ロックスターは歌わない
安東りょう
#01. ボーカリスト
白い病室の白いベッドの上に、白い肌の君が横たわっている。
俺たちは傍らに立って、君を見下ろしている。
申し訳なさそうに俺たちを見上げる君。そんな顔、しなくていいのに。
「ごめん、みんな……」
囁くように言った。
「どうせ死ぬなら……ステージの上がよかったなぁ…………」
力なく笑う君。
今すぐにでも君をステージの上に、スポットライトの下に連れて行きたい。そこが君には一番似合うのだから。
けれど、無力な俺は、ただ君を見下ろす事しか出来ない。
+++++++++++++
ポリバケツを抱えて裏口から外へと出た。5月の雨上がりの空気はひんやりとしていて、店の片付けをして火照った身体には心地よい。
ポリバケツを所定のゴミ捨て場へと持って行く。
「あとはビール樽だな」
顔に掛かった前髪をかきあげて一息をついてから、俺は店の中へ戻る。厨房の隅に積まれていた空のビール樽2つを抱え、再び外へ出た。これらも同じく所定のゴミ捨て場へと持っていく。こうしておけば、業者が回収してくれるシステムだ。
「よし、今日のお仕事終了。あとは鍵閉め……」
ふと、空を見上げた。雲の隙間から、月が顔をのぞかせたところだった。薄い雲を淡く照らす月明かり。雨上がりの水気を含んだ空気のせいか、少しぼやけてみえる。それは、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
綺麗だ。俺の頭の中にメロディが流れる。
自然と、口ずさむ詩。
声が、風に攫われていく。
一瞬浮かぶ、過去の情景。
どうしようもなく哀しくて。
俺は歌うのをやめた。
好きな、いや、大好きな曲だった。だから俺は詩を書いた。そして、歌った。それは、気がつけば随分と昔の話になってしまっていた。
3年前まで、俺はこの曲をステージで歌っていた。バンドを組んでいたのだ。解散したわけではない。活動休止を発表し、そのままになっているのだ。端から見れば、事実上の解散ということになるのだろう。
俺は歌うことが好きだった。今も好きだ。けれど、活動休止を宣言したライブから今までの間、俺は一度もステージに立っていない。歌うことを辞めていた。
歌いたい。けれど、歌えない。
そんな思いを見透かされているような気がして、俺は月に背を向けた。
そこに、人がいた。思わずびくりとしてしまう。いつからいたのだろう。さっきの歌を、聴かれてしまっただろうか。
店の裏手のこの場所に、人がいることは珍しい。彼は何者だ。どうしてここにいるのだ。時刻は深夜の2時なのだ。こんな時間に何故。
「こんばんは」
彼は、にこやかに声をかけてきた。
聞きなれないイントネーション。低い、けれど、よく通る声だ。
肩にかかるほどに伸ばされた黒髪が、夜風に揺れている。街灯が少ないため彼の姿は殆ど闇と同化している。
「こんばんは」
俺は警戒しながらも挨拶を返した。
「ええ歌やね」
「え?」
「今歌ってた歌。あんたの声も綺麗やった。もっと聴かせてくれへん?」
やっぱり聴かれていたのだ。何と答えたら良いのか分からず、俺は視線を泳がせた。それから、しどろもどろにこう応えた。
「いや……人に聴かせるようなものじゃ……ないから…………」
俺は逃げるように、小走りで店の扉へと移動した。彼の方は見ないまま扉を開け、中へと入る。
バタンと扉を閉め、鍵をかけた。追ってくる事はないとは思うが、念のためだ。
「ビックリした……」
俺は額の冷や汗を拭った。格好の悪い対応をしてしまった。けれど、夜中にいきなり声をかけられたら、多少驚いてしまうのは仕方が無いだろうと自分に言い聞かせる。
「いい歌って……言ってくれたな……」
その事は素直に嬉しかった。けれど、俺が人に聴かせる為に歌う事は、ない。
***
「イツキ、どうかした?」
俺の手が止まっていたからだろう、奥からノブが顔を覗かした。ノブ——田嶋伸彦はこの店『Tear Drop』のオーナーだ。そして、俺、森口樹は店長だ。と、いっても他に従業員は正社員1名とバイト1名しかいないのだが。
開店準備中の店内は、カウンター周りの照明しかつけておらず、少し薄暗い。俺はグラスを磨いている途中だったが、いつもよりペースが遅い事は明らかだった。
「いや、何でもないよ」
「そっか? その割には、作業が遅ぇなー」
普段よりも俺の作業能率が悪い理由はわかっていた。昨晩のことを考えてしまっていたのだ。
歌を聞かれてしまったことが気になっていた。どうして昨日は歌ってしまったのだろうか。月明かりがそうさせたのかもしれない。馬鹿な考えだと心の中で笑った。
ノブの視線もある。俺は作業に集中した。開店時間までには終わらせなくてはならない。
ここ、ライブハウス兼バーのTear Dropは通常はバーとして営業を行っているが、店内の半分はライブスペースとなっている。開店当初はライブハウスとしての営業の方が多かったが、最近はバーがメインになっている。特に平日は観客動員の関係上、ライブを行うことは少ない。今日は木曜日。ライブの予定もなく、バーとして営業する日だ。
俺はいったん昨日のことは忘れ、作業に集中した。手早くグラスを磨き終え、フロアの準備に取りかかる。店の入り口を入って右手にライブ用のステージがあるが、今日はそちらは使わない。ライブスペースを除いたフロアには丸テーブルが5つ。それぞれに椅子が2脚または3脚が備え付けられている。テーブルも椅子も、黒で揃えられていた。
テーブルを拭き、メニューを置く。紙ナプキンを補充してフロアの準備は完了だ。
時計を見た。16時52分。開店時間は17時だ。
俺はカウンター脇の戸をくぐってキッチンへと移動する。
「ヤナ、今日のオススメは?」
もう一人の社員、ヤナこと柳沢恭助が料理の仕込みを行っていた。
「カルパッチョ。あと、デザートはゆずのシャーベットね」
店のメニューは、ほぼ全てヤナが考え調理をしている。たまに俺とノブも手伝うが、小さな店の為、それで十分だった。定番のメニュー表はあるが、仕入れの都合で変動することもしばしばだ。そのため、ヤナにその日のメニューを確認するのが常だった。
俺はメニューを確認してから、キッチンの奥のバックヤードへと移動した。ノブがパソコンの画面とにらめっこをしている。その隣に積まれているバンドのフライヤーを掴み上げる。
「これ、新しいヤツ?」
「ああ。表に出しといてくれ」
ノブはこちらを見ずに応えた。
「了解。店も開けちゃうね」
俺は来た道を戻ってフロアに出た。カウンターの後ろの壁にある電灯のスイッチを操作し、フロアと外の看板の灯りをつけた。それから店の入り口へと移動する。扉の脇のラックにフライヤーを挿す。一度店の中を見回し、準備ができている事を確認してから店の扉を開いた。『close』と掲げられた札をひっくり返す。そこには『open』と書かれている。
「開店、と」
俺は店の中へと戻った。
彼が現れたのは、それからすぐのことだった。
開店時間を数分過ぎた頃だ。カウンターの正面にある入り口の扉が開く。
俺はほぼ無意識にそちらに顔を向け、いらっしゃいませと声をかけた。ドアを押し開いて入ってきた彼と眼があう。肩口まで伸ばされた黒髪がわずかに揺れている。その背にはギターケース。
「こんばんは」
関西のイントネーションで彼は言った。その声に、俺はハッとした。はじめは気がつかなかった。あの時は夜闇ではっきりと顔を見る事は出来なかったから。けれど、声を聞いて気づいた。響きのある低音。関西訛りのイントネーション。
間違いない、昨日の彼だ。
俺は驚いたけれど、顔には出さないよう努めた。ここで慌てるのは格好が悪い。昨夜と同じになってしまう。だから俺は平静に振るまう。
「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいですか?」
彼は頷くと、俺の目の前のカウンター席へとついた。傍らにギターケースを立てかける。
「ご注文は?」
「ビール」
彼は短く応える。
俺は冷えたグラスを取り出し、ビールサーバーへ向かう。初めのビールは泡が多いため使わない。数秒ビールを出してからグラスを差し入れる。7割注いだらサーバーのレバーを奥に押し込む。すると泡だけが出るのだ。きめ細かい泡をグラスの縁まで注ぐ。グラスの周りを拭ってから彼に出した。
「おおきに」
ニコリと笑う彼。俺はお通しのオリーブをテーブルに置いた。彼はそれを一つ口へと運ぶ。そしてビールを一口飲んでから俺に言った。
「昨日はどうも」
はぐらかすか一瞬考えた。考えたが、自分は嘘をつくのが苦手だ。変に誤摩化すとまた格好悪い事になりかねない。かと言って、何と返すべきか思いつなかった。
「俺がどうしてここに来たかわかる?」
「……歌いませんよ」
先手を打っておく。
昨日の今日で彼が現れた理由は何か、俺は考えた。たまたま飲みに入った店がここだった、なんて事はないだろう。昨夜の会話を瞬時に反芻した。
歌。それしかないと思った。だが、俺に歌う気はない。
「まだ何も言ってへんやん」
彼は苦笑い。
「でも察しの通りやで。お兄さんの歌、もう一回聞かせてもらいたいな〜って思ってん」
やっぱりだ。俺は、もう一度、少し強い口調で断る。
「俺は歌いません」
「なんで? 歌うの好きやろ?」
「そんなこと、貴方にどうしてわかるんです?」
「昨日のが歌いたくて仕方ないって想いが漏れてしもたって感じに聞こえたから……かな」
ドキリとした。
努めて冷静な顔をしたつもりだったが、うまくいかなかったようだ。
彼は自信ありげに、にやりと笑う。
「図星、みたいやな」
機嫌良さそうにグラスを傾ける。
「俺は佐伯和正。皆はサエって呼んどる。『GUNSLINGER』ってバンドでギターやっとるんやけど、今ボーカルを探してんねん」
サエは俺の眼を真っ直ぐに見た。
「俺のバンドで歌ってくれへん?」
俺は、静かに息を吐いた。一呼吸置いてから、応える。
「嫌だ。俺は、歌わない」
歌わない。そう約束したんだ。
「あんたに、俺の気持ちなんてわからない」
「確かに、わからんな。歌うのが好きやのに歌わんへんって、なんやねんって感じやわ。歌いたいなら歌えばええやん」
無遠慮なギタリストは理由でもあるのかと首を傾げた。
「あんたに話すつもりはないよ」
そう応えると、彼は喉の奥で笑う。
「ちょっと素が出てきた? すかしてるよりそっちの方がええやん」
少し感情的になってしまっていた。営業用ではなく素の対応をしてしまっていたことに気づく。
「あんた……意地が悪いって言われない?」
「よー言われるわ」
また彼は笑った。けれど、それは苦笑に変わる。
「ごめんな、怒らせたい訳やないねん。ただ、あんたに歌ってもらいたいだけやねん。せっかくええ声してるんやし」
「良い声って……昨日ワンフレーズ聞いただけだろ」
「それでも十分あんたの声が魅力的ってわかったってことや」
にやりと、彼はまた自信ありげに笑う。
「お客さん、ナンパなら他の店でやってもらえる? ウチの店長を誘惑しないで欲しいんだけど」
そこにノブが姿を現した。おそらく裏で聞き耳を立てていたのだろう。俺と並んでカウンターに立つ。
「今は歌ってないけど、コイツはウチの大切なフロントマンなの。勝手にナンパされちゃ困るね」
「あんたは?」
「当店のオーナー。で、こいつをフロントに置いてるバンドのドラマーでリーダーの田嶋伸彦。覚えてくれなくていいからね」
ニッコリと営業スマイルをするノブ。それにニッコリと笑い返すサエ。
「リーダーさんか。俺はサエ。GUNSLINGERってバンドで大阪中心でやってたんやけど、最近こっちに出てきたんよ」
サエはグラスに残っていたビールを飲み干すと、立ち上がった。財布から千円札を取り出し、ノブに手渡す。
「無理矢理お宅のボーカルさん奪うつもりはあらへんから安心してや。イツキさん自身が俺のバンドで歌いたいって思ってくれな意味ないしな」
彼はギターケースを肩に提げた。そして、あの自信ありげな笑みを浮かべる。
「また来るわ。ごちそーさん」
そう言って彼は店を出て行った。俺とノブはその後ろ姿を黙って見送る。
何だったんだろうと、俺は溜め息をついた。
「なあ、イツキ」
「なに?」
「お前、いつ名前教えたの?」
「え?」
俺の胸元につけた名札を指差し続ける。
「名札、森口としか書いてないだろ? でもあいつ、お前のことイツキって名前で呼んだぞ」
言われてはっとした。そう、俺は彼に名前を名乗っていないのだ。ノブの言う通り、胸の名札には森口としか書かれていない。
「お前、あいつと知り合いなの?」
「いや、知らない」
昨日のことを含めるなら全く知らない訳ではない。が、彼に名前を言った覚えなどなかった。
「ふーん。じゃ、俺らのバンドを知ってるのかもな」
「え? ビタティアを?」
『Bitter Tears』。略称ビタティアは俺たちのバンドの名前だ。リーダー兼ドラムの田嶋伸彦、ベースの柳沢恭助、ギターの中野重行、ボーカルの俺、森口樹の4ピースバンド。この店はそのメンバーではじめたのだ。関東を中心に活動していたため、大阪でどの程度認知されていたのかは定かではないが、何度か大阪でライブをしたことはあった。客入りも悪くはなかったと記憶している。しかし、
「知ってるようには見えなかったけど」
そんな風には、思えなかった。
「恍けたんじゃない?」
後ろからの声に俺とノブは振り向いた。カウンターとキッチンとを繋ぐ戸口にヤナが立っている。キッチンにいたヤナにも聞こえていたようだ。
「初対面のふりして、実はいっちゃんのこと知ってるんじゃないの?」
ヤナはそう言うが、そんなことあり得るのだろうか。そもそも、なぜ初対面のふりをする必要があるのだ。もし知っているならば、あの関西訛りの男がそれを口にしない理由とは何だというのか。
「さぁ? 本人に聞いてみれば? また来るって言ってたんだし」
そう言うと、ヤナはキッチンに戻って行った。後ろに束ねられた長い金髪が静かに揺れていた。
俺は傍のノブをうかがった。
「ヤナの言う通り、本人に聞いてみるのが手っ取り早いよな。もしビタティアを知ってるなら、お前を誘う気持ちもわからんでもない」
サエはBitter Tearsを知っているのだろうか。今は活動していないバンドなのに。
俺たちのバンドは3年前に活動を休止した。休止せざるを得なかった。それ以降、俺は歌っていない。
歌わないと約束したのだ。癌で他界した中野重行に。
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