七.嵐の前に
陽が昇って間も無い早朝。蘢の率いる水軍約三百人は、三隻の軍船と同じく三隻の大型商船に分かれ乗船し、随加港を出港した。
好天の青空には数十羽の海猫の群れが飛び交い、特徴的な鳴き声を響かせている。程良い風は順風、波は穏やかで、航行には適した天候と言えるだろう。
蘢と共に最も規模の大きい主力船に乗った麗蘭は、甲板に出て目指す先の方向を見詰めている。禁軍の一兵として加わっている彼女は、周りの兵たちと同じ紅の軍服を着て刀を差し、弓を背負っている。
麗蘭の姿を初めて目にした兵たちは、あの目を疑う程美しい少女は誰なのかと、不思議そうな視線を送る。作戦中であるため口には出さないものの、如何いう素性の娘なのか、如何いう経緯で此度の討伐に参加しているのか、聞きたくて仕方が無いという様子だ。
「禁軍の軍服が良く似合っているね、麗蘭」
船縁にもたれて波間を見ていた彼女に、蘢が背後から声を掛けた。今日は彼も軍服を身に纏っているが、上校の位を表す階級章は胸から外している。
「ありがとう。此の服を着るのは子供の頃からの憧れだったからな、嬉しいんだ」
素直に喜びながらも、麗蘭は緊張している。蘢は彼女の横に並び、自分も船端に寄り掛かって海を見た。すると突然麗蘭は、姿勢を正して身を固くし彼の方へと向き直る。
「如何したの?」
首を傾げる蘢に、周囲に聞こえないような小さな声で答える。
「此の船ではおまえが指揮官だから、気安く話しては周りに怪しまれるだろう?」
真面目な顔をする麗蘭にぽかんとしてから、蘢は堪え切れずに小さく笑い出した。
「そうだね。でも気にしなくても良いよ、僕はどの兵に対しても其処まで堅いのは求めてないんだ」
確かに其れには、部下に指示を出す蘢を見ていると頷ける。自分よりも年上が多い所為かは分からないが、蘢は決して部下には厳格過ぎる態度は取らないし、
兵たちもまた、年若い彼に絶対の信頼を置いているのが見て取れる。若いからと言って侮るようなことは決して無く、敬意を持って従っているのだ。
石のように身体を強張らせている麗蘭が面白かったのか、此処数日忙しくしていた彼も久し振りに笑っている。一方で麗蘭は、笑われたことに納得がいかず少しだけ不服そうな顔をした。
「ごめんごめん、悪気は無いから機嫌を直して欲しい」
そう言って、彼は付いて来るよう手で促しながら
すると辺りを飛んでいた海猫が、其れを目掛けて素早く飛んで来る。海面に落ちた白っぽい欠片を、
麗蘭が蘢の手にしている物を見てみると、船室に置いてあった焼菓子であった。
「あ、海に落ちる前に上手に受け止めたよ」
何時の間にか船の周りは、餌を求め追い掛けてくる海猫で一杯になっていた。左舷の辺りから麗蘭たちの頭上にかけて、直ぐ間近を舞うように飛んでいる。
「君もやってみる? 上手く嘴で受けられるように、ゆっくり投げてごらん」
興味津々の麗蘭は、進められるがままに餌を受け取る。先程蘢に言った言葉は既に忘れたようで、菓子を小さく千切っては投げ入れ、受け取っては食む海猫たちを夢中で見入っていた。
「……終わってしまった」
手渡された分を全て使ってしまうと、麗蘭は残念そうに言う。暫く追って来た鳥たちだったが、やがてもう終わりだと気付いたのか船から離れて行く。
「僕は元々、漁村の生まれでね。船に乗せてもらってはこうして海鳥と遊んでいた」
懐かしそうな顔をする蘢の蒼い瞳は、少年のように輝いている。普段は歳に似合わず大人びているが、時折こうして相応の表情を見せるのだ。
「君は船には慣れていないんじゃない? 船の上で戦うのは、陸上でのようにはいかないよ」
揺れる船上では、身体の平衡を保ち体勢を崩さぬように戦うためある程度の慣れを要する。訓練された蘢や水軍兵たちや、船の上に居るのが当たり前の海賊たちとは異なり、麗蘭は慣れているとは言い難い。海に出没する妖の討伐で、数度海上で戦ったことはあるものの、人相手では勝手も違うだろう。
「経験が無い訳ではないが、確かに慣れてはいないな。不覚を取らぬよう気を付ける」
幸い船酔いし易い体質ではないらしく、体調は良好である。緊張していた気分も、蘢のお陰で幾らか解れた。
「ところで蘢。あの離れた処にいる大型船は、昨夜話していた作戦の一だろう?」
麗蘭は船尾の方を指差す。麗蘭たちの乗る軍船と他の二隻の軍船から遅れて、残る三隻の船が付いて来ていた。
あれらは海賊の
「もう少し霧でも出てくれれば、もっと近付けても良いんだけれどね。此の晴天では見通しが良過ぎる。此の距離だと不自然で直ぐ気付かれるかもしれないけれど、時間稼ぎ位には役立つだろう」
随加を出発する前から、蘢は策を弄していた。呼び寄せた戦力は中隊二つであるにも
「それじゃあ、僕はそろそろ軍議に行くよ。未だ暫し時間が有ると思うから、ゆっくりしておいてね」
そう言って踵を返し、手を振りながら船中へと戻る。麗蘭は気を紛らわせてくれた蘢に感謝しつつも、自分に対する兵たちの視線が更に強く為ったのを感じていた。
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