八.黄金の女帝

 着いた先は、六〇畳は有ろう畳の大広間だった。壁という壁、襖という襖に見事な金碧障壁きんぺきしょうへき画が描かれ、鮮やかな絵具と金箔に彩られている。二つの間に分かれており、一の間は一段高く金色のすだれで隔たれているが、其の向こう側に女帝が御座おわすようだ。

 御簾みすの前まで静かに歩くと、蘢は端座して平伏する。麗蘭も其れに倣い、彼の少し後ろに腰を下ろして頭を下げる。

「恵帝陛下、ご機嫌麗しゅう存じます。ただ今しんから戻りました」

 落ち着いた良く通る声が響く。すると直ぐに、段上から女性の声が落ちて来た。

「無事に戻って来てくれましたね。此度こたびの貴方の活躍も素晴らしかったと聞き及んでおりますよ、蘢」

 鈴を転がすような、淑やかな声。麗蘭がかつて聞いたことの無い、たった一言だけで其の尊い生まれを感じさせるような声だった。

「お褒めに与り光栄でございます」

 蘢、と親しげに名前で呼ばれているところから、やはり蘢は恵帝に少なからず気に入られているのだろう。其れでも彼は、最上の礼儀を欠かさず叩頭こうとうしたまま話し続けた。

「麗蘭さまをお連れいたしました。帰城の折り、お会いしご案内申し上げました」

 恐らく貴族であろう上校に、敬称を付けて名を呼ばれるのには違和感を覚える。しかし其れも、女帝を前にした余りの緊張に比べれば取るに足らないことだった。

――今私は、女帝陛下の御前に平伏している。

 心の臓が激しく鼓動し、手足が震えるのを感じる。一生に一度会えるか会えないかの止ん事ない国主が、あと十歩程の所に居るのだ。

「感謝します」

「勿体ないお言葉でございます。では、私は此れにて」

 女帝が了承したのを確認すると、蘢は静かに立ち上がる。麗蘭は一人残されると思って動揺したが、頭を上げる訳にはいかなかった。

「そなたたちも、お下がりなさい。わたくしは麗蘭とお話ししたいのです」

 二、三人控えていた兵や女官たちが、主の言葉で一斉に広間を後にする。残されたのは麗蘭と恵帝だけと為った。

「よくぞ、来てくださいました。わたくしが聖安国主恵蓮けいれんでございます」

 恵蓮とは、恵帝の名であると知られている。麗蘭も其れに応え伏したまま口を開いた。

「ご尊顔を拝謁賜り光栄にございます。私は阿宋山から参りました、清麗蘭と申します」

 柄にもなく麗蘭の声は震えていた。声がというより、全身が震えている。

 すると少しの間、恵帝は言葉を発しなかった。自分の胸の鼓動を鎮めようと苦心していた麗蘭は、此の状況にますます不安を感じていた。女帝は何かを沈思しており、やがて思い掛けない言葉を掛ける。

「やはり、貴女の姿を此の目で見たい」

 そう言ったかと思えば、突然恵帝が立ち上がった。御簾越しでは良く見えないが、微かな衣擦れの音で察せられる。余りにも予期せぬことだったので、麗蘭は無意識に顔を上げてしまう。

――まさか、そんなまさか……! 

 此処に居るというだけでも畏れ多いのに、更に自分の罪を上乗せするようなことが起きようとしている。当然女帝を止めることも出来ず、もはや狼狽えるしかない。そうこう考えている間に簾が上がり、見たことも無い位美しい女性が現れた。

 床まで届く長さの絹糸の如き金髪に、憂を帯びた若草色の瞳。十六の頃先帝に輿入れしてから十五年以上の月日が流れているにもかかわらず、若々しい少女のような美貌は、たとえるならば天女とでも言うべきか。

 帝国の主が、麗蘭のような平民の前に姿を見せるなど有ってはならないこと。急いで身を隠さなければならない程の大事であるのに、麗蘭はらしくもなく顔を上げたまま、恵帝の奇跡のような光に目を奪われ動けなく為ってしまった。

 自らの身の程を思い出すと、麗蘭は慌てて深く頭を下げる。其の様子に、恵帝は慈愛に満ちた眼差しを向けた。

「顔をお上げなさい。今こうして、貴女と何の隔たりも無く会えたことに感激しているわたくしの胸の内を、如何どうしたら分かってもらえるのでしょうね?」

 麗蘭は女帝の言葉が何を意味しているのか解らぬまま、躊躇いつつも面を上げる。

 恵帝は御簾から離れ、麗蘭の目の前に膝をついた。心臓が高鳴りを強め、麗蘭は再び叩頭しようとするが、其れを女帝が首を横に振って静止した。

「其のままで良いのです。貴女がわたくしに平伏す必要など欠片も無い。貴女の顔を、姿を……もっと良くお見せなさい」

 戸惑ったまま、麗蘭は言われた通りに顔を上げて恵帝を真っ直ぐに見た。優しげな其の微笑に、緊張で身体を強張らせている麗蘭は少しだけ安堵した。

「麗蘭、不躾なお願いですが、貴女の左肩を見せていただけませぬか?」

「はい、勿論でございます」

 丁寧な口調で頼まれ恐縮しつつも、麗蘭は顎を引く。

「失礼いたします」

 逡巡し、麗蘭は自分の左肩に触れる。貴人の前で肌を晒すことは無礼にあたるため、最低限で済むようにと慎重に左肩の着物を下ろしていく。

 そして露わに為ったのは、神巫女の『証』だった。肩から二の腕にかけて、刺青しせいのようにくっきりと浮かんでいる白龍の痣。麗蘭こそが、五百年に一度下されるという天帝の巫女だと示す刻印である。

「そう……! 此れこそが、十六年前に目にした天帝の御印」

 恵帝は感慨深い様子で証を見詰めている。一方麗蘭は、普段人に見せることの無い左肩を見られているという気恥ずかしさを感じていた。自分が稀有なる存在であるのを他に知られたくないがために、風友と優花以外の者に刻印の存在を明かしたことは無かったのだ。

 膝を折ったまま後ろに下がった恵帝は、有ろうことか麗蘭に向かって頭を下げた。

「陛下」

 焦る麗蘭を余所に、女帝は身を起こす気は無いようだ。

「此の世で最も尊い方が下界に下された、光龍の化身。わたくしのような者の下に……我が聖安の下に麗蘭を賜りまして、恐悦の極みに身が打ち震える思いにございます」

 恵帝の心からの言葉。麗蘭は困惑しながらもそう感じ取った。

――光龍……天の存在とは、一国の主をもかしずかせてしまう程大きな意味を持つというのか。

 ゆっくりと顔を上げ、女帝は再び麗蘭の目を見る。

「麗蘭、風友は……わたくしの古き友は、わたくしが貴女を此方こちらに呼んだ理由を話しましたか?」

 はっとして、麗蘭はかぶりを振る。

「詳細は伺っておりません。只私の出自について、陛下から直接お話しくださる、とだけ」

「左様ですか。堅いところは相変わらずのようですね」

 口元を緩め懐かしそうに言う女帝の口振りからは、彼女と風友が単なる主従ではないことが窺えた。先程『古き友』と表されたように、主君と軍人という間柄を超えた関係だったのであろう。

 恵帝は麗蘭と向き合い、彼女を見据える。先程までの笑みは消え、真剣な眼差しで麗蘭の眼から逸らさずにいる。

 数秒程沈黙が流れた後、女帝は口を開いた。

「わたくしは今から、貴女に真実を告げます。同時に、謝らねばなりません」

 此処に来て漸く、麗蘭は今回の謁見の目的を思い出す。風友から聞いた衝撃の事実の詳細だ。

「謝る? 私に……でございますか?」

 女帝に謝罪されることなど皆目見当が付かず、麗蘭は疑問を隠せない。更に、孤校を出る前風友にも同じように謝罪されたことを思い出す。

 黙したまま頷く恵帝に、麗蘭は思い切って問い掛けてみる。

「私の母が、生きているとお聞きしました。今何処に居るのか、どうしているのかは存じ上げないのですが」

 其の言葉に、恵帝は再び深くこうべを垂れた。そしてもう一度揺るぎない瞳を麗蘭に向ける。鋭い眼光は、此の先女帝が何一つ偽りの無い真実だけを告げると宣言しているかのようだ。

「麗蘭、貴女の母とは……此のわたくしのことなのです」 

 重々しく開かれた唇から、はっきりと紡ぎ出された其の言葉。麗蘭は当然のことながら、己が耳を疑った。

 目を丸くする麗蘭に、恵帝は穏やかだが強い口調で断言する。

「わたくしは十六年前、一人目の公主を授かりましたが、故有って手放しました。其れが貴女なのです」

 刹那、麗蘭は時が止まったかの如き錯覚を感じ愕然とする。

「其の、お話は……真……なのですか?」

 途切れ途切れに、自分が今居るのが夢なのか現なのか確かめながら不自然に言葉を発する。

「真実です。貴女はわたくしが産んだ娘。此の聖安の帝位継承権を持つ第一皇女なのです」

 たった今此の瞬間まで、此処までの衝撃を受けたことは無かった。目眩を覚える程の驚愕は、母が生きていると知らされた時よりも、自分が光龍だと告げられた時よりも大きなもののように思われる。

 そんな麗蘭を見ながら、恵帝は変わらぬ調子で先を話し続けた。

「貴女が生まれた十六年前、わたくしと亡き夫である甬帝ようてい陛下は未だ年若く、茗帝国との戦乱の中統治を維持するので精一杯でした」

 そうした事情は、麗蘭も風友から聞き及んでいた。此の国未来を担う者にとっての必要な知識として、先の戦が勃発した経緯や戦況について、風友は可能な限り客観的な視点から教えてくれたのだ。

 頭の中の知見を引き出し、動揺している自分を抑え精一杯冷静に為ろうと努めながら、女帝の話に耳を傾ける。

「あの戦は、当初から茗が優勢な立場にありました。生まれた第一皇女が光龍であることが知られれば……珠帝は屹度、貴女を人質に取り手に入れるか……其れが叶わなければ貴女の命を取ろうとするのではないかと、わたくしたちは恐れました」

「命を……狙う? 珠帝は光龍の力を手に入れようとするのでは?」

 光龍の転生の輪廻はおよそ五百年ごとと定められている。殺してしまえば、珠帝が神巫女の力を手中に収めることは出来なくなる。

「勿論です。けれど、もし貴女を屈服させることが叶わなければ、たとえ神の力を逃したとしても珠帝は貴女を此の世から消そうとするでしょう」

 女帝は大きく息を吐く。そこで麗蘭はふと、彼女の美貌に薄らと浮かんだ疲労の色に気付く。思えば先帝が崩御してから、傾きつつあった聖安をたった一人で支えてきたのだ。漸く持ち直したとはいえ、今なお彼女の心労は測り知れない。

「珠玉という女は、支配者としての才覚と類稀な武力でもって他の君主を圧倒する女傑です。欲しいものは何であろうと手に入れて来たと言われています。わたくしも何度かまみえ、彼女の烈火の如き気性や欲望に忠実な一面、そして自分以上に優れた者を認めない異常なまでの完璧主義を知っています」

 麗蘭は頷く。珠帝が如何いかな人物であるかは、広く庶民にも有名で様々な噂が流れているが、大抵どれもが恵帝が話す特徴と似たようなものだった。

「貴女は唯一無二の光龍。貴女という存在の外に、天帝の寵愛を受け力を授かった人間は皆無なのです。そんな存在を、珠玉が許す理由は無い。私や先帝陛下、そして風友の一致した意見でした。今でも其れは変わりません」

 常日頃から神巫女であることや其の宿命を意識している麗蘭だが、己が貴重さを意識したことは殆ど無かった。恵帝の言葉は、珠玉のような危険な女に目を付けられるということの重大さを知らせるものだった。

「貴女が生まれ、貴女に天帝の印を見た時、わたくしは決めました。貴女を風友の許に託して珠玉から隠し、光龍として相応しい強さを手に入れることが出来るようにする……と」

 其処で初めて、恵帝は麗蘭から目を逸らした。視線を落として瞳を閉じる。

「貴女は死産したと触れを出し、一年後に生まれた蘭麗を第一皇女と偽りました。現在此の事実を知るのは、蘭麗と風友、そして僅かな忠臣たちのみです」

 たった今まで、麗蘭も蘭麗こそが第一皇女だと信じて疑わなかった。彼女こそが次の帝位を継ぎ女帝に為る姫だと皆が思っている。

「貴女も御存知の通り、我が国では第一子が帝位を継ぐ慣例となっており例外は在りません。今わたくしが玉座にいるのは、貴女が帝都を離れ蘭麗も囚われているゆえに止むを得ないこと。こうして燈凰宮に戻り事実を知った以上、貴女こそが此の帝国の正統なる主なのです」

 次々と明らかに為る真実に頭が着いてゆかず、麗蘭は絶句し言葉を失う。

――此れが……真実? 私は蘭麗姫の姉で……此の国の女帝となる者だというのか? 

 気高く清廉な恵帝の言葉だと言い聞かせても、受け入れ難い事実。今日此処を訪れるまでは只の少女であった自分には思い及ばぬ事実だった。

「信じられないのも無理は有りません。されど、信じて欲しい。聖安の皇家に嫁いだ者として、直系の血を継ぐ者に皇位を継がせることがわたくしの使命。国を守り、娘たちを守ることこそが自分の宿であると……其れが卑小なわたくしの信念なのです」

 再び麗蘭と目を合わせ、女帝は語気を強くした。

「陛下」

 麗蘭は既に分かっていた。目の前にいる母だという人物が、嘘など言っていないことを。心から自分の娘に信じてくれと乞い願っているだけであると。

「十六の誕生日を迎えた後貴女を此処に呼び寄せることは、もう随分前から決めていたことです。貴女は強く成長した。貴女にはわたくしの許に戻り、行く行くは帝位を継いで此の国を導いて欲しい。光龍としての宿を全うしながら、公主としての宿も果たして欲しいのです」

 何時の間にか女帝の美しい瞳から涙が流れ、白い頬を伝っていた。

「自分の非力さゆえに貴女を手放し蘭麗までも奪われ、貴女方の道を狂わせたのかもしれません。無力な母を赦してくれとは申しませぬ。只、どうか……此の一度だけ母を信じてください。わたくしの許に……公主として戻ってくださいませ」

 幾度も言葉を詰まらせながら、徐々に声を弱めていき最後には絞り出すようにして話す。そんな恵帝の姿は初めて見た時の偉大な女帝ではなく、娘に嘆願する一人の母親の其れに過ぎなかった。

――光龍の宿と、公主としての宿。

 神巫女の宿に加え、此処に参ずるまで思いも寄らなかった未来の国主としての宿は、如何程のものなのか予想すら出来ない。只、重く辛いものであることには違いない。

――私は逃げない。自分の宿からは目を背けない。

 未だ幼い頃、あの黒神こくじんの前でもそう誓ったのだ。曲げる訳にはいかない。

 大きく深呼吸をしてから、麗蘭は泣き崩れそうな恵帝――母に向かい凛として背筋を伸ばした。

「御許に戻してくださるというのであれば、私は喜んで戻りましょう。私を守るためにしてくださった全てのことに、心より感謝いたします」

 嘘偽りの気持ちや見栄ではない。麗蘭も女帝と同様心其のものを言葉にしてぶつけたのだ。

――私を珠玉から守るために、陛下のような高潔な方が周囲に……民に偽ってまで私を逃がしてくださった。私は全力を以て此の方の恩に報いたい。

「麗蘭」

 娘の名を呼び、着物の袖口で涙をそっと拭う女帝は、悲哀に満ち溢れていた。

――此の方はずっと悲しみを押し隠していたのだろう。臣下も前でも民の前でも……十年近くもの間、独りで耐えて来たのだろう。

 直接聞いた訳ではないが、麗蘭はそんな想像を巡らせた。そして同時に、やっと母と再会出来たのだという思いが浮かんできた。未だ実感が湧かないがために、「嬉しさ」までは到達していないけれど。

「戻って……来てくれるのですね」

 小さく微笑みを見せた恵帝に、麗蘭は強く頷いた。

「只……私には分からないのです。私は未だ未だ未熟であるがゆえに、光龍として、そして……公主として、何を為せば良いのか、何が出来るのか」

 麗蘭は両の手を膝の上で握り締め、自分の胸の内を女帝に曝け出そうとしていた。

「陛下や亡き先帝陛下、風友さまは私を守ってくださいました。かつて天帝陛下が現れ、守ってくださったこともございます。其れなのに、私は未だ何も為していない。自分の進もうとしている道が正しいのかさえも不安なのです」

 まるで、自分には守ってもらう価値等無いと伝えたいかのようだった。公主だと言われ、光龍だと言われて母の許に戻っても、何一つ期待通りのことが出来ないかもしれない。臆病だとは思いつつも、其れが麗蘭の正直な気持ちだった。

「麗蘭」

 母は、迷う娘に優しく語り掛ける。

「貴女が進むべき道は貴女が決めるものです。正しい答えなど存在しません。在ったとしても、其れは神々にしか解り得ない道でしょう。そんな不確かなものを追い求めるよりも、貴女が正しいと信じたことを為すべきです」

 慈しみ深く諭すように紡がれる言葉を聞いて、麗蘭はほんの数日前優花に言われたこと、昔風友に言われたことを思い出す。

「私が正しいと信じたこと……」

 更に、四年前の天帝の言葉が重なる。

『為すべきことを為せ』

 神巫女とはいえ、天が決めた道を歩むのではない。自分のすべきことは自分で決め、其れを貫く。

――見えた気がする。

 優花や風友、そして恵帝。自分を見守り助けてくれた人々の言葉と天帝の言葉が宿と繋がり、何かが分かった気がする。

――自分を信じて、貫く。何だ、此のままで……良いのではないか。

「ありがとうございます、母上」

 初めて口にする『母上』という呼称は、彼女の唇には馴染まない。面映おもはゆい表情をする麗蘭を見て女帝は瞳に涙を溜めつつも、嬉しそうに笑んでいた。

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