第3話 きみは誰?

  〈児童福祉の基本理念〉

「①すべての国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、育成されるよう努力する義務を有し、また、すべての児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護される権利があること(第一条) ②国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負うこと(第二条) ③これらの二つの原理が、すべて児童に関する法令の施行に当たって尊重されるべきこと(第三条)」


 開いていた資料を机の上に投げ出し、僕はワード画面に打ち込んだ文字を削除した。さっきから、打っては消しの繰り返しだ。児童福祉に関するレポートが、一向に進まない。提出期限がせまって、いたずらに気持ちばかりが焦っていた。

 大学に入って社会福祉学科を専攻したのは、さよちゃんのことが大きく影響していることは間違いないが、僕自身、心を病んだ幼少期がある分、傷ついた子供達のことが少しでもわかるような気がして、彼らのためにできることを学びたいと思ったからだった。

 精神医学という道も考えたけれど、苦しんでいる子供達への最短距離のアクセスができる場所として、僕は児童福祉の世界を選んだ。

 だけど、将来それに携わる仕事を目指すのかと問われれば、返事に窮してしまう。そんな力が、僕にあるんだろうか。現に今、この国の社会福祉が掲げる理念と現状との矛盾に行き詰まり、レポートひとつ満足に書けない有様だ。

 それでも、とりあえず目の前の課題をクリアしないことには単位はもらえない。まとまりなく散らばった思考を、目の前のパソコンに集中させようと、キーボードに指を置いた時、背後から「おい」と刺を含んだ声がした。

「何」

 背中を向けたまま聞いた僕に、暁は苛立った口調で詰問してきた。

「俺の母親探しはどうなってんだよ」

 僕はパソコンを閉じると、椅子を回して暁に向き直った。

「この前お前に話したとおり、今のところ、家主から聞いた以上の進展はないよ。あれから、まだ何日も経ってないじゃないか。あせるなよ」

 薫が教えてくれた話は伏せた。暁は、いまいましそうに舌打ちをして声を荒げた。

「呑気なこと言ってんなよ。あんたにとっちゃ、きまぐれな同情心かもしんないけど、こっちは真剣なんだ」

 その言葉が、いらついていた僕の神経を逆撫でした。

「いいかげんにしろよ。俺は探偵じゃないんだ。素人が、人ひとり簡単に見つけ出せると思ってんのかよ。人の都合も考えないで言いたい放題言いやがって、くそガキ」

 暁は怒りで頬を紅潮させ、噛みつきそうな形相で僕をにらみつけると、玄関に向かった。

「どこ行く気だよ」

 返事もしない暁を追いかけて、腕をつかんだ。暁はそれを振り払い、靴を履こうとした。

「あんたになんか頼らない。俺が自分で探す」

「ばか言うな。ケガも治ってないのに、お前がうろうろしたって何になるんだよ」

「離せよ」

 暁を引きとめる僕の意識の片隅で、このまま出て行ってくれたら、と思う気持ちが、遠くで点滅するライトのように揺れていた。

 手首をとらえた僕の手をほどこうとする暁と、玄関先でもみ合った。僕が強く引っ張った拍子に暁はバランスを崩し、上体が泳いだ。とっさに両手で抱きとめ、触れた胸の柔らかさに驚いた。暁が女の子だという事実に、改めて頬をひっぱたかれたみたいに。

「何すんだよっ。俺に触るな」

 投げつける言葉の激しさと反比例するような、線の細い小さな体。胸が苦しくなった。僕は暁の体から手を離すと、玄関のドアの前に立って言った。

「言い過ぎたよ。悪かった」

 暁は肩で息をして、険しい目つきをしていたけれど、僕を押しのけて外へ出ようとはしなかった。暁は一見激情型だが、実際は年齢以上に頭がきれて、聡明な部分を併せ持っている。今の自分になんの力もないことは、もう十二分に理解しているはずだった。

「別に呑気にかまえてるわけじゃない。一日でも早くお前の母親が見つかるように、努力してるつもりだよ」

 僕は理不尽さを感じながらも暁をなだめ、昂ぶっていた感情を押し込めた。

 夕食のあと、ソファの上でうたた寝をする暁の顔を、僕はテーブル越しにぼんやりと眺めた。心身の疲労が激しいせいか、暁はとにかくよく眠る。まるで猫みたいに。

 暁の足元の床の上には、ラムネが丸くなって眠っていた。暁は限りなく不本意だという態度ながらも、一応、僕がいない間のラムネの世話を遂行してくれているらしかった。ラムネの方も、最初は暁のピリピリした空気に警戒を感じてか、側に寄ろうとしなかったけれど、餌をもらう内に、だんだん近くに暁がいても気にならなくなったようだった。

 片肘で頬杖をつきながら、暁が眠っている間、水月はどうしているんだろうと考えた。

「水月……」

「なあに」

 無意識の呟きに返事を返され、後退りするほど驚いた。パッチリと両目を開いて、水月がこっちを見つめている。

「心臓に悪いな」

「いちいち驚いてたら早死にするわよ」

 水月はおかしそうに笑って、ソファの上に起き上がった。

「暁には生きててもらわないと困るけど、高久も死んじゃダメ」

「居候先がなくなるからか」

「違う。好きだから」

 僕は眉間に皺を寄せた。

「信じてないの?」

「アイスクリームが好き、なんてのと同じ調子で言われてもな」

「違うわ、ちゃんと異性として好きなの。高久、やさしくしてくれるから」

「通りすがりの男達も、きみにやさしくしてくれたのか?」

 皮肉がかった僕の言葉に、水月は口元の笑みを消して言った。

「そう。みんな、やさしいから好きだった。でも、高久はもっと好き」

 僕は何も言わなかった。

「抱いてほしいって言ったらどうする?」

「そんな必要ないって言ったろ」

 不毛な会話を打ち切ろうと、水を飲みに立ち上がった僕の背中を、声が追いかけた。

「抱いてもいい、じゃなくて、抱いてほしいって言ったのよ」

 僕は振り返って水月を見た。切れ長の瞳の奥に、危うい光が寄せては返す波のようにさざめいている。

「抱いてほしいって言ったらどうするの?」

 もう一度、水月は繰り返した。僕は、でくのぼうみたいに、ただ突っ立ったままだった。

「じゃあ、キスしてって言ったら?」

「俺は、彼女がいるんだ」

 水月は小さく肩をすくめた。

「知ってるわ。大丈夫、意味なんて欲しがったりしないから」

 ゆっくりとした足取りで近づいてくる、暁と同じ顔。ほんの数時間前、僕に食ってかかった唇からこぼれる、甘い呼吸いき

「子供と恋愛ごっこする趣味、ないんだけど」

「あたしは子供じゃないわ」

 挑むように水月は言った。

「暁と暁の妹は十五歳だけど、あたしはもっと大人よ」

 意味がわからなかった。

「それなら、いくつだって言うんだよ」

 その言葉を無視して、水月は僕の目を覗き込んだ。

「あたしが嫌い?」

「嫌いじゃないよ」

「汚いって思ってる?」

「そんなこと言うな」

「だったらキスして」

「こんなの……」

 脅迫じゃないか、と言いかけて僕は口をつぐんだ。するりと首に回された白い両手に、僕の体はからめとられるように自由を失った。これは十五歳の少女じゃない。男を誘って取り込んでゆく娼婦の目だ。恐怖と隣り合わせの官能の触手が、細胞を細かく泡立たせるような気配に、身震いがした。

 けれどそれ以上に、魔を秘めた鈍いゆらめきの奥に見え隠れする、寄る辺ない子供のように無垢な寂しさが、僕をとらえた。

「キスして、高久」

 僕は観念し、顔だけを水月に近づけた。そして目を閉じ、軽く触れるだけのキスをした。


 日曜日、僕は車で実家へと向かった。

 今日は、朝から水月が「外」へ現れていた。意味なんて欲しがらない、と言った言葉どおり、彼女はあの夜のキスなんてまるでなかったように、まるっきりあっさりとした態度だった。僕は、中学生相手に無様にうろたえた自分を、内心で叱咤した。

 水月の真意はわからないけれど、心に爆弾をかかえ込んでいるような不安定な彼女に、僕は何があっても引きずられてはいけないのだ。

 実家に行ってくると告げた時、水月は特に何も訊かなかった。帰るのが少し遅くなるかもしれないと心配する僕に「大丈夫。行ってらっしゃい」と、ひらりと手を振った。

 着いたのは昼過ぎだった。悠介は昨日から鎌倉にある母方の祖父母の所へ泊っているらしく、連絡を受けた義母がひとりで僕を待っていた。

「すいません、お義母さん。急にお邪魔して」

「そんな遠慮はしないで。ここはあなたの家なんだから。お昼は食べたの?」

「適当に。お義母さんは」

「私ももう済んだわ。じゃあ、お茶を入れるわね」

 義母は普通にしていたが、命日や親族の冠婚葬祭ぐらいにしか顔を出さない僕が突然に訪れたことで、台所に立つ後ろ姿に緊張を漂わせているようだった。

 義母がお茶を運んでテーブルに着くのを待ってから、僕は父が自分のために遺してくれた金を、いくらか使わせてほしいと切り出した。

 父が亡くなった時、僕は遺産の管理の一切を義母に任せた。資産家でもあるまいし、大金ではないにしても、高校生だった僕が相続問題に首を突っ込むのはいい感じがしなかったし、面倒なことはごめんだったからだ。それ以来、僕は父の遺産について一度も口にしたことはなかったけれど、今回ばかりはそれに頼るしか術はなかった。

 唐突な申し出に、義母は驚きを隠さなかった。

「何に使うの?」

「今は、言えません」

 義母は眉をひそめた。

「もう成人してるんだし、お父さんが遺してくれたお金を、息子のあなたが要求するのは当然の権利よ。でも」

 言葉を切ってから、義母は少し間をおいた。

「あなたはまだ学生だし、私はあなたの母親なのよ。理由ぐらいは聞かせてほしいわ」

 僕が答えないでいると、迷うように視線をテーブルの上に落としてから、義母は顔を上げた。

「何か……面倒なことに巻き込まれてるんじゃないでしょうね」

 こわばった義母の顔を見つめながら、僕は心が冷え冷えとした空気に包まれていくのを感じた。そういうことか。

「お義母さんや悠介に迷惑がかかるようなことは、絶対にありません」

 一瞬、義母の目に険しい色が掃かれたが、彼女はため息をついて立ち上がると、奥の和室から預金通帳を持ってきてテーブルに置いた。それは僕の名義になっていた。

「持って行きなさい」

 手切れ金を渡すような響きだった。僕は通帳を受け取ると、

「無理言ってすいません」

 と頭を下げた。

 義母は黙ったままで、僕が玄関に向かっても、席を立ってこようとはしなかった。

 重い足取りのまま実家を後にして、僕は車を走らせ新宿東口に出た。駅前のパーキングに車を停め、乾いた喧騒と、昼間でもどこか廃退した淀みが猥雑に混じり合う、歌舞伎町の通りを歩いた。なぜか、会ったこともない暁の母親が、どこかの露地に立って虚ろで濁った目をふらふらと彷徨わせているような気がしたからだ。もちろん、万が一彼女がいたとしても、僕にそれがわかるはずはない。

 新宿ゴールデン街をあてもなくうろついてから、靖国通りを東に向かった。インターネットで調べ、連絡を入れておいた興信所は、どこにでも似たようなものが並ぶ雑居ビルの五階にあった。

 僕はそこを訪れ、暁の母親について知っている限りの情報を与えて、彼女を探すために必要な経費の大まかな見積もりを立ててもらった。出された見積書に目を通し、覚悟していたとはいえ、金額の大きさに閉口した。それでも僕は正式に仕事を依頼した。

 オフィスの雰囲気や社員の対応にも特にうさん臭い点はなさそうだったし、背に腹はかえられなかった。いくら僕が暁の母親を探そうとがんばってみたところで、所詮限界は知れている。暁もあの口論以来、表面上はおとなしくしているものの、じりじりとした焦燥感を閉じ込めているのがよくわかった。

 オフィスを出てから薫の携帯にかけた。暁の母親探しを依頼したと話し、調査結果を薫のマンションに届けてもらってもいいかと確認した。薫は了承してくれ、届いたら連絡すると言った。

 父親の遺産を、まさかこんな形で使うことになるとは思いもしなかった。なんにせよ、助かったと亡父に感謝しながら、僕は例によって自分の無力さにいささか滅入っていた。手を引くわけにはいかないなんて、薫や水月にえらそうに言ったものの、結局のところ僕は薫や親の金に依存してる。僕が暁と水月に対してできたことなんて、衣食住を提供することと、キスぐらいじゃないか。

 自分の足で立ってない人間が……。そうだな、薫。お前の言ったとおりだよ。

 自虐的な思いを奥歯でかみ砕きながら、僕はパーキングに急いだ。

 アパートに帰った僕の目に、苦しそうにもがくラムネの姿が飛び込んできた。

「暁……? あきらっ!」

 僕は、ラムネの首を絞めている人間につかみかかった。

「何やってんだっ。離せよ」

 暁の腕を力まかせに引き剥がし、そのまま後ろへ突き飛ばした。

 ラムネは弾けるように身を翻すと、部屋の隅で大きく毛を逆立てた。どうやら大丈夫らしい。僕はホッと息をついて暁の方を見た。

 暁は突き飛ばされて後ろ手に尻もちをついた格好のまま、焦点の合わない目であえぐように唇を動かしていた。

「……ない」

 僕は暁を刺激しないよう、音をたてずに近づいた。

「殺すつもりなんかない……」

 熱病にうかされる人間みたいに、激しく体を震わせる。

「柱で爪を研いでて……やめさせようとしたんだ。そしたら、飛びかかってきて……。殺そうとしたんじゃない。怖くて……」

 涙の膜が瞳を覆い、それが溢れ出す前に僕は暁を抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫だから」

 他人との接触を嫌がる暁の肩が大きく跳ね、僕は慌てて手を離した。暁はうつむいたまま、身じろぎもしない。やがて、細く消え入りそうな声がした。

「さわらないで」

 自分の鼓動が耳の奥で波打った。顔を上げて僕を見る、怯えた瞳。

 水月? 違う。初めて会う「少女」が、そこにいた。

 心臓を鷲づかみにされたような気がした。自分の喉に手をやって、やっとの思いで僕は声帯を震わせた。

「きみは……誰?」

 恐怖に見開かれた少女の両目から涙が溢れ、蒼白の頬を濡らしていった。僕がもう一度声を出す前に、痩せた体は大きく揺れて、僕の胸に落ちた。

 頬に涙の跡を残す幼い顔。今、腕の中で眠っているのが暁か水月か、それともようやく会うことができた少女なのか、僕にはわからない。予想外に早く現れた主人格との対面のあとには、安堵よりも、戸惑いよりも大きく、刺すような胸の痛みが広がっていた。


「まさか、こんなに早く彼女が現れるなんてね」

 水月は両腕を枕にして、ソファにうつぶせに寝そべっている。あれきり彼女は消えてしまい、数時間後に眼を覚ましたのは水月だった。

「さっきから黙ったまんまで、何考えてるの?」

 水月は、ソファの端を背もたれに座っている僕を窺った。

「彼女の声は聞こえるようになったのか?」

 僕に顔を向けたまま、水月は首を振った。

「あいかわらず、だんまりね」

 そう言ったあと、フォローするようにつけ加えた。

「でも、とりあえず彼女は目覚めた。近いうちに、きっとまた高久の前に出てくると思う」

 灰皿に置いた煙草から立ちのぼる細い紫煙が、めまぐるしく螺旋を描き、夜半の空気にからみついていた。

 ラムネはあれからしばらくの間、冷蔵庫の脇にうずくまっていたが、さっきようやく居間に来て窓際で眠り始めた。見るともなしにつけられたままのテレビには、NHKの再放送番組が映し出されている。新約聖書を扱ったもので、きっちりとスーツを着こなしたどこかの大学教授が、その内容についてわかり易い解釈を与えていた。

 うつぶせのまま、目を閉じていた水月は「ルカによる福音書」の第十一章の朗読にさしかかったどころで、目をテレビへと向けた。

「誰でも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたくものは開けてもらえるのである。あなた方のうちで、自分の子供がパンを求めているのに、石を与える者がいるであろうか。また、魚をもとめているのに、ヘビを与える者がいるであろうか。あなた方は悪い者であっても、自分の子供達によいものを与えることを知っている。ましてや、天におられるあなた方の父が、求めてくる者に聖霊を下さらないことがあるだろうか」

僕は煙草をもみ消し、リモコンをつかんでテレビを消した。部屋に落ちる静寂が息苦しくてCDの電源を入れると、ボリュームを絞ったラジオからサティの『ジムノペディ』が流れ出した。

「高久、人類の二大タブーって知ってる?」

 水月が訊いた。

「……親殺しと近親相姦」

「そう、親殺しと近親相姦。あたしは父親と寝たし、暁は母親を殺そうとしてる。すごいよね。けど、人間の最大のタブーに、子殺しは入ってない」

 口元にシニカルな笑みをはりつけたまま、彼女は言った。

「聖書の中の『律法の役割』にも書いてある。『法律は正しい人のために定められたのではなく、無法者や反抗者、不信心な者と罪びと、神を畏れぬ者や世俗的な者、父を殺す者と母を殺す者、殺人者、みだらな者、男色者、誘拐する者、うそつき、偽証する者、その他健全な教えに反する行為のためである』ってね。その中に、子を殺す者っていう言葉はないの。兄弟殺しだって、旧約の中でちゃんと戒められてるのに。アベルを殺したカインは、額に罪の印をつけられた」

「あれは、誰かがカインを殺さないように、神がつけた印だろ」

 水月はおかしそうに声を立てて笑った。

「いつでも守られるのは、被害者じゃなくて加害者、か。現行法って、実は聖書がベースだったりして」

「もう、よせよ」

 たまりかねて僕は言った。

「どうして?」

「中途半端に差し出される手は、暁の傷口をかきまぜるだけだって、きみは俺に言ったけど、そんなふうに自分を弄んでみたって、それこそ、きみ自身の傷を広げるだけじゃないか」

 水月は何も言わず、ソファの上で膝をかかえて丸くなった。

「暁や、主人格の彼女と同じように、きみだって、差し出される手に怯えてないか? やさしくしてくれる人が好きだって言いながら、きみは、どこかでひどく警戒してるみたいに見える」

 クリスタルのように硬質で繊細なサティのピアノ曲が、ゆるやかに僕達の隙間を縫って通り過ぎてゆく。いつのまにか三つの『ジムノペディ』は終わり『あなたが欲しい』に変わっていた。

「あたしを抱く時だけ、お父さんはあたしに関心を向けたの」

 ピアノに聞き入るように、ぼんやりと首を傾けていた水月が、ふいに口を開いた。

「あとは徹底的な無関心か、酔って母親とあたしを重ね合わせて罵るだけ。やさしい時もあったかもしれないけど、思い出せない。怒鳴られたことも冷たくされたこともよく覚えてるけど、それ以上に、ふれてくる手の感触が、今でもはっきりと体に残ってる」

 水月は苦しげに顔を歪めると、ソファにうつ伏せた。

「具合が悪いのか?」

「お父さんのことを考えると、背中の火傷が痛みだすの」

「タオルで冷やすか?」

 水月は、平気だと言うように首を振った。

「あたしを抱く以外で、お父さんが反応したのは、家に火をつけた時だった。あっという間に燃え広がる火の中で、放心状態で立ちつくしてたお父さんの目が、暁の妹を見たとたん正気に戻って……来るな、早く逃げろって……」

 途切れそうな声で、水月は言葉を繋いだ。

「男の人と寝るのは、暖かい。でも」

 水月は、うつ伏せのまま背中でシャツをまくり上げ、火傷の跡を僕の前にさらした。

「これを見ると、ひいちゃう人もいるけどね」

 水月のまっ白な肌に刻まれた火傷を、正視できなかった。

「自分がどんなふうに見られてるかなんて、ちゃんと知ってた」

 叱られた子供が、必死に胸の内を伝えようとするみたいに水月は言った。

「それでも、あたしの居場所が欲しかったの」

「暁でも、暁の妹でもない、きみだけの居場所が?」

 水月は、ほんのわずかに頷いた。

「誰かと繋がってる時だけは、この体があたしだけのものだって思えたの」

「もういい、水月」

 睫毛に落ちた雪にふれるようにそっと、僕は火傷の跡に手を置いた。

「何も言わなくていい」

 水月は、目を閉じた。

 ピンク色に盛り上がった部分の所々に褐色の点を散らしたその跡は、肉がひきつれた感触が炎の恐ろしさを生々しく物語っていた。僕はそこにゆっくりと唇を落とした。小さく揺れた肩の向こうから、ためらいがちに問いかける声。

「高久、あたしを好き?」

「……ああ」

「うそつき」

 水月は、短い沈黙の後で言った。

「やさしいね、高久。私を抱かないのにやさしい人は初めて」

 仰向けになった水月の顔を、僕は上から見つめた。

「やさしくしないでよ」

「どうして」

「そんなふうにやさしくされたら……」

「やさしくされたら?」

「このまま生きていたくなっちゃうじゃない」

 それの、何がいけない? そう言おうとした僕は、その意味に気づいて、何も言えなくなった。多重人格障害の最終的治療は、分離した各人格をひとつにすること。つまり、それは。

「キスして」

 乞われるまま、僕は彼女と唇を合わせた。水月は僕の首をかき抱くみたいに強くしがみつきながら、長いキスの合間に、何度も「好き」と繰り返した。


 一瞬だけ現れた少女や、不安定な状態の暁、そして水月。昨日一日のいろいろなことが頭の中で交差して、午後の講義はほとんど上の空だった。

 多重人格障害という疾患にポイントを絞れば、人格統合による治癒が必須であることは言うまでもない。だからといって、イコール暁や水月の消滅なんて図式をすんなりとはじき出せるような客観性は、僕の中ですでに失われてしまっていた。

 ドイツ語のテキストをリュックにしまい、ひと気のなくなった教室を出ようとした時、携帯が鳴った。自宅からの着信に、急いで答える。電話の向こうで、切迫した声がした。

「ラムネが……俺のせいで……」

「もしもし? 暁?」

「どうしよう、死んじまう」

 僕は携帯を強く握りしめた。

「落ちつけよ、何があったんだ」

「早く……早く帰って来てくれ」

 ただごとじゃない様子に、すぐ帰るからと言って電話を切り、僕は教室を走り出た。

 電車で帰る時間が惜しくて、表通りに出てタクシーをつかまえる。運よく道路は空いていたけれど、信号で止まるたびに、胸の内で舌打ちした。

 投げ捨てるように料金を払ってアパートのドアを開ける。暁がバスタオルにくるんだラムネを抱いて座り込んでいた。駆け寄ってみると、ラムネは暁の腕の中で、死んだようにぐったりとしていた。

「どうしたんだ」

「昼メシも食わないでずっと寝てて……さっき急に吐いて動かなくなって……」

「病院に行こう」

 僕は暁を連れて車に乗り、十分ほどのところにある動物病院に向かった。助手席でバスタオルごとラムネを抱いている暁は、ずっとうつむいたままだった。

「昨日、俺が……」

「関係ないよ。あれから元気だったろ。お前のせいじゃない」

 僕がそう言っても、暁は顔を上げなかった。

 白髪まじりの獣医は手際よく診察を済ませると、落ち着いた声で言った。

「消化不良ですね。命にかかわるというわけじゃありませんが、まだ仔猫だし、ちょっと衰弱しているようなんで、栄養剤を注射しておきましょう。しばらく気をつけて様子を見てやって下さい」

 獣医は食事に対する指示と予防接種について説明し、薬を出しておくからと言った。

 受付で清算をして車に戻る頃には、暁の表情にも安堵の色が浮かび、肩の力が抜けたようだった。

 注射のおかげで落ち着いたラムネは、暁の膝の上でよく眠っていた。僕もひと息つき、脱ぐひまもなかったジャケットを後部座席に投げ、エンジンをかけた。

「ありがとう」

暁が前を向いたまま、ポツリと言った。

 初めて耳にする素直な言葉に、胸が熱くなった。

「どういたしまして」

 少しの照れくささを早口でごまかし、ハンドルを回した。フロントガラスから見える夕方の空はグレーの雲にすっぽりと覆われて、今にも雨が降り出しそうだった。

 アパートに着いてラムネを毛布の上に寝かせてから、僕は夕食の支度をした。

 パスタとサラダで簡単な食事を済ませたが、暁はいつにもまして食が進まないようだった。二人でコーヒーを飲んでいると、雨粒がガラス窓を叩き始めた。

「やっぱり降ってきたな」

 雨は雷を伴ってきたらしく、近いところから、猫が喉を鳴らすような低い音が届いていた。

 暁はしょんぼりとして覇気がなく、いつもの鋭さの代わりに、横顔に色濃い疲労の影が落ちていた。

 稲妻がカーテンの隙間の夜を白く閃かせ、裂けるような轟音が響いた。僕は煙草をくわえて立ち上がり、窓のカーテンを開けて外を見た。暁に割られたガラスは先日取り替えたところだった。ガラス越しの景色は激しい風雨にさらされ、辺りの木々や建物の輪郭がすべて曖昧に滲んでいた。

「親父が死んだ時も、こんな雷だったな」

 別に返事を期待したわけじゃない呟きだったのに、暁は僕を見た。

「いつ?」

「俺が十六ん時だよ。ついこの間……お前と初めて会った次の日が、命日だった」

 暁の反応に驚きながら、僕は言った。

「お母さんも?」

「お袋は小学二年の、やっぱり秋だった。親父は癌で、お袋は……」

 言葉を切って、テーブルの上の灰皿に煙草を捨てた。暁は、そんな僕から視線を外さなかった。僕は少しの居心地の悪さを感じながら、再び窓の前に立った。暁と水月にじっと見つめられると、いつもどこか落ちつかない。自分という存在の中枢にあるものをひきずり出して、眼前に突きつけられるような足場のぐらつきを覚えてしまう。そういう意味では薫も恐いけれど、理知に裏打ちされた彼の怜悧な洞察力に対して、暁と水月は、その不思議な光をたたえた瞳のファインダーを通して、直に僕の内部を透視されるような気になる。

「父親が死んだ時、悲しかった?」

 僕は窓際にもたれて腕を組んだ。

「死ぬ前は、悲しかったよ」

 わずかに首を傾けた暁に、僕は小さく笑った。

「わからなかったんだ。病室で、鼻や腕に管を通されてじっと横たわる体を見て、このまま親父は死んじまうかもしれないって思ってる時は、確かに悲しかったし、涙も滲んだけど、本当に死んだら、悲しんでいいのか、ホッとしていいのか、わからなくなっちまった」

「……ホッとしたのか?」

「そういう部分を認めざるを得ないな」

 僕は、母親が死んだあと、心療内科に入院したことや、父親の再婚から弟が生まれて自分が家を出るまでの経緯を、簡単に話した。

「家を出た時、俺はこれでもう理不尽な理由で弟を憎んだりしなくてすむってホッとしたけど、親父が死んで、今度は本当に自分を縛るものから解放されるような気がしたんだ」

「父親に縛られてた?」

 暁の問いに、僕は首を振った。

「いろんなものだよ。家やあの土地や過去から……」

「どんな過去」

 僕は答えずに窓の外に目をやった。断続的な稲光が夜に明暗を与えていた。雨と風は激しさを増す一方で、ビルや民家の屋根の間に見える木の枝葉が、大きくかしいでいるのが微かに見てとれた。

 話があの日に近づいていくにつれて、僕の鼓動は早くなり、しめつけられるような息苦しさと圧迫を感じた。いつもこうだ。過去を思い出すというには、あまりに生々しい感覚の再現。僕は、暁の中で、今も僕を見ているだろう水月に、胸の内で話しかけた。俺もだよ、水月。過去を過去にしてしまえない。あの日のことは、はっきりと体が覚えてる。

「今日はずいぶん聞きたがりなんだな。らしくないね」

 暁は唇をぎゅっと噛みしめると、気難しい表情で目を伏せた。出会った日から比べると、いつのまにか感情の幅が広がっている。

「親父の死が、悲しくなかったわけじゃない」

 僕は言った。

「けどそれは、死そのものに対してって言うより、未来が閉じちまったからなんだ」

「未来が?」

「可能性とも言うな。死って言うのは、永遠にいなくなることだけど、それと同時に、『もしも』の可能性も奪っちまう。どんなに訊きたくても、今は訊けないことや、言いたかったことをもしも、いつか言えたら……。そんな未来をね」

 僕は小さく息をついた。

「親の死そのものを、ただ悲しんで涙を流せるように、できればなりたかったなって思うよ」

 暁は何も言わずに僕を見ていた。

「親に好かれてる自信のない子供は、本当に訊きたいことや、言いたいことが、いつも言えない。殴られる子が『やめてくれ』って叫べないみたいにな」

 閃光が走り、激しい雷が空間を裂いた。暁は大きく肩を揺らせた。

「暁」

 僕は言った。

「お前の母親は、失踪したあと警察に発見されてる」

 暁の目が驚愕に見開き、ぎらつく光を放った。僕は薫から聞いた内容を説明した。

「刑事が子供のことを話して聞かせると、声もなくただ泣いていたらしい」

「今は……今はどこにいるんだ」

「それはわからない。そのあとすぐ、また姿を消したんだ」

 暁は、いてもたってもいられないというふうに腰を浮かし、視線をさまよわせた。けれど、気が抜けたように、ふっとその場に座り直した。微かに震える、色をなくした唇に目をやりながら、僕は訊いた。

「暁、母親を殺したいか?」

 再び僕を見た暁の顔は、仮面をつけたように表情がなくなっていた。どれくらいの沈黙が、僕達の前に横たわっていただろう。おそらく時間にすれば、ほんの五分かそこらのものだったと思うけれど、僕にはずっと長く感じられた。

「夢を、見るんだ」

 二人の時間を動かす口火を切ったのは、暁の方だった。

「いつも、同じ夢を。俺は四歳か五歳ぐらいで、自分より、はるかにでかい男に殴られてる。男の顔は逆光で遮られてるみたいに黒い靄がかかってるけど、底なしの悪意に満ちてるのが、はっきりとわかる」

 自分を支えるようにテーブルのへりに両手をついて、暁は抑揚のない声で話し続けた。

「夢の中で俺は、サッカーボールみたいに蹴り飛ばされてる。丸まって転がって……本当に目の前に星が飛ぶんだ。ラメつきの黄色やピンクがチカチカって。あちこちから飛んでくる男の足の間から視線を這わせて、俺は母親を探す。けど、すぐ近くに座ってるはずの母親はなかなか見つかんなくて……やっと見つけても、向こうをむいてんだよ。助けて、助けて、お母さんって必死で叫ぼうとしても声が出ない。そのうち、やっと振り向いてこっちをじっと見た母親は、のっぺらぼうだった。俺の方を向いてるのに、俺を見てない。俺を見る目も、俺に話しかける口も、俺の悲鳴を聞く耳も、何にもない。そこにあるのは、病院の壁みたいな、真っ白な無関心だけ……」

 声の合間に、カチカチと歯が音を立てる。

「そうか。お母さんは、何にも感じないのか……。どうでもいいんだ。そう思ったら、俺の体も、だんだん感覚が薄れて、痛みを失くしていった。俺は人間じゃない。ボールなんだ。毎日毎日、蹴り飛ばされるためだけに作られたものなんだ。人間じゃない。生き物ですらないから、痛さなんか感じない。死ぬこともない。はじめっから生きていないから、殺されない……。男が俺をつかんで持ち上げる。体がふわって宙に浮く。俺をかかえた両手が、箪笥に向かって振り下ろされる。ボールだから、簡単に投げ飛ばされる……でも、大丈夫。ただの物だから、死んだりしない。もう大丈夫だ、誰も俺を殺せない……」

 一切の感情を凍りつかせて、暁の瞳は動かなかった。六歳で死んだ本物の暁が味わった恐怖と苦痛を、実際には見ていないはずなのに、目の前の暁は自分の原体験として取り込んで、何度も夢の中で再現してる。多重人格障害という精神疾患の病理性の根深さと、親に絶望を与えられた子供がかかえる闇の深淵に、改めて身震いがした。繰り返される、現実としての悪夢……。

「人間の尊厳ってやつを、根こそぎ剥ぎ取られた人間の中には、何が残る」

 眠りの外側から、誰かの声を聞くように、暁は僕の言葉に鈍く反応した。

「何にも」

 広げた自分の両手をじっと見つめながら、暁は言った。

「何にも残ってない。空っぽなんだ。憎しみだけが、俺を満たしてくれた」

「でも、暁……」

「わかってる、わかってる、わかってる!」

 激しく頭を振って、悲鳴に近い声を上げる。

「あの女を殺しても、死んだ人間は生き返りゃしない。けど……じゃあ、憎しみが消えたら、生き返るのか?」

「何をしたって、死者は死者のまんまだよ。憎むとか許すとか、それは残された人間の問題だ。お前が復讐を捨てたら、妹が救われないって思ってるんなら……」

「救い……?」

 暁は歪んだ笑顔で僕を見た。

「いろんなやつが、いろんな場面で、おんなじこと言ってるな。ああしろ、こうしろ。そうすれば……。そんなことは、誰だってうんざりするほど知ってんだよ。聞きたいのは、どうすればいい、じゃなくて、ってことだ」

 床に両手を着き、僕を見上げてくる目は、差し出される何もかもを否定するようにも、必死で何かにすがりつかずにはいられないようにも見えた。

「空っぽよりは、憎しみの方が救われる。けど……」

 沈黙と、弱々しい呼吸。例え全部ではないにせよ、暁がこんなふうに自分をさらけだすなんて、初めて真正面から向き合い、言葉を交わした気がした。

「高久」

 名前を呼ばれて、思いがけなく心が揺れた。

「教えてくれよ。救いって、何……?」

 暁はそれきり口を閉ざし、僕も何も言えなかった。

 その後、深夜になっても雨はやまなかったが、勢いは少しずつ衰えていった。僕は床に敷いた布団の中で、遠雷の音を聞いていた。ソファの暁は眠れないのか、何度目かの寝返りをうった。

 組んだ両手の上に頭をのせて、ぼんやりと目を開けていると、暗闇の中で暁が上半身を起こした。テーブルのライトスタンドつけようと体を伸ばした僕の横に、影が滑るようにもぐり込んできた。僕は金縛りにあったように固まったが、もしかすると水月が現れたのかもしれないと思った。そっと振り返ろうとした時、背中で声がした。

「夢を……見そうだ」

 暁だった。あまりにも予想外の出来事に、言葉が出てこなかった。暁はせまい布団の上で、体が触れないだけの空間を取りながら、じっとしていた。

 他人との接触をあれほど嫌い、自分の周りに有刺鉄線を張りめぐらせているような暁が、悪夢におびえて隣にやってきたその心中と、それでもなお、一定の距離を保たずにはいられない傷の深さが、僕にはただ悲しかった。

 何か言おうとして、その度に、何を言えばいいのかと口ごもった。

「暁、悪い夢を見ないおまじないを教えてやるよ」

 横を向いたまま、僕は話しかけた。

「おやすみなさい、またいつか。群がる天使の歌声に包まれて、永遠の安息に入られますように」

 少しして、声が返った。

「……何、それ」

「俺が、小学校二年の時、妹みたいに仲が良かった子が死んだんだ。……俺のせいで」

 背後で、暁の体が揺れた。

「狂ったみたいに泣きじゃくる俺に、お袋がこの言葉を教えてくれた」

 僕は、一か所だけアレンジされたホレイショーの台詞を、もう一度繰り返した。

 またいつか。

 ふいに、十二年前の記憶が断片的に押し寄せた。そして、薫に暁のことを相談した日、逃れられない過去の象徴のように僕の前に立ちはだかったそのひと言が、まったく別の意味を指し示しているみたいに感じられた。

「あの子はひとりぼっちじゃない。どんなに小さな命でも、神様はちゃんと見てくれてる。今は、神様のところに呼ばれて、悲しいことも苦しいこともひとつもない……お袋は、俺に何度もそう繰り返した」

 僕は少し考えてから、つけ足した。

「それから、こうも言った。俺がその子のことを思い続けてたら、いつかまたきっと会えるって……。その時は、意味がよくわからなかった。実際、あの時何を言われたかなんて、久しぶりに思い出したんだ。だけど」

 言葉につまった。暁はなんの反応も示さず、それがかえって責められているような気がして、僕は話したことを後悔した。こんな話で、一体何をフォローするつもりだったのか。一瞬、光が射すように、あの一節に今までとは違う響きを感じたことさえ、自分の罪悪感をまぎらわせるための錯覚のように思えた。見当違いな自分が悔しくて、言葉は途切れたまま宙に浮いた。

 暁が何を考えているか気になりながら、僕は眠れない時間をやり過ごしていた。やがて背中に規則正しい寝息を感じ、暁が静かな眠りに入っていけたことに胸をなでおろした。けれど、こちらには一向に眠気は訪れず、僕は暁がよく眠っているのを確かめてから、ライトスタンドをつけ、煙草を吸った。

 暁が動いて、腹這いになった僕の胸元に頭を擦りつけた。甘い刺激が走り、小さく背中を反らせた。うろたえている自分に、うろたえた。煙草をもみ消し、大きく息を吸い込んだ。これは水月じゃない、男なんだ、と自分に言い聞かす。

 僕の動揺をよそに、暁は目を覚まさない。理性と裏腹に熱くなる体をもてあまし、ソファに移ろうとしたけれど、闇の中で暁をひとりにするのはためらわれた。結局、そのまま僕は眠れず、情けなさを抱えながら夜明けを待って、そっと布団を抜け出した。


 前を通り過ぎる買い物客の視線を感じる度に、汗を拭いたくなった。彼らの反応は、たぶん理にかなっている。だけど、僕にだって言い分はあった。何も、好んで女性用下着売り場の前に立っているわけじゃない、と。

 そんな僕の心中はお構いなしに、水月が小走りで寄って来ると、片手に一枚づつ持っていた小さな布を、顔の前で広げて見せた。

「ね、どっちがいい?」

 隠すためか見せるためか目的がわからないデザインのパンツを、僕はため息まじりに見た。

「もう少し年相応のを選んだ方がいいんじゃない?」

「気にいらないの?」

 かみ合わない会話に、疲れがどっと押し寄せる。着替えが欲しいと遠慮がちに切り出され、一緒にデパートにやってきたのはいいが、下着のコーナーへ直行されるとは思わなかった。もっとも、これが一番の必需品といえば、その通りだったが。休憩所のベンチで待っているといった僕に、水月は「ブラって高いのよ。予算の上限も気になるし、あたしから目を離してる隙に暁が出てきちゃったらどうするの?」と反論した。

 とにかくこの場を去りたい一心で、僕は右手を振った。

「わかった。両方買えばいい。他にもいるものがあれば、買ってくれ。ただし、迅速に頼む。できれば、この金額内で済ませてくれればありがたいけどね」

 財布から一万円札を三枚取り出して水月に押しつけた。

「こんなにいらないって」

 水月は二枚だけ受け取った。

「女の子の下着ぐらい何回も見たことあるくせに。あたしは子供じゃないって言ったでしょ。ちゃんと、年相応のを選んでる」

 あかんべぇをして、売り場に戻って行った。

 子供扱いしないと、まずいんだよ。

 怒ったような背中に向かって、口の内で呟いた。昨夜の、暁に対する自分でも予想だにしなかった反応が尾を引いて、暁はもとより、水月と顔を合わせるのも気まずいというのが本音だった。

「……欲求不満かな」

 思わず声に出してしまい、慌てて周囲を見回した。近くに人がいなくて、胸を撫でおろす。僕は腕時計を覗いた。四時になろうとしているところだった。平日のこの時間は、買い物客の姿もそう多くない。そういえば、昔、お袋とさよちゃんとデパートに来たことがあったっけ。記憶をたぐり寄せようとした僕の前方から、水月が紙袋を下げて近づいてきた。

「お待たせ。パンツとブラを二枚づつ買わせて頂きました。はい、お釣りとレシート」

 何枚かの札と小銭、そしてレシートを僕に手渡し、水月は紙袋を持ち上げて笑った。

「帰ったら見せてあげるね」

「それはどうも」

 彼女の手から紙袋を取って、エスカレーターの向こうにある女性服のコーナーへ目をやった。

「あっちも見てみる?」

 水月はかぶりを振った。

「いい、もったいないから」

「そうだな。確かにここにある服を、どんどん買えとは言えないけど、デパート以外なら、そんなに高くはつかないだろ?」

 後ろの壁に表示された各ブランドの文字を見ながらそう言うと、水月は顔を伏せて小さな声を出した。

「そういう意味じゃなくて……いつ消えるかもわかんないのに、服なんか買ってどうするの」

 困惑した僕に、水月が寂しい笑みを返した。

「もう買い物は終わり。早く帰ろ」

 車に乗り込み、助手席のシートベルトを締めながら、水月が言った。

「下着も、結局は無駄になっちゃうって思ったけど、あたしが消えたって、本物の彼女が使ってくれればいいのよね」

 僕は返事をせずに、車を発進させた。僕の無言をどう受け取ったのか、水月は前を向いたまま、明るい声を出した。

「高久の彼女は、どんな下着をつけてるの? セクシーなの? それとも清楚な感じかな」

「……本物、なんて、まるで自分がニセ者みたいな言い方するなよ」

 交差点を右折するためにウィンカーを出して僕は言った。

「ね、どんな下着? 参考までに教えてよ」

 水月が上体をこっちに向けて訊いた。

「ブラもパンツもじっくり見たことない。脱がせることだけに集中してるから」

 はっきりと水月を挑発する言葉だった。どういうつもりでそんなことを言ったのか、自分でもわからない。ただ、無性に歯がゆい思いが、僕を苛立たせていた。

「ごめんなさい」

 弱々しい声がした。横を向くと、水月が僕を見つめていた。

「怒らないで」

 そう言った水月に、思わず「嫌ったりなんてしない」と、答えそうになった。彼女の表情に、はっきりと「嫌わないで」という嘆願が溢れていたからだ。

「怒ってないよ。俺の方こそ、悪かった」

 僕は前方に目を戻し、広い交差点を右に折れた。対向車線で、派手な服を着た中年女性が、若葉マークのベンツのハンドルを握っていた。もしここが高速道路だったら、さぞかし後続のドライバーにストレスを与えているだろう。

「あたしみたいなの、アバズレっていうのかな」

 信号が赤に変わり、僕はブレーキを踏んで水月を見た。水月は右肩を小さくすくめて笑った。

「抱くのはいいけど、恋人とかありえない。口に出さなくたって、男の子達の顔に、ちゃんと書いてたわ」

 そう言って、彼女は笑みを消した。

「あとは、同情と憐れみ……大体このパターンね。高久だけが、そのどれでもない目で、あたしを見る」

 僕はひどく落ちつかない気分になった。昨夜、暁と話した時に感じた思いに似ていたが微妙に違うものがあった。

「最初に会った時、あたし、訊いたでしょ。高久も、複雑な何かがあるのかって」

「ああ」

「高久、そうだって言ったよね」

 今度も、水月はそれ以上訊いてこようとはしなかった。静かに注がれる深い眼差しに胸がざわめき、沈黙の中に横たわるものを、引き寄せて確かめてみたくなる。それでも、それが正しいことなのか判断できない臆病さが、歯止めをかけていた。僕は怖かった。

 車が動き出しても、僕達は無言のままだった。息苦しさに窓を半分ほど降ろすと、夕方にさしかかった繁華街の空気と通りを行き交う人々のざわめきが、場違いな賑やかさとして車内に滑り込んできた。

 次の信号に引っかかった時、水月が、あ、と声を出した。

「見て」

 促されて、彼女の視線の先を見ると、目の前の横断歩道を、和服姿の女性がゆっくりと横切って行くところだった。水色の地の裾に、淡い色調の小花をあしらった着物で、柑子色というのだろうか、抑えたオレンジと茶色が重なり合った色の帯を締めている。まだ若く見えたが、しっとりとした気品が漂っていて、街に量産されている流行のファッションに身を包んだきれいな女の子達とは一線を画した、非日常な美しさがあった。

「綺麗なひと」

 水月が、ため息をついた。

「育ちがちがうって、ああいう人のことかな」

「和服のせいだよ。案外、元レディースとかだったりして」

 水月は、おかしそうに笑った。そして窓のところに肘をかけて頬杖をついた。

「それなら、あたしも着物着てみたいな。ぜんぜん別の自分になれるかも。暁でも暁の妹でもない、あたしとして、別の自分に」

 和服の女性は交差点の雑踏に消え、青信号が点灯した。そのまましばらくの間、僕は運転に集中し、アパートの近くまで来た辺りで隣に目をやった。眠っているのかと思った水月は、窓ガラスに額をくっつけるようにして、ぼんやりと外を見つめていた。

 その夜、ひとりになった時を見計らって、僕は実家の義母に電話をかけた。

 さすがに敷居が高かったが、翌日、実家を訪れた僕を、義母は穏やかな態度で向かえてくれた。

「あなたのお母さんの浴衣は、やっぱりこれ一枚しか残ってなかったわ。着物は全部、親類の人達へ形見分けしたみたいだし……」

「浴衣で充分です。手間かけさせてすいませんでした」

 僕は義母から、白い和紙に包まれた浴衣を受け取った。リビングの床に置いてある紙袋を取って義母が言った。

「こっちは下駄と小物入れ。持てる?」

「大丈夫。上に乗せて下さい」

「車まで持っていくわ」

 それから義母はいくぶん申し訳なさそうに、

「お茶でも飲んでいってもらいたいんだけど、これからちょっとお客さんが来るのよ」

 と言った。

「気にしないで下さい。俺も急いでるから」

 僕にとっても、そのほうがありがたかった。あるいは義母はそれを承知の上で、わざとそう言ったのかもしれない。昔から僕達はそうやって、お互いに気をつかい合ってきていた。玄関の前で僕は振り返り、義母を制した。

「ここでいいです。車はすぐそこに停めてるから」

 義母は、僕の両手の包みと自分が下げた紙袋とを交互に見やってから、そう、と呟き、そっと上に乗せてくれた。

「悠介は、まだ幼稚園ですか?」

 義母は靴箱の上の時計に目をやって言った。

「二時までだから、もうそろそろね。送迎のバスが、すぐそこまで来てくれるのよ」

「元気にしてますか」

「相変わらずやんちゃで大変よ」

 義母は笑った。

 悠介のこと以外、とりたてて話題も浮かばず、僕が礼を言って辞そうとした時、義母が言った。

「あなたはお母さんにそっくりね」

 僕は驚いて義母の顔を見つめ返した。

「もちろん写真でしか知らないけど、静かな眼差しが印象的な人だった。あなたは、どんどんお母さんに似てくる」

 落ちてきた沈黙の中で、僕は何度かためらった。それでも、義母の口調に少しも皮肉めいたものがなかったことが、僕の口を開かせた。

「お義母さんの声は、死んだ母にそっくりなんです」

 義母は驚いたように目をみはった。そして、柔らかく微笑んだ。

「それ、恋人のために?」

 僕の両手の包みを、義母が指差した。無難な返事を返そうとしたけれど、なぜか僕は、「いいえ」と答えてしまった。


 時計が十一時を指したと同時に、読んでいた小説を閉じて、ソファの暁を覗き込んだ。十時には寝息を立てていたから、もう熟睡に入っているはずだった。僕はかがみ込んで顔を近づけ、声をひそめた。

「水月……」

 反応はなかった。

「水月」

 眉間に小さな皺が寄り、睫毛が細かく震えるが、その下の瞼は開かない。考えてみれば、僕のほうから彼女を呼び出すのは初めてだった。果たして、ちゃんと水月が出てきてくれるのか不安になりながら、僕はゆっくりと肩を揺さぶり、もう一度名前を呼んだ。

 途端、彼女は目を覚ました。眠りと覚醒の中間をスッパリと切り落としたような、澄んだ瞳の色だった。

「暁?」

 念のため、そう訊いてみた。

「あたしを呼んでくれたんじゃなかったの?」

 不服そうに唇を尖らせた顔に、僕はほっと息をついた。

「ああ、水月を呼んだんだ。起こしてごめん」

 水月は布団をめくって上半身を起こすと、僕の顔を探るように見つめた。

「高久に呼ばれるなんて嬉しいけど……どうしたの?」

 僕は立ち上がるとクロゼットの扉を開け、中から細長い和紙の包みを出して、水月の膝の上に置いた。

「これって……」

 水月は言葉につまって僕を見上げた。

「ちょっと季節はずれだけどね。ちゃんとした着物は用意できなかったんだ。ごめん」

 水月は丁寧な手つきで包みを解いた。中から、黒地に白と薄紅の桜を散らしたシンプルな浴衣が現れ、水月はそれを両手で広げた。

「きれい……」

 うっとりと布地に頬を寄せて呟いた。

「どうしたの?これ」

「お袋のだよ。着物は全部形見分けしちまって、これ一枚だけが残ってた。親父が取っといたのかな……」

 当時のあやふやな記憶を思い返そうとしても、やっぱり靄がかかったようにはっきりしなかった。暁の妹ほどではないにせよ、あの頃の僕もまた、苦しい思い出を自分の内に閉じ込めて、自己防衛を図っていたんだろう。

「こっちが帯と小物」

 抑えの効いた赤一色の帯と、同じ色調で揃えられた小さな巾着を見せた。全体的にシックなデザインだったが、水月が着たとしても、そう違和感はなさそうだった。母が十代の頃に着ていた浴衣かもしれない。

「着てみないか?」

 僕がそう言うと、熱心に見入っていた水月が残念そうな顔をした。

「もちろんそうしたいけど……着方がわからない」

 僕は手元のリュックから一冊の薄い本を取り出し、水月の前にかざした。「簡単 着付入門」とタイトルが印字されている。実家の帰りに本屋に寄って買ってきたやつだ。

「これを読んで、やってみろって?」

 僕は頷いた。

「着物はとても無理だけど、浴衣ならなんとかなると思うよ」

 水月は本をパラパラとめくって、真剣に眺めていたが、浴衣の着付けが図解されているページを開いて僕に向けると、自信なさげな声を出した。

「難しそう」

「手伝うよ」

 と僕は言った。

「俺がついてる」

 僕の言葉に、水月は口元を押さえて笑った。

「殺し文句みたい。できれば、もっと別のシチュエーションで聞かせてほしい」

 僕は少しうろたえ、デパートの紙袋を水月に渡した。

「なかに肌着が入ってる。とりあえず、本を見ながら、自分でできるとこまでやってくれ」

 そして居間から出ると戸を閉めた。煙草に火をつけ、流し台の下の扉にもたれて座った。脱がせたことはあっても、女の子に着物や浴衣を着せてやったことがあるなんて男は、そう多くはないだろう。何事も経験ってやつだろうか。僕は苦笑して、居間の方を窺った。本とにらめっこしながら悪戦苦闘しているはずの水月の姿が目に浮かんだ。

 短くなった煙草を灰皿に捨ててから、僕は居間の戸を軽くノックした。

「どう?」

 中から声が返った。

「ん……もうちょっと待って」

 僕は冷蔵庫から缶ビールを出し、少しずつ飲んだ。居間で寝ているはずのラムネが、小さな鳴き声をたてた。寝ぼけているのかもしれない。ビールを飲み終えた時、まるで待っていたかのように、戸の向こうで「高久」と水月が呼んだ。

 居間に入ると、あとは帯を結ぶだけというところまで形を整えた水月が、照れくさそうに立っていた。

「すごいな。ちゃんと浴衣になってるよ」

 僕は感心して言った。

「ここまでできるとは思わなかった。器用なんだな」

「でも、鏡がないから、後ろが気になって……。背縫いがちゃんと中心にきてるかな」

 水月が肩越しに自分の背中を覗き込んだ。僕は本を見ながら水月の背後に回り、布地のたるみを直して背縫いを下に引いた。よく見れば、ところどころにぎこちなさの残る着付けだったけれど、初心者にしては上出来だった。衿の重ね具合や裾の長さを確認して、僕は帯を手に取った。

「さぁ、仕上げにかかろうか」

 基本の文庫結びのページを開いて、水月に言った。

「両手を広げといてくれ」

 身長差があるので、僕は床に膝をつく格好になった。間に前板を入れて帯を回した僕は、水月の腰の細さに改めて驚いた。きつく締めるのがはばかられるほど、頼りなげな線だった。

「きつくないか?」

 僕が訊くと、水月は短く息をついた。

「大丈夫。きついくらいがいいんでしょ」

 帯の上端に結び目を作り、テ先を水月の左肩にかけた。顔が近づき、水月の髪の香りが鼻先をかすめた。僕と同じシャンプーの匂いだった。

「高久」

 水月が言った。

 帯を手にしてかがみ込んだ姿勢のまま顔を上げると、びっくりするほど近くで目が合った。僕を見下ろした水月は視線を動かさずに唇を動かした。

「ドキドキする」

 先に目をそらしたのは僕だった。

「何言ってんだ」

 かわしながら、僕は自分の心臓の鼓動が水月に聞こえてしまわないかと不安になった。これじゃ、どっちが十五歳かわからない。

「ドキドキしてるのは、やっぱりあたしだけ?」

 水月の言葉を、僕は無視した。黙って帯に集中する僕に、水月も口を閉ざした。羽根の部分を少し大きめに取り、スノコだたみにした。山ヒダを作るところが難しく、何度もやり直す。手と額にうっすらと汗が滲んだ。

「悪いな、手間どって。もうちょっと我慢してくれ」

「平気」

 水月が答えた。いつもの口調に戻っている。

 ようやくきれいなヒダができ、僕はシャツで両手を拭った。結び目の位置が低くならないように注意しながら、残りのテ先を帯の中にしまい、羽根を整えた。帯が完成すると、最後に全体の皺を直して、僕は水月の両肩をぽんと叩いた。

「よし、出来上がり」

 袂を広げて前後から帯をよく見ようと、視線をせわしげに動かす水月の手を取って、僕は洗面所に向かった。鏡の前に立った水月は頬を紅潮させ、見知らぬ自分の姿にじっと見入った。

「よく似合ってるよ」

 実際、抜けるように白い水月の肌に、黒地の浴衣と赤い帯はきれいに映えた。

「自分じゃないみたい」

 はにかむように呟く水月に鏡ごしに笑みを返し、僕はこの華奢な体の中に少年が存在するという事実に、不思議を通り越したある種の感慨を抱いた。

「ずっと着ていたいな」

 鏡から視線を外さずに水月が言った。僕は腕時計を見た。十二時五分。

「ちょっと河川敷でも散歩しようか」

「今から?」

 驚いて水月が訊き返す。

「この時間なら人通りもほとんど無いだろうし、季節はずれの浴衣も目立たないだろ」

 決まったとばかりに、僕は居間へ行き、車のキーを手に取った。そこで、あ、と思った。洗面所に戻り、まだ鏡の前にいる水月に言った。

「俺、さっきビール飲んだトコだった」

 わずかに残念そうな顔をした水月に、僕はとりなすように続けた。

「まぁ、大丈夫かな。あの辺は検問もやってないだろ」

「自転車は?」

「え?」

「自転車はないの?」

「あるけど……ずっと乗ってないから、サビついてんじゃないかな」

「自転車で行こう。二人乗りができないなんて言わないよね?」

 水月は楽しそうに手を叩いた。

「チャリンコねぇ。俺はいいけど、その恰好じゃ寒いぞ」

「大丈夫。今日は暖かいもん」

 腕を引っぱられ、しかたなく頷いた。巾着の小物入れと下駄を水月に渡し、僕は机の引き出しから自転車の鍵を捜し出した。

 駐車場の空いているスペースに何台かの自転車が無造作に停めてあり、僕のもその中にあった。家主の大らかな人柄のせいか、今のところ文句を言われたことはない。雨ざらしの環境に置かれているため、自転車はかなり汚れていた。僕は持ってきた雑巾で手早くサドルと荷台の埃を拭ってから、自分のブルゾンを水月に着せた。

 鍵を差し込んでサドルにまたがり、水月を促した。

「汚い席で恐縮ですが」

「どういたしまして」

 水月は笑って、浴衣の前を押さえながら、そっと荷台に横座りした。

 最初は車輪が軋んで力がいったけれど、すぐにスムーズに走り出した。夜風がまっすぐに前髪を額に押しつけ、僕の腹に回された水月の腕の先で浴衣の袂がはためいた。夜中になってもそう気温は下がっていないようで、空は、思わず「銀河鉄道999」のテーマを口ずさみたくなるほど、珍しいくらいに星々がクリアだった。

「悪くないな」

「何か言った?」

 後ろで水月が訊いてきた。

「自転車もたまにはいいな」

 前を向いたまま声を大きくして言うと、水月は回した腕に力を込めて僕の背中にもたれかかった。

 途中、コンビニエンスストアの前で自転車を止めた。浴衣姿の水月が一緒に入るのをためらったので、僕は急いで飲み物を買って戻った。

 十日ほど前に暁と行った河川敷が、夜の向こうに広がっていた。緩やかな坂の手前で、水月が「降りようか?」と気をつかう。

「まぁ、見てなって」

 そう返すと、僕は下半身に力を込めてペダルを踏み降ろした。立ちこぎでジグザグに進み、一気に駆け上る。軽いな、と呟いた。暁を抱き上げた時にも同じことを思ったっけ。水月も、やっぱり軽い。そう考えて、僕は苦笑した。あたりまえじゃないか。同じ体なんだから。今度は、胸がつまった。

 土手に着くと、水月は自転車を降りて小さく拍手した。

「体力あるじゃない」

「まだまだ十代には負けないね」

 水月は目の前の石段をゆっくり降り出した。慣れない下駄のせいだろう。足元があぶなっかしい。

「気をつけて」

 僕も自転車を引いて隣の土手を降りた。人影のない広い河原に自転車を止め、河の流れに目をやると、黒い帯に対岸の街灯が明るく反射して、まるで肉眼ではとらえられない天の川がそのまま映し出されているようだった。

 水月がブルゾンを脱いで、コンビニの袋と一緒に自転車の荷台に置いた。

「寒くないか?」

「うん」

 煙草を取り出そうとパーカーのポケットに手を入れると、小さい包みに触れた。さっき、コンビニで見つけて買ったやつだ。

「水月」

 河岸を見つめていた水月が振り返る。

「これ、やるよ」

 僕は小さな口紅を水月に差し出した。

「せっかくイメチェンしたんだから」

 水月は僕の顔をじっと見つめて、なんだか泣き笑いのような表情を浮かべた。そっと口紅を受け取る指が、少し震えている。

「ありがと」

「安物だよ」

 口紅を塗ろうとした水月は、手を止め、首を傾けた。

「鏡がない」

 僕は水月の手から口紅を取ると、空いている手で小さな顎を軽く押さえた。

「じっとして。少し口を開けて」

 水月は言われたとおりにして、自然に目を閉じた。まるでキスを待っているように見える。激しい言葉をたたきつける暁。「さわらないで」と僕を拒んだ主人格の彼女。その唇の柔らかさを、僕は知っている。

 わずかに届く街灯の光の下で、僕は丁寧に水月の唇に紅をひいた。浴衣の帯と同系色の落ちついた赤が、夜の中に艶やかな華を落とした。

「これでいい」

 僕は水月から身を引いて、その手に口紅を握らせた。掌の中の小さなスティックに目を落としていた水月は、顔を上げて僕を見つめた。

「キス、してくれるかと思った」

 黙ったまま煙草を取り出した僕に返事を促すように、水月が斜め下から覗き込む。その視線を避けて僕は言った。

「口紅が取れるだろ」

 煙草を加えてライターで火をつけようとすると、水月が横から吹き消した。もう一度つけると、また同じことをする。僕はちらりと水月に視線を投げて、左手をかざしながらライターをつけた。それでも水月は素早く僕の手をつかむと、大きく息を吹きかけた。

「よせって」

 軽くにらみつけて、僕は背中を向けた。今度は、なかなかつかなくなった。何度か振ってみたけれど、小さい火花が散るだけで、炎がおこらない。夜目にかざしてみると、百円ライターの燃料はもう底をついていた。

「つかなくなった?」

 水月が訊いた。

 僕はうなずいて煙草とライターをポケットに戻した。

「ごめんなさい……」

 僕の顔色を窺うように、小さな声で言った。すまなさそうに肩を落としている水月に、僕は苦笑した。

「いいよ」

 自転車の荷台からコンビニの袋を取って、ペットボトルのお茶を差し出し「飲むか?」と訊くと、水月は首を振った。

 くるぶしまでの高さの草をゆっくりと踏み分けて、水月は河岸の方へ歩き出した。黒地の浴衣に包まれた背中が夜と調和していくのを見つめながら、僕はペットボトルに口をつけた。そして、死んだ母のことを思い出した。そうだ。あの浴衣は、母がさよちゃんにやると約束していたものだった。

 実家の縁側で広げられた母の昔の浴衣を、さよちゃんはうらやましそうにいつまでも眺めていた。確か七五三にも縁がなかったさよちゃんに、母は「大きくなったら、さよちゃんに着せてあげる」と言って指切りしていた。望みが叶えられないままさよちゃんは死んでしまい、その浴衣を今、水月が着ている。

 一瞬、湧き上がった感情に身震いする。それは、憎悪にひどく似ていた。さよちゃんを思い出させる水月が憎いのか、過去に僕を縛り続けるさよちゃんが憎いのか。

 その時、目の前を微かな光が横切った。一匹の蛍が宙を舞っていた。十月に蛍? 僕は目をこらして弱々しい動きを追った。季節はずれの浴衣に誘われたのか、ひとりぼっちの蛍は生命の残り火を灯すように腹端を発光させながら、僕の胸の辺りで止まった。僕はその小さな光を両手でそっと包み込むと、静かに水月の方へ近づいて行った。

「水月、蛍がいた」

「蛍?」

 柔らかい風が吹き、頬にかかる髪を払いながら、水月は閉じた僕の両手に目を落とした。

「蛍は夏でしょ?」

「ほら」

 僕は水月の顔の高さで、両手をそっと開いた。けれど、蛍はいなかった。確かにこの手の中につかまえたはずなのに、幻のように消えていた。跡形もなく。

 思わず、水月の手首をつかんだ。

「痛い」

 水月の細い抗議の声に、僕は手を離した。

「ごめん」

「……どうしたの?」

「何でもない」

 心配そうな水月に笑みを返そうとしたけれど、唇がうまく動かず、僕は顔をそらした。

「帰ろうか」

 そう言って僕は水月の手を取った。肌の内側に夜露を含んでいるみたいに、ひんやりと冷たい掌だった。

 アパートに戻ると、水月は名残惜しそうに浴衣をしまった。

「今日はありがとう」

 それだけ言うと、口数の少ない僕を気づかってか、水月はすぐソファに横になった。 一時間ほど経った頃、僕は布団から出て、音を立てないように玄関の扉を開けた。

 公園に入り、あの夜、さよちゃんが立っていた場所にあるブランコに座った。街灯の光りに伸ばされた僕の影が、ブランコの小さな揺れに合わせて前後にふらつく。

「また、いつか」

 見えないさよちゃんの魂に向かって、声に出して言ってみた。

「またいつかって、いつだよ」

 今度は、誰かに訊いてみる。

「今か……?」

 けれど、今、僕のソファで眠っているのは、さよちゃんじゃない。いつ会えるかわからないさよちゃんに重なる少女。いつ消えてしまうかわからない、水に映った月。掌の中の蛍のように、見えたと思った微かな光が、また暗闇の中に飲まれてしまう予感に、僕は怯えた。

 近づいて来た足音に、僕は顔を上げた。

「水月……?」

 水月は黙って僕の前に立った。

「過去が追いかけてくるんだ」

 じっと見つめる水月の目を見上げて、僕は言った。

「俺は、裁かれたい。そして許されたい」

 水月の両腕がおそるおそる伸ばされて、僕の頭を抱き寄せた。彼女の心臓の鼓動が耳元で響き、僕は目を閉じてもたれかかった。

「抱いてくれ。もっと、強く……」

 水月はしっかりと僕を包んでくれながら、優しくあやすように髪をなでた。その手が細かく震えている。ふいに違和感を覚え、体を離した。

「水月じゃない」

 目の前の少女は、何も言わなかった。夜を映した黒い瞳が、何かを語るように揺らめいた。それを読み取ろうとして、僕は立ち上がった。夜明けの光がまだ届かない静寂の中で、彼女の姿は今にも夜に溶けてゆきそうなほど透明だった。

「名前……きみの名前は?」

 彼女はゆっくりと両目を閉じてから、僕をまっすぐに見据えて言った。

「あたしは、水月よ」

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