第30話 灰色の世界 2
全ての話を聞き終えた夜更け、サリアスとフィラーシャは庭に面した露台に出て、夜風に当たっていた。そろそろ夏の盛り時分であるが、風はひんやりと心地良い。少し湿り気を含んだその冷たさに、聖都の夏の、さらさらと乾ききった夜風を少し懐かしくサリアスは思い出していた。示し合わせたように二人、無言で外へ出てきたが、しばらくお互い何も言わない。困惑と疲労を多分に含んだ沈黙がしばしその場を支配していた。
自分達は神殿と司祭長に、騙され、裏切られたのか。それとも神帝にそれをされたのか。
フォートの話を半分でも信じれば、そういうことになる。
サリアスは特別の資質を持つ者として選ばれた。他でもなく、魔王復活のために。
「――そんな馬鹿な話があるかっ……!」
サリアスは床を睨みつける。
「……でも……正しい、かも」
絞りだした苦悶の声に、フィラーシャがぽつりと答えた。魔導理論というこの世の理を学んでいる彼女には、サリアスとは別の感慨があるようだ。その瞳にはサリアスと同じ、戸惑いや苦しみもある。だが、フィラーシャはどこか、遥か遠くに視線を彷徨わせているように見えた。
「何故、そう思う?」
並んで露台の手摺に頬杖を突く。板張りの床がぎしりと音を立てた。まるで世界の果てを眺めているようなフィラーシャの視線を追って、サリアスも黒い森の向こうへ視線を投げる。
「光と闇、昼と夜、太陽と月、炎と水、天と大地……あらゆる相反するものが、この世には存在する。でもそれは、善と悪じゃない……だったら、ソアティスやナースコルは『悪』じゃないし、夜の民は魔物じゃない。太陽を担うのが光の女王なら、月を担うのは闇の王……。なんかすごく、色々すっきり説明できる気がして」
フィラーシャの心は、サリアスのそれに比べて遥かに柔らかい。どんな意見でも受け入れようとし、誰かを否定し、傷つける事を極端に怖れる。それは柔軟で優しいとも言えるし、優柔不断で騙されやすいとも言える。今のこの状況ではどちらの表現が適切なのか。それをサリアスも断じかねていた。
「だがそれは……天と地が実は逆だったと言われているようなものだ……」
「うん。でも、世界の天井に木が、根っこを上に、幹を下にして生えてる世界に住んでたんなら、逆さだったのは私たちかもしれないね」
「だけどそれは、私たちを騙そうとした者が、木を逆さに吊っているだけかもしれない」
騙されているのではないか。全て嘘なのではないか。サリアスはそう言いたかったのだ。
「……フィラーシャは信じるのか? フォートが言ったことを全て」
自分は信じられない、信じたくない。サリアスの心はそう強く否定する。
「分かんない。フォートやデュクシスさんが、完全に信用できる人かも分からないし、全部神帝さまが悪いんでした、なんて納得できるわけないし。……でも、セイレンたちはずっと教わってきた『魔物』とは違ったし、ルーちゃんの力も今までの知識じゃ全然説明つかないよ。仮にフォートの話が嘘だとすると、今度はこんな嘘を吐く意味って分かんないし。なんか……ぐちゃぐちゃ」
サリアスらの知る世界の中で、「魔物」は全て昼の民に悪意と敵意を持った「悪」そのものだった。魔物は人間は襲い、喰い物にし、弄ぶ「天敵」だ。ソアティスがフィラーシャに見せた誠意やルチルナへの配慮は、そういった「魔物」の概念にはそぐわない。また、全ての根源は光であり、闇はそれらを破壊する負の、禁忌の魔力であるはずだ。しかし、フォートが説明した精霊の魔力の概念は、光と闇は対等、同根の存在であると示し、光の全能性を否定する。
それは、神帝とその教え、サリアスが信じてきた正義を否定するということだ。
ルチルナの力は一度目にしたし、セイレンの警告もルチルナから聞いた。魔術に疎いサリアスは「そんなものか」と受け入れていたが、自分の根幹を揺るがす概念とあっては、素直に受け入れる事もできない。――そもそも、セイレンを信じた所から全て間違いだったのではないか、そんな考えすら浮かび、サリアスは強く拳を握った。
『真実を疑ってはならない。"正しきこと"を己で決めてはならない。正義は唯一絶対である』
それが神帝の教えだ。だが、現実から目を逸らし盲目になる事も、差し出された誠意に対して不誠実である事も神帝はかたく戒める。正義に忠実に、寛容で誠実な人であれ――その教えを守るために、今自分は何を信じれば良いのか。
信じることと、盲目になること。疑うことと、不誠実であること。その境目は今のサリアスにとって、酷く曖昧だった。
***
一方フィラーシャは、サリアスが選ばれた理由について思いを馳せていた。彼女の特別な資質――それは、「魔術の資質を全く持たない」というものだ。
フィラーシャらが今立っている物質世界の上位には星辰世界が存在し、星辰世界から表出した魔力が物質世界で具現化することで、水や樹木、土や金属など、様々な物体になる。以前フィラーシャが海水を水の魔力に戻したことがあったが、全ての物質は凝縮した魔力の塊なのだ。それは今までと変わらない。
そしてその事は、人間も例外ではない。人々の魂は、星辰世界では霊体をまとい、物質世界では肉体をまとって存在する。実は、魔導師の資質というのは、この霊体の性質に他ならないのだ。
魔術とは、世界を漂う魔力を集め、操り、奇跡を起こす術である。では、魔力を操る能力の有無がどこで決まるのかと言えば、霊体の「曖昧さ」であった。言い換えれば、霊体の自我境界の不確かさである。自我の輪郭がぼやけていればいるほど、「他」を構成する魔力に干渉しやすい。星辰世界において、どこまでも「自分」を拡張していけるのだ。そうやって「自」を拡張し、「他」であるはずの魔力をあたかも己の手足を動かすように操る、それが魔術だった。
また、霊体を構成する魔力の配分比には個人差がある。そのうちで、本人の霊体で最も配分の高い魔力――フィラーシャならば恐らく風である――が、相性の良い魔力という事になる。「他」のうちでも最も「自」と近いものが操りやすい、というわけだ。そしてまた、その配分の高い魔力を特徴付ける色が、目や髪の色として現れると考えられていた。
昼の民ではその配分は、四大元素と光。だれの霊体にも、必ず少しは光の魔力が混じっている。それが、「昼の民である」ということだからだ。逆に夜の民では、四大元素と闇が霊体を構成している。狂化、魔物化は、この霊体が、闇や光の魔力で傷つく事で起こるのだ。
今、露台に並んで溜息をついている二人は、霊体の特徴で言えば真反対と言って良い。フィラーシャは幼い頃から際立った魔術の資質を示し、性格も受容的である。逆に信念が強く、自我の固いサリアスは、全く魔術の資質を持たない。
そして、その「全く魔術の資質を持たない」事こそが「特別な資質」……彼女が選ばれた理由の一つなのだ。魔術の資質を持たないということは、霊体の自我境界が明瞭であるということだ。自と他の区別が明確で、他に干渉することも出来ないが、自に干渉される事も滅多にない。霊体が極めて安定しているのである。
そういった内容を、フォートは出来るだけ端折って説明した。他に、説明する事が余りに多すぎたためだ。基本を知っているフィラーシャには分かる話でも、サリアスにとっては全く掴めない内容であったに違いない。
その分、内容の説得力も違ったであろう。サリアスの言葉に不信と憤りは窺えても、フィラーシャが感じた深い衝撃は感じられない。
「サーちゃんの霊体は、ほとんど光でできてる。だから、性格も光の特性をよく出してる。そして、全く魔術の資質を持たない……」
口に出して確認する。多分それは、嘘ではない。
「本当なのか、それは?」
不満げにサリアスが尋ねてきた。こんな状況でなければ不本意な事ではないはずだが、いかんせんそれを告げられた相手が悪い。
「うん。――お母さん、笛の名手だったんだよね?」
以前、旅の途中でそう聞いた。驚くべきことに、本人も笛は上手いらしい。
「ああ、そうだが」
「一般に、魔術の資質を全く持たない人って、何か他に飛びぬけて優れた才能を持ってるものなんだって。そういう『才能を持ってる』のって子どもに受け継がれるらしいし、サーちゃんも剣がすごいじゃない」
一般の人というのは、魔術の訓練をみっちり受ければ、最低でも放った銅貨の裏表を決める位はできるようになるらしい。何事も完璧なものは少ないらしく、サリアスのように全く資質を持たない者は稀なのである。そして、そのごく限られた一部の人間が、様々な分野で天賦の才を発揮する。
「しかし……」
対魔王の訓練組織とされていた戦士養成施設は、実際にはサリアスのような、光の霊体を持ち、魔力の資質を持たない若者を集め、鍛えるために組織された。鍛えるというのは、主に精神的な修養である。五年前の魔王復活の託宣は、全世界規模でサリアスのような資質のある者を集める為の、ビイクが演じた狂言でしかなかったのだ。
恐ろしく強力な光の魔力を秘めた、太陽の剣を銀月王の器から引き抜くために。霊体に必ず闇を含む夜の民では、決して太陽の剣に触れる事ができない。今、人間と夜の民が銀月王の器を解放するには、それ以外の方法がなかったのだ、とフォートは言った。
「そんな事が、許されていいのか……?」
その狂言の為に、当時多くの戦士、魔導師が何も知らず北へ向かった。途中で諦めた者、事情を知る灰の一族によって上手く追い返された者も多いというが、黒の城守たちや、魔物化した夜の民に殺された者も少なくない。彼らの決死の旅は、全て茶番だったと言われて、正義感の強いサリアスが納得するはずがなかった。
「うん……。許されないよね……」
世界の危機を救う為の、必要な犠牲だと司祭長やテネブラウィスは割り切った。それが真実だとすれば、その冷酷さも恐ろしい。
言われた事の真偽も、それが善なのか悪なのかも分からない。知らされた情報は飛躍的に増えたのに、五里霧中であることは今朝までと全くかわっていなかった。だが、与えられる情報を拒絶して立ち止まっていては、全ては奪われ、失われてゆくだけだ。
フィラーシャはぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に映るのは、倒れるサリアスと、攫われるルチルナ。ただ棒立ちで、何も出来なかった……いや、しようとしなかった自分。あんなことは、二度としてはいけない。三日間、繰り返し繰り返し後悔した。
仲間を奪われることと、見知らぬ誰かの死。衝撃と後悔の大きさは、比較にならなかった。自分の覚悟と、状況把握の足りなさを心底呪った。
『今君がなすべきことをやらなければ、状況はどんどん辛い方向に進むぞ』
茫然自失としていたフィラーシャに、デュクシスがかけた言葉。それが今のフィラーシャの原動力の、全てだ。
「でも、とりあえず前に進まなきゃ、だよね。ルーちゃんは助けないと。絶対」
目を開けて、自分に言い聞かせるように呟く。サリアスが驚いたようにフィラーシャの方を見た。ルチルナのことを思い出したのか、その顔が引き締まる。
「ああ、そうだな。私たちは魔王の城へ行く。理由は何であれ、その事実は変わらない」
いつもの、決然とした口調が頼もしかった。
***
黒の族長であるシルヴァは、鏡水宮全てを守護する護りの責任者でもある。彼女の元に、灰の族長からの侵入者の引渡し要請が届いたのは昨夜の明け方だった。日が昇ると、夜の民は眠りにつく。無論起きていられないわけではないが、灰の思惑の為にそこまでする必要もないと判断し、シルヴァはその件を今夜まで持ち越した。
「城門第三層の北側に、侵入者ありとの報告が参りました。恐らくは例の者かと。……いかがなさいますか。それから、正門の周辺を狂者がうろついていると。坑夫ではなく光の魔剣を持った戦士のようです」
黒の族長の執務室で、銀彩が報告する。部屋に届くのは森の木々をすり抜けた僅かな星明りのみで、ほとんど闇に沈んでいると言って良い。曲線的で優美な調度品で整えられたその部屋には毛足の長い絨毯や壁掛けがあり、声はそれらの織物に吸い込まれる。テネブラウィスとは対照的に、柔らかく心地良い布や毛織物を好む主の嗜好が窺われた。
「灰の老竜の要請になど、応えてやる必要はなかろう。いつも通り、白夢か黒夢を遣れ。狂者は――以前から報告のある、例の灰の招いた連中の残りだな……麓の村に協力を頼むとしよう」
淡々とシルヴァが答える。彼女の二つ名は湖影。主たる銀月王の、水面に浮ぶ月影という意味で与えられた。二柱神による世界創生の折、最初に誕生した夜の民である彼女は、銀月王に従う五大族長のうちでも最高位に当たる。本来最も銀月王の近くにあり、王を護るのがその役目であった。
この近辺に数年前から出没する戦士の狂者は強力な光の魔力を宿す剣を持つ上、夜身を隠すのが上手い。闇使いとの交渉を灰に任せているゆえ、ここ十数年村とは関わりを断って来たが、彼等に頼む方が早いだろう。
「よろしいのですか? 侵入者は精霊王族の直系であるようですが」
「……成る程。それで老竜が執心しているのか。確かに、その精霊族の能力が高ければ、陛下の解放も不可能ではないな……」
天鵝絨張りの椅子に身を沈め、シルヴァが目を細める。傍らに立つ銀彩が、かすかに頷いた。
「しかし、能力の高い精霊族は危険でもある。アダマスのようにな」
老竜は魔術を用いて人間や精霊の娘を操るつもりでいるらしいが、シルヴァにしてみればそれは、危険極まりない愚策と思えた。闇が精神に深く関わる魔力であるとはいえ、他者の心――殊に昼の民の心を完璧に御する事は難しい。精霊など言わずもがなだ。薄氷を踏むような策に、賛同できるはずもない。
老竜、と呼ばれていても、テネブラウィスはシルヴァよりも年齢、格共に下である。相手の要請を無視することも可能なのだ。
「湖影様……差し出がましいようですが、灰の族長を排されてはいかがでしょう。これ以上放置しておけば、再び陛下に害を及ぼすやもしれません」
普段あまり動かぬ面に、珍しくありありと渋さを浮かべて申し出る銀彩を見上げ、シルヴァは少し笑みをこぼす。
「そうも行かぬ。今こちらの手勢を削ぐわけにはゆかんからな。銀の族長も行方知れずのまま、灰の軍勢まで動揺させるのは危険だ」
そして、シルヴァは心の中での先を付け加えた。
――その、銀がこれからどう出るか、だ……。
***
漆黒の闇の中、ルチルナは息を潜めて一日を過ごした。ルチルナの迷い込んだ回廊は両側とも同じ形の扉が延々と続き、窓は無い。明かりと言えるものは壁面足元に等間隔にはめ込まれた、ぼんやりと光る発光石、そして所々に光る跳躍床の石畳のみだ。時間感覚は麻痺して、一体今が昼なのか夜なのかすら分からなくなっている。しかし、ナースコルに連れ出されて見たのが夜空だったのだから、恐らく一旦夜は明けているだろう。そのくらいの時間は経過しているはずだ、と考える。
不気味なほど静かで、こちらの建物に入って最初の足音以来、生き物の気配を感じていない。もっとも、魔物……夜の民達に自分たちのような「生」の気配があるのかは謎だが。ナースコルも来ないところを見ると、見捨てられたか、それともここに来られない事情があるかどちらかだ。
――やれやれ、何度置いてけぼりにされるのかしらね、あたしの人生。
心の中で苦笑気味に呟いた。何度、誰に拾われても助けられても、結局自分は追い払われるか置いていかれるかだ。結局最後は独りになる。家族も自分を置いて逝った。村からは売られた。次に拾ってくれた追い剥ぎ団は自分が他所に行っている間に取り締まりに遭って離散し、意味ありげなことを言って近づいてきたセイレンも助けに来ない。もっとも、セイレンは助けに来た所で、一体何を目論んでいるのか信用ならないが。
他人を頼る事など愚かしい。結局人生は独りなのだ。
それが、ルチルナがこれまでの人生で得た教訓だった。もう失望も絶望もし飽きたし、とりあえず期待しておかなければ裏切られたと嘆く事もない。油断せず、常に準備と覚悟をしておけば良いだけの話だった。
漆黒の回廊を、気配を殺して進む。不用意に転移しないよう、足元に細心の注意を払いながら出口を探した。回廊沿いに一定の間隔で並ぶ中規模の部屋は、それぞれ執務室のような内装だ。回廊にも部屋にも窓はなく、ここが地上か地下かすら分からない。積極的に動きながら、頭の中で慎重に内部の地図を描いていく。こういう状況では何より精神力の勝負だ。挫けて座り込めば出口が見つかるはずはないのだから。
しかし、実際にはルチルナが黒の城門に迷い込んでから一日が経過しようとしていた。常に緊張していなければならない上、辺りは真っ暗闇である。いくらルチルナに辺りが「視える」とは言っても、その事実は変わらない。
行き止まりから引き返し、起点の場所へ辿り着く。次の方向へ進む前に、少し休もうと冷たい壁に背中を預けた時だった。しばらく誰の気配も感じなかった事もあって気が緩み、集中力と緊張は途切れていた。
***
いつの間にか、ルチルナは土の地面に立っていた。
ひりひりと痛い足元を見下ろすと、土に汚れた小さな裸足から、血が滲んでいた。
その足と、地面の近さに驚いて辺りを見回す。そこがどこなのか把握しきる前に、前方から悲鳴とも怒声ともつかぬ叫び声が響いた。驚いてそちらを見上げると、皓々と輝く満月がルチルナの目を射る。月光に蒼く染まる世界をルチルナに向かって駆けて来る二つの人影が、満月を背景に影を伸ばしてきた。
「あれは……」
その顔を見ようと目を眇めるルチルナの奥で、何かが警鐘を鳴らす。
この場所は、見たことがある。
とても、とても嫌な場所だ。
瞼の裏に焼き付いた悪夢。血の池に倒れ付す両親。
「まさか……」
痩せぎすの、猫背の小男に、粗末な衣服、褪せた髪を振り乱した女。
――あれは、両親だ。
巨大な何者かが二人に追いつき、襲い掛かる。禍々しい鉤爪を振り上げ、牙の並んだ大きな口を開けて、それ――兄を殺した人狼の兵士は咆哮を上げた。否、恐ろしい声で怒鳴った。
「貴様らが精霊の娘を隠しているのは分かっている! 貴様らの汚らわしい行業もな! 大人しくその対価、命で贖えい!」
――やはり、自分のせいだったのか。もしかしたら自分は、両親の子ですらないのかもしれない。
ふ、とルチルナは笑った。それは、己の特異さを知った時、頭の隅をよぎった可能性だった。両親や兄も同じ力を持っていたなら、ルチルナが何も知らずにいたはずはないのだ。
「る、ルチルナは渡さんっ! あれは、あの娘は我等が闇の魔力を得る為の……!」
絶叫が響いた。母親の背中を黒光りする鉤爪が引き裂いたのだ。慌てて振り返った父親の目前に、跳躍した人狼が着地する。逃れようと仰け反った父親の胸に、容赦のない一撃が振り下ろされた。
不意に、世界が暗転した。
ルチルナの背後に気配が生じる。立ち尽くしたままの幼いルチルナに、その気配は昏い男の声で告げた。
「その夫婦は、闇に魅入られた憐れな人間の魔術師だった。人間のうちではただ一人にしか許されぬはずの闇の魔術を欲し、それを得る為お前を利用しようとした」
ルチルナは目を見開き、背後を振り返る。しかしいくら目を凝らし、闇を見ようとしてもそこには何もない。声は更に続けた。
「お前は本当の両親……精霊の一族の末裔であった夫婦に赤子の頃置き去りにされ、人売りに売られていた。それを、あの夫婦がお前の血に目をつけ、買い取った」
「うそ……」
『る、ルチルナは渡さんっ! あれは、あの娘は我等が闇の魔力を得る為の……!』
呆然と呟くと、先程見た光景の中で、父親が叫んでいた言葉が木霊した。
「真実だ」
再び、唐突に景色が変わる。今度はあの夜の、家の中だった。兄は斃れており、人狼が鼻をひくつかせながら辺りを見回している。そこへ、開け放たれたままの扉から、何者かが入ってきた。
「灰の兵だな。精霊の娘をどうするつもりだ」
新たに現れたのは銀色の甲冑を纏った騎士だった。ただし、下半身は青毛の馬である。
「銀の……。貴様、セイレン族がよこした者か」
銀の冑をかぶり、馬身の部分も鎧を身につけた騎士は頷いた。
「いかにも。彼女は我ら銀の一族が預かり受ける。そこをどいてもらおう」
槍を片手に、騎士は人狼のいる家の奥へ進む。それを見て、気に入らなげに鼻を鳴らした人狼は、血まみれの手で腰から太い曲刀を抜き、騎士へと突きつけた。
「……何の真似だ」
「はっ、後からのこのこやって来て、獲物を横取りしようとはいい心がけだな。……俺も灰の族長より娘を連れて帰るよう命令されている。貴様にやるわけにはいかん!」
吠えるように人狼が言った。そのまま剣を振り上げ、騎士を追い返すように襲い掛かる。舌打ちした騎士がそれに応戦しながら出口へと後退した。家の中は槍を使うには狭すぎるのだ。
「お前達灰は、あの娘を利用する事しか考えておらん!」
庭に出た騎士が、土を蹴って槍を繰り出す。それをかわして、今度は人狼の曲刀が騎士の胴を狙った。
「おためごかしで投げ捨てて、ろくでなしに悪用されるよりはましだろう!」
凄まじい剣戟を、果てなく繰り返す両者は互角で、決着が着く気配はなかった。家の入り口のところで、為す術もなく見守っていたルチルナの耳に、奥の物置からかすかなすすり泣きが届く。
多分、このまま決着が着かず朝になったのだ。だからルチルナが目覚めた時、誰もいなかった。
「結局この時、奴等は共倒れとなった。一方は灰の兵士、一方は銀の兵士だ。銀のセイレンはお前が赤子の時、置き去りにされたお前を拾って人里へ届けた。お前の耳にある、精霊族の霊石を付けさせてな」
また、世界が暗転する。
「何故……父さんと母さんは、私で何をしようとしたの?」
無意識に問いが口を突いて出る。乾いた目で、ルチルナはただ闇を眺めていた。
「光と闇の魔力の根源である、精霊の魔力を扱えるお前の血を利用して、闇の魔力を操る為の杖を作ろうとしていた」
陰々とした声が答えた。その声は更に告げる。
「お前の存在が灰に知れたのは、奴らが闇に手を染めたからだ。灰の軍は秩序の維持の為にも動く。奴らは禁忌を犯し、昼の民でありながら許されぬ闇の力を欲した。ゆえにそれを討つために灰の軍が動き、お前の存在を知った……」
結局、利用されていたということか。そして自分は、実の親にも捨てられたらしい。
「よって、お前が闇の王へ刃を向ける理由は存在しない。その事を、認めるか?」
嘘だ、と否定する気力はなかった。ただ、虚しさだけが心を静かに満たしてゆく。
「……」
押し黙っていると、視界が晴れた。気付くと洞窟の出口のような場所に立っている。背後は射干玉の闇。
外に出ると岩ばかりの荒野で、遥か下に闇に沈む森が見えた。空は満天の星に彩られ、かすかに青く色を薄めている。夜明けが近いのだ。
「誰も、私なんて要らないのね……」
肯定するように、風が流れた。
「私が存在しても、しなくても、誰も変わらない。困らない」
石ころばかりの不毛の大地に膝をつく。まるで、自分の心のようだ。
ここは、ルチルナを必要としない世界。
ルチルナを「飼う」世界。
「こうしていたって、私の足は地面についてはいないんだわ。私の体は世界と接してない。繋がってない……」
涙も流れはしなかった。
唯一の心の拠り所だった小さな家は、自分を閉じ込める檻だった。この世界の人々と、自分は違う存在だった。自分と同じであるはずの両親も、自分を捨てて行った。
ただ虚しさにくずおれるルチルナは、自分の中に生まれた衝動に気付くことはなかった。
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