第32話 灰色の世界 4



 鏡水宮への入り口は、山の中腹に空いた洞窟である。


 その洞窟の前で一晩野宿をしたサリアスらは翌日、いよいよ鏡水宮へと入ることになった。大人が三人、横一列に並んで歩くにはいささか狭い程度の幅で、真っ直ぐに洞窟は伸びている。中は驚くほど気温が低く、北とはいえ夏とは思えないほどだ。


「気をつけてください、足元は氷ですから」


 洞窟内をしばらく歩いて足元が平坦になった頃、先導するフォートが振り返って注意した。白い息とともに吐き出された声は洞窟の壁面で跳ね返り、幾重にも木霊する。その少し後ろで、魔術の光を灯していたフィラーシャが頷くように足元を見遣った。


 サリアスらの靴は、底に保護の為の鋲打ちがしてある頑健なものである。その鋲が氷を噛むためあまり滑る心配はないはずだが、フィラーシャは歩幅を狭めたようだ。そのすぐ後ろ、殿を歩いていたサリアスはフィラーシャの歩く速度が少し鈍った事に気付いた。


 先頭を行くフォートは暗闇の中でも、ほんの僅かな明かりがあれば見えるため、灯りはかえって邪魔なのだそうだ。何の灯りもないように見える洞窟の中を躊躇わずに歩いていく。


 しばらく歩くと開けた場所に出た。周囲の岩が青白く発光しているため、サリアスらにもその広い空間全体が見渡せる。その中央には黒光りする物々しい城門が、周囲の岩から彫りだされたような形でそびえていた。遥か見上げる巨大な門扉の両側に向かい合う形で、岩でできた、これも巨大で荘厳な狛犬が目を閉じて鎮座している。


「これが黒の城門です。あなた方を襲撃した一角獣の青年、彼らの本拠地がここになります」


 熱のない、淡い光に照らされた門扉を見上げてフォートが言った。頷いてサリアスは顔を引き締める。


「真正面、か」


 敵が眠っている昼間とはいえ、正面突破とは。正々堂々はサリアスの好むところだが、さすがにこれだけ規模の違う敵相手でそれに拘るほど、愚かではないつもりだ。


「すみません、僕の権限ではここからしか入れないんです」


 申し訳なさそうに言うフォートの真意をはかろうとサリアスはその横顔を流し見た。このフォートにしても兄のデュクシスにしても、この島に来てから出会った人間相手にサリアスの直感は鈍りっぱなしだ。油断出来ない相手なのはわかる。だが、敵意の有無が全くといって良いほど推し量れない。


「それで、どうやってこの門を開けるの?」


 少し緊張した声でフィラーシャが尋ねる。見上げる城門は、サリアスらがこの場に立っていても何の変化も見せない。押して開くようなものではないし、開けるよう頼む相手も居ない、そう懸念したのだろう。


「とりあえず、声をかけてみましょう」


 だがフォートは事も無げにそう言うと、門扉を見上げて声を響かせた。


「闇の門扉を守護せし門番よ、我が名を聞き入れ門を開け。我が名はフォルティセッド。闇の王に忠誠を誓いし人の一族の誓いの証、人の闇使いである」


 空間に響いたフォートの声の、その残響までも消えた頃。石の擦れあうざらついた音が、遥か頭上で響き始めた。


「――何だ」


 サリアスが見上げると、二対の一際強い蒼光が目に入った。狛犬の閉じていた双眸が開きつつあるのだ。あれ、生きてるんだ……という呆然とした呟きを隣のフィラーシャが漏らす。


 ゆっくりと目を開いた二体の門番は、同じく物々しい音を響かせながらゆっくり口を開くと、二頭同時に不思議な響きの声で吠えた。


『人の闇使いフォルティセッド。お前の入城を許可する』


 サリアスとフィラーシャにその意味するところは分からなかったが、どうやら開門を許されたらしい。フォートは二人を促してすばやく門扉の間近まで前へ出ると、小声で言った。


「僕以外の者が入る事は許されていません。門は僕が通り抜けるだけの間、通り抜けられるだけの隙間で開きます。開き始めると同時に駆け込んでください。出来るだけ三人一緒に。……でなければ、撃たれます」


 「撃たれる」という言葉に疑問の視線を遣ったサリアスに、フォートもまた視線で答えた。彼の視線の先には、開ききった青白く燃える狛犬の双眸がある。了解したサリアスは頷き、フィラーシャの手を引いて一歩前に出た。


 門扉までの距離は大体十歩程度。それ城内へ滑り込むための助走距離だ。足元は氷、見上げた狛犬の双眸の角度からいって、攻撃は門扉の間まで届くだろう。


「フィラーシャ、怖れず全力で走れ。最初の踏み切りさえ滑らなければなんとかなる」


 自分も足場を作るように、靴底で氷を引っかきながらサリアスは言った。サリアスの手を握りしめてフィラーシャが頷く。頷き返すように息を呑んで、サリアスは正面の門扉を見据えた。


 地響きのような音を立てて、扉が開かれる。三人すり抜けられるだけの隙間が開いた事を確認し、サリアスは叫んだ。


「走れ!」


 サリアスの号令に、三人が一気に駆け出す。


 同時に向かい合う狛犬の片目が、一際大きく光り始めた。膨らんでゆく光が放つ熱線が、彼女達の首筋をちりちりと焦がす。


 向こうへと口を開きつつある分厚い鉄の門扉の奥に、その割れ目が黒く顔を覗かせ、徐々に幅を増してゆく。迫ってくるその割れ目だけを見詰めて、サリアスは一心不乱に走った。目の前に口を開く暗闇と、体の中から聞こえてくる荒い息が世界の全てになる。


 サリアスの体が、やっと人の幅程度に開いた扉をすり抜けた、その瞬間。


 熱線の放射がサリアスの背中を打った。轟音と爆風、一拍遅れて視界を埋め尽くす熱い水蒸気が身体を前方へ吹き飛ばす。


 磨き上げられた石床を転がったサリアスが跳ね起きた時には、既に門扉は閉じようとしていた。


「……っ! フィラーシャ、フォート、無事か!」


 喉を焼く水蒸気に咳き込みながらもサリアスは二人を呼んだ。恐ろしい可能性に鼓動ががんがんと響く。


 何も見えない闇の中。二人の返答は、なかった。



***



 フィラーシャは霧に包まれたように真っ白な空間で目を覚ました。


「……あれ?」


 状況が掴めず、のそりと上体を起こしてその場に座り込む。ふと、右手に握ったはずの杖も、左手に握ったはずのサリアスの手も無いことに気付いた。フィラーシャは慌てて辺りを見回す。


「サーちゃん? ……フォート?」


 声は霧に吸い込まれ、響く間もなく消えていく。


「どうしよう、ここ、どこだろ……」


 確か扉はすり抜けたはずだ。自分の足で城門内に入る寸前、爆風によって前方に突き飛ばされた。しかし、位置的にそのまま前に飛ばされたなら、ここは城門内だろう。……あの世でないならば。


「はは、まさかね」


 言いながら立ち上がる。しかし吹き飛ばされたにしては身体に痛みがなかった。


「まさか、ね」


 そんな終わりは、いくらなんでもお粗末過ぎる。中途半端この上なく、死んでも死に切れないとはこのことだ。ゆっくりと歩いてみた。まるで感覚のなかった足元が、歩くに連れて土の感触を返すようになる。乾いた土のようなそれに、下を確かめようとフィラーシャは屈みこんだ。


 不意に、霧が晴れた。乾いた赤土の地面が目に入る。


 前方から唸り声が聞こえ、フィラーシャは顔を上げた。地平線まで続く赤茶けた大地と蒼穹を背景に、敵意を剥き出しにした魔物の姿がある。巨大な牙と、禍々しいほどの大きく鋭い鉤爪を持つ、虎のような生き物だ。


 はっと身構えるフィラーシャは、いつの間にか杖をその手に握っていた。


 深く考える余裕もなく虎が襲い掛かってくる。フィラーシャに向かって突進した虎は、牙の並んだ口を大きく開けて咆哮を上げた。


 戦わなければ。


 フィラーシャは攻撃魔術を使おうとして躊躇う。この虎もまた、被害者なのではないか。


 その隙を突いて、虎がフィラーシャを押し倒した。左肩に鉤爪が食い込み、背中を打ち付けて激痛に息が止まる。眼前で剣のような牙がきらめき、虎の湿った吐息が頬を打った。


 ――こんな所で死ねない。さっきそう思ったばかりだ。


 そう思いなおしたフィラーシャは、虎の腹の下で杖を握りなおして息を吸った。


「切り裂け! 疾風!」


 かまいたちが虎の腹を切り裂いて空へ駆け上がる。悲鳴を上げた虎はフィラーシャから飛び退いて後退し、くずおれた。


「う、うう……」


 負傷した肩を庇いながら立ち上がったフィラーシャに、敵の呻き声が届く。それに顔を上げたフィラーシャは、蒼白になって悲鳴を上げた。


「アル!」


 虎がいるはずの場所でうずくまり、血溜まりの中で呻いていたのは、遥か西の故郷にいるはずの姉。血反吐を吐いたアルベニーナは土気色の顔を上げると、どろり濁った白眼でフィラーシャを睨んだ。


「あ……どう、して……」


 目の前にいるのは、狂者と化したアルベニーナだった。よろよろと近づくフィラーシャに、血を撒き散らしながら再びアルベニーナは掴みかかる。


「ぐ……う、うらぎり、もの……!」


 両手の指をフィラーシャの喉に食い込ませながら、アルベニーナが唸るように言った。フィラーシャの頭は真っ白になる。うらぎりもの。神帝よりもセイレンを、夜の民を信じた瞬間からフィラーシャは――。


「ちが……う……うああっ!」


 鉤爪にえぐられた左肩に、アルベニーナがかぶりついた。激しい痛みに悲鳴がほとばしる。


 とりあえずアルベニーナを遠ざけようと、フィラーシャは光の魔術を発動させた。


「ひか、り、よ!」


 光線が相手の胸を貫き、喉に食い込んでいた指の力が緩む。無我夢中でアルベニーナを突き放したフィラーシャは、尻もちをついて咳き込むように息をした。突き飛ばされたアルベニーナは、今度こそ地に倒れて動かなくなる。


「嘘だ……あたしは、撃ってなんか……」


 のろのろと顔を上げたフィラーシャは、その、人形のように動かなくなった姉を見詰めて呆然と呟いた。使ったのはガレオスに向けたのと同じ、光で相手を包む魔術のはずだった。光線が胸を貫くはずなど、ない。


 混乱したまま、フィラーシャは這うようにしてアルベニーナに近寄った。相手の血と自分の血で汚れ、フィラーシャは全身赤黒く染まっている。


 血溜まりに沈むアルベニーナを覗き込んだフィラーシャを、虚ろなはしばみ色の目が見返した。


 鮮血に染まる肌は白く、血の気はないが瑞々しさを保っている。


 動かぬアルベニーナは、狂化していない姿だった。


 その光景を拒絶するため、フィラーシャの上体が痙攣するように仰のく。


 ひっ、というしゃっくりじみた呼吸の一瞬の後。


 フィラーシャの絶叫が、蒼天に響いた。



***



 日の光が差し込む広間で、シルヴァは銀の宝珠に手をかざした。ここは鏡水宮の天守、中央に天窓の開いた大広間である。天窓には磨き上げられた水晶がはめ込まれ、曇ることなく青空を映している。宝珠は広間の中央奥、精緻な彫刻を施した壇上に据えられており、シルヴァの思念に呼応して淡く銀に輝き始めた。その輝きの中に、何かが浮かび上がって像を結ぶ。


 その中に映るのは、たった一人、灯りも持たずに真闇の中を進む女戦士の姿であった。壁に手をつき、剣を杖代わりに障害物を探りながら、一歩一歩慎重に進んでいる。昼間の黒の城門にあって、侵入者を処理する黒の一族は通常二人。うち白夢を魔導師、黒夢を闇使いに割いた為、残った戦士はそのまま奥へと進ませてしまうこととなった。


「よろしいのですか?」


 傍らに控えた銀彩が尋ねた。シルヴァは一度、銀彩に彼らの抹殺を命じている。今一度銀彩が出て、今度こそ始末するべきなのではないかとそう考えたのだろう。確かに夢魔族では相手を殺すには至らず、今城門を進んでいる戦士に至っては止める者すら居ない状況である。ここへ来て何の手も打たないシルヴァを、銀彩が不思議に思っても無理はない。しかし、シルヴァは答えずに問いを返した。


「セイレン族が動いているそうだな」


 セイレン族は銀の中でも、最も力のある一族である。その族長ソアティスは銀の族長グラキエラに次ぐ実力を持ち、グラキエラ不在の現在はその代理を務めていた。

「は……。精霊の娘に関わっての事のようですが……次女ナースコルが人の闇使いや、あの戦士たちとも接触しているようです。一度はどうやら、灰の軍府に拘束された様子もありましたが」


 銀彩の言葉に頷いて、シルヴァは自らのほっそりとしたおとがいに、沈思するように指を添える。しばらくの後、シルヴァは銀彩に向き直って口を開いた。背を向けられた宝珠は輝きを失い、沈黙する。


「長く姿を隠している、銀の族長が何か指示しているとも考えられる。老竜と同じ目論見ではないだろう……そちらの意図を知るほうが先決やもしれぬ」


 納得しかねる顔の銀彩に、シルヴァは皮肉めいた苦笑をわずかに漏らして言を継いだ。


「人間がたった一人、暗闇の回廊をどれだけ歩き続けられると思う? うちに精神が悲鳴をあげるだろう。急いで手を下す必要はない」


 黒の城門は、城門と名が付いているとはいえ、それ自身が山脈の山一つの内部に存在する巨大な城である。銀の塔、灰の軍府同様、天守を囲うように建てられた黒の一族の本拠地だ。その中央を縦に貫くように、戦士の歩いている正面回廊は伸びている。人の足で歩けば、休まず歩いても一刻と言わずかかる距離だった。暗闇の中、手探りでのろのろと歩くのであれば永遠に等しい距離と思えるであろう。


「もしもそこで音を上げるようであれば、到底太陽の剣を抜くことなどかなうまい。逆に、もし音を上げぬようであれば……テネブラウィスごときの意のままに操れるとも思えぬな」


 銀彩も僅かに苦笑するのを見届けて、シルヴァは満足そうに縦長の瞳孔を持つ銀の目を細めた。


「城門外に追い出した二人には、灰か銀が近づくやもしれぬ。誰か見張りを付けておけ。銀彩、お前はセイレンの族長のもとへ行け。もし万が一……戦士が中庭へ通ずる門扉の前まで辿り着くようであれば、その時は私が出よう」


 了解を示すため頭を垂れた銀彩が、跳躍床を使って広間から消える。それを見届けたシルヴァは宝珠を振り返った。月そのもののような銀色のそれを見詰める眼に、僅かに切なげな光がよぎる。


「陛下……」


 彼女の声に、答える者はいない。



***



 放心したフィラーシャを、再び霧――否、白い闇が包み込む。


 座り込んでいるフィラーシャの耳元で、女の声が囁いた。


「お前が今歩く道をこのまま行けば、いずれ起こりうる未来の一つだ。この明日を望まぬのであれば、来た道を引き返すが良い……」


 白い闇が退くと、フィラーシャは暗闇の中に座りこけていた。傍らには杖と、背負っていたはずの荷物がある。ぼろぼろの服は血に濡れてなどおらず、肩に負ったはずの傷もなかったが、代わりに打ち身で全身が軋んだ。


 前方に、光が見える。


 地面は磨き上げられたような氷。振り返れば遥か奥に、青白い光がほの暗く見えた。


「入り口の、洞窟……?」


 ついさっき歩いたはずの洞窟に、フィラーシャは座りこけていた。


「今の……ゆめ? でも、何で洞窟……あ――」


 追い出されたのだ。恐らくは黒の一族に。フォルティセッドがそう説明していた。こちらの戦意を奪い、追い出す者がいると。


 眼前に、アルベニーナの遺骸が甦る。


『この明日を望まぬのであれば、来た道を引き返すが良い』


 囁かれた女の声も、同時に脳裏で再生された。


「ルチルナを……」


 この場にサリアスはいない。フォートもいない。自分ひとりでこの場所から動かなければ、前にも後ろにも進めない。光に背を向け、もう一度前に進むのか。ここから逃げ出してしまうのか。


「今、やらなくちゃいけないことを、する」


 何もしなかった事を、後悔するのはもう嫌だった。


 心は悪夢に疲れ果てて悲鳴を上げている。光に背を向けるなんて恐ろしい。今すぐ故郷に飛んで帰って、アルベニーナの顔が見たい。


 だが。


「動け」


 ゆっくりと杖を握り、かじかみ始めた足に力を込める。


「立って、歩くんだ。あたしは……」


 動いても、後悔するかもしれない。あの未来を、本当にしてしまうかもしれない。


 神帝と姉を、本当に裏切ってしまう日が来るのかもしれない。


「でもそれは、今じゃない。未来は、決まってるわけじゃない」


 悪夢だった。あんな未来は絶対に御免だ。しかし自分には、今、此処に「現実」がある。


 二度と犯さないと誓った、過去の過ち。その為に動かなければ、前に進まなければならない今。その現実には、悪夢とは比べるべくもない重さがある。


 片手に杖、片手に荷物を握って立ち上がる。


 仁王立ちで深呼吸をすると、フィラーシャは意を決して光に背を向けた。


「今、あたしを待ってるのはルチルナたちだ」


 フィラーシャは、再び城門に向けて歩き出した。

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