第三章 竜の化身

一.命喰らう旋風

 一陣の風が、舞う。

 其れはわば『死の風』。触れれば四肢が裂け巻かれれば五体が粉々に吹き飛ぶ、命喰らう旋風。

 此処は冷たい空気が流れる地下の牢獄。自然の摂理から考えれば、此の様な場所に大風が吹くこと自体が怪異である。

 既に数十名の男たちが黒い血飛沫を吹き、断末魔を上げる間もなく地に伏した。己が生命を絶たれたことなど知らされぬうちに、身体の原形を留めぬよう破壊されて死んでいったのだ。

「何なんだ。何なんだよ、これはぁ……!」

 少し離れた牢を襲っている、目に見えぬ風波が、次々と仲間の命を飲み込んでゆくのを目の当たりにし、男は声に為らない声を上げた。

「命は取らねえって言ったくせに……聖安の奴等」

 自分たちは聖安の民に害を為した茗の海賊である。不運にも聖安の上校率いる軍に制圧され捕らえられたが、拘束されるだけで命の保証はされると聞いていた。

 人間を捕食する風を起こし、自分たちを皆殺しにしようとしているのは、聖安軍に違い無いだろう――されど、直ぐに思い直す。斯様かようなことが、人の所業であるはずがないと。

「ひぎいいいいいいい!」

 狭い牢に押し込められた海賊たちは、木の格子を易々と壊して迫り来る風から逃れる術を持たない。己の許に達するまでに、風が何とか弱まらないかと淡い期待を抱きながら、壁際へ押し寄せ仲間を払い除け、我先に奥へ進まんともがく。

「ぎゃあああああああ!」

 一つ、また一つと首やら手足やらが宙に舞う。小さな燭台が点々と据え付けられているだけの暗い地下牢は、あっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図へと為り果てた。

 風は少しずつ、男が閉じ込められている牢へと近付いて来る。そして死の風を作り出している本人もまた、此方に接近していた。

「ひ……ば、化け物ぉ……!」

 風の送り主はたった一人の男。化け物と呼ばれはしたが、妖や魔物の類ではない。優に三尺は有ろう大剣を手にし、外から顔が殆ど見えぬように覆っている。全身が黒尽くめの衣服を纏い、手足や首までも包んで外套も黒。口と鼻は晒しのような布で覆い、左の目もまた面で隠している。唯一覗いている右目は眼光鋭く、夜の闇の中獲物を狩る獣そのもの。

 獣は片手で易々と剣を振り上げ、袈裟に払う。空を切っているだけで、何か物体を切っている訳ではない。其れだけの動作で、男の足下の地に亀裂が入り砂塵が巻き上がり、強烈な疾風が起こって刃を成す。其の凶刃が、轟音を立てながら数丈も先まで進み、犠牲者たちのひしめく牢へと投げ込まれ猛威を振るうのだ。

「くそお、何でこんな目に」

――みんな、全部、あの頭領の所為だ。

 今、最悪な事態に陥っているのは、頭領が女に現を抜かして準備を怠り、禁軍に敗北した所為せい

 此処に囚われた後、頭領緑鷹は茗の将軍である、という噂が仲間内で流れた。尋問された何人かが聖安の兵から聞いたのか、元々秘密を知っていた仲間が流したのか、出処は分からない。

 しかし他の仲間よりも少しだけ利口で冷静な男は、其の噂に首を傾げていた。将軍ともあろう者が、自分たちのような賊の徒党に加わったりするだろうか?

……真実がどうであれ、女に入れ込む腑抜けた男に着いて来たがために、自分たちは死に追い込まれようとしている。

――いやそう為ると、全ての元凶はあの女か?

 頭領の屋敷で一度だけ見たことのある、黒髪の女。人間離れした形容し難いあの美貌に、男なら誰しも情欲を掻き立てられるであろう艶冶えんやな肢体。

――頭領も屹度きっと死んだのだろう。

 あの女は妖の類に相違無い。海賊に勝利を齎し続けていた、狡猾で強い緑鷹をたぶらかし、終いには死ぬように仕向けた。妖とはそういう手管で人間を陥れて楽しむ、忌むべき存在なのだ。

 肉の裂ける音、血が噴出する音が近付いて来る。男は耳を塞ぎ、姿を消した頭領や例の女、此処数ヶ月間の自分たちの絶頂振り、故郷に残した家族、果ては最後に抱いた女のことまで、とりとめも無く思考した。

「死にたくない、死にたくないぃぃいい……」

 力無き男の声は、彼と同じ牢の中で化け物の生贄と為るであろう、仲間たちの悲鳴によって掻き消される。

 手足が振るえて悪寒が酷く、動悸も激しい。心臓の鼓動が早過ぎて気持ちが悪い。

 頭を抱えてうつむいていた男が顔を上げる。すし詰めに為った男たちの小さな隙間から、ぴたりと歩みを止めた怪物の姿がはっきりと見える。

――何か、言っている?

 剣を振りかざした怪物の口元が動いているのを、男は確かに其の目で見た。何と言っているのかまでは聞き取れないし、口の動きからも読み取れない。

 男は、覆いに隠された刺客の表情を我にも無く思い浮かべた。其れは実に、悲哀に満ち溢れた顔だった。

 其の――刹那。男の首は胴体と離れた。彼が恐れていたものよりも格段に、死は呆気無く訪れ過ぎ去って行ったのだ。

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