思い切り伸びをしてから、PCの前に座る。

 ギルイノには更新や注目のトピックスを通知する公式WIREアカウントがあった。抜け道を使おうかと手を動かしかけ、まずは正道のネットストーキングで挑むことにした。同じ監視カメラをハッキングする技能を持つ者として、まずは正々堂々、同じ土俵で戦うべきだと思ったのだ。

 購読者のリストは膨大。だが、この中にギルイノ管理人のWIREもあるに違いないと紅子は踏んでいた。顔が見えず、自己主張しないのがギルイノ管理人の特徴であり強みだとはいえ、いまどきWIREのアカウントを持っていないなどありえない。それくらい普及しているサービスであり、管理人はネットに強い。

 そして絞り込むための材料ならばいくらでもある。

 無作為なつもりでも、人間のすることには必ず癖が出る。過去、現在。どんな性格で、どんな考え方をしているか。自分の中に溜め込んだありとあらゆる時間から、人間は自由になれない。それはギルイノに垂れ流されている監視カメラ映像も同じだ。

 監視カメラを一括監視していたマシンにメインモニタを切り替え、一方でギルイノ投稿映像をローカル保存。まずはアングル変更はしていないものと仮定して、映像全体を平均化した輝度波形で一致度を算出する画像処理プログラムを組んだ。コードにする前段階の開発環境だ。

 しばし待つ。PCのファンが派手な音を上げて回り始める。リソースのモニタリングソフトを立ち上げてみる。Windowsのバックグラウンドプロセスをいくつか殺してみる。焼け石に水だ。

 部屋の扉がノックされた。

 どうぞ、と応じると、母がおずおずと姿を見せた。

「紅子ちゃん、晩ごはん」

 怯えた様子の母をモニターの向こうに睨み、紅子は応じた。「要らない」

 そう、とだけ応じて母は引っ込んでしまう。

 羽原家の日常だ。母とは、あまり良好な関係ではない。

 部屋で走り続ける大量のPC。あちらこちらの窓からは始終ドローンが行き来している。誰だってわからないものは怖い。理解不能な、少女らしからぬ電子工作やプログラミングにのめり込んでいる子供が家の中にいれば怖いという気持ちは理解できるし、もしも自分の娘が自分だったらと思うと、母のことを気の毒に思うこともある。

 だが、思い通りにならないからといって、苛立つことだけはするまいと、紅子は誓っていた。

 食事を断って三〇分ほどすると、階下のリビングから母のヒステリックな怒鳴り声が聞こえてくる。相手は父だ。

 女の子なのに引きこもって、パソコンで犯罪みたいなことばかり、電気代が嵩んで仕方ない、ご近所に何を言われるか、あゆみちゃんのところは彼氏を家に連れてきた、最近はそもそも家にいつかない、あの子にお金を使わせるのはやめて、あなたはあの子に甘すぎる――。

 いつもと同じだ。代わり映えしないことを何度も何度も大声で叫ぶことに何の意味があるのか全くわからないし、むしろそのヒステリックな叫びの方が近所迷惑に繋がらないか心配になる。

「いや、あゆみちゃんって誰だ」

 解析完了のメッセージが画面に表示された。一致は僅かに二件。地図上にプロットしてみる。少ない。これでは、特定に足りない。

 紅子は思わず画面の前で腕を組む。

「私の知らない監視カメラを主に使っているということか、あるいは……」

 映像を覗き見るのみならずコントロールを完全に乗っ取っているのか。

 こうなるとセキュリティの甘いネットワーク監視カメラのIPを特定してただアクセスするだけではなく、悪意のあるプログラムを監視カメラの制御システムに潜り込ませて遠隔操作していることになる。遊び半分でできることではない。相応の知識・技術、そして何より、悪意が必要だ。

 覚悟を決めた。

 作業量でも同じ土俵に立つことにする。向こうが目視で映像を確認し、決定的瞬間を抽出しているのだとしたら、こちらも目視で手持ちの監視カメラとギルイノ投稿映像を照合していくだけだ。目を皿のようにして、マシンビジョンでは見逃す痕跡を見つけ出す。

 今夜は徹夜だ、とひとりごちる。

 一旦椅子を降りてストレッチする。姿見に映った自分と目が合った。

 母は、女の子らしさというものにこだわっていた。幼い頃から、買い与えられる服はスカートやワンピースばかりだった。ズボンを穿きたいと言うと、そんな女の子らしくないものは駄目だと窘められた。親から子への窘めとは命令に等しかった。

 この歳になってもファッションセンスのようなものがまるで育たず、スカートで、とりあえずリボンが付いた似たような服ばかりがクローゼットに増えていく。そして、一緒に洋服を買いに行くような友達を得たことは一度もなかった。

 部屋着にしてもルームワンピースの類しかない。着ることが許されているズボンといえば学校の指定ジャージくらいだった。だからスクーター通学を強行した。スカートの下に何か穿いても、スクーターを走らせるなら文句は言わない。

 どうにか機械にやらせることはできないか、投稿映像の静止画をウェブの画像検索にかけて一致する画像を探してみる。決定的なものは得られない。

 そこまでの作業で、既に深夜〇時を回っていた。

 学校のジャージと懐中電灯、それにいくつかの備品、キーを一本携え、紅子はそっと自室を出た。

 抜き足、差し足で自宅を出て、五分ほどのところにある公衆電話に入る。窮屈なボックスは、足元になぜかマンホールがある。屈み、その持ち手に手をかける。奥にあるスイッチを押す。

 照明が消えた。

 鉄の丸蓋を開け、中へ潜り込む。

 蓋を閉じ、内側からスイッチを入れ直し、錆びた梯子を下る。

 底まで降りると懐中電灯をつける。すぐ横に、安物の原付バイクが一台ある。父の知人のオートバイ販売店経営者から、数年前に「免許を取るまでの練習用」という名目で譲り受けたものだった。当時も今も、公道では走っていない。

 走ることおよそ一〇分。憂井邸地下の空洞に辿り着く。

「……まだまだ、だな」

 地上の蔵から、物資を移動するだけは移動したが、まだ設備としての立ち上げはできていない。折に触れて葛西に手伝わせてはいるものの、完成はまだ遠かった。そもそも設備と、この空洞周辺の地下通路の探索も満足に行えていない。

 時間はあるから問題あるまい、とも思う。時間がなくなるとはこの施設が本格稼働するとき。本格稼働するとは、憂井道哉が戻ってくるということだ。

 あるいは、彼以外の実力行使担当を手に入れるか。

 とにかく、電源を確保してPCを開く。

 誰も見ていないのにこそこそとジャージに着替えると、よし、と呟き掌で頬を叩いた。

 見つけた監視カメラから得られた映像は一通り目に焼きついている。ギルイノに投稿されている映像を、ザッピングするように見てみると、どこか自分の記憶に引っかかるものがあるような気がする。その引っかかりを頼りに照合していく。記憶がすべてデジタル化して抽出できればこんな手間は踏まなくてもいい。

 そしてふと気づく。公共施設のカメラでハッキングに成功したものは少ない。ならば少ない同士で照合すれば手間も少なくて済む。

 目を擦りながら、ギルイノ投稿映像群から店舗などではなく公共施設の映像だけをピックアップしていく。

 電車内の監視カメラ映像があった。それで膝を打つ。これがどの路線かわかるかと、即座に知人の鉄道マニアに連絡した。二〇分ほどで返事があった。踏切とシートの色等から、埼京線であることが特定されたのだ。それも赤羽から十条の付近。

 これだけで居住地を特定するのは早計だ。とはいえ、埼京線に縁のある人物、という犯人像が加わる。

 痴漢の映像だ。もしかしたら、犯人は女性かもしれない。

 自分の正体を隠すことに執心しているなら、この映像は追う者のミスを誘うデコイだということになる。だが、相手は正義感に燃えている。そして、自分が追求されるべきとは思っていない。何となく、そんな気がした。それが自分との違いである、とも。

 憂井道哉の力を借りて犯罪との戦いを始めた時からずっと、心の隅では罪悪感を抱いていた。だから自分の技術が決して行き過ぎたことをしないように気を遣ってきたし、憂井道哉が葛西を連れてきてから、片瀬怜奈が協力を申し出てから、いずれも、彼らが犯罪との戦いのために得た技術や情報を自分のために濫用しないかを慎重に監視してきた。彼らもまた心の中に罪悪感を抱いている人間であるか、否かを。

 先刻の鉄道マニアから、車両の型式やその車両が走っている時間をマークした時刻表が送られてくる。もちろんそこまでは不要である。

「……待てよ」

 マークされている時間は平日の朝や夕方、つまり勤め人が多く乗車する時間帯だ。映像にはスーツ姿の男女が多く見受けられたため、平日であることは明らか。酔客のなさから朝だ。他に、昼時の時刻が右下に記録されているコンビニの監視カメラ映像もあった。

 つまり、この映像を投稿したのは、多くの人が通勤・通学している時間に自宅でPCに張り付いて監視カメラの映像を目視監視できる立場にある人間ということだ。

「……埼京線沿い、女、無職……いや、家事手伝い、そこそこのPC知識、独居では厳しいか?」

 しばし腕組みをして、入力した画像からグーグルストリートビューの景色を検索し、一致したものを返すウェブサービスを開く。あまり広い地域の検索はサーバ負荷の予防から不可能な仕様で組まれているが、幸い地域はある程度絞り込めている。元はといえばアニメの背景作画の参考にされた場所を探すために作られたのだというから恐れ入る。

 ギルイノ映像のキャプチャ群を放り込み、五秒ほどで結果が一斉に表示された。

 なるほど、と紅子は呟いた。

 八ヶ所の赤い点が地図上に灯っている。確かに埼京線沿いだが、一見するとランダム。ひとつは大宮だ。

「ま、あとはプログラム様にお任せだ」

 その地図を別のフリーソフトに突っ込む。ロスモの方程式という、犯罪発生地点からその犯人の居所を推定するための著名な数式を、グーグルマップとの連携で走らせるソフトウェアである。

 製作者はどこかの情報系の大学生。ダウンロードページには研究室へのリンクが張られていた。大方学生時代の開発実績として就活時の自己PR材料にするつもりなのだろう。おかげで、理論だけは知っていても実行は難しい解析が容易に行える。

「成し遂げ至上主義社会、万歳!」

 わざと音を上げてエンターキーを叩く。

 待つこと一〇秒ほど。

 紅子は思わず身を乗り出し、画面を指でなぞった。

「ほぉう、戸田公園か」

 最寄り駅が判明した程度だが、十分だった。

 WIREのギルイノ公式アカウントの購読者に絞り込みをかける。性別。職業。居住地。年齢。アクティブな時間帯。更に六種の投稿傾向プロファイルを導入する。残ったアカウントは三つだった。ここまで来ればチェックも同然。過去の投稿を遡る。うちふたつのアカウントは、ギルイノの内容に言及していた。除外だ。

 最後に残ったアカウントの過去の投稿を遡る。

 埼京線の立体化工事への愚痴。情報系の大学を出たこと。モテない男たちにありがちな傾向を面白おかしく分析した文章。男性中心の社会をかき乱してやったという体験談の体を装った自慢話。親への不満。日本社会への苛立ち。昔のインターネットを回顧した自虐的な文章。アニメの感想。人生に成功したかつての知人らへの妬み。

 決定的なのは、過去に受けた痴漢的な体験についての怒りを綴った投稿だった。これが、ギルイノへ、痴漢の瞬間を捉えた映像が投稿された一〇分後だったのだ。

 表示名までそれらしい。

「いのせ、か」

 可愛らしすぎない平仮名。だが本名を元にした愛称の類ではない。ありふれた苗字のように呼ばれやすい名。もしかしたら本名かもしれない。自分の性や職業、現況へのコンプレックスと、インターネットでの匿名の人付き合いに慣れた様子が伺える。

 そして、イノセントの頭三文字だ。

 紅子はほくそ笑んだ。

「チェックだ。答え合わせといくか」

 PCを閉じ、元来た道を戻って公衆電話の中へ出る。

 自宅に忍び込み、自室へ潜り込む。それから母艦PCでWIREの開発者ツールを立ち上げ、ギルイノ公式アカウントと同一IPを利用しているアカウントを検索する。

 自分史上最高かつ最低の笑顔で、紅子は呟いた。

「へっへっへ……チェックメイトだ」

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