決戦前夜3
帆船の朝は早い。
未だ薄暗いうちから、無数の足音が床と天井を伝い響いてくる。
以前もテラと使わせて貰っていた二人部屋のベッドで泥のように眠ったはずなのだが、マットレスが固いせいか身体のあちこちが軋む。けどそれも、こうやって身体を具現化させたからこその感覚であって、意識のまま漂っていたときには感じることすら許されなかったのだと前向きに考えるようにする。
結局昨晩は、騒げるのは今が最後かもしれないとばかりに、かなり遅い時間まで騒いでいたようだ。すっかり悪酔いして千鳥足になってしまったシバを船長室に送るという名目で、俺は早々に食堂を後にした。意識を止めておくことすら限界に来ていたのだろう、船長室の扉を開けた途端にシバは消えた。一旦“表”に戻ってゆっくり休むのが彼にとって唯一の回復方法に違いない。
身支度を調えて甲板まで駆け上がると、ようやく明るくなってきたばかりだというのに、塔の魔女ローラが俺を待ち構えていた。
「よく眠れたかしら」
「お陰様で」
彼女は今日も明るい色のローブを身に纏っている。どこまでも続く暗い砂漠を背景に、彼女の姿は浮き出て見えた。
昨日と違うと言えば、彼女は一人ではない、お付きの者がおまけで付いてきていたというところ。塔の魔女ともあろうお方が自分の意思で自由に動き回るってのは、やはりよろしくないことなのだろう。監視要員か大変だなと、その人物の顔を見る。――見覚えが。
「救世主様、その節はご無礼を」
細身の青年、長髪でインテリな眼鏡をキラッと光らせた彼は。
「ルーク!」
学校内のゲートを監視してくれていた裏の干渉者の一人だ。
「こうしてまた会えるとは。光栄です」
ルークの差し出した手を握り返し、
「他の皆は」
と尋ねると、
「ダークアイと魔物の排除に勤しんでいたのですが、ローラ様に同行するようにと私に塔から強い要請がありまして。これも何かの縁です。共に戦いましょう」
良かった。干渉者協会の関係者は皆吹き飛ばされたんじゃないかと心配していた。所属はしていても、必ずしもあの場に居たとは限らない。当たり前のことだが、ホッとする。
「私は一人で来るつもりでしたのよ」
とローラ。
「ところが、出かけようとする私を、塔の連中は必死に止めるの。何も死にに行くわけじゃないわ。ちょっと全力で魔法を使おうとしてるだけだって説明したのですけれど、すっかり怒られてしまって。本当に面倒ですわよね」
「まぁまぁ。そこは仕方がないとある程度諦めも必要ですよ、ローラ様。第一、私は塔としがらみはありませんから、本当に同行するだけのつもりです。助言はしますが、口出しはしませんので」
ズケズケとモノを言うルークだが、一応ローラにはそれなりに気を遣っているようだ。彼女のイライラをなだめるように、優しい口調で諭している。
朝特有の冷えた空気が頬に貼り付いた。ふぅと息を吐くと、心なしか吐息が白く濁るように見える。
徐々に白んでいく空。相変わらず日の光の欠片も見えないが、着実に夜は明けていく。
「
ローラが俺にそう言った直後、
「誰が戻ったらって?」
背後でシバの声がする。船長室のドアを潜り、金髪の美青年が涼しげな顔を見せている。
俺がよぅと手で合図すると、シバもそれに応えて手を挙げた。
船縁の近くに居る俺たちの側まで来ると、シバはニッコリ笑って、おはようと挨拶する。
「二日酔いは大丈夫?」
半笑いで尋ねると、
「この私を誰だと思ってる。……なんてな。足元がフラフラして、頭がガンガンするんで、ここに来る前にディアナ様にアルコールを分解して貰った。親に『酒臭い』と言われて詰め寄られたときにはこの世の終わりかと思ったが、元々“あっち”はかの竜のせいで既にこの世の終わり状態だった。そう思ったらどうでも良くなって。『どんな人間と付き合ってるんだ』とか『そんな不良に育てた覚えはない』とか、そんな野次さえ生きている喜びだと思うことにしたよ」
確かに、呼気から酒臭さは抜けている。
律儀に家に帰ってる、いや、帰されてるのか。強い力を持った干渉者とはいえ、彼も未成年。その辺、ディアナは気を遣ってるんだろう。日常生活を壊さない、できる限りギリギリまでいつも通りに過ごさせてやりたい。そんな気概がうかがえる。……俺の時とはえらい違いだ。尤も、彼らは俺と違って命を懸けてまで世界を救う必要はないわけだが。
「で、“表”は今どうなってる? かの竜は? 美桜は?」
話題を変えると、シバは表情を厳しくした。
「……神出鬼没な白い竜に、自衛隊は手を焼いてる。武器弾薬で封じ込めようにも、強力な魔法で跳ね返される。正体もわからず、分析も進まないから、対策のしようがない。滅茶苦茶だ。交通網は完全に死んだ。情報網も瀕死状態だ。いつどこに現れるかすらわからないのもあって、避難誘導も進まない。買い物難民で街は溢れ、大混乱が起きている。一旦家には戻されたものの、私だってジークが迎えに来なきゃ、ここに来ることすら難しかった。そして美桜は……、まだ、見つからない。ディアナ様の話だと、“表”から完全に気配が消えたと」
「ってことは、“裏”に居る?」
「わからない。何にも」
身体と意識が完全に分離してしまった俺にとって、“表”での出来事は対岸の火事状態だ。話を聞いたところでどうすることもできない。
歯がゆい。苦しい。
こんな悲惨な状況をどうやって打破できるっていうんだ。
押し込めていたネガティヴさがひょっこり顔を出しそうになって、慌てて引っ込める。
前向きだ。前向きに考えるんだ。
「こんな所でグチグチ言ったところで、何も変わりませんわよ。まずはやれるところから始めましょう」
暗雲をかき消すように、ローラが言った。
俺もシバも、ハッとして彼女を見る。
「大丈夫ですわ。未だ私たちには方法が残っている。一人ではありませんのよ。皆の力と知恵を合わせれば、きっと二つの世界を救うことができる。いちいち下を向いていては、それに気付くことだってできなくなりますわ」
ローラは恐ろしいほど前向きだ。
この逆境をものともしない。力強い。
「
凜とした彼女は女神。
今、俺たちにできるのは、女神の示す方に向かうことだけ。
「了解。転移後、船の操舵は任せろ」
シバは親指を立て、軽くウインクした。
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