第11話 「魂の敗北」


 揺れる篝火と遠くの火事に照らされた、薄闇の中の広場。空には月もなく、辺りには風もなく、ただ生ぬるい湿った空気が肌を撫でる。


 ここにはうろたえる住人たちがいて、俺とリルネがいて、そして俺たちの前にはたくさんの死体が転がっていた。


 身の丈二メートル近い大男。そいつが繰り出した剣の一振りで、大人も子どももみんな殺されたのだ。


 鼻を突く鉄のような臭い。この広場に途端に蔓延した死の臭いは、この異世界に来るまで、めったに嗅ぐことはなかったものだ。


 自分の感覚が麻痺しているのがわかる。


 現代日本で人が死ねば手厚く弔われ、親戚縁者一同が両手を合わせ、その人が生きた証は綿々と紡がれてゆく。それが当たり前だ。


 だが、ここでは違う。


 人が死ぬということが、日常のすぐそばにあるんだ。


 俺の目の前には、たくさんの人が血を流して倒れている。


 なにも遺せず、道路の端で息絶える羽虫のように地面に突っ伏して。


 息が苦しい。


 誰かを救おうと思って、誰かの役になりたいと思っていても、すべて無駄だ。人が死ぬのはこんなにもあっけないのだ。


 つらい、苦しい。


 俺は手のひらで顔を押さえた。


 今というこの状況に心が押しつぶされそうになる中、俺は岩のようにそびえる巨大な騎士を見やる。


 くすんだ金髪と、そこに交じる白髪。顔に刻まれたシワは深く、その目の色は蒼。こんなところで出会わなければ、賢者のような印象を受けただろう。


 だがそいつは血まみれの剣を片手に、鋼鉄の鎧を身にまとっていた。


 俺は小さく口を開く。


「なんなんだよ、お前は……」


 男はなにも答えない。


 明らかに身なりの違う俺とリルネを見ても、眉ひとつ動かすことはない。


 恐らく、眉ひとつ動かさずに俺たちを始末するのだろう。


 子どもたちを斬り殺したように。


 そんなこと――やらせて、たまるかよ。


 俺は腹に力を入れる。


 この男を相手にして無事に済むとは思えない。


 まずはここを逃げ出すことだ。倒そうだなんて考えちゃだめだ。みっともなくてもいい、生きるんだ。


 小さく「ジャッジ」とつぶやく。


 だが、ステータスは俺の視界には表示されなかった。


 この効果がまったく効かない相手……?


 そんなやつ、いるのか……!?


 メーソンのときは表示は出るけれど、そのほとんどが不明だった。この相手、グロリアスはそもそも表示すら出ない。どういう違いがあるんだ。


 いや、今はそんなことよりも。


 グロリアスが一歩踏み込んできた。


 俺は身をかがめる。


 見たところ、グロリアスは構えらしい構えは取っていない。無防備だ。


 よほど鎧の防御力が高いのか。だが、俺の迅剣ならば貫けるだろう。


「アシード!」


 リルネの肩に一匹の蜥蜴が顕現する。


 水魔法を使わず、即座にアシードを出したことから、相手の力量がただの騎士ではないとリルネも気づいているのだ。


 リルネは後ろに飛び退きながら、その腕からアシードを放った。


「叩きのめして!」


 蜥蜴は空中で翻ると燃え上がって炎へと変化した。


『手加減はできんぞ!』


 リルネが時間を稼いでくれている、今のうちに――!


「お前たち! 早く逃げろ!」


 俺は振り返り叫ぶ。


 後ろで固まっていた人たちはその叫びでハッとして我に返ったようだ。それぞれ別々の方へと走り出して――。


 それぞれ悲鳴にあげた。


 まるで後ろから斬りつけられたかのように背中が引き裂かれ、血が飛んだ。彼らは数歩走っては、そのたびに倒れてゆく。


 なんだこれは。いったいなにをしているんだ。


蜥蜴槌バーンスト――!」


 そこで叫び声があがり、俺は再び振り返る。


 グロリアスに相対するリルネの後ろ姿だ。


 空中から振り下ろされる炎の槌を見据え、グロリアスは剣を構えた。


 それでも俺はまだどこか期待していたのだろう。リルネならばあいつを倒せると。


 先ほどの騎士を一蹴したリルネが、そう簡単に負けるはずがない、と。


「――ライク!」


 リルネの渾身の炎魔法が繰り出される。それに合わせて、グロリアスは剣を振り上げた。


 なにかが断ち切られた音がした。


 水を裂くような、空を斬るような、そんな感じなのに、そういうものとはまるで違った印象を抱くような――。


 魔法は最後まで発動せず、地面をなにかが転がった。


 それは傷ついたアシードだった。


「えっ?」


 リルネが目を剥く。


 グロリアスは炎を斬ったのだ。


「うそ――いやっ!?」


 それとともに、リルネの右腕が燃え上がる。アシードがやられたからリルネもダメージを受けたのだろうか。彼女はつらそうに顔をしかめた。


 グロリアスは再び剣を振るう。その瞬間、背後から悲鳴が飛んだ。


 あいつ……、あの距離から遠くの人を斬っているのか……!?


 誰も逃さない気なのか。


 目の前にいる俺とリルネのことなんて、どうでもいいっていうのか。


 凄まじいほどの実力の差を感じる。


 勝てるだとか、勝てないだとか、逃げられるだとか、逃げられないだとか、そんな葛藤がすべて無意味だったことに俺は気づいてしまった。


 俺たちの命運は最初から、この男の手のひらの上だったのだ。


 グロリアスは俺たちを見ていない。その光のない瞳は、違うなにかを見据えていた。


 弾かれたように、俺はグロリアスへと駆け出した。


「だめだリルネ! 逃げろ!」

「ジンっ!」


 グロリアスの巨体を見据えながら踏み込む。


 剣は抜かない。撃ち出すのは俺の必殺技、トリガーインパクトだ。


 握った拳の先が熱くなる。力はこの手の中にある。もし一撃を叩き込むことができれば、俺にだって――。


 そう思った次の瞬間、俺の目の前が真っ暗になった。


 え?


 遅れて、左腕が生きながら焼かれるような痛みが襲いかかる。


 なんだこれ。


 左腕を熱した油の中に突っ込んだみたいな痛みだ。


 痛い。


 目も耳もなにも感じなくなった。あまりの痛みを浴びて、脳がオーバーフローを起こしているのだ。


 なんだこれ、なんだこれ。


 なんでこんなことになっちまったんだ。


 この広場に来たからか?


 針猫団とかかわっちまったからか?


 それとも、こんな異世界に来たからか――。


 ダメだ、もう、痛くてたまらない。


 一秒でも早く気を失いたい。そうでなければ、正気を保つことはできない。


「ああああああああああああああああああああ!」


 俺は自分が叫び声をあげていることすらわからず、地面をのたうち回る。


 なにもかもが真っ暗な中。


「ジン! ジン!」と必死に呼びかけてくるリルネの声だけが、世界のすべてだった。












 そして――。


 目が覚めた俺は再びきょうの朝に戻っているのかと思ったが――。


 違った。


 ここは冷たい石の上だった。


「……?」


 異臭がする。不潔で不衛生な環境だ。目の端を嫌なものが横切って、俺はびくりと震えた。


 なんなんだここは……。


 ゆっくりと身を起こそうとして、俺は真っ先にあるべきものがそこにないことに気がついた。


 左腕が、ない。


「え、あ……」


 肩には包帯が巻かれていて、それも血でべっとりと濡れていた。


 気づけば遅れて灼けるような痛みが俺を襲った。


 痛い。少しでも動くとまた余計に痛い。俺はうずくまって涙をこらえる。


 左腕はどこにいってしまったんだろう。こんなに血を流して、俺の命はそう長くないのか……? 回復魔法とか、そんな便利なものがあるんだっけか、この世界は……。


 体は寒く、辺りは妙に暗い。


 目を細めると、視線の先には複数伸びる棒が行く手を遮っていて……、ああ、ここは牢屋なのか……。


 檻の奥には、机の上でランプの火が揺れている。なのになんでこんなに暗く感じるんだろう……。


 俺の目がおかしくなっているのか。


 耳も遠い。外部のセンサーがすべて故障して、その代わりに左腕の痛みが内側から俺を突き破ろうと暴れているようだった。


 あまりの痛みに、なにも考えられない。


 剣がなくなっていることや、あのあとに広場のみんなやウォードたちがどうなったかも、少しだけ思い出して泡のように弾けて消えた。


 俺が体の痛みを必死に耐えていると、檻の向こうに人の気配がしていることに気づいた。


 いったい誰だろう。


 ああ、ここが牢なんだから、俺をここに連れてきたやつか。


 そう思うと、急に頭の中の回路が繋がった。


 俺が意識を失う直前の出来事がフラッシュバックする。そうだ。


 あのグロリアスにきっと左腕を斬り落とされたのだ。


 それで俺は意識を失って……。


 違う、ええと、もっと大事なことがあったはずだ。


 痛みを味わいながらぼんやりとしていると、少しずつ視界が定まってきた。


 檻の向こう側で人がなにやら動いている。男がふたりか。なにかを見下ろしている。椅子に誰かが座っていた。


 瞬間、音が戻った。


「もう、やめて……、いたいの、いやだよぉ……」


 か細い声。俺は男の隙間から、椅子に座らされている少女を見た。


 両手両足を縛られた彼女はさめざめと涙を流していた。


 男たちが言う。


「チッ……、呪文の集中ができなくなるようにって投薬したら、このザマだ。泣いてばかりで話なんてできないじゃないか」

「娘より若い子を拷問だなんて、嫌な仕事だな。とっとと終わらせてしまおう」


 目の周りを涙で腫らしたその少女が、椅子に縛りつけられたその両手には、一本の爪も残っていなかった。


 指先から血を滴らせて、彼女は泣いていた。


「あたし……、なにも、しらない……、しらないってば……、ほんとうに、だから、いたいの、やめてよぉ……」


 俺は立ち上がっていた。


 檻を右手で握り、うめき声を漏らす。


 うーうーとまるで獣のような声が俺の口の端から漏れた。


 お前たち、なにしてんだよ……!


 リルネになにしてんだ……!


 ふざけるなよ!


 業火のような痛みと怒りが混ざり合い、俺の視界は赤く染まった。


 その様子に気づいた男のひとりが、俺を見た。


「ああ? こっちのやつも起き上がっているな。とっくに死んだかと思っていた」

「だったらそっちに聞くか?」

「いや、どうも喉をやられたらしい。もう喋れないだろう」

「生きているなら使い道はあるさ」


 男が近づいてくる。


 俺はそいつを射殺すほどに睨みつけていた。


 動いたためか、傷口が嫌というほどに痛みを主張する。


 なにも考えられなくなってゆく中、俺は怒りだけを燃料に立っていた。


 男は檻にカギを差す。こんな半死人相手に拘束はいらないと高をくくっていたのだろう。


 目にものを見せてやる。


 リルネの命を弄んだお前たちを、俺は許さない……。


 俺は爆発のイメージを思い浮かべた。今は力をためて、敵がこの檻に入ってきた直後に爆発させるんだ。


 絶対にこいつらを殺してやる。


 殺すんだ、俺の手で。


 牢が開いた。


 俺はうなり声をあげながら、男に飛びかかる。


 だが片腕のない俺は、簡単に取り押さえられてしまった。


 傷口を殴られる。それだけで脳に火花が散ったようだった。


「じん! じんっ!」


 リルネが俺を呼ぶ声がする。


 俺は押さえつけられたままでもがいてみせる。だが、男の拘束は外れない。


「やかましいやつだな。お前、字は書けるか? お前が殊勝な態度をしていれば、あの娘の命は救ってやらないこともないぞ」


 なおも暴れる。痛みでなにも考えられない。


 ただ目の前のこの男を殺すこと以外は。


「だめだな、そいつは。もう理性が飛んでいる。狂っちまったんだろうよ」

「そうか、参ったな。ったく、汚れ仕事だぜ」


 男の手が、俺の首を掴んだ。


 息が詰まる。


 苦しい。


 それでも俺は右腕でその男の顔面を掴む。おいやめろと怒鳴られて、俺の腕がもうひとりの男に踏みつけられた。発狂しそうになるほどの痛み。だがそれでも俺は、俺は――。


 視界が真っ暗になった。


 無限に続くような苦しみの中、俺はもがく。


 だが痛みが連鎖的に拡大するだけで、そこに救いはなく。


 ある瞬間を境に、意識がぷっつりと途切れた。



















 ざざ、ざざ……。という耳鳴り。


 そして俺の意識が、浮上する。


 朝日が目に眩しい。


 がやがやという賑やかな声がする。


 ここは……。


「――ねぇ、大丈夫――?」


 その声を聞いて、俺は我に返った。


 すぐそばに、こちらを見上げる銀髪の少女。リルネの姿があった。


 彼女は凛とした瞳で俺を映し出している。


「……なんだか、死人みたいな顔しているけど……?」


 その瞳に映る俺の姿は、ひどいものだ。


 そうか。


 戻ったのか、俺。


 また、この日の朝に。


「リルネ」

「え?」


 俺はテスケーラの往来で、失った左腕を使ってリルネを抱きしめた。


「えっ、ちょっと、えっ!?」

「リルネ」


 涙がこぼれた。


「ごめんな」


 椅子に座って泣き濡れるリルネの姿が、目に焼き付いて離れなかった。


 俺はしばらくの間、戸惑うリルネを抱きしめていた。




 この日、俺はテスケーラの街を出ることを決めた。

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