BOGEYMAN

寒天ゼリヰ

悪徳の街

悪徳の街 第一節

 備え付けの冷房が吐き出す気の抜けた冷気を、シーリングファンが律儀に撹拌している。色あせたカーテンでは、赤道に近い猛烈な日差しを遮るには役不足なようで、真っ白い斜光がソファに横たわるこの部屋の主である男、葛城の顔を情け容赦なく照らしていた。


 「……」


そんな日光も意に介さず静かに目を閉じていた葛城だったが、やがて備え付けの黒電話がけたたましく鳴り響きはじめるとむくりと起き上がった。その短髪の男は無表情だったが、心持ち嫌そうな雰囲気を醸し出しながら隣の小さなガラステーブルに置かれた電話を取る。


「はい」


「おい葛城」


電話の向こうの声も葛城に負けず劣らず不機嫌そうだった。煙草とアルコールで荒れ放題になった、掠れた壮年の男の声だ。葛城はピクリと眉を動かし、そっと腰のホルスターに手を当てた。ただ、抜く気はないようでその革製のホルスターに収まった黒い大型自動拳銃のグリップを、ゆっくりとコンバットグローブに包まれた手で撫でている。


「バルコヴァー家の令嬢の件か」


「ああ。お前がすっぽかすんじゃないかと思ってな」


「おれが約束を破ったことがあるか」


葛城はポケットから潰れたラッキーストライクの箱を取り出し、一本取り出して掌の中でくるりと一回転させてからジッポで火をつけた。フィルターで漉されない濃い煙を胸いっぱいに吸い込み、静かに吐き出す。そんな葛城の様子を知ってか知らずか、電話の向こうの男は必要以上ともみえる冷淡さだった。


「こっちはもう金を貰ってるんだ。勝手をされちゃ困る」


「おまえの都合だろう、それは」


「ああそうさ」


だがな、と男はつづけた。


「そうはいっても付き合わなけりゃならないのが浮世の義理ってやつだ。なあ、わかるだろ?」


「そうだな」


銃のグリップをなでる速度が心持ち上がる。葛城の仕事は、大抵この男が持ってきていた。積極的に営業活動をしない葛城のスタンスは、自分の助力あってこそ成り立つものだと男は言外に言っているのだ。そんな男の顔を脳裏に呼び出しながら、葛城は銃のグリップを撫で続ける。優しく、丁寧に、愛撫するかのように。


「いつもの場所で待っておけばいいんだったか?」


「ああ、約束は十二時ちょうどだ」


「ん」


静かに受話器を戻しながら、壁に掛けられた古臭いゼンマイ時計に目をやる。指している時間は八時十五分。ただ、時計の振子は止まっていた。


「いい加減、ゼンマイを巻いておくべきか」


 呟きは遠くから聞こえてくる喧騒に混ざって消えた。男は胡乱げな目つきで腕に巻かれた丈夫そうなコンバットウォッチを見た。十一時三十八分。不便はしてないのだから、わざわざゼンマイを巻く必要もないかと、もう何度も繰り返された問答がルーチンワークのように脳裏に浮かぶのを自覚しつつ、葛城は立ち上がる。白い綿シャツに包まれた体は一目で筋肉質とわかるものだったが、冷房などものともしない熱気の中で彼は長袖長ズボン、しかも手袋までしている。顔以外の素肌を徹底的に隠そうとしているのは明白だった。そして肩にはショルダー・ホルスター、腰にはヒップ・ホルスター。どちらにも拳銃が収まっている。重そうなポーチやら大ぶりなナイフやらがベルトに所狭しと吊り下がっており、明らかに戦闘を目的とした格好である。ソファで寝るのにさぞ邪魔であっただろう。しかしそんな重い装備品を身に着けているとは思えないような滑らかな動きで、葛城は壁に掛けてあるポケットのたくさんついた黒いフライトジャケットを羽織り、ちびた煙草を靴底で消してガラステーブルのクリスタル製灰皿に投げ込んだ。


「……」


吸い殻は灰皿に山と積まれた煙草の残骸たちに跳ね返されテーブルに墜ちる。同じ境遇の吸い殻たちが死屍累々のありさまで転がるテーブルを一瞥もせず、葛城は棚の上においていた大きなプラスチック・ボトルに手を突っ込んで飴玉を一つ取り出した。


「レモン味」


ぼそりと呟いて包装を剥ぎ、黄色い砂糖塊を口内に放り込む。仏頂面は相変わらずだが、への字になった眉が少し緩んだようだった。心持ち軽くなった足取りで玄関に向かい、ドアを解放する。南国の太陽の奔流が彼の体を包んだ。

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