#04. 約束

 病院の静かな廊下を歩いていた。見舞い客と何度かすれ違った。

 どうして病院の廊下は、こんなにも薄暗いのだろうかと、ふと思う。電灯がついているにもかかわらず、どこか薄暗く感じるのだ。死が違い場所だからなのか。これは完全に俺の思い込みであるが、そう感じられるのだ。

 病室までの道順は覚えていた。何度も通っていたから。

 かすかに鼻につく消毒薬の匂いにも慣れた頃、彼の病室についた。

 扉をノックする。返事はない。けれど、俺はドアの取っ手に手をかけた。

 重たいスライド式のドアを開くと、ベッドの上に起き上がっていた彼が、視線を手にしている本からこちらへと移すところだった。

「おはよ、シゲちゃん」

「おはよ、いっちゃん」

 俺たちは微笑みながら挨拶を交わす。室に入ると、俺の背後でドアが独りでに閉まる音がした。広くない病室を彼の元へと進む。

 シゲちゃんが本をサイドテーブルへと置いた。声をかける。

「調子はどう?」

「何も変わらないよ。今日は本を読めるくらいには気分はましだけど」

 ずいぶん痩せている。俺はそう思ったけれど、口にはしなかった。

 赤く染められていた髪は、黒に戻っている。その髪も短い。前はゆうに背中に届いていたというのに。

 ベッド脇の椅子に腰掛ける。ベッドに座っている彼を少し見上げた。

 他愛ない会話。新しい楽器や機材の話。それと、バンドの話。

「ノブが曲作れって言ってたよ」

「本当? 無茶振り過ぎるでしょ」

 何も無いここでどうやって作るんだと彼は笑った。少し、寂しそうに。

「でも、頭の中にはあるんでしょ?」

 俺が言うと、彼は目を閉じた。小さく頷く。

「あるよ。皆で鳴らしたい音、いっちゃんに歌詞を書いて欲しい曲、まだまだいっぱい」

 目を開ける。彼は俺の瞳を見た。

「いっちゃんに歌って欲しい曲、俺の中には流れてるよ」

「うん。俺、シゲちゃんの曲を歌いたいよ」

 だって、俺はシゲちゃんの曲が大好きだから。

「一緒にステージに立ちたい」

 これは、俺の我が侭。

「俺も、いっちゃんの隣で弾きたい」

 シゲちゃんが笑う。

「いっちゃん。俺ね、いっちゃんの声が大好きなんだよ。だから、いっちゃんにはずっと歌い続けて欲しいんだ。これからも、ずっとずっと歌っていてよ」

 俺がいなくなっても。それはとても小さい声だったけれど、俺の耳には届いていた。

 でも、と彼は続けた。

「俺以外の人の曲をいっちゃんが歌うのは悔しいな。俺以外の誰かの隣で歌うのも……」

 彼が儚く笑う。

「俺、その人に嫉妬しちゃうかも」

 俺は、胸が苦しくて、ただ苦しくて。

「大丈夫だよ、シゲちゃん。俺はシゲちゃんの曲しか、シゲちゃんの隣でしか歌わないから。だからまた、一緒にステージに立とう」

 俺の言葉に、シゲちゃんは寂しそうに笑った。



++++++++++++



 GUNSLINGERのライヴから1ヶ月近くが経とうとしていた。ライヴ以降、サエは一度もTear Dropに姿を見せてはいない。

 俺はと言えば、胸の中に一塊の何かが鎮座しているような感覚をずっと抱いている。

——待ってるで。

 一方的に告げられた言葉。

 待ってるって何を? いつ? どこで?

 次に会ったら問いただしてやろうと思っていたのに、彼は一向に現れない。苛立とも焦りともつかない思い。それが原因なのか分からないが、俺は仕事でのミスが増えていた。何度ノブにどやされたかわからない。

 サエが残した、たった一つの言葉。それに、俺は囚われでもしてしまったのだろうか。

 俺の頭の中にGUNSLINGERの曲が、あの最後の曲が流れている。

 まるであのライヴハウスの中で俺の中の時間が一つ止まったかのように、リピートされるのだ。しかし、現実はそうではない。俺の日常の時間は着実に進んでいるのだ。今もTear Dropの開店準備中なのである。

 開店前の薄暗い店内で、俺はいつものようにグラスを磨いていた。時計を見ると16時30分をわずかに過ぎた頃だった。このペースだと開店に間に合わないと、慌てて作業ペースを上げる。その時だった。

 ガシャン

 慌てたからなのか、グラスを落としてしまった。

 バックヤードからノブがやってくる。

「イツキ、何やってんだよ」

「ごめん。手が滑って……」

 ノブは大きくため息をついた。

「何度目だよ……最近そんなミスばっかりじゃねーか」

「ごめん……」

 ノブは再びため息をつくと、店の予約表を確認した。それから俺に向かって言う。

「お前、今日は休め。店は俺とヤナでどうにかするから」

「え、でも」

「良いから。休め。オーナー命令だ」

 バックヤードに戻るノブの背中を、俺は虚しく見送った。

 何をやっているんだ、俺は。

「いっちゃん」

 ノブと入れ替わりにヤナが姿を現した。手には箒と塵取りを持っている。

「大丈夫?」

「うん。俺は平気。グラスは平気じゃないけど」

「俺が片付けとくから、いっちゃんは自分の問題をどうにかしたら?」

「自分の問題?」

 俺は首を傾げた。目の前の俺の問題と言えば、この割れたグラスなわけだが、ヤナが言う問題とはその事ではないらしい。

 ヤナは箒でグラスの破片を集めながら言った。

「歌いたいなら歌えば良いと、俺は思うよ」

 まるで世間話のように、彼はさらりと言った。

 ヤナは鋭い。

 あまり感情を表に出さない彼だけれど、人の事は良く見ているのだ。俺の悩みなど、お見通しなのだろう。

 グラスの破片を塵取りに収めると、ヤナを俺の眼を見た。

「いっちゃんは歌いたくないの?」

 言われて俺は思わず下を向く。

「歌いたいの?」

「……」

 俺はゆっくりと、小さく頷いた。

「だったら歌えば良いじゃん」

「でも……」

「いっちゃんが何にこだわっているのか、わからなくはないけど」

 シゲちゃんのことでしょ、とヤナは言った。俺は頷いた。

「シゲちゃんがいっちゃんに歌って欲しくないって言ったの?」

 俺が応えるまでもなく、ヤナは後を続けた。

「違うでしょ。シゲちゃんはそんな事、言う人じゃないし」

 その通りだった。シゲちゃんは俺に歌い続けて欲しいと言っていた。

「サエくんのバンド、良かったね」

 唐突に、ヤナは話を変えてきた。

「特に最後の曲。面白い曲だったね」

 でもね、と続ける。

「俺はあの曲、いっちゃんが歌ったらもっと良くなるんじゃないかなって思って聴いてたんだ」

「え?」

「とういうか、アレはそのつもりでサエくんも作ったんじゃないかな」

 いっちゃんの声にあうように作られた曲だとヤナは言う。

「いっちゃんはあの曲を聴いてどう思った?」

 俺は、あの曲を聴いたとき。

「俺は……」

 ライトに照らされたステージ。フロアに満ちる音。そこに流れるメロディ。激しさと、切なさが同居したメロディ。

 格好良いと思った?

 良い曲だと思った?

 いや、それも思ったのだが、それ以上に何よりも。

「歌いたい」

 そう思った。

 俺ならこの曲をどう歌う? 俺ならもっと、格好良く歌えるのに。

 俺ならもっと違う詩を、この曲につけるのに。

 そんな想いが渦巻いていた。

「なんだ。ちゃんと答えは出てるんじゃない」

 ヤナが笑う。

「だったら、何をうじうじ悩んでるのさ」

「違う。歌いたいと思ったけど、俺は、シゲちゃんとの約束が——」

「約束って言ったって、お前がそう決めただけだろ?」

 いつの間にか、ヤナの後ろにノブが立っていた。

「シゲはイツキにずっと歌って欲しいって言ってたぞ。お前が歌うことを、アイツは望んでるはずだ」

「でも、シゲちゃんは……俺がシゲちゃんの曲以外を歌うのは悔しいって……」

「寂しがり屋だからなアイツ。でも、悔しいっていう感情はさ、お前が歌い続けてること前提の話だろ。シゲは自分に何があっても、お前に歌って欲しいって思ってたんじゃねーの?」

「でも……」

「うだうだうるせーよ。歌いたいなら歌え。お前はボーカリストなんだからよ」

 GUNSLINGERに渡すにはもったいないボーカリストだけど、とノブは付け加えた。

「俺、歌っても良いのかな?」

「良いだろ。誰もお前を束縛したりしてねーんだし」

「俺、サエに……サエに会わなきゃ」

 けれど、俺はサエの居場所も連絡先も知らない。彼との接点はこの店だけだったのだ。

「いっちゃん、シゲちゃんと出会った場所って覚えてる?」

「え? あの駅前?」

「いっちゃんは自分のことにあんまり興味ないから知らないだろうけど、あそこで演ると理想のボーカリストに出会えるって、バンドやってる人の間で噂されてるの。そういうジンクスがあるって広まってるんだよ」

「はぁ?」

 俺は思わず頓狂な声を出してしまう。そんな噂、知らなかった。

「まぁ、そのジンクスのきっかけがシゲちゃんといっちゃんだからね。いっちゃん自身が知らないくても仕方ないけど。言いふらしたのはシゲちゃんだよ」

 ビタティアを知ってる人達には浸透している話らしい。

「シゲちゃんはね、いっちゃんと一緒にバンドやるって俺たちに言った時、『あの場所で歌ったらロックスターに出会ったんだ』って言ったんだよ」

 言われて俺は驚く。

「ロックスター……それって、俺のことなの?」

「そうだよ。だから、理想のボーカリストに出会える場所だって、言いふらしたんじゃないかな」

 理想のボーカリストに出会える場所。俺と、シゲちゃんが出会った場所。

「いるんじゃない? サエくんもそこに」

「さっきも言ったけど、今日は休みで良いから」

 行ってこいと、2人は俺の背中を押した。

 俺は店を飛び出した。

 夕暮れ。朱い光が俺を包んだ。

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