ドバト男指定の時刻。三十分前から道哉と禎一郎はスーツを着込み、即応体制で憂井邸地下で待機。チーム全員が揃い、電脳探偵とも回線を接続した。

 紅子は扇形のテーブルに設置したPCの間を椅子のキャスターを滑らせて行き来し、大画面に映像やリスト、図面や、何かをスポットした地図を表示。葛西がその隅で小さなノートPCを抱えるようにして監視カメラ映像に何かの画像処理プログラムを走らせていた。

「一年前からずっと空いてる家のリストアップが間に合わん」と紅子。「くそ、男を襲撃した現場を重ねても何の規則性も見出だせん。ネットの目撃情報を辿っても、各人の証言が矛盾していてばらばらだ。情報が錯綜してドバト男の逃走経路すらわからん。精霊か何かか、このハト野郎は」

「肉体はありましたよ」と禎一郎が応じる。

「知ってる!」紅子は見るからに苛立ちながらキーボードを叩く。「おい葛西、顔認証のサーチは任せるぞ。……電脳探偵! そっちはどうだ?」

「何も出ない。すまんね」覇気のない電脳探偵の声が返る。画面の無駄と断じた紅子によって、通信は音声のみに切り替えられていた。「対象の建物が多すぎるんさね。PCがパンクするよ」

「絞り込めないのはこちらの落ち度だ。気を落とすな。PCも落とすなよ」

「上手いこと仰る……」

 紅子はマイクスピーカの入力を切る。「何なんだ。私たちは何を見逃している? ドバト男は痕跡を残している。追う手段だって適切なはず。なのにどうしてこうも正体が掴めない。自信を失くすぞ、この私が」

「それは一大事だね」と怜奈。彼女もノートPCにかじりついている。

 そんな片瀬怜奈の常にない不可思議な服装に、道哉は口を出さずにいられなかった。

「怜奈、何でセーラー服なの」

 濃紺に白いラインが入った、暗めの青いスカーフの、清楚なセーラー服姿だった。通っている高校の制服はブレザータイプなので、他校のものだ。お遊び用に市販されているもののような安っぽい生地には見えなかった。加えて眼鏡までかけている。普段の制服より一〇センチは長いスカート丈も手伝い、もはや完全に別人だった。

「実はちょっと憧れてたの、セーラー服。いいっしょ」

「確かにいいけど……じゃ、なくて」

「秘密のお仕事のために必要で」

「何だそりゃあ」

「おい怜奈くん、その辺にしたまえ」紅子がこれ見よがしにエンターキーを叩いて言った。「自分の商品価値を知って濫用するのは感心しないぞ。第一、憂井には通じていないし、灰村には通じすぎている」

 禎一郎は椅子の上で頭を抱えていた。「え? 秘密? 秘密のお仕事って? 葛西さあん……」

 走るプログラムを睨んでいた葛西が引きつった笑みを向ける。「あの、僕にその手の話を振らないで、また変態呼ばわりされるから……」

「淫行爆弾魔教師だろ」紅子が即座に応じる。

 怜奈は手を止めた。「ごめんね。もう少ししたら、ふたりにはちゃんと話すから」

「身の危険はないんだな?」と道哉は口出さずにいられなかった。

 以前、彼女は地の利を活かしてコリアン・マフィア『三星会』の活動を監視する任に着き、そのリーダー・入江明の気まぐれとも取れる行動のために、国外へ拉致されそうになったことがあった。その時は道哉らの救出が間に合ったが、次も間に合う保証はない。

 片瀬怜奈も、彼女に何かの仕事を任せている羽原紅子も、同じ失敗を二度犯すような愚か者ではない。だから心配には及ばないと、頭では理解していても、怜奈の困ったような横顔をじっと見つめてしまう。

「大丈夫だよ」怜奈は画面から顔を上げた。「あたしも鍛えてるし」

「俺は冗談で言ってるつもりはない」

「あたしだって遊びのつもりじゃないけど」

「だったら何で……」

「ふたりとも、そこまでだ」紅子が鋭い声で窘めた。PCから警報音が鳴っていた。「防犯カメラの映像にドバト男の素顔を検知した。……おい、電脳探偵。どこの映像だ」

「錦糸町。コインパーキング前からの映像さね。周辺に、そっちからもらった候補地のリストを重ねて……一件ヒットした。送る」

 椅子から跳ねて降りる禎一郎。腰を浮かし、マスクを手に取る道哉。

 だが紅子は、深々と息をついてスピーカーマイクへ向かって言った。「ご苦労。今回はここまでだ。また連絡する」そして椅子を二回転させてから一同へ向き直る。「すまん。今回はここまでだ。装備を解け」

「ここまで? まさか警察に任せるのか」

 怜奈は眉根を寄せる。「電脳探偵さんが顔を抑えられたのは、警察への捜査協力を渋る宗教団体施設の監視カメラだった。つまり今のドバト男の動きをキャッチできているのは私たちだけでしょ」

「じゃあやらなきゃっすよ」禎一郎は腕を風車のように回してストレッチする。

 紅子は、一同へ順繰りに目線を向けた。黙っていた葛西が、促されるように口を開いた。

「地下通路がない」

 紅子が何も言わずに地図を示す。東京の道路地図だ。それに赤線で、探索済みの地下通路が重ねられている。

 一九六四年の東京オリンピックに合わせた大規模開発に紛れて敷設されたと思われる地下通路。当然ながら、その時期に開発が行われた記録がない場所には通っていない可能性が高い。墨田区や江東区はむしろ二〇二〇年のオリンピックでスポットライトを浴びた地域であり、顔のない男が紛れ込む影が少ないのだ。

 そして秘密の地下通路がなければ撤退のハードルが上がり、活動が露見するリスクが高まる。

 紅子は肩を落とした。「夜の首都高を突っ走って警察車両とカーチェイスできるなら話は別だが」

「やってやるさ」道哉は立ち上がった。「見て見ぬふりなんてできない。理論上可能なことをいくつも実現してきただろ、お前も、俺も」

「それは理論と現実を繋ぐ技術や設備が存在していてこその話だ」

「じゃあ……」

「見逃せっていうの?」低い声で、ゆっくりと立ち上がりながら言ったのは、怜奈だった。

 意外だった。地下に潜り、ヴィジランテ活動に加担しているときの怜奈は、いつも飄々としていて楽しそうだった。紅子のように信念があるわけでも、道哉のように黒い怒りを蓄えているわけでもないように見えた。

 そうだ、と紅子は応じる。「。次はある」

「ありえない」

「なぜ?」

「なぜって……ドバト男、現役JKって言ってた。うちらと同年代だよ。感じ方だって同じだよ」

「怜奈くん。それは君自身の、数ヶ月前の体験ゆえか? 私だって、片瀬怜奈の名でGoogle検索くらいした」

「あたしは助けが来ると信じてた。でもあの人は違う。それに……」

「女は戦っても勝てない。それも承知している。男は新宿二丁目でケツを狙われたと言っても笑い話になるが、女はならない。女と穢れの観念は、欧米では神が与えたものだ。だから理性で克服できる。だがこの国では、理性によって与えられている。ゆえに……」

「暴力で蹴散らすしかない」

「だからといって彼らの身を危険に晒すのか」紅子は、話に置き去りにされかかっている道哉と、禎一郎を一瞥した。「最優先は無事の帰還であって、犯罪者の制裁ではない。それは有沢の一件を経ての憂井の意志だ。そうだな?」

 急に水を向けられ、道哉はしどろもどろに応じる。「ああ。何より重要なのは、犠牲を出さないことだが……」

 怜奈は、身体を投げ出すように椅子に座り直し、眼鏡を取った。瞳に、険のある眼差しが宿った。地上の片瀬怜奈だった。

 感情を押し殺すように腕を組み、足を組む紅子を、怜奈は睨んだ。

「あたしに任せたのは、あなた自身がそうやって冷静な決断を下すため?」

「君は聡明だな」紅子は口元に笑みを浮かべて応じた。「その通りだ」

 怜奈はノートPCを音を立てて閉じた。「道哉が、あなたのことを信用しても信頼しない理由がわかった」

 肩を竦め、紅子は画面に向き直る。

 乱暴に荷物をまとめて足早に地下室を後にする怜奈。咄嗟に追いかけようとした道哉の背に、紅子の冷めた声が刺さった。

「まず着替えろよ」

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