月の杖と太陽の剣

歌峰由子

月の杖と太陽の剣

第一章 新たなる「勇者」の旅立ち

第1話 新たなる「勇者」の旅立ち 1


『天上におわします我らが神帝、光の御子よ、

 貴方にひれ伏す我ら、地を生きる人間の子らに正しき道と光の加護を。

 大いなる闇と諸々の悪徳をその強き輝きで滅し、

 迷える我らに唯一の、天上の楽園へ至る光の道を示す導きの手を――』





 払暁。白み始める東の水平線を背に祈りを捧げる、厳かな声が大礼拝堂の高い天井に響く。


 真東に開かれた入り口から僅かに入る明け方の光だけが、祈りを捧げる人物の輪郭を未だ闇に沈む礼拝堂に、ぼんやりと浮かび上がらせる。礼拝堂の中に響くのは、初老の男らしきその祈りの声と、さやさやと流れる清流の音のみだった。


 声の主は礼拝堂の中央に置かれた祭壇の前で両手を胸に当て、流れる清水の源である礼拝堂奥の泉と、その頭上に佇む神帝像へと祈りを捧げている。その自らを抱くように折り畳まれた両腕を覆う衣の色は紫紺。暗い礼拝堂にあっては漆黒とも見まがうその色は、この神殿、否、神帝を祀る大陸の神殿全ての中で、最高位の司祭にのみ許されるものであった。


 穏やかな内海に浮かぶ、なだらかな丘陵状の小島。その頂上に神殿はあった。日中は埃っぽく霞む麓の街も、今はまだ僅かの朝露に湿り、静寂の中に沈んでいる。それでも既に起き出し、その日の仕事を始めている者達のところまでは、祈りの声は届かない。


 低い祈りの声はただ、乾いた風に流され消えてゆく。



***



 祈りの声どころか、活動を始めた人々の生活音すら遠く聞こえぬ海辺の岩場に、ひそりと立つ人影があった。そこは神殿のある小島から少し離れた、岩塊ばかりの無人島である。脆い岩で出来たその島は波に至る所を削り取られ、奇怪な形を呈して海面に空洞を空けていた。その、波に穿たれて出来た洞窟へと、人目を避けるような暗色の外套で頭から覆った人影は滑り込む。


 手元の石らしき物が発する燐光を頼りに、奥へ奥へと入ったその人物は、目的のものがしゅうしゅうと立てる威嚇音を耳にし、にやりと口元だけで哂った。


「さあ、これをくれてやる。のたうち苦しみ、渇き飢え暴れるが良い」


 侮蔑と嘲りを込めてそう言った人影は、襲ってきた大蛇の胸元に、槍の穂先のように尖った光る石を突き立てる。突き立てられた石は一際大きく輝くと、のたうち始めた大蛇の中へと吸い込まれた。


 人影は、苦しみ始めた大蛇に生える、暴れる鷲の前脚を器用にかわして洞窟を去っていく。後にはただ、もがき苦しむ大蛇が洞窟を打つ音だけが木霊していた。






   ■月の杖と太陽の剣 第一部・闇に眠る真実






 聖都中央の大神殿から、荘厳な鐘の音が鳴り響く。


 夏至を過ぎ火の季節を迎えた聖都では、夕刻三の鐘がなったこの頃ようやく、太陽がその容赦のない光線を徐々に緩め始めていた。街の大通りでは、それに誘われるかのようにそろそろと夕市が立ち、あまりに強い日差しを避けて屋内に引き篭もっていた人々も出歩き始める。至る所で簡単な食事を売る屋台も軒を連ね、食欲をそそる匂いを湯気や煙と共に漂わせつつあった。


 そんな匂いや喧騒に誘われるように、ふらふらと露天商や屋台を覗きながら歩く少女がいた。


 行き交う者の殆どが黒髪、象牙色の肌に軽い麻の服を纏っている中で、その少女の風体は異彩を放っている。


 抜けるように白い肌に、まだ歩いていると暑いのか、少し上気した頬は血の紅だけを薄く刷いた薄紅色。一つに編まれた背中の半ばまである髪は、全く癖のない見事な銀髪だった。そしてあちらこちらに興味を移し、何かを見つけてはくるくると表情を変える大きな猫目は、遠浅の海を写し取った様な鮮やかな碧である。


 その容姿は彼女がこの聖都の生まれではなく、もっと北の、遊牧民の流れを汲む民族であることを示していた。しかし、当人はそうした周囲との違いを気にする様子もなく――というよりもむしろ、違いに気付くような暇などない様子で忙しくあちらこちらを覗いている。周囲も他民族など珍しくないようで、完全にお登りさんであるらしい少女の存在を受け流していた。


 実際、他民族もお登りさんもこの聖都では珍しくない。


 何故なら、この聖都こそが世界の大部分を支配する神帝アダマス帝国の首都であり、地理上の意味でも政治・経済的な意味でも、正にこの世界の中心であるからだ。


 聖海に浮かぶ丘状の小島である聖都の中央には、帝国政府のある中央神殿が世界の信仰と権力の中心としてそびえ立っている。最も天上の光景に近いと言われる優美で荘厳な白亜の神殿群は、神帝を信仰する者たちが巡礼の最後に訪れる終着点であり、同時に、神殿司祭達が天上におわす神帝の声を聞き、それに従って全世界に指示を出す、政府機関そのものでもあった。


 その中央神殿から港へと伸びる大通りをふらりふらりと下りながら、銀髪の少女、フィラーシャは珍しい食べ物や雑貨、装飾品などを飽きることなく眺め続けている。


 ふと、フィラーシャは装身具と雑貨を売る露天の前でその足を止めた。


「いらっしゃい。……お嬢ちゃん、その格好は暑くないかね」


 露天を開いている老婆が被った紗の下から尋ねる。辺りの人々が皆、二の腕や腿を剥き出しにした風通しの良い格好であるのに対し、フィラーシャは長袖の肌着の上に、踝まである綿の長衣を羽織り、腰に帯を巻いて締める北西の伝統的な魔導師姿だった。おまけにいかにも旅の途中らしく、簡素ではあるが革の胴衣と、同じく革製の篭手を身につけている。


「あ……いえ、コレしか持ってなくて……」


 えへへ、と照れたように口ごもり、フィラーシャははにかんだ笑いを老婆に向けた。


「下に着てるものを脱ぐだけでも違うだろうに、北は恥じらい深いお人が多いねぇ。ふひゃっひゃっひゃ」


 皺だらけの手を伸ばし、フィラーシャの長衣の裾をつん、と引っ張って老婆が愉快そうに笑った。欠けた歯の間から息が漏れているような、気の抜けた笑い声が響く。


 それにつられて笑い、それから一瞬思案するとフィラーシャは、老婆に問いを投げかけた。


「あのう、すみません。港って……まだまだ先ですか? ちょっと行ってみたいんですけど……夕刻五の鐘が鳴るまでに神殿まで戻れると思いますか?」


 その問いに老婆が顔を上げ、紗の下からまじまじとフィラーシャの顔を見返した。


「お嬢ちゃん、あんた、神殿の跳躍門で来たのかね。――おお、おお、良く見れば立派な杖の魔導師様だ」


 老婆はフィラーシャが右手に握る、身の丈程の杖の先端にも視線を移し、これまた愉快そうに大仰な感嘆をもらす。


 フィラーシャの手にしている杖には、何かを抱えるようにうずくまる鳥を模した彫刻が施されていた。全体的な意匠も古臭く、随分と古びた印象の杖であったが、所属する魔導協会からその杖を手渡されたフィラーシャ本人は、この杖を結構気に入っている。


「若くて杖持ちの魔導師様ということは……もしかして、『勇者様』かい?」


 老婆の「立派な魔導師様」扱いにどう応えて良いのか分からず、困ったように笑っていたフィラーシャが目を見張る。それを肯定と捉えたらしく、悦に入った様子で老婆は続けた。


「今時分に聖都にやってくる魔導師様なんて大半がそうさね。いやいや、それにしても若いのに優秀だねぇ。おめでとうさん、これで箔も付いて、将来は安泰ってもんだ」


「あ、ありがとうございます――」


 何の躊躇もなく祝福してくれる老婆に、フィラーシャはもぞもぞと口の中で礼の言葉を返す。その煮え切れない雰囲気を何と取ったのか、老婆はまた気の抜けた声を上げて笑った。


「ふっひゃっひゃ、まあ多少先立つものが要るがねぇ。だけどもそのくらい、ちょっと大きい国に一年でもお仕えすれば取り戻せるさね。安いもんだ、安いもんだ」


 老婆の言う「勇者様」とは、神殿から魔王討伐を命令された人物の事である。


 民間からの討伐隊への志願がない現在、「勇者」は聖都中央神殿にある帝国政府の設立した独自の戦士養成組織で育てられた戦士から選出される。そして訓練を経て魔王との戦うに十分な力をつけた戦士を討伐隊に組織すると同時に、全世界の魔導師たちを統括する魔導協会に、討伐隊一隊につき最低一人の魔導師を派遣するよう要請しているのだ。


 今でこそ辺境諸国の反乱や独立などでその国土を狭めているが、元々は地上のうち人の住むところは全て帝国の領土であった。そして現在でも国こそ帝国から独立しているが、宗教においては変わらず神帝アダマスを信仰している地域がほとんどであり、神殿も魔導協会支部も全世界に存在する。


 実際、フィラーシャ自身の所属する協会支部も、帝国から独立した諸小国の一つに存在していた。魔導協会は東西南北の中から毎年一区域を指定し、その中で優秀な魔導師を選出させて、神殿からの派遣要請に応えている。今年の指定区域は西。フィラーシャたちの支部が所属する区域なのだ。


「やっぱりみんな、支度金返上しちゃうんですよね……」


 春から夏にかけて、年に二、三組ほど選出される『勇者』たちは、今やその殆どが実際に魔王討伐へ向かってなどいない。それは周知の事実、暗黙の了解というやつだった。そして討伐の任を辞退する場合、神殿から出る支度金に多少の上乗せをして返上するという約束もまた、いつの間にか暗黙の了解として成立していた。


「まあねぇ、よほど事情のあるお人か、ちょいとこちらの螺子が緩んでるのでなけりゃ本気で魔王を倒しに行ったりはしないさ。何たってお嬢ちゃん、五年前にあれだけの大軍団やら英雄やらが北に押し寄せて行って、ひとーりも帰ってきやしないんだから」


 まるで宥めるようにそう言われ、フィラーシャは納得したように頷いた。現在、魔導協会から一回に派遣される魔導師は一人。そして噂によれば、戦士養成組織モルトヴァーナから送り出される戦士も一人だという。かつてあれだけ大勢の、世界に名だたる英雄が挑戦し敗れてきた魔王に対して、たった二人で何が出来るというのか。


 しかし一方で、この『勇者』に選抜されたと言うことは、とても優秀であるという証でもあった。よって協会から独立し、神帝国以外の周辺諸国や有力者に自分を売り込む場合には強力な切り札となる。


 実際、フィラーシャの国でも召抱える魔導師の条件にしている貴族や王族は多い。特に、国王直属となる王宮十二導師が選ばれる際には、最近では勇者であることは絶対条件だった。


 納得したところで空を振り仰ぎ、いつの間にか随分と日が傾き始めている事にフィラーシャは気づいた。慌てて日時計を探すが、辺りに有りそうにはない。


「ん、ああ、港に行きたいんだったねぇ。そうさね、今……三の刻半ぐらいって所だろ。この道をずーっと下っていけば出られるから、ちょいと急げば何とかなるだろうさ。お嬢ちゃん、あんた魔導師なんだから、帰りは空をぴゅいっと飛んだりも出来るだろ」


 棒切れを垂直に立てて影を見ると、老婆はそう教えてくれた。それに丁寧に礼を言って踵を返す。


「また故郷に帰る前に寄っておいで」


 という老婆の言葉を背にしながら、フィラーシャは港へと向かう緩やかな下り坂を、小走りに駆けていった。


 建物の隙間、はるか彼方に輝く水平線を目指して。



***



 フィラーシャの故郷には海がない。だが以前、南の鮮やかな海を知る旅人から、その見事な碧眼を「楽園の海のような色」と讃えられて以来、彼女は海に親近感と憧憬をずっと抱いてきた。今回聖都にやってきて生まれて初めて、その憧れの海を間近にする機会を得たフィラーシャは、その好機を逃すまじと走る。


 息を切らせて港に辿り着き、海を隠す石で組まれた堤防と、その前に立てられた魚市場まであと一息となった所で、フィラーシャは一旦立ち止まって息を整えた。走ったからばかりでなく高鳴る鼓動を落ち着けながら、潮の香りがする風へと向かって歩く。目指す先には堤防に作られた、それを越える為の石階段。あれを上れば海がある。

 突然、その堤防が派手な物音と土煙を立てて崩れ落ちた。


 崩れた石組みは魚市場の露天や屋台を押しのけ押し潰し、市場に集っていた人々が怒号や悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように四散する。驚いて立ち止まったフィラーシャの方にも、血相を変えた人々が逃げてきた。


「えっ……?」


 突然の事態に呆気にとられつつ、フィラーシャは土煙の立ち上る場所を注視した。次第に煙が退いてくると、その中心で何か巨大なものが鎌首を上げるようにうねっているのが見え始める。


「ダナスだ! 海からダナスが出たぞー!」


 壮年の男が通りをこちらへ走りながら、周囲に知らせようと声を張り上げる。それに気づいた人々が家から顔を出し、フィラーシャの周囲も騒然とし始めた。


 ダナスとは海に開いた洞窟に棲み付き、時折浜を襲っては人間や水揚げされた魚介類を食い荒らす魔物である。その姿は鷲の足を持つ大蛇で、鎌首をもたげればゆうに二階建ての建物を越える大きさだった。


 フィラーシャの故郷、大陸北西部にも魔物は出る。しかしそれらは大抵、辺境を監視している騎士団によって始末され、都市部にまで出て来ることはない。討伐隊などについて出た機会に見て、辺境で手馴れた騎士達が魔物狩りをする様子は知っていても、眼前で繰り広げられる破壊と混乱の光景は、生まれて初めて見る衝撃的なものだ。


 呆然と立ち尽くすフィラーシャを押し遣り、人々が神殿の方へと逃げてゆく。


「きゃあっ!」


 逃げる男に抱えている木箱をぶつけられ、体勢を崩したフィラーシャは、おもわず傍の屋台の支柱に手をついた。しかし粗末な支柱はぐらりと傾ぎ、重心を崩した屋台の天幕が梁もろともフィラーシャの頭上に落ちかかる。


「危ないっ」


 誰か、若い男性の声が警告を発する。


 結局体勢を整え切れずしりもちをついたフィラーシャと天幕の間に、咄嗟に滑り込んだ人影があった。その人物を確認する間もなく、天幕がフィラーシャの視界を遮る。一拍置いて、上手く梁を左手で受け止め、右手でもろに被ってしまった天幕をたくし上げたその人物がフィラーシャの方を確認する。その様子を、身体を縮める事すら出来ず呆然とフィラーシャは見上げていた。


「大丈夫ですか?」


 尋ねてきたのは先ほどの警告と同じ声。我に返って声の主へ視線を向けると、緩く波打つ茶色の髪を括った、旅装の青年がフィラーシャを見下ろしていた。温和な顔立ちの青年は、心配そうにフィラーシャを覗き込んでくる。


「あ……はい。ありがとうございます」


 あまりに忙しく視界と重心が動いたせいで、ほとんど目を回しているフィラーシャはやっとそれだけ答えた。左利きらしく、右の腰に帯剣した青年は苦笑すると、支えていた屋台の梁と天幕を路傍の方へ投げ置いた。ばさり、と派手な音をたてて屋台が倒壊する。


「持ち主にはまあ、申し訳ないけど……非常時だしね」


 そう軽く肩を竦めると、青年はフィラーシャに手を差し出した。


「早く逃げましょう。大蛇もこっちに向かってきてますし」


「は、はい」


 慌ててその手を掴み、投げ出してしまっていた杖も握りなおして立ち上がる。海岸の方を見遣れば、確かにダナスが暴れながら神殿の方へと上ってきていた。


「あの蛇……どうするんだろ……?」


 このまま上ってくれば更に被害が出る。そう不安に思って呟いたフィラーシャに、青年はこう答えた。


「そのうちには神殿の兵士が出てくると思いますけど……。ただ、どうも別の場所でも今魔物が暴れているらしいですから、少し遅れるかもしれないですね」


 今現在でさえ、被害は決して小さいとは言えない。ダナスが上陸のため破壊した堤防のすぐ裏に、ちょうど市場が立っていたため多くの人が堤防の倒壊に巻き込まれた。怪我人も、悪くすれば死者も十人を超えている可能性すらある。


 恐怖と混乱に鈍る足を、どちらに向けるかフィラーシャは迷っていた。辺りの人々は次々に逃げ去り、残っているのは逃げ足の遅い老人や子連れの母親、迷子に怪我人といった弱者ばかりだ。仮にも「勇者」に選ばれた、魔導協会の魔導師である自分が何もせずに逃げても良いのか。


 しかし前線に出ての実戦経験は皆無のフィラーシャでは、自分の実力であの凶暴な大蛇が倒せるか否かの判断もつかない。迷うフィラーシャを、助けてくれた青年が怪訝そうに見ていた。



***



「行った方が、いいですよね……い、一応魔導師だし。出来る事、あるはずだから」


 立ち竦んでいる様子だった魔導師の少女が、自信のなさそうな声でぼそぼそと言った。てっきり恐怖で思考停止しているのだと思っていたフォルティセッドは、少し驚いて少女魔導師を見下ろす。


「戦う気ですか?」


 思わず、まさか無理だろう、という感想丸出しの声音で問い返してしまい、慌てて口を噤む。そんな不躾な態度は趣味ではない。


「え、えっと。救助とか治癒くらいは出来るかな――って思って」


 やはりと言うべきか少女は萎縮したらしく、杖で地面をいじいじと掘りながらそう返答した。随分と頼りなさそうに見えるが、流石に協会魔導師として与えられた杖は伊達ではないらしい。「魔導師」としての心構えはきっちり叩き込まれているようだ。


「なるほど、動くなら早い方がいいですよ。もたもたしてると僕らもあいつの餌です」


 危機感が足りないのか、元々が鈍いのか、機敏に動く様子のない少女を急かす。先ほどからの様子から察するに、もしかしたらこういった非常事態そのものに慣れていないのかもしれない。


「そ、そうですね。えと、えと……」


 我に返ったらしい少女が慌てて辺りを見回す。しかし、やはりどうしたら良いのかが分からないようだった。


 このまま放っておけば、十中八九この少女は無事では済まない。偶然目の前で屋台の下敷きになりかけていたから咄嗟に助けただけの相手だが、折角助けた相手を見捨てて行けるほど、フォルティセッドは冷淡ではなかった。


「仕方ない、こっちです」


 一旦は離していた少女の手を掴んで走る。驚いたらしい少女が、悲鳴を上げながらもちゃんと走って付いて来るのを確認し、フォルティセッドはダナスの動きを確認した。幸いダナスの興味は通りの反対側に並んだ、魚を加工販売している家々に向いているらしい。煉瓦造りの家々に頭を突っ込んでは、鷲の足で周囲を蹴散らしている。


 それを幸いと、フォルティセッドは通りの端ぎりぎりを走ってダナスの背後をすり抜けた。しかし、あと少しでダナスの射程を抜ける、というその場所で、後ろを走る少女が声を上げて立ち止まる。引っ張っていた相手に突然止まられてつんのめったフォルティセッドは、何事かと後ろを振り向いた。少女を見遣れば、彼女は深刻そうに眉根を寄せて斜め上方を見上げている。


「あれ、子供が……!」


 少女が指差した方を見ると、ダナスが首を突っ込んでいる家の二階の窓に、大べそをかいた男児がしがみついている。親は既に逃げてしまった後のようで、その泣き声は助けではなく、ダナスを男児のもとへ呼び寄せるだけのものとなっていた。


 さて、どうするか。内心舌打ちしながらフォルティセッドは思案する。実際には、フォルティセッドは単身でダナスを追い払うだけの能力を有していた。しかし、先ほど通りを海岸へ向けて逆走し始めた辺りから、どうにも首筋にちりちりと刺さる視線がある。心当たりなどないが、誰かが自分たちの動きを監視しているようだ。フォルティセッドの能力は、そんな状態で使いたいようなものではない。


「だからって、それで見捨てるのも……!」


 癪な上に寝覚めが悪い。腹を括って剣を抜くと、背後からの視線が一層鋭くなる。それを振り切ってダナスに駆け寄ろうとしたその時。


 既に茜色に変わった陽光を反射して、朱に光る大きな剣が視界の上端に映った。

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