたスマフォの上には僕と斎の妖しい写メ入りのツイートが上から下に続いている。リツイートの嵐に揉まれて複製が昆虫の卵よろしく増殖まっしぐらだ。

「えっへへん!新聞部のメルマガより購読者多いんじゃないかな〜俺才能があるのかな〜」

 いやいや単にゴシップbot化してるだけじゃん、と総ツッコミ。

「こういうのマトモに受け取って反応してるひとなんかそう居らんし、居ったとしても元から頭が悪かか精神病んどるかのどちらかやもん。気にすることなかよ、アイス君」

「生温かい慰めありがとう韻、…僕も君付けしないから、そっちも呼び捨てにしていいよ。けどそのアイスって呼ぶのは定着してるんだね…」

 休み時間はあっという間に過ぎて、予鈴が鳴る。おっといかん次は音楽やった、と斎は去りかけて戻ってくる。

「アイス、お前、放課後残っとけよ。授業終わったら柔道場ば来い。お前ん歓迎会ばしちゃる。あと隼、韻、お前らも出席な。俺の行くまで適当に校舎案内やらしとけよ」

 え、いいよそんなの…と言う僕の頭を鷲掴みにし、鬼のような指でわりわりと締め付けた。

「痛てて痛てて痛て!」

「生意気言うんも大概にしとけよー?流石の俺も腹立つ(はらかく)っちゃんねー」

「そうだよアイスく…アイス、せっかく増えたあがりもん仲間なんやし、学年またいであちこちの教室までいちいち挨拶に回るのも疲れるよ?やけん、斎ん顔ば立てときんさい」

「そうそう。まがりなりにも俺は先輩!なんやけんな」

「わわ分かったよ分かった!痛いから放せって!」

 忘れんなよ遅れんなよ絶対来いよ!と念を押して行った斎に、女子達の「じゃーね森野々宮せんぱーい!」というコーラスが追従した。こっちだとああいう情熱系というか暑苦しいタイプがモテるんだろうか。

 そう呟くとスマフォをいじりながらの隼と次の授業の教科書・筆記用具を並べながらの韻が異口同音に断言した。

「斎は鍋島高校ナベコーのゆるキャラ!」

 アイドルと表現されないあたり、僕もそれには賛成だった。



 体育系の施設を完備しているという点で鍋島高校は抜きん出ていると、運動する意欲を充足させるにはいい環境だぞと、六限目の終わりのホームルームの後、担任のあがりもんの先生…石丸は僕にはきはきした物言いで教えてくれた。

「中学と前いた高校と連続でバスケしとったんやろ?なら、早速うちも見学していきんさい。バスケ部の監督は2年の担任の先生やけど、お前の入学も報せてあっさ。うちのバスケ部は県大会の常連さんやもんね、新戦力やー言うて喜んどらすよ」

 入部届を差し出すまでもなく受理しようとする人の好さそうな教師。その「運動してきたやつは運動部、そうでないのなら文化部に入る」のが当然といった通念に逆らうのは少し気が引けるなあ。別に反抗心からじゃなくて、あくまで僕の自主性の主張からなんだけど…

「ありがとうございます。あの…心遣いは嬉しいんですけど、僕、暫くはバスケから離れようかなと思ってるんです」

 へえぇ!?どうしなんしてぇ!!と目を剥く石丸。

 バスケをやりたくないわけじゃないけれど、いやむしろやりたいけれど、その先に待っているものを想像すると二の足を踏んでしまう自分がいた。

「君バスケ得意なんやろ?東京の学校でもずぅっとスタメンやったって聞いとったとに」

「そんな、得意なんてほどじゃないです」

 それじゃ、と辞する袖口を未練たっぷりに掴まれる。

「いやちょっ、待たんね。何かバスケしとうなか理由のあっとかね?こう言うたら恩着せがましゅうなるばってんが、俺でよければ相談に乗ってやるけん、すぐ断らんで…な?」

「はぁ……」

 入部すれば試合が待っている。そして勝ち進んでしまったら、佐賀代表になって関東まで遠征にでも行くことになったら、せっかく冷まそうとした焼け石を再び加熱してしまうことになる。

 やればやるほど自分の首を絞める結果に繋がりかねない。更に僕は、もしこの先もほとぼりが冷めずこんな暗鬱な気分が続いたらどうしようと考えかけて、頭を振った。それこそ、これ以上考えても仕方のないことじゃないか。

 僕は視界の端に待ち兼ねている隼と韻のそわそわした様子を認めて、ちょっと家庭の事情でとその場を濁した。

「ほんじゃ行こーか、アイス」

 カバンを掴んだまま頭の後ろに腕組みをして隼が先導する。待ってよ歩くの早いよぉ、と追いすがる韻、それについていく僕。

「でもなんで柔道場なんだ?あがりもんで集まるんなら、もっと人目につかない公園とか空き地とか、いっそカラオケでもいいんじゃない?」

「めんどくさっ」吐き捨てる隼。

「そがんよねー」欠伸をする韻。

「や、面倒だとかいう問題じゃなくて、そっちの方が合理的だろ?あがりもんが集まるってことなら、普通の人間が聞き耳たてないよう排除しなきゃならないんだし、誰か残ってたらそれこそ面倒じゃないか」

「そう神経質にならなくて平気平気。どうせみんな遅れてくるし、すぐに始まるわけでもないし。単に柔道場なら広いし多少騒いでも目くじら立てられないってだけだぜ」

 それに、と隼は顎髭の陰で小さく呟く。「外で場所取れば金かかるしな」

「金の問題じゃ…」

 言い募る僕と隼の間に、韻が豊かな胸肉をねじ込んでくる。

「アイスって小さいほそかことまでよう考えるねぇ、頭のよかねぇ、偉かねぇ」

 のほほん、ほんわり。舌の上で飴玉でも転がすような韻の口調が醸すリズムは、神経を落ち着かせる効果がある。他の奴から言われたら「馬鹿にしてんのかこら」と噛み付いてしまうところだけれども、保育園の先生みたいな韻の言葉になんとなく丸め込まれてしまう。

 そんなものなのだろうか。確かに僕は佐賀この土地のことをよく知らない。郷に入っては郷に従えという諺はこういう時にその意味を発揮するのかもしれないな。

 鍋島高校には本校舎を中天にしたXの形で分校舎が延びている。他4つの建物にはそれぞれ剣道、柔道、弓道、相撲場が設置されている。剣道場の建物には家庭科室が、柔道場の建物には音楽室が、弓道場の建物には美術室があり、残りの相撲場の上にはPC・化学教室と特殊な施設もそれぞれ分かれているそうな。

 韻の嬉々とした説明を受けながらくまなく校舎の階段を上り下り。ついでに途中で自販機や購買に寄り道し、僕達はようよう北西の校舎にある柔道場に着いたわけだが。

「あのさ、隼」

「なに」

「僕の目がおかしいのかな。皆さん思っきし柔道の練習してらっしゃいませんか」

「あーそりゃ気のせい気のせい」

「見え透いた嘘をどうしてつくかな!?」広い相手のデコについ平手を軽く打ってしまった。

 僕の前にある光景は柔道場における部活動としては当たり前すぎるほどに当たり前で、白い厚手の柔道場を着込んだ部員達が乱取り稽古に打ち込んでいる。「しゃっ!」「オラッ!」「せいっ!」と気圧される掛け声も気迫十分だ。

「るっせーなー、練習が長引いてるだけだろー?大会が近いんだよ。大人しく待っとけばいいじゃん」

 隼は畳から離れた部屋の角にどっかりと腰を下ろし、スマフォになにやら打ち込み始めた。こちらもそれなりに真剣らしい。僕もその隣に足を投げ出して…思い直してあぐらをかく。韻は隼を挟んで反対側に正座。そして隼の手元を覗いている。

「先に言ってくれたら他の場所で時間潰してたのに」

「まーまーアイス、佐賀はみんなこんなもんよ。言うたら佐賀時間…みたいな?」

 韻のフォローに、僕はふーん、と生返事で柔道場を見渡す。

 顧問の先生はこれで小麦色の肌でもしていたら、型にはめて焼成したようなスポーツマンと言えるタイプだった。いかにも爽やかなツーブロックの髪は淡くブリーチしてある。拳よりも膝をつめて話し合うことをよしとする、理性的な表情の現代の体育会系。

 僕の見立てでは20代前半そこそこ、筋肉がついた痩身。柔道よりもテニスが向いてそうな感じかな。

 しばらくぼうっとしてからふと目をやると、隼と韻は隼のスマフォからイヤホンを引いて片方ずつ耳に挿し、何かの音源を確認しているみたいだ。

「どうかな?テーマをなるべく崩さない形でディレイ深くしてコードの角を取ってみたんだけど」

 音を味わうように瞑目していた韻の表情が、甘酸っぱいものになる。

「ん!良かね良かね!こんなのが欲しかったんよ〜最終パッセージの上がり方やらもう鼓膜からして気持ち良うてたまらん〜」

「オッケ、一曲目の調整はこれでよしと。じゃあ次の曲なんだけど、Bパートの終わりのベースんとこをもうちょっと盛り上げた方が[[rb:良>い]]んじゃね?したら女子のコーラスとちょうど張り合ってテンション高まるぞ」

「それって声の方がベースに負けちゃわんかなぁ?」

「そこはそれ声楽部の面目躍如だろうが。この続きからサビのリフだし繋げてくんなら絶対この方がいいって」

「あの、お二人さん、何をなさってるんでしょうか」

 隼はうるさそうに手を振って「俺がグリーの課題曲の作曲と編曲とアレンジしてんの。静かにしててくれ」と僕をあしらう。

「悪かねアイス、僕んとこの部も秋の全国大会があるとよ。けん、課題曲を提出せんばならんと。隼は作曲もできるし機械の扱いに長けとるけんが、色々骨折ってもろうとると」

 隼のスマフォには鍵盤のようなタイピングキーのようなもの、あと幾つかのツマミが表示されている。タップすると様々な楽器のアイコンや弦などに切り替わるらしい。

 その画面をゴツゴツした指が器用に滑り、目にも留まらぬスピードで入力をこなしていた。

「つってもスマフォアプリでだけどな。フリーアプリでも組み合わせれば結構効果つけられるんだ」

 へぇ、人は見かけによらないなぁ。どちらかというと頭にタオル巻いてラーメンでも作ってそうな隼に、こういう特殊技能があるなんて。

「こらこら君達、柔道場に来て携帯ばっかりいじってるんじゃないぞ!」

 顧問の先生が科白ほどには憤慨していない苦笑で言う。注意された僕達は揃えて首をすくめた。

「あれ?君は見たことない生徒だな。もしかして転校生?あの、東京から都落ちしてきたっていう?」

 首肯すると、瞳をらんらんと輝かせる。

「部活見学か?いいんだ、みなまで言うな。入部希望だろう!ようこそ柔道部へ、レッツエンジョイ柔道ジュードーレスリング!!」

「いや、僕はそういうんじゃなくって…ここで2年の森野々宮って人と待ち合わせしてるんです」

 その名前を聞くと、相手はより苦笑の度合いが増した。「あぁーあ、あいつの知り合いかぁ。なるほど、待ちぼうけを食わされてるってわけだ。斎め、仕方のない奴だな!」いつも野球の方と掛け持ちしてるから、まだ遅れるぞ!という科白にウヘェと舌が出てしまう。

「自己紹介が後になってしまったな、君達が2年になったら体育を担当する箱崎はこさき士郎しろうだ、ヨロシク!」

 半ば強引な握手をしてきた。つられてこちらも名乗る。それから箱崎は僕の頭のてっぺんから足の指先まで、ジロジロつらつらと推し量るような視線を浴びせてきた。

「あの、僕何かおかしいですか?」

「うん。いい身体つきしてるな!」

「へ?」

「おい白石!」

 坊主頭の小柄な部員が、箱崎の呼びかけに「はいっ」と小気味良い返事をする。

「この転校生君をロッカーに案内して準備させて来い」

「分かりました。キミ、サイズはいくつ?」

 と、こちらも箱崎に負けず劣らず爽やかに白い歯がこぼれる笑顔。

 準備?サイズ?いや、全く分からないんだけど、これは何の冗談だ。

「のんべんだらりと見てるだけじゃあ詰まらないだろう?」箱崎は帯を締め直して言う。「少し身体を動かしていきなさい」

 白石から問答無用で背中を押され、出口に誘導される。僕は思わず「隼!韻!」と新たにできた2人の友達に助けを求めた。

 それに対し返ってきたのは「僕らは大人しゅう隅っこで作業してますけん、お構いなくー」「右に同じみぎどー」という他人事ここに極まれりという声だった。

 数分後、汗とか血とかあまり考えたくない様々な染みに汚れた予備の道着に着替えさせられた僕は、呆然と畳に立っていた。

「どうした、匂うか?クリーニングはかけてあるぞ」

「箱崎先生、そういう問題じゃなくてですね、なんで僕が」

 入口の引き戸が爆発した。というぐらいの勢いで開き、大音響に僕含め他の部員も飛び上がる。

「スンマッセン遅れましたぁ!」

 斎がきちんと並べられた上履きを蹴り散らしながら入ってきた。大袈裟に会釈を振りまくたび頭のモヒカンじみた前髪が揺れる。

 そして僕を見つけて破顔一笑。

「おーアイス!お前こがんとこで何ばしよっとか⁉︎」

「ちょ、あんたが来いっつったからだろが!おかげで無理矢理こんな恰好にさせられてるんだぞ、ってかあんた既に汗臭いな」

 野球部でひと汗かいてきたけんな!と自慢げに言う斎。額やら二の腕やらに汗の池を作りながら。

「おお、稽古に参加しとったんか、感心感心。道着も似合うじゃん。そこそこ強かごたる感じのする」

 斎は僕の背中をパンパン気安く叩く。こいつの顔は鉄面皮か鉄仮面か、こちらが憤懣ふんまんやる方ないオーラを出しているというのに、その鷹揚な笑いは、いっかな崩れる気配がない。

 箱崎が僕の動きを見てみたいから、体慣らしに付き合えと斎に命じた。この無神経な奴はOK了解っす、と調子の良い返事をして、「っしゃあアイス、どこからでもかかってこい!」と標準語で気合を入れ襟を掴んできた。しかも、腰に締めた帯は有段者であることを示す黒。

「お前の本気をワガハイに見せてみなさい!」

 こうなったら観念するしかない。斎の調子に流されるのは不本意だが、お膳立てされた場の状況と目上の人間からの指図に逆らうことは意味も得も無いだろう。それに標準的な受身ぐらいなら、難なく取れるんだし…

 そこまで考えて僕は気が付いた。運動前の大事な習慣が一つ抜けているじゃないか。

「斎、あの」

 斎は力強く僕を引き寄せ、足捌きをリードする。指導に手慣れた雰囲気は柔道上級者のものだ。

「何か、ションベンでもし忘れたか」

「違うって。…サガリソウ飲むの忘れたんだ。分けてくれないか」

 ざっざっざり。軽い足慣らしに摺り足で畳の上を移動。裸足にイグサの感触が心地よい。質の良い畳を使っているらしいな。

「あ?何ば言いよっと?」

「何ば言いよ?って…」

 一瞬相手が何を言っているのか分からない。それぐらいの、あがりもんの最低限の常識。

「スポーツとかの前にはサガリソウを[[rb:服用す>と]]る。当たり前だろ?」

 さっき着替える時に鞄を底まで探ったが、あるのは見慣れた薬包ではなく教科書とノート、それにノートの切れ端だけだった。

「油断して家に忘れてきちゃったんだ。引っ越し荷物の中に入れたまんまで、持ってはいるんだけど…一旦中断して、あんたが持ってるサガリソウ分けてよ」

 紅い薬包の粉末、または赤いPTPシートに封入されている錠剤。具体的な品名は伏せるが、一般には喘息や気管支炎の薬として調剤薬局でも販売されているもの。

 それらを、僕達あがりもんは“サガリソウ”と呼んで重用している。

 用途はずばり、変身アガることの抑制。

「そがーんもん必要なか」

「…え?は?」

 思わず口が笑ってしまう。そんなものは必要ない、って言ったのか?

 まさかね。激しくスポーツする際、興奮してアガってしまうことを避けるのは常識なんだから。

「なんだこれ、何かのひっかけ?あ、ルーキーいじりか?あははっ。分かったぞ、新入りをからかう儀式的なやつだろ。その手には乗ら」

いきなり深く組みつかれた。足払いで畳に叩きつけられる。

「おし一本!」

「ちょ、お前、いきなりマジになんなよ…」

「オラ立てアイス!腰抜けかましとると根性入れっぞ!」

 駄目だ、話にならない。

 立ち上がった僕は、またしても襟を取られ、今度は見事な体落としで一回転、あっけなく転がされる。

 そこから背負い投げ、一本背負い、内股、小内刈り、大外刈りと次々大技で投げられ、10分も経った頃には完全に目が回った。

 漫画でいうなら渦巻き模様のグルグルまなこ。へたる寸前で相手の襟を取る。取ったまではいいが、指にも力が入らない。

「んー…アイスはあんま強うなかね。見かけ倒しばい」

 殴られるよりもきつい衝撃が脳を襲った。最後の科白、「見かけ倒しばい」が寄せ返す波のように頭の中をこだまする。

「てぇんめぇ〜………」

 僕がドスのきいた凶悪な人相で睨みつけても、雨だれを受けた爬虫類よりケロリとしている斎。それがまた癪にさわった。

「お、深か声の出よるね」

 なんで僕がこんな目に合わないといけないんだ。

 なんで転校初日で、柔道なんかやりたくもないのに無理矢理やらされて、安全策のサガリソウも使えず、こちらの話も聞かない奴から一方的にやり込められなきゃならないんだ!理不尽すぎるだろ!?

「どがんする?お?この」

 斎の分厚い唇が、表情筋の緊張と弛緩が分かるくらいゆっくり動く。

 こ、し、ぬ、け。

 身体の中で目に見えない何かが沸騰した。泡立った血液は神経を焼き血管をぶち破り、理論的な意識の指揮権を火花に染められた憤怒に譲り渡す。

「てめぇぇぇぇぇ!!」

 我を失い、しゃにむに立ち向かっていっていたのでそこからの記憶がない。後から聞いた話ではどうやら絶え間なく果敢に斎に組みついていき、その回数だけぶん投げられていたようだ。

「おおキレてるキレてる。いいぞーやれやれアイス!そのバカに一泡吹かせてやれー!」

 という隼の無責任なお囃子。で、それにかぶせて

「あれ止めんで良かと…?なんか、ほんにキレとるんやなか?」

 という韻の心配げな問いかけ。

「構わないさ。この道場でるぶんには正当な部活動の一環という言い訳が立つし。それにさっきのままじゃ文字通りの“受身”で実力をはかるも何もあったもんじゃなかったからな」

 という箱崎の計算に則った冷静さ。

 僕本人といえば、周囲のそんな反応さえ耳に届かないほど頭の血液を沸騰させていた。勿論、アガることなどすっかり意識から抜け落ちている。

「ふぅん。面白い動きをするじゃないか。…!また斎の足払いをかわした。足捌きとも違う…あれはバスケのドリブルのステップか。危なっかしいが型にはまってないところが面白い」

 一心不乱な状態での斎への挑戦。習慣となって染み付いているバスケ部で鍛えたフットワークが出るのも当然だろう。

「…負けん気もある。腰も粘るし、何より勘が鋭い。さらにはあの、襟や袂を捉えて離さない手が面白いな。相手の掴み手を弾くのも早い…バスケで培われたカットの技術を我知らず応用しているんだな。とすれば」

 小鼻をピクつかせ、箱崎は顎に親指を当てる。

「逸材登場、かな?」

 この勝負というか、僕と斎の乱取りの顛末を打ち明けねばならない。

 勝負で言ったら、不本意ながら何回も投げ飛ばされた僕の負けとなってしまうわけだが、一度でもやり返せたらそれは有段者に対する素人の快挙というわけで。

 長々説明が入ってしまったが、それでどうなったのかというと。

 斎の完全勝利だった。

 完膚なきまでにのされるとか、こてんぱんにされるとかいう表現がこれほどしっくりくる状況もないだろう。僕は半ば意識を失って畳に大の字でなり、柔道場の高い天井を仰いでいた。

 箱崎もいつの間にかギャラリーに参加していた他の部員達もさり気なく健闘を讃える…もしくは残念な結果に同情まじりの拍手をする。

「おいアイス、大丈夫か?死んでる?」

「生きてる?って聞きなよ隼。アイス、ずっと見とったけど、アイスもよう頑張ったと思うよ。斎はもう二段まで持っとるけん、勝てんでも当たり前よ」

 隼に韻が僕の上から覗き込む。そういう情報を後から入れられてもあまり慰めにはならない。悔しさで泣くほどではないけれど(そんな余力もないけれど)、とにかく足腰がガクガクして立ち上がれない。

「おうアイス、悪かったにゃ、付き合わせて」

 言葉と同時に太い腕が僕の上半身をすくい上げる。そのまま座る格好に持っていかれる。

 隣で俺の肩を支えているのは、さんざん僕のことを嬲りものにした斎だ。

「ほれ、もう部活終わるけん。礼だけしとけ」

 部員に混じって整然と並び、ぴしりと正座した箱崎に「礼!」の号令のもと叩頭する。道場を軽く掃除して、他の部員達は帰っていく。斎も同級生らしい連中に寄り道してラーメンでも食っていかないかと誘われていたが、それをあっさり断って箱崎に道場に居残っていていいかと質問した。

「どうした?まだ何かすることがあるのか」

「んー、ちょっとご近所仲間のミーティングみたかこと。分かるやろ?それに…」

 なにやらボソボソと不穏な耳打ち。

「あー…」箱崎は分かった風に頷き、チャラリと鍵を放り投げてよこす。「いいだろう。最後戸締り役はお前だな。あまり遅くなるなよ」

 柔道場には僕、斎、隼、韻だけになった。つまりあがりもんだけということだ。

 隼がまだスマフォをいじくりながら「サガリソウを使わなくていい理由、分かっただろ?」と科白だけこちらによこす。

「まぁ…なんとなく、な…」

 そういうことか…分かったよ。

 肺の空気を全て出すつもりで息を吐き、膝に手をついて立ち上がった。それすら億劫になっている。

 ヒュィハァと笛のような音を立てている自分の咽喉のど。こうべの一振りで汗が畳に時雨となり降り注ぐ。柔道着は絞れるくらいジックリ濡れて気持ちが悪いのに、皮膚のほうには少しだけ爽やかさがある。

 信じられない気持ちで畳にできた自分の汗だまりを眺める。心臓はとっくに爆発して空転しているし、脚は盛大に笑っているし、腕は脳からの命令無視で1ミリも上がらない。

 こいつら、アガるだけの体力を部活ここで使ってるんだ。だから予防薬サガリソウの世話にならなくても済むんだな………

 変身すアガることにもそれなりに体力は要る。強い信号を身体中に送信し、細胞を変化させるのだから当然のことだ。意識的にせよ無意識的にせよ、個人の差もあるだろうが、ヘロヘロの状態では全身をアゲるのは困難になる。

 あがりもんは今際いまわの際…人生の最期においてアガることはない。というか、死ぬときにはアガるために必要な集中力も体力も尽きてしまうからだ。本当によくできていると思う。もしそうでなければ、普通の人間にすぐその存在がばれてしまっていただろう。

 アガることは生まれつき身にまとう重厚な衣服を脱ぎ、裸になることに近い。あがりもんに生まれてそれを最低限コントロールできないやつなんて、いない。

 そして、これは余談だが…アガりきった姿を見られるのは、僕らにとって裸を見られるのと同じか又はそれ以上に恥ずかしい。屈辱ではなく、単純に恥ずかしいのだ。

 よろめきながら立っていると、斎が僕の腰を抱くように隣に来た。

「無理せんで座っとって良かぞ。ここで待っとれば学内のあがりもんは全員揃うけん」

 そうだ。そもそもの目的はそれだった。地元のあがりもん社会に接するために、この学校内の仲間に面通しをする。新入りが自分から挨拶して回ることは社交的に必要不可欠だ。

 斎には色々と言いたいこともあるけど、手間を惜しまずそういう根回しをしてくれたことには感謝しなくちゃならないかな。

「先輩と後輩、あとオイん学年のあがりもんの、ほぼ全員に声かけてきとっさ。男子だけな。女子オンナはほっといてよかろうもん」

「えー、でも斎、刀指君はこん学校の女子でん興味あっかもしれんよ。そりゃ東京のカッコ良か女の子らとは違うかも知れんけど、初めから彼女ができる可能性ば潰さんでもよかやんー」

 眉をひそめる韻。斎は歌舞伎みたいにたたらを踏んで片手を前に突き出した。

「聞く耳持たん!ご意見上等!心配ご無用!!オイば差し置いて彼女作るとか、あ・許さん・ばい!」

「チョチョーン」拍子木の音を口で出して合いの手に入れる隼。「はい出ました非モテのヒガミ」

 なんだよその自己都合のルールは…

 ほどなくして柔道場に二十数名の男子学生が集まってきた。

 僕は関東にいた頃も、あがりもんが一堂に会したところは見たことがない。同世代と同席した回数さえ、数える位だ。

 その数の多さにも圧倒されたが、僕を見るなりどわっと群がって取り囲まれて退路を塞ぐ連中に閉口してしまった。

「俺3年、前田匡まえだただし!野球部!」

「俺は文芸部の凌靖しのぎやすし、1年」

「僕は竹内劦たけうちちから、バドミントン部で2年」

「俺は相撲部ー。色々やってみたいんだけど時間足りねー。あ、小副川糺(おそえがわただす)、よろしくね」

「俺は」「僕は」「オイラは」「俺様は」「わがどんは」「俺っちは」

 いっぺんに言われたら誰が誰やらいちいち憶える暇もない。半数以上は顔と名前の一致しないまま、

「そしたら次はアイスの番な!皆に挨拶しな」

 と斎は僕の頭の整理を待たず促してきた。

「え、えーと、刀指氷裂です。クラスは古賀・相葉と同じ1-Aです。よろしくお願いします」

 ほー、韻と隼と一緒かぁ。口々に言い合っている顔、顔、顔。こちらを観察するあけすけな瞳。

 内でもひときわ背の高い、老け顔の男子が進み出た。確か剣道部の主将をやっている3年の…塚原つかはらようって言っていた、気がする。眉毛の薄い角刈り頭は、気合の入った…というよりもテレビに映るマル暴の警察官のようだ。

「じゃあそろそろ見せてもらおうか」

 え?何を?

「勿体ぶらんで早よう見せぇ」「そうだそうだ」「はーやーく!はーやーく!」

「???先輩達、一体僕に何を見せろって」

「まぁまぁ落ち着きたまえよ諸君」斎が空気を下に扇ぐような手つきでその他大勢を宥める。「レディス&ジェントルメン。ここからがショータイムでございますよ」

「おい斎、これどういうことなんだ?ショーって何だよ?あとレディスは居ないだろ」

「どっちなんか賭けとらん奴おらんよな?よっしゃ」

 斎は僕の疑問もどこ吹く風で、挙手を募りながら一周した。そしてくるりとこちらに正対し、斎は僕の両肩を掴んだ。

「脱げ、アイス」

「ふぁ」言葉の意味がつかめない。「道着ふくのこと?なんで?」

 ドングリ色の小さな眼が僕を見つめて赤く燃える。

「やけんが、脱げて。よかけん、脱げ」

 僕の襟に剛毛の生えた腕を突っ込み乱暴に胸を開く。「暴行」「レイプ」…この2単語が頭の奥にストロボ撮影よろしく明滅し、背筋からゾッとした。

「やっ!いやだよせ、やめろっ!!」

「オラオラ!よかけんが脱げぇぇ!!」

「そのへんにしておけ斎。悪ノリが過ぎるぞ」

 完全に強姦魔の面構えで、にやけながら僕に馬乗りになりむしゃぶりつくように上着を脱がしにかかる斎。その背後から塚原がチョップを見舞った。

「なーんもぅ要!こいからが面白かとこやったとにー」

「お前が面白がってどうする。刀指君は本気で怖がってるだろう。…すまんな、こいつの馬鹿は許してやってくれ。

 ここに集まったのは面通しの挨拶にかこつけた仲間入りの意思表明というか、ささやかな通過儀礼みたいな意味もあってね。失礼かもしれないんだが、ちょっとここで変身アガってみてくれないか」

 僕は命からがら、斎の下から這いずり出る。どうやら変態じみた迫り方は悪ふざけらしい。本気で集団からレイプされるのかと、毛穴が縮こまる思いだった。

「え…アガる?今、ここで?」

 そうだ、頼むと意外に紳士的な物腰で塚原は頭を下げる。

 丁重に頼まれたら断固拒否するものでもないし…しかし、理由が分からなくてもハイそうですかとやるほどには僕も単純な構造をしていない。そのいくばくかの躊躇が決断を鈍らせる。

「なーんもう面倒くさかねぇー!みんなでアガればよかことじゃん、仲良うさ」

 甲高い韻の声。そちらの方を向くと、制服のブレザーを勢いよくポイポイと脱ぎ捨て素っ裸になっていた。

「ふんっ!」

 足を踏ん張りりきむなり、ぞん!と韻の丸顔に毛皮が生えた。

 見えない輪をくぐるかのように、一瞬にしてムッチリとした体躯の韻は明るい茶色の毛並みを持つ熊の姿になる。…とはいえ、四肢のバランスはあくまでも人間寄りだが。

「そうしたほうが早いか、んじゃ俺も」

 そう言って隼がワイシャツの前を開く。元からネクタイを締めない胸元にポン!と毛玉が飛び出した。

 隼の変身は喉元から全身に連鎖爆発するようにポポポンポンと広がる。耳の形が位置ごと変わり、鼻先がグイグイと伸び、目つきが鋭くなる。その目の周りに濃い毛並みの縁取り。

「…レッサーパンダ?」

 僕のつぶやきに宙を扇いで否定する。

「狸だよ狸!たんたんたーぬきーの×ピー玉はー♬の狸!」

 ケラケラ笑ってから「おヤベ、制服に毛がくっついちゃうぜ」とこちらも脱ぎ始める。

 全裸になれとはこういうことか。よくもいらん冗談で冷や汗をかかせてくれたな、斎め。

 仕方がなく僕も道着を脱いだ。気を遣ってくれたのだろう、塚原も、他の連中もそちらこちらで同じように肌を晒しては変身していく。

 ちなみに塚原本人は精悍な面差しがそのまま残る牛の姿だった。半人半牛の裸身はファンタジー系のゲームではお馴染みのミノタウルスそのもので、その種を初めて見た僕は少しだけ感動を覚えた。

「期待しとるけん、いっちょ頼むぞぉ」

 どこからか斎の呑気な声。そんなに僕の獣人種あがりかたが気になっていたのか。こんな田舎だし、他に娯楽もないところだもんなぁ。

 両手で股間を謹んでから、僕は目を閉じた。全身アガるのは久しぶりだ。滅多にやらないことだから緊張してしまうな…

 熱い湯に飛び込むことを想像してほしい。僕の変身はちょうどそんな風に、足の爪先からくるぶし、下腿、太ももへと熱を伴って上っていく。

 細く密な獣の毛が下から上へ広がる。ヘソから上になると勢いがつき、シャン!と涼やかな音色で毛皮が一気に生え揃う。

 嘆息がいくつも聞こえた。あの斎でさえ「綺麗かにゃぁ…」と素直な感想を漏らしているようだ。

 筋肉の動きに従う長い毛は、風が無くてもなびくように揺れる。頭の上から背後、四肢の背面部は明るい茶で、顔面から胸腹部、つまり身体の前の方が真夏の積乱雲のような暖かみのある白。 

 柔道場のLED灯の下でさえ輝く毛先は、もし明け方の朝日を浴びたなら金と銀に映えるだろう。

 ゴクリと誰かが唾を飲み込んでいる。この中のあがりもんで、僕と同種の奴はいない。科白の無い瞬間。なんとなくオーディションで品定めされるアイドル予備軍の気持ちが分かる。

「わー、わー!すっごか、キラキラして綺麗かぁ!ちょっと触らしてよアイス」

 韻がのってのってと畳を沈ませてこっちに来た。ただでさえ四肢が太く寸胴ずんどうでぬいぐるみのような体型のところへ、もこもこした毛皮をまとえば一層丸っこく見える。

「うわー、触り心地のほんに良かねー!モッフモフやんモッフモフ」

「自分だってそうだろ。って、ペタペタペチペチすんなよ気持ち悪いな!」

 久しぶりの全変身だったせいか、尻尾を出した時は尾骶骨の変形がくすぐったかった。僕の反応におかまいなく韻は尻尾のあたりをまさぐるので、脊髄にダイレクトに伝わる性感に飛び上がってしまう。

「んんん?何やこい、何のあがりもんかね」「犬?」「やー、犬っぽかばってん違うっちゃね」「狼?にしては、顔つきも毛並みも違うしなぁ」

 人垣(というと語弊があるが、獣垣というのもややこしい)から興味津々の顔が覗いてる。大体にして犬、熊が多いようだ。あ、カワウソのような(初めて見る種は本人から言われないとわからない)のもいるぞ。

「なるほど、本州には存在るとは聞いていたが実際に見るのは初めてだな」しばらく僕の観察をしていた塚原が呟く。「狐か」

 僕の主に黄色い毛皮、耳先手先の色の変わり目、ふさふさと膨らむ尾。動物に例えられるのは好きじゃないが、これは事実だからどうしようもない。

 そうか狐か!俺も初めて見た!道理で分からんわけやな、レアもんや!と、のんきに物珍しがるあがりもん達。

 その中の、肩幅の広い熊が「ヒョオオ!」と両手もろてを上げて躍り上がる。

「おおー、狐や、狐!イヌ科や、オっイのっ勝ちー!!」

 この声。斎か。熊のあがりもんは地域的に多いみたいだが、韻と同種とは思えないほど個性が際立っている。

 灰色に近い毛並みで眼差しは鋭く、獰猛そうな口許に牙が太く、全体的に分厚い身体…まるでグリズリーというやつみたいだ。

「さぁさぁお立ち会いの皆様、胴元にキチンとピシャッと清算ターイム!負けた奴は残念さん、とっとと千円出せや」

と続く斎のかけ声。口々に勝ったの負けたの、やれやれだぜだのと漏らしながら、散乱した衣服から財布を取り上げる仲間たち。

 その光景の中で、あのいかにも他人を騙しそうな一癖も二癖もある狸、つまり隼も躍り上っている。

「俺も勝ちー!やっほぅ配当金配当金ー!!いくら儲かったかなー?なーにを買おっかなー?」

 僕は金が集まっていく斎の手元を見やり、千円札が重なっていくほどに不快感が増大するのをこらえた。

「なぁ隼、配当って何のこと?」

「ん、あー気にしない気にしない。今度新しく来ることになる転校生つまりアイスが、果たしてイヌ科なのかネコ科なのかを予想してただけだから」

 ほくほくと斎から配分の金額を受け取り目を細めている狸の姿の隼。守銭奴とか金の亡者とかいった表現がこれほど当てはまる変身あがりかたもあるまい。

「まさかお前ら、ひとのあがりもんの種類で賭けしてたとか言わないよな」

「まさかも何もその通りでございます。ちなみに発案者は俺さ!」

 親指を立て、しれっと告げる隼の首元を僕は両手で締め上げる。

「ぐぇ、苦じい」

「苦しがれ後悔しろいっそ死ね!」

「アイスやめてぇ!喧嘩はせんでよ!」

「うるさいどけ韻!こういう馬鹿には飼い犬みたいに暴力で躾しなきゃ分かんないんだ!!」

「そがんに怒らんかてよかろうもん」斎が僕を隼から引き離す。「こんなんただのお遊びやけんさ」

「こっちはそんなもんに巻き込まれて迷惑なんだよ!ってか引っ張んな!お前のバカみたいに太い鉤爪が毛に絡まって痛い!」

「“ひっぱんなよぉ!”やって、ドラマみたかにゃ!」何がそんなにおかしいのかニヤつく大熊。「けどスッとせんかったか?気持ち良かやろ?人目気にせんで安心して外でアガれることなんてそうそうなかろうもん」

 それはそうだけども。でも失礼にも程があるだろう。

「悪かったアイス、けど本当に何にも悪気はないんだ」

 とは隼の言。僕を拝む形で神妙に掌を合わせてくる。

「とかなんとか言って、実はあんまり反省してないんじゃないだろな」

「バレた?」ピョ、と舌を出す。「自分の利益になることならなんでもすっからさ、俺。あ、でも悪気がないのだけはホントだぜ」

 もう色々な意味で怒るのが馬鹿らしくなってしまった。僕一人が余所者で、多少はネタにされても仕方がないとは思う。何しろここは本州の隅であがりもんにしろ普通の人間にしろ退屈の虫に身体中を食い荒らされているだろうから。

「…僕をコケにしたんじゃないなら…まぁもぅいいけどさ…それにしても一つ疑問があるんだけど」

「何だろう?何でも訊いてみたまえ」

 塚原はいずまい正しく仁王立ちだ。結んだ拳にちゃっかり千円札が挟まっているということは、こいつは僕がイヌ科の方に賭けていたのだろう。

 気にしなければいいのかもしれない単純な疑問。しかしこれは、僕にとって今どうしても解いておきたい問題だ。

「どうしてここにはこんなにあがりもんがいるんだ…ですか?何かの目的で集められたとかですか?」

「目的とは?」

「…普通の人間の支配する…現在の日本の社会を…」

 こういう思考は普段よく読むコミックにはありがちな中二病的なもので、口にするのも憚られる。けど、もしそれが真実だとしたら?

 蠢く小虫のような不安感が胸に引っかかり、問わずにはいられない。

「…たとえば、裏から操ろうとしてるとか…?」

 ばははっ!

 突然聞こえた失笑ブラストに僕は固まる。

 ぶはっ、ぶはっ、ぶははは!と、腹を抱え込んで盛大に笑う奴が一人いた。

 巨大な熊に変じた斎だった。

「そがーん面倒くさいせからしかこと誰がすっとね!?なぁ、要!」

「せんな」

 牛は腕組みしたまま頷く。僕から面を背けて細かく震えているのは、苦笑を噛み殺しているせいか!?

「アイスって誇大妄想家やったんやねぇ」韻が眉根をこれでもかとひそませる。テーマパークのキャラクター並みに可愛らしい熊にそんな表情をされると、胸が痛むことこの上ない。「ちょっと怖かよ」

「てか普通そんなことまで想像しないだろ」

 とのたまったのはしたり顔の隼で、ビシッと僕の顔を指差す。

「あ分かった!アイスってバカなんだ!!」

 あからさまに自分よりもバカな相手からバカ呼ばわりされるほどバカバカしいことはない。ていうか、ふざけんな!!

「じゃあなんなんだよ!不自然だろこの学校!こんなにあがりもんモロ出しにしてる環境とか!!」

 頭を急回転させて出した推理を皆から馬鹿にされた。中二病的発言の気恥ずかしさも相まって、隼の狸面に食ってかかってしまう。

 隼は、大きく両腕を上げてから「まぁまぁ」とわざとゆっくり弧を描いて僕の肩を抑えてくる。その瞳がまだ笑っていてムカつく。

「仕方ないなぁ。それじゃあ俺が簡単に説明してやるよ」

「…なる短で頼むね」

「あがりもんが集まりました」両手を広げる。「そして増えました。終わり」

「あっさりすぎる!それじゃ理由も何も分からないよ!!」

「そいぎ、僕が説明するー!」

 挙手する韻に言ったれ言ったれ!と喝采。真面目に咳をして喉を整えるとおもむろに語り出す。

「コホン………えー、およそ120年前、佐賀の英傑大久保利通公が佐賀藩に生を受けたみぎり、藩の治政に関わっていた当時の家臣の一人が」

「やだ!やめ!絶対長くなるだろそれ!」

「えー、こいから大長編の血湧き肉躍る大河ロマンば始まるとこやったとにー」

 そこで韻を柔らかく押しのけて、斎がしゃしゃり出る。真打登場!とまたしても野次。

「よかよか韻、俺がこのいちいち細かか東京者にも分かりやすいように説明してやるけん。ええか?

 あんな、九州はもとからあがりもんの多かっさ。やけんが、あがりもんにとっては暮らしやすかよ。ほんで、あがりもんは努力すっけん、学のある職業やら高い地位やら就(つ)いとうさ。警察官やら医者やら弁護士やら公務員の偉いさんにもどっさりっさ。

 関西やら関東やらのあがりもんの組合…なんちゅうとるか知らんけど、そっちまでその事が伝わって、それでそいぎ、流入してくる者の増えたとさ。けんー、この学校も他んとこも、お前みたく他所の土地から来たもんには、あがりもんの多かて感じるんやろなぁ」

 意外にも簡潔にして理解しやすくまとまった説明だ。

「つまり…」ヒートアップしてる場合じゃなかったな。もらった方程式から解は自然と導き出される。「…子育てしやすい地域に夫婦者が引っ越して来るようなもんか。あがりもんが強く結託してSNSが発達してるから、他県から僕達みたいに移住してくるあがりもんがいて、それがまた余計にSNSを補強してしていって…倍々ゲームに、どんどんあがりもんが増えてるってわけだな」

 あがりもんがホワイトカラーに就くのは珍しくない。社会的に地位ステータスの高い職業を選ぶのは、そのために普通の人間の何倍も努力するのは、僕の生まれ育った東京でもおんなじだ。

 だが、東京を含める関東のSNSは、もっと個人的でもっとバラバラで、ちょっとやそっとのことでは互いに干渉し合わない。最低限便宜を図るのは、あがりもんであることが普通の人間に露見することを未然に防ぐ場合に限ってだ。

 それを当たり前のこととして生きてきたから変に思うだけで、あがりもんのことを少数民族と考えれば結託しないほうが異常なのだ。むしろ、佐賀のあがりもんコミュニティの求心力のほうが普通の人間との社会的な共存を持続していくために自然なことなのだろう。

「どがんか?理解わかったか?」

「ドヤ顔するほどのことじゃないだろ。…そうか、そういうことなら人数が多いのも納得するよ。でも…」

「何ね、まぁだ気にかかることのあっとか?」

 僕は頷く。斎は呆れた目つきで腰に手を当て、答えてやるから言ってみろと促す。

「僕達の掟は、地方によって大分違うのかな?」

 あがりもんの三つの鋼鉄の掟。三戒とも称される、あがりもんを普通の人間から守り、あがりもんと普通の人間の社会を正しく結ぶための条項。

 1.あがりものを見せるな。

 2.あがりものを競うな。

 3.あがりものを問うな。

 このうち1番は時代の変遷によって、現代ではかなり緩められている。純血のあがりもんに対する普通の人間との混血の数は右肩上がり、いつかは人口比率が入れ替わるのではと囁かれる状況にあって、秘密厳守のお題目は掲げているだけの金科玉条になり下がった。

 競うな、とは、あがりもん同士で権力を求めて相争ったり、ある種の系統だけで寄り集まることのないよう、また、系統による差別をするなかれという内向きの戒めだ。

 あがりもんとはいえ所詮は人間。軋轢が起こる理由は腐るほどある。しかしそんなことにいちいちかかずらわっていては、コミュニティを維持していけないのが厳しい世界で生き延びる真理。…なのだが、やはり「イヌ科とはソリが合わない」だの「ネコ科は気分屋で自分勝手な奴が多い」だの、まるで血液型占いのような俗説風説が絶えないのも現実。多分、俺は巻き込まれたことはないけどもイジメとかもあるんじゃないかと思う。

 少し骨抜きにされたきらいのある1つめ、体面だけ保たれている2つめ。しかし、3つめだけは厳格に守られている。

 あがりもんを問うな。

 それは、あがりもんの来歴を尋ねるな、詮索するな、探究するな研究するなということだ。

 あがりもんを研究すれば記録に残るし、普通の人間たちに要らぬ好奇心を植え付けてしまう。

 文書は残る。言い換えればデータはデータを産み、鼠算式に拡大していく。普通の人間達の間に防衛的な恐怖と残酷な好奇心をそそり、ひいてはあがりもん社会の自滅を招く。

 だからあがりもん達は自分の種族のことをあまり知らない。

 熊だとか猪だとか狼だとかモグラ(いるかどうか知らないけど)だとか、イヌ科とかネコ科とかだなんて語らい合うのはタブー中のタブーだ。もしかしたら系統ごとの差別や反目を封じたのかもしれない。お前は熊だから優れている、お前はカワウソだから劣っているとか敵とか味方とか、くだらないことに血道を上げないようにするための祖先の智慧。

「それを堂々と賭けの対象にするとかあり得ないだろ…関東のSNSからしたら、常識を欠いてるのは明らかにここのあがりもんの方だね」

「んー、俺もそがん変わりよろうとは思わんかったけんが、そりゃそんな風な環境に居ったんなら、アイスにとっちゃ佐賀んほうが全然変に感じるよなぁ」

 考えようによれば、そうやって思考過程そのものを封じてしまえば、禁忌の扉は絶対に開かれない。

 例えば、輸血。あがりもんから普通の人間へ、またはその逆で輸血した場合、もし両者の生命種としての関係が遠ければそれだけでも害をなす筈だ。しかしこれに関しては特に避けられてはいない。支障が出たという話も聞かない。僕も献血したことがあるくらいだし。

 つまり、普通の人間とあがりもんの遺伝子は非常に近しいとしか考えられないのだ。交雑も移植も問題ない程に。

 本当に、僕達には分からないことが多すぎる。近い未来にはここの生徒達のようにタブーにとらわれない者が大勢を占めるかもしれない。知的欲求と義務感のため己の特性を…自分達自身の体とその仕組みを研究する者が出てきてもおかしくはない。

 そうしたら、あがりもんの社会はどうなるのだろう…

 つらつらと浮かんだ疑問をぶつけると、さしもの斎も首をひねった。

「そうだな、いずれは自分達の存在が白日の下に晒される事態は充分に起こり得る。Twitterやネットが日々の生活に根ざしている以上、多少の危機感は持っていてしかるべきだろう」塚原は眉のあたりを歪ませて、隼を睨む。「相葉みたいな奴もいるしな」

 へっ?とスマフォから顔を上げる隼。まさか今の状況を写メったりツイートしたりしているわけではないだろうが、片時も手離せあたり、既に重症なスマフォ依存症ではなかろうか。

「いずれにせよ、こんな風に掟の定めるところや不文律、タブーについて考えたり認識を新たにするのは、自分らにとっても良い機会かもしれないぞ。自分達が当たり前に受け止めてきたことを見直せば、普通の人間達との軋轢を未然に防ぐ危機管理につながるというものだろうしな。刀指君、いや刀指。君の視点は貴重だ。改めて歓迎しよう。ようこそ、佐賀のあがりもん社会へ」

 真面目な口上で真面目な歓迎の意を寄越してくれる塚原。この人とはウマが合うかもしれないな(とはいってもウシだけど)。集まった中でも最年長の三年生だし、あの斎にも一目置かれているようだし。

「しかしアレやなぁ、バリエーションの増えたって言うばってん、やっぱり哺乳類やったな」

 斎は既にあぶく銭をしまい込み、頭の後ろで手を組み短い中ぶくれの短い尻尾を振る。

「どういうことだよ斎、やっぱりって」

 斎は含み笑いで耳打ちしてくる。

「いやさー、韻が『今度来る転校生、もしかして毛皮の代わりに鱗とか生えてたらどがんしよう?』ってビクビクしとったんやけど。腰抜かす[[rb:ごと>ような]]とんでもなか種類やなかったなー」

「ち、違うけん!ワクワクしてたんやもん!ビビッとらんよ!」

 慌てて否定する韻を斎は「嘘つけぇ、隼から聞いたぞぉ」とデコピン。韻は「うにゃっ」と額を抑え、隼を睨む。だが相手はそんな韻もどこ吹く風だ。

「俺がスピーカーなのはよく知ってるだろ。お前と違ってバカだから隠し事とかできねーし」

 それに事実じゃんか?と肩をすくめる。狸という種もあいまって、胡散臭さがにじみ出る仕草だ。こいつには用心したほうがいいかもしれない。

「もー、隼はほんなごて口の軽かぁー。だって昔聞いたことあったんやもん、世の中には四つ足じゃなかあがりもんのおるて」

 誰に聞いたんだよ?えーと、誰かやったかなぁ…などと会話する二人。

 斎は「そんなんただのウワサやろぉ?」と鼻白んでいる。

「おいアイス、韻のやつな、小学生の時『知っとるか?中国にはパンダのあがりもんのおっさ(いるんだよ)。けん、上野動物園の有名なパンダはな…あれは普通の人間にとっつかまって変身解除サガれんごとなった、哀れなあがりもんなんや!』て嘘に騙されて、ずっと信じとったんやぞ」

「え!アレ嘘やったん!?」

「てお前まだそんなの信じてたのかよ?」

 目玉をぐりんと1回転させる隼。

「てか僕にそれ言うたの隼やん!!僕今の今まで信じとったんよ!?」

「信じるほうが悪いだろ」

 狸が「なー」、と言うと熊も牛も「それもそうやなぁ」と肯定の輪に加わる。

 韻は泣きそうな顔になると「こんの嘘つき!よぉも6年間も親友の僕を騙しとったなぁ!」と隼に襲いかかる。

 狸と熊のダンスのような追いかけっこ。心温まる光景と言えばそうなるかな?

 純粋すぎる韻にはちょっとの同情と好感が持てる。隼は食えない性格みたいで、幼馴染の出方もよく心得ているのだろう、広い道場をヒラリヒラリとつかみどころなく跳び回り、なかなか捕まえられない。おまけに少し楽しそうだ。

「さて、と。自己紹介も済んだし、そろそろ解散するとしようか。斎、もう用事はないな?」

 頷く斎。韻の襲撃を軽々とかわしていた隼も「じゃー帰っか!」と足を止める。途端に追いかけていた韻と衝突し、2人団子になって激しく転がり視界から消えた。

「野郎で集まっていつまでも裸でおってもしょうのなかしな。アイス、家まで送るけん一緒に帰ろうぜ」

「あ、それなら途中で幼稚園に寄っていいかな。セイを迎えに行かなきゃいけないんだ。父さんはまた今夜もパトロン集めの宴会に行っててさ」

「そっちはうちの父ちゃんに任せとるけん大丈夫さ。お前の方はしばらく家が忙しかやろう?セイとアイスの送り迎えはうちですっさ」

「…え…そんな迷惑かけられないよ。おじさんだって仕事があるんじゃ」

「だーもー、気にすんなって、そがーん細かかこと!」

 気楽にペンと背中をはたかれた。何か身体から憑き物が落ちたように軽くなった気がして、思わず僕は相手を見上げた。

「アイスはもう俺の身内や。身内同士、水臭いことは言いっこなしでいかんか」

 大らかな笑みをたたえた斎の熊面くまづらに、口を衝いて出そうになった言葉。僕はそれを反射的に飲み込んでしまう。

「そらそら韻も隼も、ふざけとらんで帰るぞぉ」

 僕は東京での出来事に縛られて神経質になっているんだろうか。素直にありがとうと言えば気が済むのに、離れていく斎にその一言がかけられない。

「韻は隼のそがーん嘘ば何年もよう信じよんなぁ。ほんなごてお前は単純やなぁ」

 斎は韻の項を取って巨体を隼からもぎ取る。韻の筋肉と脂肪に埋もれていた隼はその下から顔をのぞかせてブハァと息をつく。

 まだ「単純やなかもん!」と憤慨している大きな熊と小さな狸の組み合わせは調停によりひとまず戦端をおさめ、あがりもん達は帰り支度を始めた。

 服を身につける前に変身を解こサガろうとしたその時に、またしても道場の戸が開いた。荒っぽい口調の超高音スーパーソプラノボイスが響く。

「ゴラァ馬鹿どもぉ!さっさと帰れぇー!」

 赤みを帯びた茶髪。それからブレザーの上着とスカートが目に入って、僕だけでなくその場にいた全てのあがりもんが硬直する。…いや、斎に隼、それに塚原以外が、だ。その三人だけが「あーあ」という露骨に残念な表情をしていた。

 僕の喉で唾液と驚愕が詰まって変な音になる。すかさず股間を隠したけど、見られたんじゃないか!?

 韻などは女子と見るや「キャァ!」とバスタイムを覗かれたラブコメ漫画のヒロイン顔負けの悲鳴を出して、人垣の奥に引っ込んだ。

 入ってきた女子は、鼻息とともに顎をそらせ、主張の激しいバストが持ち上がるのも構わずその下で腕を組んでいる。廊下の照明がバックライトになって、ほっそりした身体の周りに雷光をまとうような得体の知れない迫力を醸し出した。

 内向きにはねた髪、細い眉、ハリウッドの女優みたいにけばけばしく長い睫毛にマスカラ、高慢そうな鼻筋。唇には蔑笑をまとい、さらに舌打ちまで追加する。

 美人…の部類だと思う。けど、朝に廊下でぶつかった女の子とは対極にいる美人だ。あの子が触れたら溶けて消えてしまいそうなお姫様キャラなら、こちらはそうだな…洋画のスクリーンから抜け出してきたセクシーな悪女といったところか。

「うわ暑っ!そんでクサっ!すっっっげー汗くさい、っていうかケモノくさいなあんたら!ガキじゃあるまいし揃いも揃ってアガった上にフルチンとか何やってんの?暇人ども!」

 上履きも脱がずにズカズカ畳に上がるので、塚原がおい、と嗜めるも聞き入れるそぶりはない。

「なにさっきの悲鳴は?韻?あいつどこ行ったの?」

 遠くから「そ、そっちこそなんしよっと!?こっちは裸なんやから早よ出て行かんね!」と当人の声がする。それに対して「誰もあんたのお粗末なモン見てないっての!それとも少しは成長した?そんなら品定めしてあげるから出てきなって!」とやり返す。

 このヤンキー女子もあがりもんなんだろうか?いやそうに違いない。周りが獣の姿をしているのに動じていないし、男子の誰もその存在に動揺こそすれ警戒してはいない。

 しかし。

 美人が下品なことを口にしていると、ガッカリ感がハンパないな…

「もー、ナツメのスケベ!エロ変態!」

 韻からナツメと呼ばれた彼女は、山鳥のようにけたたましく笑いながら腰に手を当ててそっくり返る。

 僕は呆れを通り越して軽い苛立ちを覚えた。全身を覆った毛皮で見えにくくなってるとはいえ、全裸の男の輪の内に平気で入ってくるとかどういう神経をしてるんだ?

 心の毒づきが聞こえたかのように、ヤンキー女子が振り返る。どうやら地毛らしい赤髪がさっと舞って、僕とまともに目が合った。

 近くに寄ると、油絵のように陰影のくっきりした面差しがよく分かる。すいっと二本引かれた、無駄のない眉。濃厚に揃う睫毛。細い鼻筋。マスカラ以外はまったく化粧っ気は無いのに肌は溢れ出す生命感で光って見える。

 おまけに、やっぱり巨乳だ。その谷間には琉球硝子のペンダントを揺らす。裾を短くしたスカートの腰はこれでもかとくびれ、プリーツから突き出した脚は傲慢と言えるほど長い。変身のアガっているせいで本能が過敏になってしまっているようで、僕の体の中心部にある器官が反応の気配を見せたので思わず腰を引く。

 将来パリコレ・ミラコレでライトを浴びると予言されてしかるべきどころか、そういう場所に行くしかないと思わせる、僕が生涯見てきた中で一番見た目のパーフェクトな女子だった。…こんな感想を持つ自分が誰かの失笑を買ったとしても、別に恥ずかしくはない。それが事実なんだから。

 あがりもん達は毛皮を引っ込めるのももどかしく下着を穿こうとしている。僕もご多分に漏れずそうしようとしたのだが、人間の姿に戻る前に塚原が腕を引っ張った。その子の正面へ無理やり立たせられる。

「ちょうどいい機会だから紹介しておこう。刀指、彼女は相葉あいばなつめ。隼の双子の妹だ。棗、彼は刀指氷裂。うちの学校に今日から加わった新しい仲間だ」

「───…ふーん」

 この近距離なら嗅ぎ分けられる。この子もあがりもんだ。

 東南アジア系の雰囲気のする浅黒い顔から、大きな栗色の瞳が僕の眼をじいっと覗き込む。こちらに投げかけられる反射光に視線をずらすと、耳にキキララのキャラクターピアスを付けていた。彫りの深い顔立ちがケバケバしい雰囲気を漂わせているが、黙って素のままの表情をしていれば結構可愛いかもしれない。

軟弱ナヨいねコイツ」

 耳をくすぐってくる高い声。アイドル歌手もかくやという艶っぽさだ。音程自体が、甘さを持ってい…

 って、なんて言ったこいつ?

「あーあ、ガッカリだわー。東京でやらかしてきた問題児って聞いてたから、どんなゴツいワルが来るのか楽しみにしてたのに。こんなん」と、無遠慮な手の甲が僕の胸の毛溜まりを打つ。「ガリガリじゃん。拍子抜け。全然あたしの趣味じゃないね。もっと筋肉つけなよあんた」

「ガリガリ…?」

「見てくれは頼りなさげだし種類は何?狐?ゴリラとか熊とか、せめてマッチョな狼ならカッコいいのに。完ッ全に拍子抜け。あたし全然興味失ったわ、うん、パーフェクトに」

「おい棗、言い過ぎやぞ。アイスはスリムで男前やろが。お前の好みのガチムチとは違うばってん、自分の好みば押し付けんなや」

「あっ、斎!ちょっと来て、ここに立って!」

 棗は僕のことを弁護する斎を呼びつけ、横に立たせる。唇に指を当てて呻吟することしばし、コンクールの審査員が勝敗の宣告をするように泰然と言い放った。

「あーやっぱ、こうして見ると斎のがめっちゃいい身体してんねー。あたしの好みは新入りみたいなモヤシっ子よか、断然斎かな!」

 人を、見た目で判断してはいけない。

 僕はこれまでそう教わってきたし、学校の道徳課題でなくともそれは一般的な常識なのだと分かっている。わきまえている。

 容貌も能力もつきつめていけば外形的なものであり、それが個人の価値を定める基準とはならない。エッセンスとして魅力を与えこそすれ、貶めるものではないのだ。

 あまつさえ身体を他者と比較して優劣を評価するなんて、そんな失礼なことはできない。

 …と、信じてきたのに。

「ねーねー斎〜、今度遊びに行こうよー」

「やー、ばってんオイは部活の忙しゅうしとるしもうすぐ中間テストやろがい」

「じゃあそれが終わったらさ、なんか食べに行こうよ!いいだろ?あ、そういや駅前の通りに新しいカフェできてるってさ!」

 などと斎(まだ熊の姿で全裸)の腕に絡みついて離さないこの馬鹿ヤンキー女は(あっちがそうするならこっちだって礼儀を守ってやるいわれはない!)、そういった僕の意識を土足で踏みにじった。

 外見はあくまで外見にしか過ぎない。いくら綺麗で見栄えが良くても、中身が伴っていないこともある。その事実を、僕は棗の次の科白で思い知らされた。

「そーだあんた、氷裂!」

「なんだよ」

「あんた狐なんだろ?襟巻きにしたらちょうどいいんじゃない、その尻尾。死んだらアタシにくれよ、襟飾ファーに予約ってことで」

「ふ、ファー…?」

「そ。だから死ぬときはアガっといてね」

 ぶっつん。僕の脳のヒューズが飛んだ。

 あがりもんのSNSでは禁句とされるもの、それが会話に混ざればきわどいジョークの域を超え、深刻な侮辱と目されるもの。

 剥製、またはそれを連想させる表現を使うことだ。その理由は普通の人間にも説明は不要だろう。あがりもんの誰もが人の姿の裏側に獣の姿を持つ以上、博物館や資料館に展示される内臓をくり抜かれ防腐剤を塗布され虚ろな硝子の目玉で虚空を見つめる動物になぞらえられることは、最大級の侮辱にあたるのだから。

「アイス」僕の手脚の指という指から鉤爪が飛び出す気配を察した斎が、肩を掴んで荒々しく後ろに引っ張った。「抑えろ。棗は変わり者や。俺に免じて、な」

「…っ」

 呼吸が乱れる。アドレナリンが大量に分泌され、痛いほど心臓が脈打っている。言葉にならない。なおも執拗に斎に引っ張られ、半ば抱き寄せられるようにそこから離される。

 こいつとは、無人島に流れ着いても地球最後の男と女になっても宇宙の存亡がかかっていると言われたって、絶対に恋仲にはならない。

 ハラハラしながらこちらを伺っている韻と、ニヤニヤと愉しげに腕を組んでいる隼の瞳にわなわなと震える自分の姿が映っていなければ、相手が女の子でも手が出ていただろう。

「棗は何しに来たと?」

 人垣に身体を隠しながら、ひょこひょこと手を出して自分の服をさらう韻。

「そこのバカ兄貴に用事に決まってんだろ。ほら兄貴!さっさと帰って飯作るよ!」変身を解き、やっとパンツを穿いてモジモジ内股になりながら出てくる韻に、棗は残酷で意地の悪い笑みを浮かべた。「ていうか韻ぃ、さっきチラッと見えたけど、あんたのちっとも変わんないねぇ。小学生のときのまんまじゃん」

 ぴっ、としか聞こえない声にならない音を出して純朴な韻は真っ赤になった。

「あーあ棗ー、お前また韻いじめて泣かしたなー。そんなんじゃ高校でも彼氏できないぞ」

「るっさいな」感情の高まりもなく無造作に隼をち、「マコトにミノリにイツキが待ってるだろ。あたしはマロン迎えに行かないといけないし超忙しんだから」と吐き捨てる。

「大丈夫かお前」

 斎に支えられながら、辛うじて怒りを意識の下に支配した。

「うん……」

 このままでは僕の気が済まない。この乱暴な女、何様のつもりなんだ?一言文句をつけてやる!

「まだかかりそう、ナツ?」

 戸口から聞き覚えのある声がした。柔らかくどこか品のある響きが鎮静剤になった。

「アサヒー、あんたも来なよ。こいつらがブラブラさせてるもんなんか揃いも揃って大したことないもんなんだからさ」

 まさか、という気持ちで頭が真っ白になった。

 戸口に現れたのは、流れる滝のようなストレートヘアの、瑪瑙のような輝き。

「お粗末で悪かったにゃ。アサヒも来よっとか?」

「そりゃ来るよ、要がいるんだから。───ほらぁ、アサヒ!早く入って来なよ」

 張り上げた棗の声に押されるようにその女の子が入ってきた。

 市原アサヒ…さん。僕がこの学校で初めて言葉を交わした同級生の女の子。恥じらいがちに眼を伏せながら、まるでガードするように鞄を口元まで持ち上げ、しずしずと進み出てくる。

「あ、ごめんなさい皆さん…なんか変なところに来ちゃって」

 慌てたのは僕だけじゃない。というか、斎、隼、要の3人以外は全員そうだった。プールの後で着替えていた小学生みたいに、右往左往するあがりもんの集団。文字通りむくつけき野獣の巣窟で、触れたら折れてしまう百合の花のようなアサヒさんは先程の僕とは違った意味で震えながら立っている。

「ど、どうしてアサヒさんがこんなとこにいるんだよ」

「おっアイス、お前もうアサヒとは顔見知りになったのか?手の早かにゃー」

「茶化すなよ!…ていうかアサヒさんて、その」

 ああ、と斎は狼狽している僕を面白そうに小突く。

「アサヒはな、普通の人間やぞ。正真正銘のな」

「……………………」

「驚くのも無理はないな」角刈りのいかつい顔が振り向いて言う。ミノタウロスから人間の姿に戻った塚原だ。「警戒は無用だ刀指。アサヒは特別だ」

 いつの間にか僕と斎以外全員が着衣し、わざとらしい咳払いなどをしている。

「改めて紹介しておこう。彼女は市原アサヒ、佐賀でサガリソウを作り続けて三百年の老舗薬局の一人娘で、自分の婚約者だ」

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