十一.焔の女傑

 初めて珠玉と会ったのは、九年前の運命の日だった。

――美しい。母よりも美しい女性など此の世に存在しないと信じていたが、其の母と並べても遜色無い程だった。傾国の美女とは、将にあのような女を指すのだろう。

 だが、途轍も無く恐ろしい。鋭く光る朱色の瞳は対した者の心を見通し、抗い難い力で平伏させる。男であろうが女であろうが、臣下であろうが他国の君主であろうが、其の意志の強さで全てを屈服させる力を秘めているのだ。

 そうした印象は九年経った今でも変わらない。珠玉を前にすると無意識に身体が縮こまり、或いは震え出しそうに為る。蘭麗は余りに長い間彼女の支配を受けているのだから、無理もない。

「息災であったか?」

 女官が告げた通りに、珠玉は蘭麗の住む部屋へとやって来た。

「はい、恙無く」

 二人は御簾の外で向かい合い座っている。珠玉は口元に彼女特有の優雅で冷たい笑みを浮かべ、じっと蘭麗の瞳を見詰めてきた。

「確か、前此方に参ったのは一年前であったな。姫は今年で十五に為られるか……まこと、歳月経るごとに母上に似てこられるのう」

 珠玉は感心して言うが、蘭麗は何も答えずに小さく頷き、軽く微笑むだけだった。

「時に、今日は確かめたいことが有って参ったのだ」

 余計な前置きは最低限に抑え、本題を躊躇いなく口に出す。何時もの彼女通りだ。只、蘭麗は久し振りに珠玉を前にして、何かが此れまでと異なっているのを感じていた。何か、重大な何かが。

「以前、そなたには兄弟が居るかと尋ねたな? 憶えておいでか?」

 覚えていないはずがない。もう数年前になるが、其の質問をされ冷やりとし誤魔化すのに苦心した。

「陛下は私に様々なことをお尋ねになられますゆえ、良くは憶えておりませぬ」

 眉一つ動かさず、蘭麗は答える。珠玉が彼女に対し色々尋ねる度、正直に答えるべきか否か判断しなければならなかった。

「左様か、其れも最もなことだ。確か妾が尋ねた時、そなたは『居ない』と答えたのだよ」

 間違いなかった。当時もそして今も、蘭麗には其れ以外の回答等無い。

「そしてこうも言っておった。聖安の帝位継承権は代々例外無く第一子に与えられる。そなたが第一皇女の位に在るのは、そなたこそが長子であるからだと」

 其の問いへの答えとしては当然なものに思われる。珠玉も納得していたように見えた。

「だが、最近ふと気付いたのだ。確か死産した者なら居たのではないか? とな」

 意外な言葉に、蘭麗は母に教えられたことを思い出す。

――姉上は死して産まれたと国内外に触れを出しています。そなたも其のように通すのです。

 母の言う通りなら、珠玉が其の報を知ったとしても不思議は無い。

「そんなことをお聞きした憶えは有りますわね」

 愛想良く笑み、冷静にごく自然に答える蘭麗だったが、心中かなりの動揺を隠していた。

 死んだ者を珠玉が気にする理由は無い――何か、掴んだのだ。

「聞くところによれば、恵帝陛下は不幸にして最初の姫を喪ったとか。生きておれば、そなたの姉ということに為るのだろう?」

 綺麗に形を整え爪紅を塗った自分の爪を撫でながら、珠帝は如何にも神妙な面持ちで言う。

「ええ、そうなります」

 蘭麗は、如何どうしてそんな不思議なことを問うのか良く解らない、とでも言いたげに頷いてみせる。

「では、其の姉が生きているとなれば……さぞや喜びが大きいのではないか?」

――ああ、やはり。

 勝ち誇った様子でも面白がっている様子でもなく只、蘭麗の反応を試している。蘭麗はそう受け取った。

「如何いうことです?」

 問い返してみるが、徐々に高鳴ってくる胸の動悸を抑えるのに精一杯で、多少わざとらしく為ってしまったかもしれない。珠玉が口角を上げると同時に信じられないという顔をしたのだ。

「そなた、本当に知らなかったのか? そなたの母は、そんな大事なことを打ち明けなかったのか?」

 艶やかに笑みながら、視線は蘭麗から逸らさない。まるで蘭麗の心中など見透かしているとでも言うように。

「母上は一国の主で在らせられます。何か事情が有って私に告げられぬことも有りましょう」

 掻き乱された心情を落ち着け、答えた時の蘭麗の表情は完璧だった。直ぐ様体勢を立て直し、余裕すら見えている。

 だが珠玉は侮れない。安心させる暇も与えず戦法を変えてくる。

「姫よ。そなた、そろそろ此処から出たくはないか?」

 出し抜けに問われ、蘭麗は思わず聞き直したく為ってしまう所を何とか凌ぐ。

「齢十五と為れば、眩しい若さを持て余す時期。此のまま来るとも分からぬ助けを待ったり、妾の気が変わるのを待ったりするのでは、永久に此処に留まることに為ろうぞ?」

 考えたくもない恐ろしい未来を容易く口にする珠玉に、蘭麗の背筋が凍りそうに為る。

「其れは無論、出たいですわ。母や祖国が気に為りますし」

 にっこりと微笑んで、珠玉の脅迫めいた言葉をかわそうとする。しかし相手は攻撃の手を緩めない。

「では正直に申そう。妾はそなたの姉が健在であると疑っている。其のことについて何でも良いのだ、そなたが知っていることを妾に教えてくれるのなら、此処から出て母に会うことを許してやっても良い」

――そう来るか。

「私は本当に何も知らないのです。姉上が生きておられるかもしれないというのは嬉しい知らせですけれど……此処を出る機会を逃したようで口惜しいですわ」

 惜しそうに眼を背ける蘭麗を見て、依然として珠玉は笑っている。加えて更に追い打ちを掛け、蘭麗の動揺を誘う言葉を送り込む。

「九年間もそなたを締め出し閉じ込めている祖国に、未だ愛着や未練を感じているというのか? 殊勝なことよの」

 蘭麗は其の一言にどきりとする。何が起きても有ってはならぬ、感じてはならぬ気持ちを呼び起こされてしまう。

「おかしなことを仰るのですね。私が此処を出たくないはず等無いでしょう? 本当に何も知らぬのです」

 震え出しそうな声を抑え何とか強く、はっきりと告げる。

 珠玉はぴたりと笑むのを止め、真っ直ぐに蘭麗を見ている。僅かな心の動きすら見過ごさぬといった具合に。

――目を逸らしたら、負け。

 声に出さずに唱えて珠玉の目を見据える。足にはぐっと力を入れ、腰掛けている自分の身体を支えたままだ。

「そうか、まあ良かろう」

 何時の間にか蘭麗から目を離して解放し、口元を袖で隠してくつくつと笑んでいる。

「では此れにて失礼しよう。何か思い出されたら教えておくれ」

 さりげ無く念押し立ち上がる。蘭麗も続いて立ち上がると、お互い軽く一礼した。

 踵を返して部屋を出て行く珠玉を見送りながら、蘭麗は唇を噛んで必死に思いを押し殺していた。恐ろしい女の姿が完全に見えなく為るまで、大した時間でもあるまいに、果てしなく長く感じられる。

 珠玉の神力が感じ取れなく為ったのを確認してから、全身の力が一気に抜けたように椅子へ座り込む。

「何ということなの……」

 此の九年間、此れ程までに緊張した場面は無かった。

――珠玉が姉上の秘密を知った。

 可能性は高い、どころかほぼ間違いないだろう。

――でも、其れよりも。

 流れる髪を耳にかけ直し、大きく息を吐く。あの女の言葉に屈し心の砦を崩しそうに為ってしまった自分が情けなかったのだ。

――如何為ってしまうの? 

 絶対に隠さなければならない姉の秘密。

 真なる第一皇女の存在を何処からか知った珠玉は、果たして其の公主が『光龍』であることを知っているのだろうか? 仮に知っているとしたら、何をしようとするのだろうか。

「守らなければ」

 姉を支え、守る。其れこそが母が幼い蘭麗に望んだ、聖安帝国公主としての大切な役割。

 今までは、自分が第一皇女と名乗り此処に囚われているだけで、姉を珠玉から守り役目を果たすことが出来た。

「でも、此れからはどうやって?」

 事実を知られた以上、蘭麗に価値は無いのではないか。気高い公主は打ち拉がれ、自分の両腕を抱き込み上げてくる不安に震える。

 そして、珠玉から感じた不可解な気配も奇妙で仕方無い。前に会った時はあのように奇怪な気は無かったはず。

――何か、得体の知れない黒いものを纏っていたわ。

 人間の気ではない。かと言って、囚われる前に数度遭遇したことのある妖の類でもない。

 黒くて深くて……寒いもの。何時も以上に珠玉に怯えてしまったのはあの気が原因だろう。

 其の正体が何であるか、蘭麗には知る由も無かった。








 聖安の憐れな公主が囚われている恭月塔は、茗の帝都である洛永らくえいから少し離れた東に位置し、森と湖に囲まれた素晴らしい塔である。

 珠帝が其の塔から出てくると、門の前で一人の男が立っていた。

 藤色の髪を肩上程までに伸ばし、色白の肌で中性的な顔立ちをした細身の男。珠玉が立ち止まり横目で彼を一瞥すると、音も無く膝を地に付け頭を下げる。

「『白虎』、今し方姫の部屋の外に控えておったろう?」

 神気を消し、蘭麗には気付かれなかったようだが主には気付かれていた。

「其れ程月白姫が気に為るか? 人間嫌いのおまえが、奇なることも有るものよ」

 愉快そうに、目を細めて口の端を上げる。

「私は只、陛下の御命令に従っているだけでございます」

 淡々として言うと、再び歩き出した珠玉の後に続く。

「姫は相も変わらず利発で聡明、それに見る度に恵帝に似て麗しくなっておる。九年も妾の支配下に在るというに、一向に屈しそうにない」

 森の中の細い道を歩きながら、進む方向を見たままで後ろの白虎に話し掛ける。

「先刻も大分動じていたに違いなかろうに、気丈にも余裕すら見せておった。あの歳で妾と渡り合おうとする等、小憎らしいというより褒めてやりたい位よ」

 内心珠玉は心底から驚嘆していた。昔から感じていたが、あの姫は頭の回転が速く多少の揺さ振りには平気で耐える。

「妾はあれが次なる女帝でも十分だと思うのだがな」

 珠玉程の君主が認める程、蘭麗は恵帝に似た素質を持ち王としての才覚にも満ちている。

「陛下は、第一皇女が別にいると信じておられるのですね。そして其の皇女が『光龍』なのではないかと」

 主の言葉を黙って聞いていた白虎が、静かに問う。

「此の目で確かめねば完全には信じぬ。幾ら『の君』の仰せといえども」

 其れは昔から珠玉の信条の一つだった。

「いずれ、近いうちにはっきりするだろう。『青竜』と『朱雀』を密偵に遣わす」

 再び足を止めると、振り返って命じる。

「おまえは引き続き蘭麗姫の監視を続けよ。可哀想な姫君のお相手をしてやると良い」

「御意」

 頭を垂れて答えると、男は主と別れ今来た道を塔へと戻って行く。一方で珠玉は、直ぐ其処で待機している輿へと歩いて行った。

――此処からは、妾もそなたも命懸けぞ。

「『麗蘭』とやら」

 迫り来る運命を楽しむかのように、艶然と笑む。燃え盛る炎の如く、それはそれは華やかに。

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