晴れゆく3

 甲板に上がると、ほんのりと温かく柔らかい風が肌に当たった。

 生臭さの代わりに、澄んだ水の匂いがする。

 眩しさに目が慣れず、何度も瞬きを繰り返した。ようやく目が開けられるようになって、俺は思わず息を飲んだ。

 そこは、空を映した鏡面だった。

 薄暗い雲が空と足元に広がり、水平線を挟むようにしてどこまでも続いている。銀の雪は未だ宙を漂っていて、それらが風に揺られて、少しずつ雲から黒さを消し去っていた。雲の隙間からは日差しが注ぎ、光の階段がくっきりと浮かび上がっている。帆船の周囲にできた僅かな水の揺らぎが湖面に伝い、幾重もの波をこしらえる。それが何とも優雅で、何とも心地良い。

 船縁まで歩いて眼下を覗けば、水底まで見えそうなくらいの透明度の高さを実感できた。あの黒くてべっとりした水とはとても比べものにはならないくらい、綺麗な水だ。

 宙に漂う銀の粒がまたひとつ、またひとつと湖面に落ちていく。粒に含まれた聖なる光が水の中でじわじわと広がるのを、俺はしっかりと目で確かめた。


「決してハッタリではなかったのね」


 声をかけられ振り向くと、ローラがいた。

 俺よりもずっと疲れ切ったような顔をして、はにかんでいる。


「まぁね」


 俺は愛想なく笑って、また銀の粒の落ちるのを見た。

 彼女は俺の隣まで来て、船縁から同じように船外を覗く。そうして、長いため息を吐いては、また俺の方を見て小さく笑った。


「こんなにも強い力をもっているなんて、見た目じゃわからないものね」


「努力して手に入れたモノじゃないかもしれない。もしかしたら、得体の知れない存在に、いつの間にか付与されていたモノかも。そう思うと、あまり気持ちのいいもんじゃない。君のように望んで手に入れたものでもないわけだから、力があって良かったなんて思ったこともない。そういうのはホント、皮肉だよな」


 俺が話している間、ローラは銀の粒を見つめるフリをして、俺の顔をしきりに気にしていた。それを知っていて、俺はわざと気付かないフリをする。


「心が綺麗でないと、聖なる光の魔法は使えない。リョウ、貴方の心は本当に透き通っているのね」


 歯の浮くようなセリフだ。

 俺はやはり、彼女の顔を見なかった。


「銀の粒が全部消える頃には、雲も消えているかもしれない」


 話題を逸らす俺に、彼女は特に気にする素振りも見せず、「そうね」と相づちを打つ。


「昔、まだ科学が解明されてなかった頃、リアレイトの大地は平らだと信じられていた。太陽や月は大地の周りをグルグルと回っていて、大地は大きな象や亀、蛇が支えていると考えられていたそうだ。ここは、平らなんだろうか。あんな風にレグルノーラの大地が湖面に浮かんでるなんて、どう説明したら良いのかも分からないし、納得もいかない。けれど、もしかしたらそうなのかもって、だんだん思い始めてきた。この世界にも太陽があって、月があって。あり得ないと高をくくっていた世界の端っこが湖の先にも存在するのかもしれないし、下手したら巨大な竜なんかが世界を下支えしているのかもしれない。雲が晴れれば、またひとつ、知りたいことができる。興味が尽きない。全部終わったら、世界の秘密を探りに行くのも面白いかもしれないな」


 そこまで言うと、彼女は俺の顔をわざとらしくのぞき込み始めた。最早、俺に対する気遣いなどなかった。


「……これからかの竜を倒そうとしている人の言葉とは思えないわね。もっと血なまぐさいことを思い浮かべるモノじゃないの。どうやったら倒せるかとか、どうすれば息の根を止められるかとか」


「そんな物騒なこと考え続けてたら、精神を病む」


「けれど、倒さなければならない相手だわ」


「それで全てが終わるならそうしたい」


 ここまで来て、こんな回り道で大丈夫だったのだろうかという不安がよぎっていることを、もしかしたらローラも薄々感じているのかもしれない。湖の浄化が、イコールかの竜を弱体化させることに繋がるのかどうか、確認の方法すらあやふやなまま。

 恐らく、俺はもう一度かの竜の中に入り込まなければならない。そして内側からヤツの動きを止め、力尽くで同化を解除する必要がある。

 誰にも頼れない不安を、この湖が浄化される景色を見つめることで誤魔化していると思われたら、違いますよなんて言葉は出ないだろう。


「……浄化、できないかな。ドレグ・ルゴラ自身を」


「――え?」


「聖なる光の魔法を内側から」


 と、そこまで言ったとき、にわかに甲板の上が慌ただしくなる。バタバタと乗組員たちが集まり、大声でなにやら話している。丁度、俺たちのいる船縁の反対側だ。

 俺とローラは、話途中で彼らの方に向かった。

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