それから一週間ほど経ったある日の夕刻。

 羽原紅子は、片瀬怜奈を伴って、街角にある牛丼屋の暖簾を潜った。店内では有線放送が流れ、カウンターにはおひとり様の男性客の姿がちらほら。食事には半端な時間であるせいか、テーブル席は空いていた。

 平年並みに冷え込んだ日だった。怜奈は、トレンチコートの下にボーダー。素材感あるチャコールグレーのタイトスカートは珍しく短めの丈で、そこから一段暗めの色のタイツに包まれた脚が惚れ惚れするほどすらりと伸びていた。そのくせ足元はネイビーのスニーカー。秋と冬の区別もつけず、適当なダッフルコートを適当に着た我が身を思わず省みてしまった。

 向かい合わせに座ると、怜奈が切り出した。

「ギルイノ、なくなったね」

「何とかなったようだ」

「すごいじゃん」怜奈は微笑む。「道哉の勧誘、やめていい?」

「いや……思い知ったよ。私たちだけでは無理だ。戦えるやつが要る」

「どうして?」

「手が震えていた」と紅子は応じ、掌を電灯にかざした。「何とかなるかと思ったんだがな」

 いのせは、ハッキングした監視カメラ映像による晒し行為をやめることを約束した。元々、正義にかける激しい情熱などなかった。手を出したのは、偶然技術を手に入れたからなのだとか。

 技術を手に入れたから、監視カメラから決定的瞬間を見つけ出し、晒し上げることを思いついた。

 思いついたから、実行した。元々彼女にはギルイノがあった。

 いのせを追い詰めるために様々な、彼女特有の弱点を調べ上げたのは確かだ。だが、動機の薄さのために、肩透かしを食ったような気分だった。もっと何かの信念があって、確信犯的に迷惑行為を晒し上げている犯人像を想定していたのだ。

 怜奈は目を伏せた。「ギルイノの管理人に会うって、言ってたよね」

「ああ。ギルイノは学生時代の研究が元だそうだ」

「投票フォームが?」

「ネット上の集団心理が研究対象だったらしい」

「ふぅん」怜奈は興味なさげに応じる。

「やめろ、と言ったらやめたよ」紅子は取り繕うように言った。「きっかけを求めているふしもあった。反響が大きくなる度、自分のしていることが怖くなったんだろうな。だから、善を成せと言ってやった」

「善?」

「こっちの話だ」

「ふぅん?」今度はやや興味がありそうだった。

 だが、続けて何か言うことはなかった。

 やってきた店員に紅子は「大盛りねぎだくギョク」と注文。怜奈は首を傾げてから「同じので」と言った。

「それで、道哉が要るって話だけど」

 面食らいつつも、質問の真摯さを感じて真面目に応じた。「相手が女だからとか、そういうのは関係ない。私には、肉体的な暴力を振るう覚悟が足りない。それだけだ」

「ふぅん……」怜奈は納得したようだった。「結構気に入ってるんだね、あいつのこと」

「はあ?」

「方法はわかったの?」

「方法」また話が飛んだ。この気まぐれさに合わせる憂井道哉は苦労するだろうと思い、同時に、振り回されることに心地よさを感じていた。「何かの文書を得たと言っていた」

「文書?」

「そう。監視カメラの乗っ取り方。乗っ取るための悪意あるプログラムの作り方。標的型攻撃の方法。そういったものが一揃いになった文書を手に入れたらしい」

 いのせはそれは『I文書』と呼んでいた。

 もっとも、ギルイノを立ち上げることが出来る程度に素養のある女だ。文書といっても参考にした程度であり、あくまできっかけにすぎないことはいのせ本人も念押ししていた。

 さらに、今はもう閲覧できないのだとも。

 元々、何か規定のアプリケーションでなければ暗号化を解除できない特殊なファイル形式であり、文書といえどもテキストファイルではなかったのだとか。そして、文書本体と同時に入手したこのアプリケーションが、ある日突然使用不能になった。さらに数日後、自動削除されたのだ。

 復元とサンプルとしての提供を求めたが、いのせは既に試行済みだった。できなかったのだ。

 眉唾の文書と切り捨てるべきか、あるいはもっと、正体を追いかけるべきなのか。

 判断がつかない。

 しばらくは自分の中に留めておくことにして、紅子は言った。

「もう少し、私独自で調査したい。君が持ち込んでくれた件なのに、すまないが」

「別にいいけど」怜奈の興味はメニューに並んだ期間限定の新商品に移っていた。「それで、今日はどうして牛丼屋?」

「嫌だったか」

「嫌じゃないよ。むしろこっちの方がいいかも」

「なぜ?」

「あなたが活き活きしてる気がする。適材適所だね」

「適材適所」

「そう、適材適所。得意分野があるんだよ、誰にでも。でも、たまに自分の得意じゃない分野に手を出してみるのも、いいんじゃないかな。たまになら」

「たまになら?」

「あたし、牛丼屋来るの初めて」

 長い髪を後ろで手早くくくる怜奈に、紅子は唖然として応じた。「君は世の中の大半のことを知り尽くしているのだと思っていたよ」

「不愉快ね。それはこっちのセリフだってば」

「はあ?」

「オオモリネギダクギョクってどういう意味?」

「君わかってなかったのか」思わず苦笑いになる紅子。「確かに、君がこういうところ……というか、食事をしている姿自体、想像しにくいが」

「人前で食事はしない主義だから」

「しているじゃないか。この間も、今日、これからも」

「それは、あなたが、あたしにとって、特別だから」

「一般的な言葉で言うと、友達という意味か?」

「さあ、どうかな」怜奈は意味ありげな笑みで首を傾げた。「もっといけない関係だと思う」

「はあ……?」

 店員が現れる。ふたりの前に玉ねぎを多めにした大盛りの牛丼と卵がひと揃いずつ置かれた。

 雨に濡れた子猫を見るような顔を目の前の盆に向ける怜奈。そんな彼女にねぎだくは、かくかくしかじかで、と説明していると、不意に背後から声が聞こえた。

 若い女のふたり連れだった。いつもなら意識からシャットアウトするタイプ。だがその時に限っては、我を忘れて聞き耳を立てた。

「それで、その探偵に頼んだら、彼氏の浮気現場の映像を集めてきてくれたらしいよ。それがラブホの入口の監視カメラでさー、もう信じらんないって言って別れたんだって」

「浮気調査って、いわゆる興信所?」

「違う違う、噂になってるの、知らない? お願いすれば何でも調べてくれる名探偵。探しものから浮気調査まで、全部タダ!」

「え、何それ。大丈夫なの?」

「改正盗聴法ってあったじゃん? あれで実は、今の日本の警察は街角のありとあらゆる通信を監視してるんだって。で、その監視システムを暴いたスーパーハッカーがいて……」

「えー、それ絶対時代遅れの都市伝説じゃん」

「でもあたしの失くした指輪も見つけてくれたよ」

「え、どうやって」

「パソコンのウェブカメラに、落とした瞬間が映ってたの。ハッキングして見てくれたんだよね~」

 紅子は怜奈と顔を見合わせようとしたが、肝心の怜奈は牛丼を口に運んで「しょっぱい」と呟いたところだった。

「え……それ危険じゃん。ハッキングでしょ」

「だからそう言ってるじゃーん。すごいハッカーなんだよ、イノセントは」

「イノセント?」

 そうだよ、と名前も知らない女が言った。

「その名も、電脳探偵イノセント!」

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