十.夢境

「蘭……蘭麗」

 遠く彼方から、懐かしく優しい声が聞こえ来る。

「貴女……に……姉上がい……の」

 徐々に近く為る澄んだ声が、蘭麗に語り掛けている。

「天……り尊い命を授か……天の御名の下に戦う……巫女」

 蘭麗は声の聞こえる方向をじっと見詰める。辺り一面が白い空間であり、視界には何も見当たらない。

「母上……母上なのですね?」

 九年前に別れた大切な母。会うことはおろか、文を交わすことや互いの状況を知ることさえ出来ないでいる。

「どうかお姿をお見せください。お会いしとうございます」

 幼い頃の、思い出の中の母なら脳裏に焼き付いている。其の姿を心に描きながら、何度会いたいと願ったことか。

「蘭麗……姉上を支えなさい。人の身で神命を背負った姉上の力に為りなさい」

 声だけの母は蘭麗の悲痛な懇願にも答えてくれない。

「姉上を守りなさい。いずれは二人力を併せて、聖安を統治する身なのですから」

 姿の見えぬ母に向かって涙を流しながら、胸に手を当て大きく頷く。

「承知しております。聖安の公主として恥じぬよう、力を尽くします」

 頬を伝う涙を指で拭い顔を上げる。だが未だ母の姿は見えない。

「けれど母上、姉上は何処に居られるのですか? 安全な場所に居られるのでしょうか?」

 蘭麗が生まれた時には既に、姉は宮殿に居なかったという。貴重な存在であるがゆえに、敵国から隠す必要が有ったと聞き及んでいる。

「そう遠くない未来、必ず会えます」

 母ははっきりと言い切る。

「貴女がたには同じ聖安を治める血が流れ、共に重なり合う宿を持っている。信じなさい、必ず出会えると」

 首を縦に振り母の言葉を素直に受け入れる。人質としての九年間、蘭麗は何時でもそうして来た。母の告げることを良く聞き固く守ってきた。其のお陰で、敵地の中独りで生き抜くことが出来ている。

「信じて待ちなさい。貴女の誇りを忘れずに。姉上は必ず貴女の許にやって来ます。此れまで通り、貴女らしくありなさい」

 蘭麗がもう一度頷いてみせると、僅かに感じられていた母の気配が薄れていく。

「母上、母上!」

 幾度も幾度も呼ぶが、蘭麗の声は届かない。

「母上」

――ああ、また居なく為ってしまわれた。

 何時しか彼女には分かっていた。此れは夢境の中の出来事であることを。

 幸せだが、一瞬にして崩れ落ちる儚い一時。現れる大切な人は、蘭麗を勇気付けると同時に悲嘆させる。

 やがて、彼女は夢から覚めた。








 夢から抜け出た蘭麗は、自室で何時も通りの静かな朝を迎えていた。

 窓の扉を閉め忘れていたらしく、部屋の中にきらきら輝く朝日が降り注いでいる。

――通りで眩しいと思ったわ。

 身を起こして寝台から立ち上がり、窓から下界を見下ろす。其処には何時もと何も変わらぬ湖畔の朝が在った。

 何もかもが何時も通りなのに、何故だか胸の奥にざわめきのようなものを感じる。

「久方振りに母上とお会い出来たからかしら?」

 蘭麗の見る夢には特別な意味が有る。未来の出来事を暗示し、何処か遠くで起きていることを映し出し、誰かの強い思いを描き写す。

 幼少の頃から幾度も母が夢に現れた。其の度に蘭麗に道を指し示してくれるのだ。

 一年程前から暫くは、彼女の眠りを妨げる悪夢が続いていた。しかし紫暗にも言った通り、其れも此処最近止んでいる。

 直近数日に至っては特に意味深い夢が無かったように思う。今朝方迷い込んだ夢路は、久し振りの母との再会に為った。

――姉上……か。

 物心付いた頃教えられたたった一人の姉の存在。此の現世に二人と居ない、天近き至高の神人だという。

 加えて姉は、聖安の第一皇女――行く行くは玉座を継ぐ姫。茗との戦で衰えた国に再び栄光を齎し、導く宿を持っている。

――そんな姉上を支え、助けるのが私の役目だと、母上は常々仰っていた。

 姉不在の宮殿ではずっと自らを第一皇女と偽っていた。今とてそうだ。敵に姉の存在を知られぬよう努力して来た。其れも全ては、顔も知らぬ姉を守るために。

――どんな方なのだろう? 

 夢見の力で姉のことを見知ったこともない。理由は分からないが、何年も強く姉を思い続けているというのに彼女の力が及ばないようだ。

 母の口振りでは姉は健在で、いずれ自分に会いに来るということだった。

――会いに来る? 此処へ? 

 窓際の椅子に座り、外を見やる。

「私を助けに?」

 何時か誰かが自分を助けにやって来る。幼い頃から心の奥底で何度も期待した、叶わぬ願い。

 願っては首を横に振り、自ら掻き消した希望。自分が此処に囚われてさえいれば、聖安は茗に踏み躙られたりはしないだろう。また姉も、其の存在を知られぬまま安全で居られる。

「お早うございます、姫さま」

 物思いに耽っていると、戸口の方から女官の抑揚の無い声が聞こえて来た。

「お早う。もう朝餉の時刻かしら?」

 椅子に座ったまま御簾の向こうに居る女官に応える。

「左様です。何時もより早うございますが、そろそろお支度くださいませ」

 傍に在った時計を見ると、確かに普段よりも数刻早いようだ。

「巳時頃、陛下がお見えになります」

 其れは支度を急がせる理由として十分過ぎるものだった。

「そう、分かりました」

 短く答え、女官に気付かれぬよう小さく溜息を吐く。立ち上がって御簾の外に出ると、何時もの女官二人が卓に朝餉を準備していた。

――珠玉の前で、上手く平静でいられますように。

 心の中で唱える。蘭麗が恐れているのは、あの女の前で無様に取り乱し、祖国について知っている事柄や抱いている心情を気取られてしまうことだ。

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