第4話 「エンディングトリガー1」



「ねえ」


 リルネが言った。


「もういいわ、ジン」

「……あ?」


 路地、大通り、広場、詰所。どこに行っても、人々は石に変わっていた。生身の人間はたったのひとりもいなかった。


 リルネの誕生日を楽しみにしていたあの魔法学校の少女たちも、奴隷商も、酒場で飲んでいた男たちも、皆、石に変わっていた。


 星の降る夜に静まる街は、死で覆い尽くされていた。


 俺たちは体力の限界まで走って、路地裏に身を隠していた。いずれすぐにここも見つかってしまうだろう。


 本当に、なんでこんなことになってしまったのか。


 突如として現れたメーソンというひとりの化け物が、俺たちの平穏と日常のすべてを奪っていったのだ。


 そんなとき、井戸と水桶を指差して、汗に濡れたリルネが息を切らしながら笑う。


「あなたは元の世界に帰って」


 俺は眉をひそめた。


「……なに言って」

「見えているんでしょう。『あっちの世界』が」

「…………」


 見えている。


 水面の向こうには、いつだって日本が広がっている。


 汚れているけれど、平和で、安全で、人殺しとは無縁の世界だ。


 リルネは俺の肩を叩いて、言った。


「ありがとう、ここまで手伝ってくれて。あと少しでしょう? あたしだけでも逃げ切って見せるわ」


 寝間着にローブを羽織っただけの彼女は、震えている。


 彼女が上手に作ろうとした笑みはこわばっていて、痛々しかった。


 俺はなにも答えなかった。


 夜闇に吐いたため息が、溶けて消えてゆく。


 リルネは汗で張りついた銀髪を指で分け、静かに首を振った。


「もうあたしのせいで死ぬ人が増えるのは、嫌なのよ」


 俺は強く否定する。


「お前のせいじゃない。あの化け物のせいだ」

「……でも、あれが狙うのはあたしでしょ」

「襲われた方が悪いはずがない。絶対にだ」


 そう言い聞かせたところで、彼女が納得しないのはわかっていた。目の前でメイドや使用人、それに父親までも失ったのだ。彼女はいつまでも自責の念を抱き続けるだろう。これからも、ずっと。


 俺にはリルネの呪いを解くことはできない。その悲しみを肩代わりしてやることも、なにもしてやれない。


 言葉すらも弱い、無力なこの身がひたすらに悔しかった。


 異世界と現代を行き来できる力なんて、なんの役にも立たない。


 少女ひとりを救うことすらできやしない。


 俺は思いっきり人を助けられると思って、この世界にやってきたのに。こんなんじゃなんの意味もなかった。


 ただ、『人ひとりができること』の限界を知っただけだった。


 俺は打ちひしがれていた。


 いつまで経っても歩き出さず、ただ固く拳を握る俺を眺めながら、リルネは思いきり顔をしかめた。


「なんで、あんたは」


 そこにはあらゆる理不尽に対する憎悪が混じっているような気がした。なにひとつ自分の思い通りにならないことに憎しみを覚えるかのように、リルネはつぶやく。


「……なんで人のために、そこまでするの。意味わかんない」


 俺の口から、血のような言葉がこぼれ出た。


「別に、人から感謝をされたいわけじゃないんだ」

「だったら、なんで」

「……」


 どうしようかと迷う。


 どう考えても今みたいな切羽詰まった状態でする話ではないし、きっと理解してはもらえないだろう。


 それでも、今のリルネに誠実さを欠いた言葉を告げるわけにはいかないのだと強く思った。だから俺は答える。


「ば、婆ちゃんがさ」

「……へ?」


 リルネの反応に、俺は自分の頬が熱くなるのを感じた。


 俺はそっぽを向きながら、続ける。


「婆ちゃんが見てんだよ、天国から……、だから、俺は俺を裏切るわけにはいかねえんだ。せめて婆ちゃんに会うときは、胸を張って会いにいけるように、さ」


 俺がそう言うとリルネは『こいつマジ?』という顔をして、目を見張っていた。


 言わなきゃよかった……。くそう、絶対に変なやつだって思われてしまった……。


 不信感を助長する結果になってしまったのではないだろうか。俺は頭をかく。


 リルネは面白がるように尋ねてきた。


「あんた……、お婆ちゃんっ子だったの?」

「うぐ、そ、そうだよ」


 悪いかよ。


 リルネはまるで可哀想なものを見るような目で、俺を見つめてきた。


「異世界まで見てるとか、どんだけ千里眼なの、あんたのおばあさま」

「揚げ足取るんじゃねえよ!」

「それに死んだっておばあさまに会えるとは限らないわよ。あたしみたいにもう一度人生をやり直す可能性だって」

「俺もお前もレアすぎるケースだろ!」


 顔をあげて声を荒げると、リルネは「ふふっ」と笑っていた。


「ばかね、あんた本当に」


 目を細めた彼女の深い表情に、俺は一瞬だけ見とれてしまった。


 あふれ出しそうな悲しみを胸に抱えながら、それでも希望を捨てず、不条理な殺戮と暴力に立ち向かおうとする鮮烈な表情だった。


 こいつ、やっぱり俺より年上なんだな。


 俺なんかが救ってやろうって思うのがおこがましいような、自分ひとりでもなんとか生き残ってやるとでも言わんばかりの彼女を見て。


 つられて、俺も少し笑った。


「エンディングトリガーの達成まであと少しだ。そうしたらあっちの世界からたくさんポテトチップス持ってきてやるからな」

「それは死んでいられないわね」


 リルネに手を伸ばすと、彼女はその手を掴んだ。


「頼りにしているわよ、ボディーガードさん」

「ああ、任せてくれ、お嬢様」


 恭しく一礼する俺を見て、リルネはまたかすかに笑った。


 短い間の付き合いだとしても、関係ない。俺はその笑顔を絶対に失いたくないと思った。


 ――そのときだ。


 俺たちが潜んでいた路地裏。それを挟むように建つ塀越しの建物に光が走るのを俺は見た。


「危ない!」

「えっ?」


 リルネの盾になるかのように体を滑り込ませた俺の見上げる先だ。一瞬輝いた光が静まった直後、建物がバラバラに分割されてゆく。屋敷の扉が破壊されたのと同じようにだ。


 メーソンはもうそこまで迫ってきていたのか。


 同じように塀にも閃光が走る。ここにいては同じような運命をたどると思った俺は、リルネを抱きかかえながら大きく跳んだ。


「や、ちょっ、えっ!?」


 リルネの騒がしい声を聞き流しながら、俺は振り返る。


 すると崩れ落ちた塀の向こうから、ぬらりと一匹の黒衣の化け物が姿を見せた。闇夜に紛れることない黒い姿は、邪悪を凝り固めたようだ。


 メーソン――。


 正体不明。本名不明。素顔不明。種族不明。動機不明。


 ただ目的だけがハッキリとわかる。――リルネ=ヴァルゴニスの殺害。


 俺はその運命を変えるために今、ここにいるのだ。


「リルネ、逃げるぞ!」

「う、うん!」


 希望はまだ失っていない。


 二月二十七日の終わりは、確実に近づいてきているのだから――。



 体力の限界とともに、俺たちはついに追いつかれた。


 そこはまるで月に至るかのような大通り。


 不吉な気配をまとわせた男がやってくる。


「くくくけはははどうですか見てもらえましたか私の芸術品。そう今はこの街全体が私の展示場なのですよ。絶望に染まった顔で石化する男! 泣き叫びながら死にたくないと懇願し地を這いつくばりながら石に変わる女! この街には感情が溢れている!」

「――黙りなさい!」


 反射的にリルネが手のひらから炎を放った。生身相手ならば焼死体も残らないような苛烈な炎は、黒いローブをわずかに揺らしただけにとどまる。


 石化した街を浮かび上がらせた炎は一瞬にして掻き消えて、再び静寂が戻る。それに異を唱えるかのように、リルネはなおも腕を振るう。


「――千回殺したところで、万回殺したところで、あんたの罪は永劫に晴れないわ!」


 敵を誘い込んだのは、あるいはリルネだったのかもしれない。


 次々と、次々と炎が放たれてゆく。空から叩きつけられる炎の槌。地面から噴き出す火柱。空中で爆散する炎の塊。それらは大通りの地面を溶かし、辺りを火の海へと変えた。


 これほどの火力をたったひとりの少女が叩き出しているという事実に、俺は恐怖を通り越して羨望すらも抱いた。


 リルネが本気になれば、この町を一晩と立たずに焼き尽くすこともできるだろう。これが魔法使いの真の力なのか。


 周囲の気温は急上昇した。黙っていても汗が噴き出す。乾いた風に喉がからからに干からびてゆくが、それでもリルネは魔法を撃ち続けた。


 炎の円舞はメーソンの姿を覆い尽くす。見えない標的めがけてリルネは息切れしながらも、火炎を撃ちこむ。


 サラマンダーが踊り、その尾が揺れるたび、さらに町は赤く煌めいた。生じた赤熱はもはや地下深くまでただれ落ち、地面に空いた深い穴の底が見えなくなる。ここが地球ならばコアにまで繋がっていそうな穴が穿たれた。


 まるで無限に思えるほどの時間が過ぎ、リルネはがくっとその場に膝をついた。俺は慌てて彼女を支える。


「だ、大丈夫か?」

「……はぁ、……はぁ……」


 目の焦点が合っていない。精根尽き果てるまで魔法を放ったのだろう。彼女はつつつと鼻血を垂らす。


 無意識に顔の血を袖で拭ったリルネはせき込んだ。地面に吐いた唾はそれもまた、鮮やかな血の色をしていた。


「おい、リルネ!」


 強く呼びかけると、彼女の体に力が戻った。


「……、うん、平気……、大丈夫……、あいつは……?」

「わからない。お前の炎でなにも見えねえよ」

「へへ……、ざまあみろ、だわ……」


 よろめきながらも、リルネはひとりで立ってみせた。口元に浮かんだ薄笑いは、しかし次の瞬間に粉々に破壊された。


 炎の中から、メーソンは現れた。


 無傷であった。


 俺は奥歯を噛み締めた。なんなんだよ、こいつは……、本当に……。


 リルネが納得できないとばかりに叫ぶ。


「なんなのよあんたは! なんであたしを狙うのよ! こんな、街の人を大勢巻き込んでまで! なにがしたいのよ!」


 まったくだよ。俺はリルネをかばうように立ちながら、メーソンの一挙一動を見据える。


 炎に照らされながら、不条理の権化は立ち止まった。


 俺たちは身を固くする。


 リルネの問いに答えてくれるとは思っていなかった。だが、メーソンは落ち着いた口調でこちらに袖を突きつけてきた。


 そうして例のひどく聞き取りにくい声を発する。


「それは貴方が私たちの芸術を脅かそうとしているからですよ私はただ己の矜持を守るためだけに貴方を『加工』しようとしているに過ぎませんええそうですとも大義は我らが手にあり!」

「……なんなの……」


 青ざめたリルネの震える唇から声が漏れる。


 大儀……? 己の矜持を守るために……?


 わけがわからない。


 メーソンは腕を振り上げる。


「貴方の持つ『力』はいずれ必ず我々の芸術を脅かす! それがわかっているからこそこうして使命を果たしに来たのではありませんか!」


 リルネはギュッと胸を押さえる。


「あたしの『力』って……、あたしの魔法は通用しなかった。なにも……。あたしには、なにも、ないわ……」


 転生し、コツコツと努力を重ねていった結果、比類なき天才とまで呼ばれたその魔法が一切通用せず。


 そして生まれたときから大切にしてくれたメイドや使用人の命を奪われた。


 リルネの小さな体は、もはや崩れ落ちてしまいそうだった。


 ――だから、俺がリルネをかばうように前に出る。


「お前が誰であろうと何者であろうとも知ったこっちゃねえ……」


 メーソンを見据えながら、俺は怒鳴る。


「お前はたくさんの人を傷つけて、この街を悲しみで覆い尽くした。そんなの絶対に許されねえだろ……!」


 だが、メーソンはその言葉になんの感情を示すこともなかった。


 俺をまるで見ていない。路傍の石とでも思っているのか。くそ。


 メーソンはゆらりと右腕を掲げた。手慣れた有様で、町中の人々をそうしたように、俺たちを始末するつもりだ。


「なにが芸術だ! お前のやっていることはただの大量殺人じゃねえか! 石工職人(メーソン)を名乗るなら、てめえの墓石でも掘ってろ!」



 直後――。


 ――ピピピ、ピピピ、とアラームが鳴った。



「ジン!」

「あ――」


 俺はハッとした。


 鳴っているのは、上着のポケットだ。あらかじめセットしていた。日付が変わったことを告げるアラーム。


 その次の瞬間、メーソンの体がフッと。


 掻き消える――。


 ……ってことは……?


 いまだ半信半疑ながら、どきりと胸が高鳴る。


 リルネもまた、わずかな喜びを顔に浮かべていた。


「終わった……?」

「ああ、終わったんだ」


 俺たちは手を握り合う。


 二月二十七日は終わった。俺たちは死の運命を乗り越えたのだ――。


「リルネ……、無事か……?」

「ぜんぜん無事じゃないけど、なんとかなった、のかな」


 リルネは煤だらけになった自分の服を見下ろして、ぼうっとした顔でつぶやいた。


 それでも、いいじゃないか。


 彼女の命が助かったのだから――。



 刹那、ぶわりと風が薙ぐ。黒い霧だ。


「それではニンゲンさまここいらで幕引きといきましょう致しましょうあまりにも長々と続く演目は退屈極まりなくつまらなくつまらなくつまらなくなくなく」


 死の町に朗々と響くメーソンの口上――。


 え?


 その向こうにあったのは、確かにメーソンの姿だった。


 なんで。


 黒い風を浴びた俺とリルネは、気づく。


 ――メーソンは消えたんじゃない。やつがこれまで以上に大量の黒い霧を発生させていたため、その姿が見えなくなっていただけだったのだと。


 背筋が凍りつく。


 ――俺の指から先が徐々に石に変わっていた。


「嘘だろ――」

「ジンっ!」


 絶望はさらに忍び寄る。


 ――隣に立つリルネもまた同じように、その足首から先が石化している。


「ジン……、あたし、足の感覚が……!」


 リルネはすがりつくように俺の腕を強く掴む。恐怖に見開かれた碧色の目には、絶句する俺の表情が映り込んでいた。


「なんで……」


 口から自分のものではないようなしゃがれた声が出た。


「――――死の運命は回避できたんじゃなかったのかよ!」


 俺は絶叫した。



 髪をかきむしる。


 時計はぴたりと合っていた。この世界と元の日本の時間の流れはまったく同じだ。電波時計を持ち込み、元の世界とのずれを何度も観測して、確認したはずだった。


 それなのに、なぜ――。


 俺は認めたくなかった。


 ――『エンディングトリガー』とやらが、俺の望むものではなかったということを。


 今まで目指していた道しるべが蜃気楼のオアシスでしかないと知った男の末路は、哀れなものだった。


 生きながら石に変わり果て、そして砕かれるのを待つのみ。


 愚かなのは、隣に立つ少女を巻き添えにしてしまったことだ。


 最初から信じられるものなどなにもなかった。


 そうだ、この力だって誰から与えられたものだかわかったものじゃない。エンディングトリガーだって本当なのかどうかわからない。


 なんで俺はこんなものを信用して、こんなものにすべてを託してしまったんだ。


「嘘だろ、おい……。なんだよこれ、なんなんだよ……」


 指先の感覚がなくなってゆく。どんなに動かそうとしても、そこに力は伝わらない。回路を絶たれたかのようだ。生きながら石に変えられるのはこんなにも恐ろしいことなのか。


 自分の体が自分のものではなくなってゆくかのような感覚に、俺は悲鳴をあげそうになってしまう。


 メーソンへの憎しみに満ちていた。ここで死ぬことへの恐怖に満ちていた。リルネを救えなかった悲しみに満ちていた。愚かな自分への嘆きに満ちていた。理不尽な運命への怒りに満ちていた。


「ジン、どうして、ジン……、やだ、ジン……、死なないで……!」


 リルネと目が合った。足元から石に変わってゆく彼女は、なおも俺の腕を引く。それを握り返す指すらも、俺はもう動かせない。胸から下はすでに石に変わっていた。


 彼女の瞳に涙が浮かぶ。どうやらリルネよりも俺の石化の進行のほうが倍以上早いようだ。すぐに石化の侵蝕が首までやってきた。俺は彼女を見つめながら、小さく口を開いた。


 ごめんな、と言おうとした。


 だが、すでに顔面の下半分は石に変わっていた。


 最期の言葉を告げる自由すらも、俺にはもうない。


 ミシミシという音が耳の奥から聞こえてくる。


 視界が奪われた。なにも見えない。


 最後に見たリルネの顔は、悲哀と恐怖にひきつっていた。町中で石に変わっていたものたちと同じように。彼女は絶望のままに死んでゆくだろう。


 俺は頭の中でもう一度繰り返した。


 ごめんな。


 すぐに脳も石に変わるだろう。


 俺は彼女を助けられなかった。


 物語はここで終わりだ。





 暗闇の中に光が瞬いた。


 それは耳の奥ではなく、もっともっと深いところから響いてくる声だった。


『エンディングトリガー:1を達成しました。固有スキルを取得します』





 固有スキル。


 胸の中でそうつぶやいた次の瞬間、ウィンドウが開いた。それは俺も初めて見る、俺自身の力だった。



>トリガースキル:トリガーインパクト《発動可能》



 トリガーインパクト。


 その力ある言葉を、俺は心の中でつぶやく。


 冷たい石に変わったこの体に、再び熱が戻ってくるような気がした。


 トリガーインパクト。


 もう一度つぶやくと、心臓が脈を打つ。それは確かに俺が生きている証だった。


 まだ終わっていないのか。


 俺の物語は、まだ終わっていないのか。


 遅れてやってきた運命の女神が、微笑んでいるような気がした。拳を握り力を放てと、リルネを救えと、俺にそう命じているかのようだ。


 だったら――。


 目を見開く。石に変わっているはずの俺は、リルネにゆっくりと近づくメーソンの姿を見た。


 胸元まで石へと変わったリルネは、メーソンから逃れようと精いっぱい背を逸らしている。だが足が動かない。


 メーソンはそんなリルネに手を伸ばす。袖から現れたのは人の腕ではなく、まるでノミのような形をした触手だった。扉や家屋を破壊したのはこの触腕だったのだろう。


 ふたりの距離はすでに息がかかるほどに近い。


 リルネは泣きながら俺になにかを叫ぶ。


「ごめんなさい、ジン……、あたしのせいで、あなたまで、ごめんなさい……、ごめんなさい……!」


 バカを言うなよ。勝手に首を突っ込んだのはこっちだろ。


 謝るのは俺の方だ。


 だが、その前に――。


 俺は歯を噛み締めた。


「――このクソ野郎を一発ぶん殴ってからな!」



 俺の全身を覆っていた石が、内側からまるで殻のように弾け飛んだ。服をまとった俺の姿があらわとなる。


 二種類の驚愕の視線が、俺を貫く。


「え?」


 リルネは涙の浮かんだ目を見開いている。


 メーソンもまた俺を向いて、硬直していた。


「――貴方は『何処』から現れた!?」


 なぜではなく、どうやってではなく、メーソンが『どこから?』と問うたことの意味はわからず。


 俺はとにかく、渾身の力で左足を踏み込んだ。


 力の使い方はわかっている。この夜を引き裂くような一打をぶちかますために、俺は引き絞った右腕の拳を強く固めた。


 化け物め。


 人々の暮らす町を蹂躙した報いを受けるがいい。


 左足に体重を乗せて、俺は全身で突っ込むようにして右腕を加速させた。拳に宿った光がまるで流星のように長い尾を引く。右腕が灼けるように熱い。この胸もまた同じように。


 光は弧を描き、握り固めた五指をただひとつの聖槌に変える。


 狙いはメーソンの顔面。その闇をかき消すように俺は拳を放った。


「――トリガーインパクトォおおおおおおッ!」


 衝撃の瞬間、まばゆいほどの光が世界を覆った。


 メーソンの顔面に突き刺さった拳に伝わるのは、確かな手ごたえだった。


 パァンという空気が弾けるような音が響き、俺が体中で叩きつけた一撃スキルによって、メーソンは後方に吹き飛んでゆく。


 今までなにをしてもダメージを与えることができなかったメーソンが、初めてまともに攻撃を食らったのだ。


 よろめきながらも踏み止まったメーソンの頭部には、光が宿っていた。それは俺の拳から放たれたトリガーインパクトの光だ。


「この私が私が私が私が『加工』する前に自らみずから自ら自らみずからみずから自ら『叛罰アンチパニッシュメント』を破るなどと――!?」


 メーソンの口調はさらに奇怪さを増していた。ローブの裾から伸びた触手で頭を押さえようとするメーソンだったが、しかしその頭部は妙に膨らんでゆく。まるで内側に空気を入れられたかのようだ。


 風船が弾けるようにしてその頭部が爆ぜた。黒い霧が空気中に散布される。だがクロスボウを受けたときとは全く違っていた。メーソンの体がしぼむようにして徐々に傾いていっているのだ。


 俺は右拳を振り切った体勢のまま叫ぶ。


「てめえが石に変えた町の人たちを元に戻せよ! メーソン!」


 が、メーソンは俺に向かって金切り声をあげるのみ。


「まさかまさかまさかまさかまさかまさか、あなたも――主人公メサイア! こんなところにふたりの主人公メサイアがそんなまさかまさかあああああああああああああああああああああああ!」


 絶叫するメーソンの体はさらにしぼみ続けてゆく。メーソンは袖から何十本もの触手を出し、自らの体に巻きつけた。その場に触手の一本を突き刺し、高速回転を始める。なんなんだ。


 ――凄まじい速さで回転するメーソンは、ある瞬間を境にぴたりと掻き消えた。目を離したつもりはなかったのに、消え失せたのだ。


 土に潜ったのか空を飛んだのか、あるいはもっと超常的な力か。とにかくメーソンは一瞬にして姿を消した。


 町が燃える音とその匂いだけがあとに残っていた。


 俺は茫然と、つぶやく。


「……逃げた、のか?」


 どこかの暗闇から再び化け物が現れそうな気がして、俺は辺りを見回す。


 だが、なんの気配もしない。


 ……そうか。


 途端、全身からどっと力が抜ける。凄まじい疲労感だ。気を抜けばその場に倒れ込んでしまいそうだった。


 って、こうしている場合じゃ。


「リルネ……!」


 俺はふらつく頭を押さえて、石に変わりつつあった彼女に顔を向ける。


 すると、そばにいたリルネの胸から下の石が、ぽろぽろと剥がれ落ちてゆくのが見えた。


「あ、あ……、ジン……」


 徐々に彼女の素肌が見えてくる。俺は心の底から安堵した。完全に石化する前だったから間に合ったのか。


 よかった。


「よかった、リルネ。本当に、よかった」


 俺の全身から力が抜けてゆく。


 立っていられなくなった俺は、その場に崩れ落ちた。


 リルネが胸を押さえながら、俺に駆け寄ってきた。必死に俺を呼びかける声がする。


 ああ、ちゃんと動けるようになったんだな。よかった。本当に。


 俺は泣き出しそうな気持ちのまま、目を閉じた。


 よかった。俺は、リルネを――。


 意識が少しずつ遠ざかる中、この体を揺らすリルネの手の感触を俺は、まるでゆりかごのように心地よく感じていたのだった。





《エンディングトリガー:1》


《二月二十七日、リルネの死の運命を覆せ》


 達成コンプリート――。


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