今、僕の中に大切なきみの全て

滝川 七央

第1話 過去に生きる亡霊

 その夜、僕は二人の幽霊に出会った。

 ひとりは、僕のアパートのベランダに面した、小さな公園の中に立っていた。

 ちょうど日付けが変わった時刻、アルバイト先の居酒屋で残業を終えた僕は、いつものように公園を通り抜けようとしていたところだった。十月初めの湿り気を含んだ冷たい空気が体を包み、空ではおよそ九割五分の月が、薄い雲の間でオレンジ色に滲む光を放っていた。

 幼い女の子の幽霊は、四つ並んだブランコの端にいて、彼女の隣のそのひとつが、風のない景色の中で微かに揺れたような気がした。

 彼女と約二メートルの距離を挟んで向かい合いながら、まったくと言っていいほど恐怖を覚えなかったのは、よく知っている相手だということもあるが、頭の片隅で、おそらくこれは僕自身の心が映し出した幻影だと感じていたからかもしれない。僕が自分を信じられなくなった十二年前のあの日から、色あせることなく何度も脳裏をよぎった光景と同じように━━。

 風に舞う橙色の小花。鼻をつくアルコールの匂いと、投げ出された白い足。

 金木犀が香るこの季節には、それらの一つひとつが木々の見えない粒子に乗って、いっそう強く瞼の裏側に押し寄せる。

 目の前の幼い女の子は、あの日のサンダル履きのまま、悲しげな瞳で僕をじっと見つめていた。その表情には恨みや憎しみの色はほんの少しも浮かんでいず、そのことがかえって僕を切り刻んだ。

 何か言ってくれ。僕を責めて裁く言葉を。

 血流が砂時計のように足元に流れ落ちていく感覚に襲われながら、彼女に哀願しようとしたけれど、わずかに開いた唇から吐き出されたのは細い吐息だけで、それはすぐに夜気に溶けて消えていった。女の子は動かず、何かを訴えかけるように、ただ僕を見つめ続けている。

 スニーカーの中に体中の血が集められたみたいに両足が重い。僕はつま先に力を込めて、右足を前に踏み出した。

「さよちゃん……」

 ようやく、声が出た。

 瞬間、彼女は消えた。瞬きひとつもしない間だった。まるで、許しを乞うことを許さないように。

 公園には僕と、誘蛾灯の周りを飛び狂う羽虫達だけが残された。表通りを走り去る車の音が、鼓膜をすり抜けていく。

 十二年振りに会ったさよちゃんは、夢の中に現れる姿と同じだった。当たり前だ。死者は年を取らない。僕が重ねてきた時間を、彼女は永久に失ったままなのだ。僕は二十歳の誕生日を迎え、三年だった年の差は十五になり、これからも開き続ける。

 さよちゃんが立っていた場所に視線を据えながら、僕は腑に落ちない思いを抱えていた。

あれが幽霊にせよ幻影にせよ、なぜ今夜、さよちゃんは夢の中ではなくここに来たんだろう。

 何かを伝えたかったんだろうか。それとも、求めにきたのか。

 救いを?

 後者だとしたら、彼女はまだあの苦痛の中にいるのか。どこまでも孤独に覆われた真っ暗な世界に。

 どのくらい同じ姿勢でそこにいたのか、金縛りにあったような僕の体と思考は、車道から響いてきたトラックのクラクションに解かれた。夜風が首筋を掠め、僕はブルゾンの襟をかき合わせて歩き出した。

「……おやすみなさい、またいつか。群がる天使の歌声に包まれて、永遠の安息に入られますように」

 無意識に口をついて出た言葉に、足が止まった。懐かしさよりも、ささくれの一部が指の皮に残っているような、鈍い痛みがあった。

 何かの物語からの引用だったか。昔、泣きじゃくる僕の頭を撫でながら、今はいない母が、おまじない代わりに教えてくれたその言葉は、あの頃の僕にとって鎮魂のための祈りであり、嘆願であり、懺悔と同時に免罪符だった。いつからか、天使や天国なんていうものが、信仰と芸術の中にしか存在しないということに気づいてからは、記憶の中にしまい込まれていたはずの言葉が、今夜、ふいに意識の表面に滑り出した。それがさっきのさよちゃんの姿とリンクして、何かの予兆のように感じられ、僕は胸騒ぎに似たものを覚えた。

 予兆は現実となり、その後、僕はもうひとりの幽霊と遭遇することになる。それはさよちゃんとは違い、生身の体を持ってはいたが、死者よりもなお、過去に生きる亡霊だった。

それが、僕のその後にどれほど大きく関わってくるのかなんて、もちろんこの夜の僕には知る由もなかったが。

 まとわりつく不安を後押しするように、頭上で雲が厚みを増し、月を覆い隠していた。ひと雨くるかもしれない。僕は足早に公園を抜けると、アパートの前に出た。ここへは先週末に引っ越したばかりだった。木造二階建ての1DKだが、トイレと風呂は別々だし、狭いながらもベランダもある。駅までは徒歩で約十分。大学へは乗換えを入れて一時間もかからない。築年数の割に外観もきれいで、それまで住んでいたアパートが安全性の問題とやらで急に取り壊しとなり、慌てて探した物件にしては掘り出し物だった。

 僕の部屋は一階の一番奥で、右隣は空き部屋になっていた。隣人がいないのは気楽な反面、不用心な環境とも言える。扉の前に、表札が裏返しになって落ちていた。蒲鉾板にマジックぺんで「魚住うおずみ」と書かれたそれは今朝取り付けていったばかりだが、木工用ボンドじゃ接着力が足りなかったらしい。

(ちゃんと下の名前まで書いたほうがいいわよ。女の一人暮らしとか思われないように。高久たかひさ、ちょっと抜けてるトコあるし)

 可奈子かなこに言われたことを思い出しながら、拾った板切れを眺めた。こんな時代だ。確かに、もう少し防犯意識を高めたほうがいいかもしれない。

 玄関に鍵を差し込み、ドアを開けた。スニーカーを脱ぎながら廊下の電気をつける。

顔を上げた瞬間、息を呑んだ。奥の六畳間に人がいる。左手に懐中電灯、右手には出刃包丁が握られていた。包丁の刃に目が吸い寄せられて、心臓が直接左右にぶれる感じがした。

「誰だ!」

 僕が叫ぶと同時に、侵入者はこっちに向かって飛び出してきた。

 何が起こったのか分からなかった。疾風が脇を掠めたと思った一瞬、パニック状態の頭の中で、強盗殺人の被害者として明日の朝刊に掲載されている自分の顔写真を思い描いた。

 我に返って振り向くと、侵入者は必死で玄関のドアチェーンを外そうとしていた。向こうも相当動揺しているようだった。とっさに飛びかかり、相手の右腕をつかんだ。低い呻きが相手の喉から漏れる。なんとか包丁を奪おうとして、激しく抵抗された。切っ先が左頬を掠めたが、痛みを感じる余裕はなかった。無我夢中で自分もろとも相手を床に突き倒した。短い悲鳴と共に、包丁が床に転がる。相手の左肘の内側から鮮血が流れ、白いシャツを赤く染めた。

 もがいて身をよじる上に馬乗りになって両腕を抑え込む。息が上がって酸欠になりそうだ。自由を奪われた侵入者は、何とか起き上がろうと首をもたげて左右に振り乱していたけれど、やがて観念したようにがくりと頭を床に落とした。

 その顔を覗き込んで、驚いた。どうみても中学生くらいの少年だったからだ。彼は、思わず後ずさりしてしまいそうなほど激しい憎悪をたたえた目で僕を睨みつけると、突然、ぎりぎりに張りつめた弦が音を立てて切れたように、動かなくなった。


 さっさと警察に電話して連れてってもらえ。

 さっきから何度も自分の声が頭の中に響く。百パーセント、それが正解だ。それなのに、なぜこんなことをしているんだろう。

 床に向かい合って座り、侵入者の左腕に包帯を巻いてやりながら、僕はまだ半分混乱したままの頭を抱えたくなった。目の前の相手は、まるで魂を抜かれたように放心した状態で、僕に左腕を預けていた。

 とは言うものの、素直に手当に応じたわけじゃない。目を開けたまま気を失っているんじゃないかと疑うほど、身動きひとつしなくなった少年の腕の出血を何とかしようと、僕は腕を伸ばした。途端、力任せに振り払われ、いいかげん気が立っていた僕は声を荒げた。

「今すぐ一一〇番されたくなけりゃ、腕を出せ。これ以上、床を汚されるのはまっぴらなんだよ」

少年はのろのろと上半身を起こし、地を這うような声で呟いた。

「人違いだった……」

 それから、刑場に引きずられる罪人みたいな表情で、左腕を出したのだ。

 もみ合った際に包丁が刺さった肘の内側は、出血のわりにそう深い傷ではないようだった。それでもぱっくりと開いた傷口は痛々しくて、僕は眉根を寄せながら簡単な応急処置をした。消毒薬が相当沁みるはずなのに、顔をしかめることもせず、ただ空を見つめている。僕はその隙にそっと相手を観察した。

 十四、五歳だろうか。取っ組み合いの時は動転していたせいか、自分と同じような体格に思えたけれど、実際は僕よりもだいぶ小柄だった。シャツの中の腕は白く細い。その白さに、あの日の投げ出された華奢な足が重なり、軽いめまいが僕を襲った。

 脳裏に焼き付いた光景を振り払い、少年の顔に視線を移す。不揃いな髪。整った輪郭。切れ長の大きな目と対照的などこか頼りなげな口元が、少年に中性的な印象を与えていた。この姿でよく、あれほどの抵抗ができたものだ。

 その場しのぎの手当を終えると、僕は救急箱の蓋の裏に取り付けられた鏡で左頬の傷を見た。幸いかすり傷で血ももう乾いていた。少し目立つが、絆創膏を貼るほどでもないだろう。箱の蓋を閉め、僕は短く息をついた。

「それで」

 僕の声に、少年の肩が小さく揺れる。

「俺はまだ、状況をほとんど把握できてないんだ。きみはさっき、人違いだって言ったけど、それだけじゃ何が何だか分からない。ちゃんと理解できるように、始めから説明してくれないか」

 返事はない。僕はローテーブルの上の灰皿を引き寄せて煙草に火をつけた。

「不法侵入の上にだんまりか」

 引っかき回された本棚とクロゼット、割れた窓ガラスに目をやりながら、腹立たしさに口調が険を含む。煙草がフィルターまであと二センチといった辺りで、少年は声を出した。

「前に……ここに住んでた人間を探してる」

 少し高めのハスキーな声。喉の奥に血がからまっているように苦しげな響きを持っている。

「前の住人?」

 煙草を消しながら聞き返した僕を、切れ長の目が弾くような鋭さで捉えた。

「知ってるの?」

「いや、男か女かも知らない。俺は、先週末に越してきたばっかなんだ」

 少年は目に失望の色を浮かべてうつむいた。

 探している人物がこの部屋にいると思い窓から侵入したが、室内を窺って見ると、どうもおかしい。別人の部屋なのかと困惑しているところへ、当の住人が帰宅してしまった。

 途切れ途切れの言葉を繋いで要約すると、つまりそういうことだった。少年は口を閉じると、再び放心したようにカーペットの一点に視線を投じた。

 防犯を考えた途端にこれか。ため息が大きく空気を割った。ただの空き巣じゃないだけに、なおさら対処に困る。間を持たせるようにくわえかけた煙草を、僕は二度目のため息と一緒に箱に戻した。

「警察には連絡しないよ」

 驚いた視線とぶつかる。目を逸らして言葉を続けた。

「今夜は泊っていけばいい」

「……なんで?」

 なんでだって? そんなこと、僕自身が聞きたい。

 少年は訝しむように僕をじっと見つめていた。不思議な目だと思った。透明なのに奥が見えない。引きずられそうな危うさにためらいながら、覗き込まずにはいられない深淵のようだ。その瞳が雄弁に語った激しい憎しみ。それは、探している人物に向けられているのか。知ったところで僕に何ができるわけでもないけれど、目の前の小柄な少年を警察に引き渡すことだけはためらわれた。

 相手はまだ黙って僕を見ている。まるで沈黙のキャッチボールだ。内心で苦笑しながら自分を納得させた。同情と、気まぐれ。そんなものでいいじゃないか。

「もう遅いし……」

 窓の外に目をやって、もっともらしく付け足した。

「雨が降ってきたから」


 寝苦しくて、何度も寝返りを打った。その度に隣の様子をそっと窺う。普段は僕が使っているソファベッドでうずくまる人影は、眠っているのかそうでないのか、微動だにしない。床に敷いた布団に仰向けになり、カーテンの隙間から差し込む微かな街頭の明かりの中で、いつもより少し高い天井を見上げた。段ボールが貼られた窓を、雨がくぐもった音を立てて落ち続けている。

 少年が持っていた包丁を、流しの中に置いたままなのを思い出し、もしも寝込みを襲われたら終わりだな、と自分の軽率さを反省したけれど、反面、そうはならないだろうという奇妙な確信があった。天井の木目を辿りながらその根拠を探すうちに、緩やかな眠気がやって来た。

 古い床が小さく軋む気配に僕は目を覚ました。慌てて起き上がりソファを見ると、毛布がきれいに折りたたまれていた。玄関のドアが閉まる音に、まだどこかぼんやりとした頭で状況を把握した。雨が降っていたことを思い出し、傘を渡すために玄関に走りかけたけれど、カーテンの布地越しに朝の光を認めて腰を下ろした。時計の針は、六時半を回ったところだった。まだ寝ていられるが、眠気は消えていた。

 目覚ましをオフにして、ベランダのカーテンを開ける。目の前の公園で、濡れたベンチや滑り台が秋の柔らかな日差しを反射していた。穏やかな一日の始まりに、昨夜の出来事が現実味を失くしていくような気がした。それでも、と僕は自分の左頬に指を当てる。はっきりと残る切り傷やカーペットに残る血痕が、まぎれもなく夢なんかじゃなかったことを物語っていた。

 わずかな時間でも、あの状態で眠ることができるなんて、自分は思った以上に図太いのかもしれない。流しを見ると、包丁が消えていた。僕は小さく息をつき、ベランダから通りに目をやった。

 これからどこへ行くのか。あの包丁で誰をどうするつもりなのか。

ひとりで街を歩く細い体を思い浮かべて、僕は自分に対する嫌悪感を持て余した。突然の災難を持ち込んだ人間のことをもっともらしく心配する一方で、早々に出て行ってくれたことに胸を撫でおろしている。それなら、親切たらしく泊めたりしなければいいのに。だから信じられない。自分のやることも考えることも。

僕はソファに体を投げ出してだらだらと時間をつぶした。今日は両親の法要で実家に帰らなければいけない。二人同時に亡くなったわけじゃなく、父は四年前の今日、僕が高校一年の時に肝臓癌で、母は十二年も前に持病の心臓ですでに他界している。父の命日が十月、母が十一月ということで、三回忌以降の法要は併修としていた。今年は母の十三回忌に当たるので、菩提寺に親族が集まることになっている。施主は義母だ。

八歳の秋に母が死んだ時、重なった精神的打撃で、僕はしばらく口がきけなくなった。病院で入院治療を受け、三か月ほどで恢復したが、その時に親身になって僕の世話をしてくれた看護師と、二年後に父は再婚した。

彼女は優しい人だったし、看護師としても優秀で、僕が快方へ向かうよう尽力してくれたと思う。父もまだ小学生だった僕には母親が必要だと考えたんだろう。それでも、母の死の悲しみが癒えないうちに訪れた一大事は、僕の心に新しい混乱をもたらした。

家族に不自由な思いをさせないよう、父との結婚を機に義母は仕事を辞めた。実際、義母はよくやってくれていた。僕に対しても、実の母以上に母親らしくあろうと努力しているのが子供心にもよく分かった。けれど、過敏になっていた僕の神経は必要以上に義母の感情のひだに反応し、義母もまた、先妻の面影を宿した扱いにくい子供への対応に、次第に疲れを隠せなくなっていった。父は仕事に追われ不在がちで、広い家に残された僕と義母は、年を追うごとに深まっていく心の溝を埋める方法を見つけられなかった。

 そんな暮らしの中で、弟が生まれた。僕が十五歳の時だ。結婚五年目にして授かった実子を、義母が溺愛したのも無理はなかった。目を細めて弟に寄り添う父と義母の姿を当たり前として受け止めながらも、家のどこにも自分の居場所がないという思いが、じわじわと僕の心に広がっていった。そこにいるだけで、父と義母の愛情を独占できる弟。まだあどけない赤ん坊をかわいいと思う一方で、僕を追いやる存在として憎しみの目を向けている自分に気づいた時、家を出ようと決めた。

 高校受験を控えていた僕は、家から遠い進学校を志望した。幸い合格安全圏だったので、父はそう渋ることなく合格した場合の一人暮らしを認めてくれた。以来、父の死の前後を除いては、数えるほどしか実家には帰っていない。父が逝った後はなおさらで、義母と弟の顔を見るのは両親の命日の他に、盆と正月くらいのものだった。弟の悠介ゆうすけは今年で五歳、確か幼稚園の年長組のはずだった。

 重い体をソファから剥がし、服を脱いで風呂場に向かった。シャワーを浴びてから簡単な朝食を済ませ、九時過ぎに家を出た。

 アパート裏の駐車場に止めてあるワゴンRに乗り込み、キーを回す。去年、友人から安く譲ってもらったやつだ。大学は車での通学は禁止だが、実家に帰る時には欠かせない。郊外の実家までは、高速を使って一時間半程度。十一時からの法要には充分間に合うだろう。大通りに出ると思いのほか日差しが強く、僕はダッシュボードからサングラスを取り出した。

  

 玄関のドアが開いた途端、小さな体が転がるように飛びついてくる。僕は弟を抱き上げ、柔らかい髪の毛をかき回した。

「重くなったなぁ、悠介」

「おかえりなさい」

 スーツ姿の義母が笑いかける。

「どうも、お久しぶりです」

 悠介を降ろし、十か月振りに会った義母に頭を下げた。あいかわらずきれいだ。若くして父と結婚した義母は、まだ三十四歳だった。父の保険金と小さな不動産があるので、そう贅沢しなければ生活には困らないはずだ。

「どうしたの? その傷」

 義母は僕の左頬を見て笑顔を消した。

「ああ、ちょっとひっかけちゃって」

 傷に手をやりながら適当にごまかした。

「痛い?」

 下から悠介が覗き込んでくる。

「全然。こんなの、明日になったら消えてる」

 悠介に笑いかけ、僕は義母の方を振り向いた。

「そろそろ寺に行く時間ですよね。車、表に止めてるんで」

 菩提寺へは車で十分もかからない。助手席に陣取った悠介はご機嫌な様子で仮面ライダーの歌を歌っていた。

「お兄ちゃん、今日泊ってく?」

 ハンドルを握りながらバックミラー越しに後部座席へ目をやると、義母は窓の外を見ていた。

「ごめん、明日は朝早くから学校なんだ。だから帰るよ」

 がっかりとうなだれた悠介の頭を左手で撫でた。

「そのかわり、お寺から帰ったら悠介の好きなことして遊ぼう。何したい?」 

 悠介はパッと顔を上げた。

「ドッジボール! 隣のしょうちゃん達も一緒にっ」

「了解」

 僕は笑って車を菩提寺の駐車場に入れた。義母は、ずっと黙ったままだった。

 久しぶりに会う親類縁者達と型通りの挨拶を交わしながら、僕はあくびを噛み殺した。昨夜の寝不足が今頃来たらしい。読経や墓参りが終わり、会食が始まるまでのわずかな隙に、そっと人の輪から抜け出した。寺の裏手に回り、漆喰の壁にもたれて煙草に火をつけた。慣れないスーツが窮屈で、シャツの襟元に指を入れて息をつく。先刻、花を手向けたばかりの墓地に目をやると、定間隔に並んだ御影石の間から線香の煙がたなびいていた。

 薄情な息子だと申し訳なく思いながらも、僕は早くこの場から立ち去りたかった。叔父や叔母達は、早くに両親を亡くした僕を気づかい、会えば何かと声をかけてくれる。それはありがたいが、中には義母のことをあまり快く思っていない者もいた。

(あの家の跡取りはお前なんだから、アパートで暮らす必要なんてないんだよ)

 小声の忠告を、僕は曖昧な返事で聞き流す。正直、そんな言葉は煩わしいだけだった。

家の相続なんてどうでもよかったし、過去を忘れられない限り、この土地にもう一度住む気にはなれない。大学を卒業するまでは父の遺した金に頼らざるを得ないが、社会人として自立できた後は、もう何もいらない。あの家で義母と悠介が不自由なく暮らせればいい。それが僕の偽りない気持ちだった。

 会食が済んで親類達を見送ってから、僕は義母達と実家に戻り、仏壇に手を合わせた。

「コーヒーが入ったわ」

 背後からの声に、一瞬、亡くなった母が立っているのかと錯覚しそうになる。外見はまったく似ていないのに、義母の声は記憶の中の母のそれとそっくりだった。なぜか僕の意識は母の面影よりも、声の方を鮮明に捉えていた。

 リビングのテーブルで、義母と向かい合ってコーヒーを飲んだ。落ち着かない沈黙の中で、間を持たせるようにかわされる会話はぎこちなく、すぐに途切れてしまう。

「早く公園行こう」

 悠介が来て僕の腕を引っ張った。その無邪気さに救われる。

 公園でひとしきり遊んだ後、悠介を実家に送り届けて、玄関先で義母に挨拶をした。義母は何かを言いかけたが、少し目を伏せてから顔を上げ、微笑んだ。

「体に気をつけてね」

 悠介が眠そうに目を擦りながら僕を見上げた。

「また来る?」

「あたりまえだろ」

 僕は小さな弟と目線の高さを合わせ、鼻の頭をつまんだ。


 まっすぐ家に帰る気にならなくて、高速を降りたところで携帯を取り出した。信号待ちで番号を検索する。瀬戸せと可奈子。呼び出し音を聞きながら時計に目を走らせた。六時三十分。まだ夕食を終えていないだろうか。七コールで、声がした。周囲が騒がしい。外かと訊くと、渋谷の東急ハンズ前だと言った。

「今から会えないか?」

 少しの間の後、済まなさそうな声が返る。

「これから、サークルの飲み会なの」

 可奈子は入学した時からテニスのサークルに入っていた。何度か誘われたが気が乗らず、バイトが忙しいことも手伝って、適当にかわしていた。

「そうか……じゃ、またな」

「何かあった?」

「なんで?」

「めずらしいから。そんな誘い方」

 僕は苦笑した。

「なんか、元気ないみたいだし。体調良くないんなら、土曜日、無理しなくていいよ」

「ちょっと、寝不足なだけだよ。明後日には充分復活してる。久しぶりにゆっくり会えるんだから、どこ行きたいか考えといて」

 電話を切った後で、嫌気がさした。こんな時だけ可奈子に「恋人」を求める自分、そして断られたことに傷つく自分にも。

 友人から可奈子のことを紹介されたのは去年、入学して間もない頃だった。媚びを含まない清潔さや、勝気そうな唇から零れる意外に柔らかな口調にも、僕は好感を持った。それから約一年半、僕達はうまくやってきたと思う。それでも。その後に続く言葉を、僕はうまく見つけられない。好きだと思う気持ちがあって、体を重ねても、どこか心のうわずみだけを掬い取っているような感覚をぬぐいされない。今時、中学生でも考えるか、なんて自嘲しながらも、誰かを恋するということが、僕は未だによくわからなかった。

(俺、恋愛に向いてないのかな)

 以前、かおるに向かって、そう訊いたことがあった。

(恋愛がしたいわけじゃないんだろ?)

 あの時、薫はそう言った。言葉の意味を問うと、薫は肩をすくめ、小さく笑った。

 駅に近づくにつれて道路は混雑し、何度も信号に引っかかった。上着の胸ポケットから煙草を取り出すと、中は空だった。舌打ちして箱を握り潰し、後ろへ放り投げる。左右の家々に灯る明かりを見ていると、不意に、自分が故郷を遠く離れた異邦人みたいに思え、帰る場所なんてどこにも見つけられないような気がした。早くひとりになりたくて実家を早々に後にしたのに、今は誰かにいてほしい。そんなふうに心弱くなる自分が嫌だった。

 駐車場に車を停めてから、近くのコンビニに行き、ビールを数本買った。歩きながら一本開け、一気に飲み干す。すきっ腹にアルコールは沁み渡り、胃の中が熱くなった。

 寝不足とアルコールで重くなった瞼を押さえながら公園に入った。昨夜、さよちゃんが立っていたブランコの方へ目をやる。誰もいない。屑籠に空き缶を捨て、そのまま通り抜けようとした時、常夜灯の横のベンチで丸くなる人影に気づいた。その顔を見て、酔いと眠気が一気に覚めた。昨夜の侵入者が眠っている。淡い明かりに照らされた横顔は青白く沈んで、体にかけている新聞紙から包帯を巻いた左腕が覗いていた。

 僕はしばらく立ち尽くしてその姿を見ていたが、動機が治まってもそこを通り過ぎてしまうことができなかった。捨てられた犬や猫を放っておけないように? そうじゃない。

厄介ごとを背負い込んでしまう恐れよりも、今の僕には目の前の人間が、見知らぬ土地で出会った唯一の邦人であるような、奇妙な懐かしさの方が強かった。

 そっと新聞紙をめくると、電流に打たれたように相手は跳ね起きた。右腕に、白い布でぐるぐる巻きにされた包みをしっかりと抱えている。中身は察しがついた。僕を認めて驚き、警戒心をむき出しにした小動物のようにベンチの上で後ずさった。

「こんなトコで何してるんだよ」

「……勝手だろ」

 少年は上目づかいに僕を睨みつけ吐き捨てたが、僕が視線を逸らさずにいると、きまりが悪そうに横を向いた。

「探す相手はもうここのアパートにはいない。だからって、他に手がかりはなし。これからどうすりゃいいか分からずに、とりあえずここを動けなかった……そんな感じかな」

 少年は、答えない。

「メチャクチャだな」

 ため息をつくと、怒りを滲ませた声が返る。

「あんたにカンケーあんのかよ」

「カンケーないさ。その無関係な人間にさんざん迷惑かけといて、その言いぐさはないんじゃないか。やることも言うことも子供だね」

 子供と言われて、相手はますます不機嫌な表情になった。

「そっちだってまだ学生だろ。変わんないじゃん」

「人の部屋を荒らしただけあって、よく知ってるな。確かに大学二年だけど、成人してる。一応、大人と認められる年齢だよ。そっちは見たとこ、せいぜい中学生だろ。もしかして、小学生とか?」

「……十五だよ。で、メーワクかけたお詫びに土下座と部屋の掃除?」

 とても謝罪する態度じゃない。僕は腕組みして空を仰いだ。

「それもいいかもな。とりあえず、家に来なよ」

 少年は僕の顔を凝視した。目にまた警戒の色が浮かんでいる。

「警察に連絡するのか」

「だったら、なんでわざわざ声かける必要があるんだよ」

 僕はあきれて言った。

「じゃあ、こんな得体の知れないやつ連れてってどうするのさ」

「さぁ」

 首を傾げて考える。そんなこと、僕自身にだって分かるもんか。

「これから考える」

今度は向こうがあきれる番だった。

「変なやつ」

 目を伏せてポツリと呟く。

「自分でもそう思う」

 僕の言葉を、少年はゆっくりと咀嚼しているようだった。開きかけて閉じる唇が逡巡を表している。やがて彼は立ち上がり、ゆっくりと僕を見上げた。グラスの中の氷がゆらりと斜めに滑るように、ほんのわずかに警戒を溶かして。

 アパートに帰って明るい部屋で見ると、少年の手足や服がひどく汚れていることに気づいた。

「野宿なんかするから、埃だらけだよ。風呂は後でいいとして、とりあえず手を洗ってきなよ」

 風呂場に連れて行き、洗面台の明りをつけた時、鏡に向かっていた彼がさっと目を伏せた。その態度が気にかかったけれど、僕は何も言わずに台所に入るとやかんに火をつけた。

 二人分のコーヒーが入っても、彼は居間に来なかった。水音の止まない台所を覗いて、かけようとした声を引っ込めた。彼は石鹸を大量に泡立てて、水しぶきを飛ばしながら手を洗い続けていた。ふやけるほどすすいだ後は、もう一度石鹸をつけてきれいに流し、まるで取りつかれたように彼は何度も同じことを繰り返した。

「洗浄脅迫か」

 僕の言葉に、彼は勢いよく振り返った。追い詰められたような暗い火が、目の中で揺れている。

「自分の中の、何を洗い流したい?」

 問いかけた僕を、彼は奇妙なものを眺めるように見つめ返した。一瞬、無防備な表情が浮かび、すぐに険しいそれにすり替わる。彼は僕を押しのけるようにして居間に入っていった。

 テーブルの前で膝を抱えている少年の向かいに腰を下ろし、彼の分のカップを近くに置いた。

「まだ名前も聞いてなかった」

 無言の返事に、僕は頭をかいた。

「そうか、まず自分からだよな。魚住高久。高い低いの高に久しい。さっきも言ったけど、大学二年。五月で二十歳になった。見ての通りひとり暮らしだよ。生みの親は他界。実家に義理の母親と、年の離れた弟がいるけどね」

 無反応。無表情。カーネルサンダースの人形相手にでも話すほうがマシかしれない。少なくともあっちは笑顔だ。

「何か質問は?」

 答えを期待せずに訊いてみる。カップを口元に運んだ僕の耳に、少し高めのハスキーな声が届いた。

「……きら」

「え?」

訊き返すと、少年は仏頂面でくり返した。

「あきら」

 名前を教えてくれたと気づくまで、二秒ほどかかった。僕はホッとして、どんな字を書くのか訊いた。

あかつき

「いい名前だね」

 正直に言ったつもりだったが、あきらはひどく不機嫌そうな顔をした。扱いにくいこと、おびただしい。

「苗字は?」

 再び、沈黙。僕は頷いた。

「いいよ、言いたくなかったら。そのかわり、わけを話してくれ」

 顔を上げた暁をまっすぐに見返し、もう一度言った。

「わけを話してくれ」

 絡まる視線の先に、次の言葉を探す必要はなかった。固く閉じた暁の目の先で、長いまつげが震える。細く長い息を吐き出し、彼は目を開けた。

 そうして暁の口から聞かされた話は、後悔すら追いつかないほど、引き返すことのできない場所へと僕を連れて行くものだった。


 暁には、双子の妹がいた。四歳の時に母親に愛人ができて、両親は離婚した。親類縁者とは絶縁状態だったので、暁は母親、妹は父親に引き取られた。

 母親の愛人は短気な男で、仕事もひとつのところに長続きしなかった。徐々に暁を邪魔者扱いし、やがて暴力を振るうようになった。殴られ蹴り飛ばされる幼い息子を、母親は見て見ぬ振りをした。

 ある日、男に頭を強く殴られた暁は、しばらく入院した。男は逮捕され、一度だけ見舞いに来た母親は、暁が退院する前に姿を消した。父親は暁の妹を連れたまま行方が分からず、まだ六歳だった暁は養護施設に送られた。

 それからの九年、暁は双子の妹にもう一度会うことだけを考えて生きてきた。中学を卒業したら働いて、必ず妹を探し出すのだと。

 数日前、施設の園長宛に届いていた手紙を盗み読みした暁は、そこで妹が既に亡くなっていることを知った。送り主は父親と妹が住んでいたという旭川の町の児童相談所の所長で、二年前の消印が押されたその手紙には、二人の消息が詳しく記されていた。

 二年前、暁の父親は、家に火をつけて自殺した。その時の火事で背中にひどい火傷を負った妹は精神的衝撃のため神経症にかかり、まもなく入院先の病院で死亡した。けれど、暁の妹が精神を病んだのは、父親の自殺と火傷だけが原因ではなかった。この事件がきっかけで、暁の妹は以前から父親より性的虐待を受けていたことが明らかになったのだ。

 

 暁の口から語られる途切れ途切れの説明を聞きながら、僕は過去に落ちていくような錯覚に視界がぐらついた。喉の奥が干上がったように、呼吸がうまくできない。

 この少年は、誰だ?

 昨夜、公園で立ちつくしていた幽霊の姿が目の前の人間に重なる。僕は恐ろしいものを見るように視線を凍らせた。そんな僕を、暁は射すくめるように見つめた。わけを話せと詰め寄りながら、返す言葉が見つからない。しっかりしろ。やっとの思いで立ち上がると、僕は自分と暁のカップを手に取った。

「冷めてる。入れなおすよ」

 台所に入り、流しに両手をついて体を支える。湯が沸くまでの間、動揺を抑えて考えを巡らせた。これからどうするのか、どうすればいいのか。

 児童相談所の所長からの手紙を読んだ時、自分の一番奥にある場所で、何かが壊れる鈍い音をはっきりと聞いた。さっき、暁はそう言った。その音は憎悪の叫びに変わり、暁のすべてを包んで溢れていったのか。父親が死んだ以上、その憎しみを向ける相手は母親しかいない。暁は施設を飛び出し、手紙に記された母親の住居へとやって来た。そして、そこに僕がいた。

(俺たちを勝手に生んで、こんな目に合わせたあの女を、見つけ出して殺す。絶対に殺してやる)

 白い布に巻かれた包みを見ながら、うわごとのように言う暁を思い出して、肌が粟立った。妹との再会という唯一の希望に代わって今の暁を支えるものは、もうそれしかない。

実の母親への復讐だけが、戻る場所もない彼をこの世界に繋ぎとめている。

 関わりたくない気持ちと、放っておけない気持ちの間を、心が振り子のように行き来した。どちらも本音だからこそ、始末が悪い。これも巡りあわせかと考えた時、背中を押すようにコンロのやかんが音を立て、僕の振り子は片方に傾いて停止した。

巡りあわせ。

薄めのコーヒーを入れて居間に戻ると、暁はまた膝を抱えていた。

「カフェオレの方がいいかと思ったけど、牛乳が切れてた」

 暁はぎこちなく手を伸ばしてカップを受け取った。棚から救急箱を取って暁の横に座り、僕は彼の左腕を指さした。

「痛むか?」

 暁は右手で包帯に触れ、小さく首を振った。

 救急箱から消毒薬と脱脂綿を出し「見せて」と言うと、素直に腕を差し出した。傷口はまだ濡れていたが、膿んではいなかった。夏じゃなくてよかった。

「化膿はしてないけど、一度病院で診てもらったほうがいいな。明日にでも」

 言葉を遮るように、暁が僕の手を振り払った。驚いて顔を上げると、険しい表情で睨んでくる。

「病院へは行かない」

「どうして」

「いやだ」

 口を開きかけた僕は、怒りの中に滲んだ怯えの色に気づいて黙った。暁にとって、病院という場所は、悲しみや恐怖を再現させる忌まわしいものでしかないのだろう。幼い頃に心療内科のベッドで日々を過ごした僕には、多少なりともその気持ちがわかる気がした。

「分かったよ。とりあえず、包帯を替えよう。ああ、風呂にも入んないとな」

 暁はそれも渋ったが、埃まみれじゃそうもいかない。シャワーの前に傷口を清潔にしておこうと、消毒薬を含ませた脱脂綿をピンセットでつまんだ。三センチほどの赤黒い裂け目が、白い腕に刻まれている。殺意を秘めた瞳のようだ。

「利き腕じゃなくても、こんな怪我したままで人なんか刺せないぞ」

「……どれくらいで治る」

「医者でもないのに、そんなこと分かるもんか」

 脱脂綿でそっと傷口を叩きながら言った。

「探すにしたって、何のあてもないんだろ。それに、施設を飛び出したお前がへたにうろついて、補導でもされたらどうするんだよ」

 僕の言葉に暁は唇を噛んだ。

「俺が探すよ」

 暁が「は?」という顔をする。傷口にガーゼを当て、僕は続けた。

「お前の母親を探してみる」

「どうやって」

「分からないけど、少なくともお前が動き回るよりは安全だろ。とにかく、できるだけのことはしてみる。ただし、条件がある」

 困惑顔の暁に考える隙を与えないように、口調を強くした。

「いいと言うまで、外に出るな。もちろん電話も。絶対に無茶はしないこと。まずは怪我を治すことに専念しろよ。それから」

 まだあるのか、そんな顔をした暁に、右手を差し出した。

「その物騒なやつは預かっとくよ。心臓に悪いからな 」

 暁は少しためらったが、やむを得ずという感じで、白い布に巻かれた包丁を僕に渡した。僕たちの奇妙な共同生活の始まりだった。

「OK。昨日の侵入者は今日の同居人か」

「ホントに、俺に協力してくれるの?」

「乗りかかった船だな」

 苦しまぎれの時間かせぎだった。とりあえず暁をここに引き止めておくために、そう言う他はなかった。それからどうするのか。頭を逆さにして振ってみても、見当もつかないような問題だったが、目の前の少年に、実の母親を殺すような真似だけはさせられない。

暁は今、地獄の釜の淵を歩いている。そこから落ちたら、二度と這い上がれない。

 僕は、まにあうだろうか。今度こそ、伸ばしたこの手を引っ込めずにいられるだろうか。

これは、僕にとっても、細く危うい蜘蛛の糸だった。

 傷口にガーゼを当て、ラップで巻いてから、二の腕から手首までビニールを被せた。暁を風呂場に連れて行き、脱いだ服は床に置いておくように言った。

「さっと流すだけにしろよ」

 居間に戻って煙草に手を伸ばしたところで、石鹸がなかったことを思い出した。洗面台の下からボディソープを取り出し、風呂場の扉越しに声をかけた。

「石鹸、忘れてた。ポンプの方が使いやすいだろ」

 言いながら扉を開けた僕は、シャワーの湯気の中で振り返った暁を見て、硬直した。未発達ではあったが、どこからどう見ても女の体が、そこにあった。

「お前……」

茫然と立ち尽くしていた僕がようやく声を出すと、人形のように無表情だった暁が、唇の両端をゆるりと上げ、嫣然と微笑んだ。その顔は少年ではなく、十五歳の少女のものでもなかった。黒目勝ちの瞳の奥に揺らめく鈍い光が、瞬間、僕の中の何かを激しく揺さぶった。それが何か、確かめずにはいられない衝動に一歩踏み出した時、まだぎこちない稜線を描く暁の白い胸元が視界に飛び込んで、僕は現実に引き戻された。

「ごめんっ」

 ボディソープを投げるように置き、扉を閉めると、居間に駆け戻った。テーブルの前に座り込み、煙草をくわえ震える手で火をつける。わけが分からなかった。混乱した頭の中で、さっきの光景を巻き戻す。

 なぜ、気づかなかったのか。暁が女だということに。華奢な体を見て、中性的な印象を抱きながらも、男だと信じて疑いもしなかった。理由のひとつは、取っ組み合いの時の迫力だ。男にしても、この細身でよくもと思うような凄まじさに、まさか女だなんて考えもしなかった。そして自分を「俺」と言うハスキーな声。確かに少し高めのトーンだとは思ったが、年齢的に変声期の途中だろうと、気にはならなかった。

 頭を抱え込んだ僕の脳裏に、暁の微笑が蘇った。同時に湧き上がる違和感。あれは、本当に暁なのか? ナンセンスは百も承知でそう思う。振り返って僕を見たあの目。男か女という以前に、僕が知り合った暁とはまるで別人のようだった。

「頭が変になりそうだ」

煙草を消しながら、絶望的な気分で呟く。前途多難な航海だと覚悟はしていたが、滑り出しから暗礁に乗り上げている。気持ちをどうにか落ち着かせ、僕は風呂場で見た暁の体を思い出した。立ち込めるシャワーの湯気の中、暁が振り返る一瞬に見えた背中には、確かに火傷のような跡があった。

暁と妹の生い立ちを振り返り、ひとつの仮説が頭をもたげる。

 風呂場の扉が開く音がして、僕は思わず居住まいを正した。

 僕のパジャマを着た暁は、少しバツが悪そうに居間に入ってきた。袖や裾を捲りあげても、細い手足が布地の中で泳いでいる。事実を知ってしまうと女の子に見えないこともなかったが、やっぱり少年の印象が強い。特に男っぽい顔立ちをしているわけでもないのに、と不思議に思う。

「座れば?」

 突っ立ったままの暁に声をかけた。のろのろと腰を下ろした暁とテーブル越しに向かい合い、何をどう切り出したものかと考えあぐねる。

「さっきは」

 暁から目をそらしたままで口を開いた。

「悪かったな」

「何が?」

僕は伏せていた目を上げた。わずかに首を傾けた暁が僕を見ている。

「石鹸がなかったろ? だから俺が風呂場に……」

 怪訝そうに眉根を寄せる暁の表情に作為的なところはなく、僕は口をつぐんだ。

「風呂場に来たの?」

「……覚えてない?」

 暁は両手でこめかみを押さえ、苦しげに目を閉じた。

「頭がぼぉっとして……半分寝てた感じ。時々……そんなふうになる」

 不安そうな暁の言葉に、僕はひとつ深呼吸した。一語一語区切るように、確信犯的な質問をする。

「念のため訊くけど、お前、男?」

 暁はあからさまに不快そうな顔で僕を睨みつけた。

「風呂場に来たんだろ? それとも、体見た上で、女みたいだって嫌味言ってんの?」

 地を這うような気分だった。

 演技なら、いくらなんでも分かる。どうやら本気らしい。暁は、自分を男だと思い込んでいる。それに、風呂場で見せたあの顔。覚えていないと暁は言うが、それならなおさら合点がいかない。何らかの精神疾患の可能性を考えないわけにはいかなかった。

「六歳の時に頭を殴られて入院したって言ったな。何月だ?」

 唐突な質問に、暁は眉をひそめた。

「なんでそんなこと訊くのさ」

「お前の母親を探すためだよ。データがいるんだ」

 暁は疑わしそうな顔をしたが、母親を探すという言葉に折れた。

「夏……六月だった」

「母親の名前は? それと、殴った男の名前は覚えてるか?」

 母親はともかく、愛人の名前までは無理かと思ったが、暁は暗く光る目を向けた。意識の端に乗せるだけでも、はらわたが煮えくり返るというように。僕は紙とペンを暁に差し出した。

「ここに書いて」

 ひったくるように紙とペンを取り、まるで呪詛の言葉を書くように憎しみに歪んだ表情で、暁は文字を刻んだ。

佐伯洋二さえきようじ松島涼子まつしまりょうこ、で合ってるか?」

 暁が頷く。

「よく覚えてるな、漢字まで」

 暁は黙ったまま、うつむいていた。

「妹が火事にあったのはいつ?」

「十一月って、手紙に書いてあった」

 九年前の七月と、二年前の十一月。頭の中で逆算しながら重ねて訊いた。

「お前の誕生日を教えてくれ」

 答えない。そういえば、苗字を言うのも拒否していた。自分の出自、つまり親にまつわる部分に、よほど嫌悪を感じるらしい。

「何月かだけでいいから」

「四月」

 暁は忌々しそうに吐き捨てた。

「これもデータかよ」

「そうだよ」

 僕は救急箱の蓋を開け、暁に腕を出すように言った。きつく引き結んだ唇に反発を乗せながらも、暁は質問の意味を追求しようとはしなかった。信頼には遠いかもしれないが、ある程度は任せてみようと決めたのかもしれない。こちらも、暁が自分を男だと思っている以上、今はそう扱うよりしょうがない。包帯を取り替えながら、僕は僕で腹をくくった。

「お前はソファで寝ろよ。シーツは洗ってあるから」

「あんたは?」

「床に布団を敷く。少し狭いけど我慢しろよ。それと、明日俺は一限から授業だから、八時には家を出るんだ。メシは、パンもあるし、冷蔵庫の中のものを適当に食ってくれ。三時には帰れると思うけど、何かあったら携帯に電話しろよ」

 一人暮らしを始めるに当たって、僕は父親から固定電話を置くことを義務付けられていた。携帯以外の通信手段が必要なこともあるというのが理由で、面倒くさいと不満だったが、今はさすが年の功と感謝している。暁は携帯を持っていないし、最近は公衆電話もめっきり少なくなっている。番号を書いたメモを暁に渡しながら、ひとりで平気だろうか、と心配になった。没収した包丁は押入れの天袋の奥に隠したけれど、流し台の下を開ければ、この家の包丁がある。それでも、暁を同居人として迎え入れた以上、警戒してまわるような真似はしたくなかった。明日の授業はどうしても抜けられないし、大学でやることがある。結局、どう気をもんでも、監禁でもしない限り、出て行こうと思えば暁はいつでもそうできる。僕は運を天に任せた。

 暁は受け取ったメモをテーブルに置くと、濡れた髪のままソファに潜り込んだ。背を向けて丸くなる姿を見ながら、「おやすみ」と言って電気を消した。


 翌日、二限の講義が終わってから、僕は昼食を取らずに、構内の図書館に向かった。

食事時のため、館内にはほとんど人がいなかった。奥の窓際に面したデスクトップパソコンの前に座り、大手全国紙の縮刷版を調べだした。家にもノートパソコンはあるが、暁の前ではできない作業だ。九年前の七月一日から順に記事を追う。暁は十五歳。六歳の七月といえば、この年に間違いないはずだ。画面のページを捲っていた僕は、七月二十三日付けの夕刊の社会面に目を止めた。

【六歳男児、せっかん死】

 上段の左に中見出しで書かれた記事を、僕は食い入るように見つめた。

「二十二日、午後十一時三十五分頃、横浜市S町二丁目のアパートに住む男児(六つ)が、母親と内縁関係にあった佐伯洋二容疑者(二十八)に頭を強く殴られ、病院に運ばれたが、頭がい骨骨折による脳挫傷のため、まもなく死亡した。男児の全身には、煙草を押し付けた跡や痣が無数にあり、長期に渡る虐待と判断した担当医が警察に通報。同容疑者が容疑を認めたため、S南署は傷害致死容疑で逮捕した。調べによると、容疑者は二年前に男児の母親と知り合い、同居。定職に就かず家にいることが多く、当初から男児に暴力を振るっていたという。最近は男児の母親といさかいが多く、そのはらいせに男児への暴力がエスカレートしていったとみられる。事件当日は、男児の母親が午後十一時頃から外出し、それに腹を立てた容疑者は、毛布を持ったまま裸足でベランダにいた男児の頭や腹などを数回殴りつけた。深夜二時半頃に帰宅した母親は、ベランダでぐったりしている男児を見つけ病院へ運んだが、男児が手術を受けている間に姿を消した。S南署は、さらに詳しい事情を聴くため、この母親の行方を調べている。死亡した男児は幼稚園などにも通っておらず、最近になって近所から子供の悲鳴がすごいと児童相談所への通報があったため、同所が早急な家庭訪問を計画していた矢先の事件だった」

 適度にエアコンが効いている館内で、冷たい汗が背中を伝う感触に、全身が総毛だった。

 手にしたマウスが、鉛の塊のように重い。昨夜、暁に書かせた男の名前と、記事の中のそれを、何度も見比べた。佐伯洋二。暁の話と本文の内容もほぼ一致している。重大な一点を除いて。

「嘘だろ……」 

 

 膝が抜けそうになるのをこらえながら、額の汗を拭い、僕はもうひとつの記事を探し始めた。暁の裸体と背中の火傷を見た時に、頭をもたげた仮説を裏付ける記事を。

二年前の十一月に旭川で起こった火事。放火などを含めると、火災は珍しい事件ではないので、小さく扱われている場合も多い。大手全国紙の北海道版を見落とさないように注意深く見ていると、十七日付けの夕刊にそれらしい記事があった。下段の隅なので小さく読みにくい。ズームをかけ、目を凝らした。

十一月十六日未明、旭川市の民家から出火。二階建家屋を全焼した。付近の建物への燃え移りはなかったが、この火事で住人の水野英明さん(四二)とみられる焼死体が見つかった。同居していた長女(一三)も背中などに火傷を負い、病院に運ばれた。水野さんは長女と二人暮らし。警察は出火の原因を調べている。

 簡潔な文章でまとめられた内容を、僕は二度読み返した。記事をプリントアウトしてからパソコンの電源を切り、机に頬杖をついた。二階の窓から外を見るともなしに眺める。午後の陽光に照らされた銀杏の木の下を、学生達が通り過ぎて行く。その光景を、望遠鏡を逆さまに覗くように現実感のないものとして感じている自分に気づき、少し笑った。リアリティがないのは、今自分が踏み込んでいる世界の方なのに。

 なぜ、死んだ妹が負ったはずの火傷の跡が、暁の背中にあるのか。そして、暁は女だった。答えはひとつしかない。暁は、妹の方だ。だけど彼女は自分を男だと思い込んでいる、というより死んだ兄になりきっている。彼女の態度に不自然な感じや演技じみたところは、少しもなかった。僕は出会った夜の彼女を思い出した。小柄な女の子が大の男と取っ組み合えるなんて、常識ではまず考えられない。まるで、まったく別の人格が、少女の表面に現れているように。

 別の人格。

 昨夜、風呂場で見た暁の微笑が鮮明に浮かび上がった。覚えていないと言った暁。記憶が、ない。手足の先を、冷たいものが走り抜けた。

 僕は頭を振った。

 多重人格? まさか。思いつきの短絡的思考だと切り捨てる。それでも、頭のどこかで声がした。本当に、短絡的思考だろうか。

 彼女は四つの時に双子の兄と引き離され、父親と暮らすうちに、いつからか性的虐待を受けていたという。虐待が子供に及ぼす精神的病理については、心理学の講義でかじった程度の知識しかないが、親などからの激しい暴力、とりわけ性的なそれが多重人格を引き起こす大きな要因であるという説は知っている。そして多くの場合、虐待は長期に渡って繰り返される。彼女の兄がいつも殴るけるの暴力に晒されていたように、彼女も父親から幾度となく凌辱されていたのではないか。そんな環境の中で、少しずつ精神を蝕まれていったのだとしたら。

 それでも、彼女を多重人格と決めつけるのは、やっぱりまだ早計だ。第一、僕自身が多重人格についての専門知識を備えていない。少しでも情報を得るために、旭川は無理でも、横浜まで行き、管轄の児童相談所を訪ねてみようかとも思ったが、役所が個人のプライバシーに関するデータを提供してくれるとはまず考えられなかった。彼女の兄、つまり本物の暁の事件に関する記事は、日常的な虐待について書かれたものと、母親の所在がつかめないままだということを伝えている以外は、ネット上では見つけられなかった。

 現時点で分かっているのは、父親が何らかの理由で家に火をつけて自殺し、心身に大きな傷を受けた彼女がしばらくの間入院していたこと、そして最近になって兄の死を知ったこと。昨日の話は、暁と妹の立場を逆にして考えればいい。虐待の中で、病院のベッドの上で、施設の孤独な日々で、自分のかたわれにもう一度会えることを心の拠りどころにしていたのは、妹の方だった。兄と遠く離れた旭川の施設で、彼女は園長宛に届いた手紙を盗み読みし、兄の身に起こったことを知った。兄が住んでいた横浜の児童相談所の所長は、何かのきっかけで八年前の事件と旭川で起きた火事の当事者との繋がりを知って、生き残った妹が暮らす施設の園長に、事のいきさつを書き送ったんだろう。

 兄の死は、彼女の唯一の支柱を崩した。しかも、原因は事故や病気じゃない。わずか四歳の頃から圧倒的な暴力にさらされ続け、そして殺された。その事実を突き付つけられた彼女の慟哭は、想像を絶する。以前からダメージを受けていた精神が、大きくバランスを失ってしまったとしても、不思議じゃない。それが引き金となり、記憶の混乱が起こったのは間違いないと思うが、多重人格の可能性については、分からない。

 隣の席に誰かが座り、思考が途切れた。知らない顔だが、彼が机に置いた小説のタイトルが僕の目を引いた。「憎悪の依頼」。僕のアパートで膝を抱え、じっとうずくまっている暁の姿が浮かんだ。暁は、僕が母親を探し出すのを待っている。そして、その手で母親を殺す時を……。

 暁。

 僕は胸のうちでその名前を呟いた。改めて認識する。それは、彼女の兄の名前だ。じゃあ、あの少女はいったい誰なのか。少女といっても、頭の中身は少年だ。もつれた糸が脳細胞をがんじがらめに縛りあげそうで、僕は顔を上げ周囲に目を向けた。いつのまにか館内には人が増えていた。腕時計を見ると、一時半を回っている。鞄をつかみ、僕は急いで図書館を出た。

  

 教育学部に行くと、中からちょうど友人が出てきた。

「薫、見なかったか?」 

 彼は階段の方を顎でさした。

「視聴覚室。三限が空いてるから、昼寝するって」

 礼を言って四階に向かった。

 視聴覚室の扉の窓には、中からカーテンが引かれていた。薄暗い室内に入ると、ずらりと並べられたベンチの真ん中辺りに、ジーンズを履いた長い脚が見えた。寒いのか、薫はカーキ色のジャケットで上半身をぴったりと覆い、テキストを顔に被せていた。頭の方に回ってそっとテキストを取ると、ぼんやりと開いた目がこっちを見た。

「昼寝中、悪いな」

 薫はゆっくりと上半身を起こし、床に足を下ろした。ジャケットに腕を通しながら眠そうにあくびをする。

「疲れてんのか?」

「昨日レポートやってて、ちょっと寝不足。夜から約束あるから、充電中だった」

 そう言って気だるげに首を回す。

「女?」

 彼女、とは訊かない。薫は返事の代わりにフフッと笑う。今さら突っこむ気も起きない。

 萩原はぎわら薫は高校からの友人で、文武両道を絵にかいたような、非の打ち所がない男だった。

その匂い立つような美貌や、ふとした拍子に垣間見える立ち居振る舞いの優雅さは、高校でもかなり目立っていて、旧家の御曹司やら、大物政治家の息子らしいといった噂があちらこちらで流れていた。

 同じクラスになったのは二年からだが、お互いひとり暮らしだということが分かってから、よく話すようになった。当時、僕のアパートと薫のマンションは徒歩十分程度の距離にあり、お互いの家を頻繁に行き来するようになった。僕のアパートに比べると、薫のマンションは小ざっぱりとして綺麗だったが、それでもよくあるワンルームで、若様の別宅というほどの豪華さでもなかった。親しくなってからも、薫は家族のことはほとんど口にしなかったし、僕もあえて尋ねようとは思わなかった。同じ大学に進学し、僕は社会福祉、向こうは教育と学部は別れたが、付き合いは続いている。

薫は基本的にドライで、人やものに固執しない人間だ。恋愛でも同じみたいで、特定の彼女は作らない。時として冷やかな印象を与えることもあるけれど、淡々とした物腰の奥に沈んだ思慮深さが僕は好きだった。薫の目には、ものごとの本質を正しく見極められるような、本物の理知の光が宿っていたからだ。

「あいかわらず、モテてるね」

 手にしたテキストを膝に放り投げてやる。

「人脈は、最大限に広げておいた方がいいから」

「人脈?」

薫は頷いた。

「一番の財産。そのうえ、最高の武器になる」

 その言葉の意味について、少し考えてみる。薫が僕の頬の傷にちらりと目を向けた。

「話があるんじゃないの?」

 僕は隣に腰を下ろした。

「お前のその人脈を、俺の相談事のために使ってくれないか」

 今度は薫が、僕の言葉の意味を測るように怪訝な顔をした。

「知り合いに、信頼できる精神科医はいるか?」

 一昨日からの出来事を、できるだけ分かりやすく説明しようとしたけれど、口にすることで自身の混乱に念を押していくようで、映画のあらすじを話すみたいにはいかなかった。

黙って耳を傾けていた薫は、僕の話が終わると、室内の空気を青く染めてしまいそうなほど、細く長いため息をもらした。

「なんてことに首突っこんでんだか」

 何も言わない僕に、薫は続けた。

「素人の手に負える問題かよ」

「分かってるよ、だから」

「分かってないだろ」

 低い声が僕の言葉を撥ねつける。顔を上げると、薫は今まで見たことがないほど厳しい目で僕を見ていた。

「俺もお前も、やっと十代が終わったばっかのガキで、まだ親のスネをかじってる身分だよな」

「何が言いたいんだよ」

「最後まで言わせるかぁ?」

 薫は面倒くさそうに前髪をかき上げた。

「自分の足で立ってない人間が、他人を、ましてそんな複雑な事情を抱えた人間を背負おうとしたら、どうなるんだよ」

 返す言葉が見つからなかった。

「それに」

 迷うように言葉を切り、薫は視線を床に落とした。

「お前って、アンバランスだから」

「どういう意味だよ」

「言葉通りの意味。お前を見てると、ただそう感じるんだ」

 アンバランス。確かにそれは、僕という人間をひと言で的確に表しているかもしれない。

薫の鋭さに脱帽しつつ、僕の何かに不安を感じ、そして心配してくれていることに感謝した。

「お前の言うことは、たぶん正しい。でも、俺はここで手を引くわけにいかないんだ」

 膝に両肘をつき、薫の横顔を斜め下から覗き込んだ。

「安っぽい同情や、ヒューマニズムに酔ってるわけじゃないよ」

 彫刻のように整った薫の目鼻立ちを見ながら、僕はひとつ深呼吸した。

「子供の頃、実家の近くに、さよちゃんっていう二つ下の女の子がいたんだ。俺が小学校に上がる少し前くらいから、その子はよく俺の後をついて回るようになってさ。どっちもひとりっ子だったし、人見知りってとこも同じで、ホントの兄弟みたいによく遊んだよ」

 瞼の裏側に広がり始めたあの頃の風景を、一つひとつなぞるように言葉をつないだ。

「俺の実家や近所の家には金木犀の木がけっこうあって、秋になると、さよちゃんは嬉しそうに地面に落ちた花を集めてた。小学校に入って友達が増えてからは、だんだんさよちゃんと遊ぶ回数も減っていったけど、彼女は俺が学校から帰る頃、よく家の前に立ってて、俺が通りかかると駆け寄って来てた」

 視聴覚室の中では、時折窓を揺らす風の音を除いて、僕の声だけが小さく響いていた。薫は相槌も打たなかったが、じっと聞き入ってくれていることはよくわかった。

「ちょうどその頃だった。さよちゃんの体にいつもついている痣や傷の意味を、俺がはっきり理解しだしたのは。彼女の父親はアル中で、酔っ払ってはさよちゃんとその母親に暴力を振るってたんだよ。近所でもめ事を起こして警察の世話になるのも珍しくなかったみたいだ。実際、さよちゃんの母親が、夜中に一一〇番して助けを呼んだこともあった。様子を見に行った親父が帰ってきてお袋に話してるのを、俺は布団の中で聞いてた。さよちゃんの家に来た警察は、結局何もしてくれなかったらしい」

「民事不介入の大原則ってやつか。法は家庭に入らず」

 薫の言葉に僕は頷いた。

「俺が小学二年の時だった。ある日、さよちゃんが俺の家に逃げ込んで来たんだ。裸足のままで、服は破れてぼろぼろだった。お袋が、とにかく着替えさせようとして服を脱がせた時、俺たちは愕然とした。小さい体いっぱいに青痣とみみず腫れ……それから煙草を押し付けた跡がいくつも……」

 胸を圧迫されるような苦しさ。言葉を切って、ひとつ息をついた。

「手当してると、さよちゃんの母親が彼女を迎えに来た。父親が連れ戻して来いって暴れてるから、そう言うんだ。なぁ、信じられるか? 自分の身を守るために、母親が子供を差し出すんだ」

「信じられるよ、そんな親は、いくらでもいる」

 冷徹なほど平坦な声で薫は言った。そうだな、その通りだ。

「玄関先でお袋に訴えてる母親の声を聞きながら、さよちゃんは震えてた。俺の手を力いっぱい握って、助けてって言った。怖い、助けてって。彼女の必死な目を見て、俺は、何度も頷いた。大丈夫だからって、何度も」

 僕は自分の両手に目をやった。あの小さな手の震えが、今も掌に残っている気がする。

「お袋は一緒にさよちゃんの家に行って、彼女の父親に話をしたけど、取りつく島もなく追い帰されて来た。それ以上何か言うと、さよちゃんへの仕打ちがエスカレートするのがわかってたから、泣く泣くさよちゃんを置いて来たんだ。お袋は児童相談所に相談しようと考えて、次の日、俺も一緒について行ったよ。その時の俺には、話の内容はよく理解できなかったけど、係員の対応が事務的で冷たかったことは覚えてる」

「当時はそうだろうね。まぁ、今も大差ないけど」

「児童福祉の現状ってやつを、今なら専門課程としてある程度は分かってるけど、その時は、こんなでっかい建物で働いてる大人達が、なんで小さい女の子ひとり助けられないのかって、不思議でしょうがなかった。家に帰ってから、お袋は俺の肩に手を置いて真剣な顔で、自分たちでできる限りさよちゃんを守ろうって言った。学校から帰ったら、なるべくさよちゃんと一緒に遊んで、様子を見てあげること、そしてもし何かあったら、すぐに教えてくれって。お袋はもともと心臓が弱くて、この頃は家で寝ていることが多くなってたけど、さよちゃんのことはいつも気にしてた。分かった、絶対にそうする。俺は、お袋に約束した。さよちゃんを助ける……本気で思ってたんだ、その時は」

 微かに震えた語尾に、薫は気づかない振りをする。膝の上で組み合わせた指に力を込めた。

「それから少しして、学校帰りにさよちゃんの家を通った時、彼女が門の前にじっと立ってたんだ。声をかけたら、一緒に遊ぼうって言われた。金木犀を集めるのを手伝ってほしいって。十月も終わりの寒い日なのに、さよちゃんは裸足にサンダルだけだった。俺はちょっと迷ったけど、友達と野球する約束をしてたから、今日は遊べないって謝ったんだ。それでも彼女は、俺の服の裾を引っ張って、なかなか離そうとしなかった。俺は彼女に謝りながら、約束の時間を気にしてた。そのうち彼女はあきらめたけど、俺が角を曲がるまで、いつまでもこっちを見てたよ。後ろ髪を引かれながら家に帰ったら、お袋は病院に行ってて留守だった。またさよちゃんのことが気になったけど、後でお袋に電話しようと思って、そのまま友達のとこに行ったんだ。俺は……野球に夢中になって、電話のこと、いや、さよちゃんのことはすっかり忘れた……。友達と別れてから、ようやくさよちゃんのことを思い出した俺は、急いで彼女の家に走った。風の強い日で、道の途中に金木犀がいくつも散らばってたよ。俺はそれを両手にかき集めて、さよちゃんの家に持って行ったんだ」

 閉めきっている教室の中で、あるはずのない金木犀の香りを鼻先に感じ、シャツで掌の汗を拭った。

「門を入って声をかけたけど、誰も出てこなかったから裏に回って見たら、縁側でさよちゃんの父親が一升瓶を抱えてべろべろに酔っ払ってた。俺に気づいて顔を上げたあの男の目を、今でもはっきり覚えてる」

 ゆっくりとすくい上げるように僕を見た目の奥の澱んだ光。狂気を持つ人間が発する負の炎だった。

「腰が引けたけど、さよちゃんのことを訊こうとした時、あの男の後ろで半分閉まってた雨戸の端から、伸ばした白い足が見えた。さよちゃんだってわかったけど、動かないから、寝てるのかと思ったんだ。あいつが、ふらふらしながら近づいてきて、俺を睨みつけながら、帰れって言った。怖いのと、胸くそが悪くなりそうな酒臭さに後ずさった時、突風が吹いて、手の中の金木犀が全部飛び散った。もう一度、帰れって言われて、俺は走ってその場から逃げた……逃げたんだ。家に帰って、お袋に事情を話してると、外が騒がしくなって救急車のサイレンが聞こえて来た。いやな予感がして、俺たちはさよちゃんの家に向かった。家の前に人だかりができてて、救急車とパトカーが停まってた。家の中から担架が運ばれてきて、小さい体が毛布で覆われてた。さよちゃんの母親は警官に付き添われて、一緒に救急車に乗り込んで行った。毛布から少しだけ見えた髪の毛に、黒く変色した血の固まりがこびりついてて、全身が粟立った。あの時、縁側の奥で、さよちゃんは死んでた……そう思った瞬間、俺は気を失った」

 強く抑えても小刻みに震える手を握り合わせて、声を絞り出した。

「俺が殺したんだよ」

 目の前に煙草の箱が差し出される。

「ここ、禁煙だぞ」

「いいから」

 薫はコーヒーの空き缶をベンチに置き、火をつけてくれた。立ち上がって窓を開け、自分も吸い始めた薫は、外に向かって紫煙を吐き出した。

「その子は、父親のせっかんで死んだんだ。八つやそこらのガキが、そんな問題にどう対処できるって?」

 僕は小さく笑った。

「それで済ませられるほど、自分に甘くなれないな。差し出した手を、俺は結局、最後に振り払ったんだ」

 灰を空き缶に落としながら、隣に座った薫に言った。

「その後すぐ、お袋が持病の心臓で死んだんだ。罰があたった。そう思ったよ。重なるショックで口がきけなくなった俺は、三か月近く病院暮らしさ。義理の母親と弟のことは、お前にも話してたけど、俺、この頃の記憶がところどころ抜け落ちてて、はっきりしないんだ。母親が死んで、気づいたら、新しい家族ができあがってたって感じかな。実家の金木犀は、精神の安定のために良くないって、俺が入院してる間になくなってたけど、俺の中には、今でもあの日の強い匂いが染みついて消えないんだ。だから、俺は」

「今、家にいる人間を放っておけない?」

 僕は頷いた。

「暁の生い立ちを聞いた時、過去の亡霊がそこにいるような気がした。正直、関わらずに逃げ出したかった。けど、混乱した頭で、それでも思ったんだよ。これは、巡りあわせかもしれないって」

「お前って、運命論者だったの?」

 薫の言葉に苦笑した。

「ってわけじゃないけどな。その言葉が不思議にすとんとハマったんだよ。どこに行くかなんて見当もつかないけど、今は、流れに逆らわずにいたい」

 薫は空き缶の中に煙草を捨て、ライターをつけたり消したりしていたが、やがてテキストを開くと下の余白に何か走り書きした。そして、その部分を破き、僕の前にそっけなく突きだした。

『目黒K病院精神科 杉田智宏すぎたともひろ』。紙片に目を走らせて、僕は顔を上げた。

「中目黒の駅の近くだよ。山手通りに面してる総合病院。その先生は一般の精神科医から、三年前に児童精神科の専門医になった人で、名医だよ」

「名医……」

「会えばわかる」

 薫の顔の広さを頼りに、わらにもすがる気持ちで相談した僕は、渡された紙片を大事にシャツの胸ポケットに入れた。

「恩にきるよ」

「いつ行く? 早い方がいいだろ」

「できれば明日にでも。土曜日だけど、大丈夫かな」

 言ってから、明日の可奈子との約束を思い出した。しかたないな、と自分に言い聞かせる。

「一度連絡してみるよ。お前、今日バイトは?」

「今日は休むよ。場合によっちゃ、しばらく行けないかもな」

「じゃあ、夜に電話する。それから、調べた新聞記事、プリントしてる?」

 僕は印刷した記事を薫に渡した。

「ちょっと借りていい?」

「いいけど、何で」

 それには答えず、薫は腕時計を覗いた。

「四限が始まるから、そろそろ行くわ」

「ありがとう」

「ツケにしといてやるよ」

 薫は立ち上がった。

「薫」

 ふと思いついて、呼び止めた。

「映画か小説の一節だと思うんだけどな。こんな台詞を知ってるか? 『おやすみなさい、またいつか。群がる天使の歌声に包まれて、永遠の安息に入られますように』。もしかして聖書かな?」

「シェイクスピアだろ、それ」

戸口の前に立っていた薫が言った。

「ハムレット」

「ハムレット?」

 おうむ返しに聞いた僕に、薫は頷いた。

「復讐を遂げて死んでいくハムレットに向かって、友人のホレイショーが捧げる鎮魂の言葉だよ。お前が言ったのは、ちょっとアレンジされてる。原文は『またいつか』じゃなくて『優しい殿下』だ」

 僕は言葉が出なかった。

 有名な古典から引用されたフレーズ。そこに含まれる暗示的な符号が、戦慄に似た震えを生んだ。

 復讐に命をかける主人公。言い換えられた一言。

 もちろん、当時の母が、そのひと言に他意を込めたなんてことは、ありえない。さよちゃんの死に動転する僕をなぐさめるために与えたおまじないのようなものだから、単に流れとして自然な言葉に差しかえただけだろう。それでも。

 またいつか。

 自分で言った「めぐりあわせ」という言葉が、耳の奥で乱反射する。

「高久? どうかした?」

「……なんでもない」

 自分の足先に視線を落として僕は言った。

「何か意味があるのか?」

「免罪符、かな」

 うつむいたままの僕に、しばらくして薫が訊いた。

「ハムレットの内容、知ってる?」

「ああ」

「で、お前は、ハムレットの復讐を助けるホレイショー?」

 僕は顔を上げた。薫は扉にもたれかかり、僕を見ていた。

「オフェーリアは、やめとこうね」

 そう言って笑うと、薫は部屋から出て行った。

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