自分に自信がありそうな人が苦手だった。

 それは、何をしていても自信を持てない、自分自身のコンプレックスの裏返しなのだとわかっていた。勉強に打ち込んだって、上には上がいる。たとえ学校で一位になっても、外部模試を受ければ井の中の蛙だと思い知らされる。かといって、今更、勉強以外の、高校生活を思い切り楽しむような生き方なんか、できそうにない。

 毎朝毎朝、あと二センチスカートの丈を詰めてみようかと思って、やめる。

 コンビニに入るたび、発売されたばかりのコスメを買ってみようかと思って、やめる。

 町中でコンタクトレンズの広告を見るたび、自分も眼鏡をやめてみようかとふと思って、やめる。

 何か新しい一歩を踏み出そうとしてやめるたび、自分に言い聞かせている。踏み出さなくたって、その先にあるものは見えているのだ、と。

 何も考えず、自分に自信満々で、弱点なんかないと信じ込んでいる人たちが知らない世界を、知っている。彼らに見えないものが、自分には見えている。そう思い込むことでしか、日々をやり過ごすことができない。

 でも不意に、疲れる。

 毎日襲い掛かってくる、何も得られないのは自分に何もないからなのだという現実から逃げ続けることに、疲れる。

「自分が、毎日すり減っていくような気がするの」と野々宮ゆかりは言った。「先生は?」

「すり減っていくばかりだよ、僕も。学生の頃に頑張って得たものは、全部偽物なんだと思い知らされる日々だから」

 特殊教室の並んだ人気のない廊下。その隅にある、特に人気のない化学室。その更に奥にある化学準備室に、野々宮ゆかりと葛西行人の姿があった。落下防止の枠がつけられた棚に試薬瓶が並び、流し台には片付けられていないガラス器具。どこからともなく漂ってくる有機溶媒の芳香に、ふたりは酔っていた。

 実験台では、フラスコやゴム栓、撹拌機、加熱器がまるで遊園地のミニチュアのように複雑に組み合わされている。複数の入り口から供給された原料が、経路を通って、一番端で無色透明な液体として回収される。

 これを減圧蒸留して得られた白色の粉末を、アルミホイルに乗せて火で炙る。ふたりは顔を寄せ、煙を吸い込む。

 それは、疲れ果てたふたりの、誰にも奪われない時間だった。

「……彼は?」と葛西は言った。

「憂井くん? あの子なら、もう帰ったよ。妹に呼ばれたとか」ゆかりは葛西の首と肩に腕を絡め、耳元で囁いた。「邪魔者はいなくなったよ、いつもと同じ。誰も知らない。私たちだけ」

 化合物の分解を防ぐため日光が差さない部屋の中で、ふたりは唇を重ねる。密やかな水音は、ドラフトチャンバーの排気音にかき消されていく。

 これが邪魔だったね、と言って、野々宮ゆかりはかけていた眼鏡を外し、もう一度葛西の唇を貪る。世界が、虹色に染まって、遠ざかっていく。葛西の手が髪を撫で、ふたつ縛りを作っていたヘアゴムが解けた。

「先生、どうして何も言わないの? いけないことだと、思ってる?」

「僕は……」

「ねえ先生。誰にも奪えないものを、ください」

 ゆかりは、制服の胸元を留めるリボンを解いた。


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