第27話 雨と追憶 3



 火の玉のように飛び去るナースコルを見送った後、サリアスとフィラーシャはデュクシスに伴われて森を進んでいた。フィラーシャをデュクシスから庇うように歩くサリアスは、フィラーシャにも分かるほどぴりぴりと周囲を警戒している。そのサリアスの影に隠れるような形で、フィラーシャはとぼとぼと歩いていた。


 ナースコルの言葉に爆発するかと思ったサリアスは、意外なほど冷静にデュクシスとやり取りをしている。このデュクシスという男も、今となってはセイレンも、何を信じたら良いのか全く分からない状況だ。疑心暗鬼に駆られているのはサリアスも同じのはず、神帝への信仰深さの分だけサリアスの方が混乱するかとも思ったのに、彼女は飛び去るナースコルを悔しげに見送った後は淡々と荷物をまとめて、デュクシスの案内に従い始めた。


 サリアスは何も言わない。


 フィラーシャを責めるような事も、今の状況を悔やむような事も。


 むしろこうしてフィラーシャを庇い、委縮して過敏になっているフィラーシャを宥めるように肩を撫で、視線が合えば微笑みかける。その動作一つ一つに泣きたい気分になりながら、フィラーシャは必死にその後をついて歩く。一つ気遣いに触れるたび、その場に立ち止まって言い訳なり謝罪なりして泣き出したくなった。しかし、優しいそれらの後に必ずサリアスは、小さな声で「行こう」と促す。そこに響く重さが、立ち止まっては駄目だと言外に語っていた。


 何かしなければ、サリアスにばかり負担をかけている。


 そう思うのに、何をしたら良いのか分からない。不安と申し訳なさで乱れた胸の中は、ずっと小刻みに震えている。何を考えようとしても、混乱と後悔しか出てこない。せめても、何かサリアスに言おうとしたところで、何を言葉にしたら良いのか分からなかった。下手に口を開けば、それこそ後悔と言い訳ばかりが溢れ出そうだ。結局何も言えないまま歩いていると、その事にまた申し訳なさが募る。悪循環だった。


 だが、最低最悪でも一つだけ、フィラーシャにも分かっている事がある。


 立って歩かなければ、前へ進まなければ、事態はどんどん悪い方向へ進む。それは、サリアスも倒れ、ルチルナも攫われたあの時、デュクシスがフィラーシャに言った言葉だ。自分が立って歩かなければ、自分だけではない、他の誰かを犠牲にしてしまう。それは正に、ルチルナを奪われたあの時の事だ。


 あの時、フィラーシャがきちんと状況を受け止めていれば。自分で敵の刃を躱していれば。ルチルナは、ソアティスに止められていた特別な力を使わずに済んだ。そもそも、敵に襲われた二人とは離れた場所に居たのだから、先に敵を見つけるなり、襲いかかった相手を魔術で引き離すなり出来たはずだ。自分が冷静でさえいれば。それなのに、全部拒絶してうずくまっていた自分は何も出来なかった。いや、しなかった。


 ――ばかだ……どうしようもない、ほんとに……。


 そんな後悔ばかりが押し寄せてくる。


 魔導師は詠唱などの時間がかかるため、後衛にまわるのが基本だ。フィラーシャのように直接攻撃手段を持たない者は特に、常に近接戦闘型の戦士などを盾にすることになる。それゆえ、協会では必ず指導を受けるのだ。


『常に冷静に、客観的に広く状況を把握しろ。自分の繰り出す魔術次第で、前衛の命運が決まると思え』


 仲間を盾にするのだ。その陰に、怯えて隠れるだけの魔導師に価値はない。一歩下がった場所だからこそ見えるものを見て、その場に最も相応しい魔術を繰り出す事が求められる。そのためには、何よりも冷静さと広い視野が必要なのだ。あの時フィラーシャは、それを全て放棄していた。魔導師失格もいいところだ。


 そんな止めどもない後悔を、だからこそ今、噛み殺して足を動かさなければいけない。


 デュクシスの言葉が、サリアスの声が、それをフィラーシャに分からせた。泣くのは後でいい。謝る事すら出来ないのがどんなに苦しくても、その苦しさは今、自分が背負わなければいけないものだ。悔しさも、情けなさも、申し訳なさも、全部飲み込んで、ただ自分が今出来る精一杯の事をする。たとえそれが、ただ歩くだけの事でも。それ以上の事が出来ない自分をどこかに投げ捨てたくなったとしても、それは許されないのだ。


 冷静になれない。視野なんて、前すらまともに見えていない。自分に魔導師としての価値なんて無い。どうしようもないくらい駄目で、馬鹿で、ここに相応しくない。ぐるぐると巡る思いを、何とかフィラーシャが押し殺していられるのは、サリアスのおかげだった。


「行こう」


 後悔に足を取られかけるフィラーシャの手を握り、再びサリアスが促した。


 ――うん。


 声に出せなくても、何とか頷いて手を握り返す。かすかに笑う気配がして、酷くフィラーシャは安心した。



***



 あの洞窟で、銀の族長グラキエラはフォートに言った。


『――無論、承知しております。だが貴方より他に、これを為せる者も居ない。どうか、陛下の魂を呼び覚ましてその器となり、深海世界への扉を開いて下さい。このままでは世界は本当に滅びてしまいます』


 深海世界。それは、水の魔力で満たされた高次亜世界の事だ。水棲の一族が棲むというその世界は物質世界である地上よりも一段、星辰世界に近い。その深海世界との扉を開けば、深海世界から地上世界へと水の魔力が流れ込み、ひとまず地上世界の、水の魔力の枯渇による崩壊は止まる。封じられた己の器に代わり、銀の族長グラキエラの器を借りた闇の王の魂は、月の消失によって地上世界の魔力均衡が決定的に崩壊するのを防ぐため、その深海世界への扉を開きに行った。そして、それが叶わぬまま深い眠りについてしまったという。それが十年前の事だ。


 闇の王の、真実の名は銀月。彼こそが、この世界の月を担って夜闇を照らし、水と地の魔力を正しく循環させる存在だった。――千年前、アダマスの手によって月の宝珠と月の杖を奪われ、その身に太陽の剣を突き立てられて封じられるまでは。フォートが聖都、そしてテネルに捕まった日の明け方に見た夢は、まさしくアダマスの手によって銀月王が封じられた時の情景だった。彼はその時、銀月王の夢を渡っていたのだ。


 グラキエラがフォルティセッドに頼んだのは、十年という歳月の間に限界を迎えたグラキエラに代わり、銀月王の器となって深海世界への扉を開くことだった。しかし、銀の族長という地位にあり、大きな力を持つ夜の民であったグラキエラですら、闇の王の魂を受け入れては十年と身が保てなかったというのに、人間のフォートでどうなると言うのか。そもそも、何故あの場所で闇の王が眠りについてしまったのか、それをフォートが呼び覚ませるのかなど分からない。


 森を歩き続けて二日目、フォートは見覚えのある大岩に出くわした。膝丈以上に茂る下草を、踏み分けていた足を止める。


「ああ……ここか」


 無事、村の周辺に辿り着けたようだ。ほ、と安堵の息をついて、上が平なその岩に腰掛ける。空腹のせいもあって、随分と疲労が溜まっていた。携帯食は多めに持って出ていたが、二日も森の中を彷徨うのは完全に予定外だ。ナースコルのおかげで風邪は引かずに済んだが、精神的にも肉体的にもくたくただった。既に正午はまわって久しい。夕飯までには家に辿り着きたいところだ。


 ここまで来れば、あとは一刻もせずに村に着く。幸い今日は午前に小雨がぱらついた程度で止んだ。フォートが岩に座ったまま天を仰ぐと、雨雲というには幾分色の淡い雲が、葉を茂らせる木々の間を埋めていた。すぐ横の木で小鳥がさえずっている。


 世界の崩壊もフォートの苦悩も我関せずと、森は短い北の夏を謳歌していた。


「二日、か」


 兄たちはどうしただろうか。咄嗟の事態をさばくのが上手いデュクシスのことだ、冷静に的確な行動をとった事だろう。普段のらりくらりと生きているように見えるあの兄は、実はかなり優秀な男である。本人にやる気が見えないだけで、その気になれば村長家の長男として父親の片腕をするに足る人物だ。父親もその事は良く知っている。


 その兄がどうにもやる気を見せないのは、多分にフォルティセッドという弟のせいなのだろう。


 フォートが闇使いとして生まれた日から、次期村長はフォートだという暗黙の了解が村の中に出来た。勝手な事だと思う。その勝手な連中の態度の変化は、幼い子供にも伝わるものだ。フォートの誕生によって、それまで周囲から寄せられていた期待も関心も、根こそぎフォートに奪われたデュクシスは、フォートの存在を良く思ってはいない。それを前面に出すほど大人げない兄ではないが、あの捉え所のない態度の端にふと、そんな感情が垣間見える。


 フォートはこの能力が嫌いだった。自分の存在をあやふやにするその特性も、周囲から恐怖やら畏敬やら分からないような特別扱いを受けることも、一番身近な家族を苦しませてしまう事も。デュクシスに嫌われているのが辛いのではない――無論、嬉しいわけもない。出来る事ならば好かれていたいとは思うが――彼を苦しめる存在であるのが辛いのだ。


 帰る方向を見遣って、フォートは目を細めた。


 森の草木に阻まれて望むことは出来ないが、その先には村と、フォルティセッドの家がある。両親とデュクシス、ベルルサージュが待っているだろう。帰って、自分は何と説明するのだろうか。逃げ帰って来たと、言い出せるだろうか。


 この森に暮らしていて、世界の崩壊など実感できはしない。


 灰の一族の計画に協力するのは、単にそれが己の義務と思ったからだ。闇使いに生まれた以上、他に選択肢などない。ならばせいぜい、その役割くらいはまともに果たさなければ中途半端な化け物である。自分の夢や感情を読んでしまうような闇使いを、なんの利益もなしに大切する社会はそうないだろう。村の中での、闇使いとしての役割分だけこなして、あとは当たり障りなく生きてゆければ十分だと思ってきた。それすら叶わないというのか。


「みんな、何て言うだろうな……」


 責められるだろうか。闇の王を受け入れることが、闇使いに生まれた自分の義務ならば。


 フォートは突然降って湧いた己の「使命」にただ戸惑っていた。今まで、灰の一族の計画のために彼が為すべき事は、せいぜい「勇者」たちを村に迎え入れて城へ案内する事くらいだった。今回フォートが大陸に渡って巡礼地を回ったのも、司祭長やサリアスらと接触したのも、彼自身の希望だ。自分の眼で確かめなければ信じられないくらい、ここに暮らしていて世界の荒廃は遠く、「勇者」の存在が疑わしくなる程、村近くまでそれらしき人間は辿り着いてこなかった。


 フォートが「使命」を拒んでもナースコルは責めないと言う。だが、それは夜の民の論理だ。人間の論理ではない。大陸の人々を、「勇者」を利用する計画に協力しておいて――その中で、翻弄されるままに命を落とした者も多く居るはずだ――逃げた自分に皆は、兄はなんと声をかけるのだろう。


 投げ出してしまいたい、と心の隅が呟く。


 投げ出して、闇に身を委ねてしまえ、と自分でない誰かが囁く。


 その囁きに屈するのは嫌だ。それは恐怖も混じった意地である。同時に、周囲を失望させるのが怖くて、必死に「闇使い」の責務を果たそうとする自分がいた。だが今回、あまりにも急に重い選択を迫られて、それを受け入れる事が出来ない。


 ――怖い。


 フォートはそのまま岩の上に転がると、逆さまになった天地を眺めて目を閉じた。



***



 ベルルサージュが二日間行方不明だった下の兄を発見したのは、木苺狩りに入った森の中だった。彼はまるで台座のような岩の上で仰向けに倒れ、意識は無いように見える。


 一瞬、肝が冷えた。


 深夜の来訪者があった翌日も、デュクシスは変わらず厳しい顔のまま家を出て行った。ベルは詳しい事まで聞かされてはいないが、灰の一族の使いという蝙蝠男では、フォートの居場所が掴めなかったらしい。そのデュクシスも二日か三日は空けると言い置いて、実際今日も帰ってきていない。ベルもそれなりに心細い思いをしていたのだ。


 そこにこれだ。慌ててベルは兄のもとへ駆け寄った。呼吸を確かめようと、酷い動悸のする胸を押さえて顔を覗く。


 と、その気配に気づいたのか、フォートが軽く顔を顰め、ゆっくりと目を開けた。は、と安堵の息がベルの口から漏れる。へたり込みそうなベルをみとめて、フォートがのっそりと起き上った。


「……ベル。どうしたんだ? こんな所で。今危ないから、あまり森の奥まで出たら……」


 開口一番のお説教に絶句する。今の今まで攫われて行方不明だった相手に言われたくない。


「お兄ちゃんこそドコ行ってたのよっ。デュクシス兄ぃすっごい機嫌悪かったんだから! 今だって何か紛らわしいカッコで寝てるし……」


 威勢の良かった反撃は、段々と小さく歯切れ悪くなっていく。死んでるかと思った、などと縁起でもない言葉を口にしたくなかったのもある。だが同時に、どうやら勢い余って失言をかました事に気付いたのだ。


「……そっか、心配かけたね。ゴメン」


 身体を起こした次兄が、ベルの頭をくしゃりと撫でて岩から降りる。その横顔に暗さに、こちらまで暗澹たる思いになった。萎える気力を奮って補足する。


「いや、うん、あたしだけじゃなくてデュクシス兄もね、心配で機嫌悪かったっつーか、何つーか……」


 死ぬほど心配してました、と言ってしまえれば良いのだろうが、どうも上手く行かない……のは、断じて自分のせいじゃない、と心の中で誰にともなく弁明する。自分よりも六つ年上の良い大人相手に、何故いたいけな末妹である自分が諸々心を砕かねばならないのか。自分達だけで片付けろ! と正直言いたくなる長兄と次兄のすれ違いに、ベルは溜息をついた。


 デュクシスはフォートに好かれていないと思っているし、フォートはデュクシスに嫌われていると思い込んでいる。しかし、両方の話を聞いている限り、どうもお互い「相手の事を嫌い」と言っているところは見ないのだ。ただ、長兄の方は「男って馬鹿」の典型のようなしょうもない意地を張っている部分が多そうだが、次兄に関してはもう少し根が深いような気がしている。


 仕方がない、ここは自分が大人になってやろう。そう思い改めてベルルサージュが口を開きかけたのと、フォートが呟きのような問いを漏らしたのは同時だった。


「――木苺狩り、か」


 出端をくじかれて、うん、とだけ返す。握りしめたままだった蔦かごの中身に目を落した。中には、赤や紫の甘酸っぱい宝石がどっさり入っている。これらの夏の果実は、寒いため育つ作物に限りがある村の暮らしを支える、重要な栄養源だ。兄たちに似て森歩きの得意なベルは、それを幸いと他の娘たちより森の奥まで入り込んでいた。しかし、獲れる木苺は多いが危険なので、本当はここまで入り込むことは禁じられている。最近は鉱山から迷い込んだ狂者が出るからなおさらだ。


「ベルはまだ帰らないのか?」


「んー、あともうちょっと……とか思ってるんだけど……」


 日暮れまでにはまだもう少し余裕がある。まだ行けるはずだ、と返したベルに、フォートがそうか、と頷いた。


「じゃあ僕も一緒に行くよ。一人じゃ危ない」


 は、と頓狂な声が出てしまったのは許してほしい。そうベルは思った。この兄はたまに、どうにもずれている時がある。


「なっ、何言ってんの! お兄ちゃんはさっさと帰る!! 行方不明だったのよっ、早く帰って父さんと母さんに顔見せてよ」


 うん、といまいち分かっていない曖昧な笑顔で返事をする兄に溜息をついて、ベルは今日の収穫はこれで終わりと諦めた。


「今日中に帰れれば、別に……」


 と、阿呆な事を抜かし始めた次兄に皆まで言う事を許さず、ベルはその腕をとって踵を返す。


「んなわけないでしょ、ほら帰るよっ!!」


 夜の民に攫われた。理由は分からない。何処にいるかも、夜の民の力を借りても分からなかった。そんな状況で、デュクシスやベルを含めて村の人間に出来る事などいくつもないのだ。闇使いのフォートならば切り抜けられる事もそれはあるだろう。ベルも次兄が弱いとは微塵も思っていない。


 だがそういう話ではないのだ。自分たちでは手も足も出ない状況で、ただ家族の身を案じて待っていなければならない状況を何だと思っているのか。自分が待たされる側になれば大人しく待つ事など出来ないだろうに、とむかむか腹が立ってくる。


 想像力貧困め、と内心で悪態をついてベルは唇を噛んだ。分かっている。相手を思いやる想像力の足りない兄ではない。むしろ能天気なところのある長兄よりも、ずっと良くベルの気持ちを汲んでくれる存在だ。


 ただ、この兄の中で「フォルティセッド」という人間の存在は軽いのだ。


 親戚や村の年寄りが彼を重んじれは重んじるだけ、頼れば頼るだけ、その期待に応えようと努力する反面、自分自身の事を軽んじる。まるで闇使いとしてしか、自分に価値がないとでも思い込んでいるかのようだ。


 諸々察しが良すぎる自分を呪いながら、ベルルサージュはフォートを引っ張って家を目指した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る