第四章 地下迷宮七人からくり物語 その1

 カナと華生は、静かな廊下を進んでいた。

 二人の他に近くには人がいるような気配や物音は無かった。むしろ、あったら困る。

 足音は小さく、あまり聞こえない。おじさん特製の靴が吸収しているのだろうか。だとしたら凄い。見た目、ちょっと靴底に厚みのある靴にしか見えないのだが。どんな構造になっているのかは、まったく分からない。

 最初は靴のまま家に上がることに罪悪感があったが、もう何も思わなくなった自分が怖いと、華生は感じていた。

「ここです」

 カナが足を止めた。

 その場所は部屋と部屋の間の所が、一メートルほど奥にへこんでいる。その突き当たりには、壁と木製のドアが見える。

「うん。確かになんか中途半端な造りだけど、特に怪しそうな感じは無いよ?」

 華生にはどう見ても、ただ壁とドアがあるようにしか見えない。普通に歩いていても、何かあると思わずにスルーするだろう。

「何種類か図面を見たのですが、昔はこの奥まで廊下があって、両部屋の入口があったのです。それがある日、両部屋の入口が表側に移動して、ここに壁とドアが出来たのです。つまり、元は廊下だったこの奥のスペースに、ポッカリと空間が出来ているのですよ」

 カナは記憶した図面を思い出しながら、語る。

「物置かなんか作ったんじゃないの?」

「その可能性もありますが、その物置が地下だとしたら……?」

「大体、ここ入れるの?」

 華生はドアノブを掴んで回した。鍵がかかっているようで、ドアを押しても引いても開く気配は無かった。ドアの隙間を覗けば、デッドボルトが出ているのが見える。

「思いっきり鍵かかってるし」

「大丈夫ですよ。私を誰だと思っているのですか?」

「カナ」

 華生は即答した。

「そういうことを言いたい訳じゃありません。私は二代目怪盗からくりマンなのです」

「気に入ってるの? そのダサい名前」

 華生はまだ、この名前を受け入れる気にはなれない。

「初代は自作のからくりを駆使して、盗みシゴトをする怪盗でした」

「あ、由来そこなんだ。てっきり、からくり人形が好きだからかと思ってたよ」

「まぁ、それは置いておくとして。私にも、様々なからくり機能が装備されているのです」

 カナはドアに近付く。

「例えば、鍵のかかったドア。こんな時は……」

 カナが胸の所まで上げた右手には、細い棒のような物があった。いつの間に取り出したのか、まったく見えなかった。

「所長特製のからくり『オールアンロックキー』と言います。どのような鍵でも、これで解錠出来てしまうのです」

「ふぅん……」

 華生にはただの棒にしか見えないので、カナの説明を受けてもこれが凄いのか凄くないのか、ピンと来ない。

 カナはオールアンロックキーを鍵穴に押し当てた。棒は鍵穴よりも幅があったので入らないが、カナはそのまま待っていた。

 やがてオールアンロックキーの先端がほのかな光を放つと、カナはぐっと力を込める。オールアンロックキーはシリンダーの中にゆっくりと入っていき、奥に到達する。

「いきます」

 そう言うと、手首を捻る。鍵はカチリという音を立て、解錠された。

「とまぁ、こんな感じで開くのです」

 カナはオールアンロックキーを抜いて、ドアを開けながら言った。

「すっごーい。見せて見せて」

 華生はそう言うと、カナの右手を掴んでオールアンロックキーを見た。だが、オールアンロックキーはすでに元の棒状態に戻っていた。

「戻ってる……。残念」

「抜いてしまったら、元の小さな状態に戻っちゃいますからね。では、先へ行きましょう」

 カナが中に入り、華生も後に続いた。

 中は廊下がそのまま延びていて、左右正面は壁があるだけ。他には何も無かった。

「……あれ? 何もありませんね」

 カナは小走りで突き当たりまで行き、壁を触り始めた。何か仕掛けがあるような感じは無い。ただの壁が目の前にあるだけだった。

「ここだと思ったのですが……。本当にただの物置を作っただけだったのでしょうか。でも、物も何もありませんね。何かあった形跡も無いし……」

 納得のいかないカナは、何か無いか周囲を調べ始めた。

 華生もドアを閉めてカナの元へと向かう。

「ん?」

 華生は途中の柱に何かあるのに気付いた。

 目のギョロッとしたヒゲの生えた男の絵が、丸い額の中でムスッとしていた。

「なにこれ」

 華生の声を聞いて、カナは奥の方から戻ってきた。

「……ああ、これは歌川国芳の『だるま』ですね」

 カナは絵を見るなり、即答した。

「歌川国芳? 誰?」

 歌川が付くのは、東海道五十三次で有名な歌川広重ぐらいしか知らない。

「はい。歌川国芳は江戸時代後期の浮世絵師で、これは両面相と呼ばれる絵になっています。上下逆さにしても、人の顔に見えるのですよ。この絵は、逆さにすると『だるま』から『げどふ』になります」

 からくり人形は江戸時代に作られた物も多く、哲はその辺の文化も明るい。当然、カナにもその辺りの知識はインプットされている。

「ふぅーん……。両面相ねぇ……」

 華生は絵をしばらく眺めていた。

 丸い額。その中に両面相。

「──いや、まさかね」

 そう言うと、華生は額に手をかけた。

 ゆっくり回して、絵を「だるま」から「げどう」に変える。絵の男は、すこし笑っているような表情に変わった。

「やっぱり、これがスイッチとか、無いか」

 そう言った瞬間、微弱の振動が起こる。

 廊下の奥の方にある床がゆっくりと動きだし、口をポッカリと開けた。

「すごいじゃないですか! ハナさん」

 カナは上機嫌になって、入口が開いた方へと向かった。

「いやぁ、逆さにしたらどんな絵なんだろうって思って、動かしたついでになんか起こればいいなと思っただけなんだけどさ」

 ただの偶然だったが、結果オーライとなった。

 二人は開いた部分を覗き込む。

 下へと続く階段があったが、奥の方は漆黒の闇があるだけで、暗闇に慣れた目で見ても、地上からでは何があるのかよく分からなかった。

「暗いですね。多少暗くても大丈夫な私でも、これじゃ見えませんよ」

「うん。地上がまだ光があることを実感するよ。ライトとか出せないの? 目からピーッと光とかさ」

「所長がその機能を付けようとしたのですが、私が眩しくてよく見えないので、やめました」

「うん。まぁ、そうだよね。よく考えたら、目から光が出るんだもの。眩しいよね」

 目からビームを出すような人には、感心する。

「一応、こんな物をは持ってきてますよ」

 カナはポケットからフラッシュライトを取り出した。手にすっぽり収まる小型の物だ。確かにこれで照らせば明るくなるだろう。

 だが、当然の疑問が浮かぶ。

「光でバレたりしない?」

「地下なら大丈夫でしょう。むしろ、見えない方が危険です」

「まぁ、そっか」

 納得した華生は、カナからフラッシュライトを受け取った。そのライトで地下の方を照らすと、暗闇に飲み込まれていた階段に光が当たった。ライトを動かすと、踊り場と壁が見える。

「意外と深そうだね」

「ここからでは、どれぐらい降りるのか分かりませんね。でも、ここにいる訳にも行きませんから、地下へ行きましょう。何があるか分からないので、気をつけて下さいね」

「ねぇ、地下で何か起きたら、どうすればいいの?」

 カナは少し考えて、

「その場で考えましょう」

 と、答えた。基本、臨機応変ノープランで行くようだ。

「……そうだね。まず、何があるか分からないもんね」

 華生は不安でいっぱいだったが、ここにいても仕方無い。地下に降りることを決意した。

 二人は並んで、階段を一歩ずつ降りていく。踊り場を回ると、また下の方に踊り場が見えた。

「まだ続いてる」

 階段を降りて踊り場を回ると、また同じ風景が広がっていた。

 しばらく階段を降りては踊り場を回るという行為を繰り返す。

「……まだ?」

 階段を降りるだけで疲れて、足の重くなっている華生が聞く。先行していたカナが足を止めた。

「ハナさん、ゴールのようですよ」

 それを聞いて、重い足取りが軽くなった。

 華生はカナの横に並ぶ。先ほどまでと違い、階段を降りた先で左側へと通路が延びているようだった。

「やっとかぁ」

 先ほどまでの疲れは吹っ飛んだ。二人で一番下まで降りる。

「よっし。ゴォール……って、まだ階段降りただけなんだよね?」

「ですね」

 まだまだ道半ば。二人は道が続く方を見る。

 ライトで照らすと、通路がまっすぐ延びているだけだった。通路の壁に蛍光灯が付いているものの、大した明るさは無い。真のゴールは、まだまだ遠そうだ。

「……道は平坦だけど、すごく困難な道のりになりそうだね」

「その困難を乗り越えた先に、獲物オタカラがあるはずです。行きましょう。美味しい料理を作ったコックさんが待っていますよ」

 カナはなんだか楽しそうだった。

 華生も最初は不安のドキドキしかなかったが、今では何かが起こりそうというワクワクの方が勝っている。普段の生活では体験出来ない非日常が、目の前にはある。期待するなという方が無理だ。

「何をやっているんですか? 置いていきますよ?」

 気づいたら、カナは先の方へと進んでいた。

「待ってよ。すぐ行くから」

 華生も奥へと進んだ。


 しばらくまっすぐな通路が続いていた。

「あっ!」

 カナが突然短く声を上げて足を止め、壁にライトを当てて見つめていた。

「どうしたの?」

 華生はカナの隣に行った。

 壁を見ると、そこには小さな黄色いボタンがあり、上には貼り紙がしてある。貼り紙には「押すなよ! 押すなよ! 絶対に押すなよ!」と妙に達筆な字で書かれてあった。

「いや、バレバレだし。いくら何でも、こんな見え見えの罠、押す人なんていないぃぃぃぃぁぁあぁぁああぁぁぁぃぃぁぁあぁあぃ!?」

 華生が言い終わる前に、カナが平然とした顔で黄色いボタンをポチっと押していた。

「なぜ押した!」

 華生がカナを問い詰めると、

「『絶対に押すなよ』と言われたら押すタイミングだって、所長に教わりました」

 と、当然の事のように答える。

「ここは熱湯風呂じゃないから!」

 二人は足元に微弱な振動を感じた。

 黙って顔を見合わせる。先ほどの経験からすると、これは床が開く前触れだ。

 即座に二人は進行方向へと飛んだ。その直後、床がパッカリと割れて、大きな穴が口開いた。

 二人は膝をついて、恐る恐ると覗き込んでみる。

 深い穴の奥底にはお湯が張られていて、下の方からはもうもうと湯気が立ち上るのが見える。

 二人は再び顔を見合わせた。

「やっぱりここは熱湯風呂みたいですよ? ハナさん」

「でも、熱湯風呂にしては、明らかに熱すぎない?」

 華生が顔で感じる熱さは、風呂で感じる物では無い。水を沸かした後に蓋を開けたやかんの湯気という感覚が近いだろう。

「うーん……私の目測ですと、大体九十度ぐらいですね」

「それ、本当の熱湯じゃない! 入れないよ! 入ったら死ぬから!」

「そうなんですか? 熱湯風呂と言うぐらいですから、熱いお湯のお風呂だと思っていました」

「うん。それだったら、別府の地獄めぐりは人気の入浴施設になってるね」

 大分県にある別府温泉の地獄めぐりで見られる源泉は、その多くが九十度以上の物である。もし入られるのなら、名前を天国めぐりに改名しなければならないだろう。

「ところで、カナちゃん。これって、元に戻るの」

「え?」

 目の前にある穴は、壁いっぱいまでの横幅が五メートルほど縦に延びている。

「私たち、帰れるのかなって思ってさ。これ、どうするの? 帰る時」

「んー……」

 カナは少し黙り込む。

「多分帰られるんじゃないんですか? 今ググったのですが、高校陸上女子の走幅跳日本記録は、六メートル四十四センチだそうですよ? 理論上、飛べるはずです」

「…………」

 華生は絶句した。カナがこんなことを本気で言ってるのか冗談で言ってるのか、分からなくなる時がある。

 今のは多分、本気だ。

「いや、そんな高校記録ポンポン飛んじゃう人が大勢いたら怖いから。中々出ないから、凄いわけで。大体、私体育3。運動は得意な方じゃないから」

「ハナさん、知っていますか?」

「……何を?」

 またかな? と思いつつも、とりあえず聞いてみる。

「高校陸上女子の走高跳日本記録は一メートル九十センチです」

「うん。だからね──」

「ハナさん、さっきそれよりも高い壁を越えたじゃないですか。きっと飛べますよ」

 華生が何か言おうとしていたのを遮って、カナは言った。確かにさっきの屋根塀は二メートルを軽く越えてただろう。それを乗り越えたのは、間違いない。

 華生はなんだか、飛べそうな気がした。

「いけるかもしれない」

「ですよね。それでは先へと行きましょう」

「そだね」

 と華生が歩き出そうとした所で気付いた。

 別にあの塀を背面跳びで越えた訳じゃないし、カナの手助けがあった。ひょっとして、カナに上手く乗せられたんじゃないか? と薄々感じた。おじさんゆずりの口の上手さを持っていると、さっきから思っている。

 だが、今は深く考えないことにした。考えたら負けのような気がした。

「置いて行きますよー」

 またカナが先の方に進んでいた。

「待ってぇー……ん?」

 華生は気配を感じ、振り返った。今は何も見えないが、自分たちが来た方向から、何か小さな音が聞こえてくる。

「……どうしたのですか?」

 華生が振り返った事に異常を感じたのか、カナは奥から戻ってきた。

「誰か来るみたい」

「……確かに、誰か来てますね」

 やがて小さな影が段々と近付いてくるのが見えた。

「あれは……怪盗アシホですね」

 カナが言う。華生も影が近付いてきて顔が見えるようになると、さっき上で見た人だというのが分かった。

「ああ、来たんだ、あの子も。でも残念だったね。こっちには来れないよ」  

 と、余裕を見せる華生。

 アシホは真っ直ぐ前を向いており、走る速度が落ちる気配がない。

 やがて穴が近づくと、彼女は軽々と大きな穴を飛び越えてしまった。

「おっ先ぃー。獲物オタカラは、このアシホ様がいただくからねー」

 アシホは足を止めることもなく、華生とカナを追い抜いて先に行ってしまった。

 残された二人は唖然と立ち尽くしていた。

「……越えちゃいましたね」

「……越えちゃったね」

 二人はアシホが進んでいった方向を見つめていた。

「ハナさん。怪盗の世界では、あれぐらい普通なんですか?」

「知らないよ。だって私、今日怪盗デビューだもん」

「それは私もですけど。とりあえず、急いで追いかけましょう」

 と、カナは言いながら数歩進むが、華生は足を止めたままだった。

「? 行かないんですか?」

「いや、思ったんだけど、この先も罠があるんだよね? こんな感じで」

 このバレバレすぎる罠が罠と言えるのかどうかは、今は置いておく。

「おそらく、あると思いますよ。この人の心理につけ込む恐ろしい罠の数々が」

「いや……うん。まぁ、そうだね」

 色々と言いたいことはあるのだが、ここはひとまず置いておく。

「あの子が先に行ったら、私らが通る前に罠が作動してるんじゃないかなぁって思うんだけど」

「え? あの子を犠牲にするのですか? それは可哀相だと思います」

「うん。そう思うのはいいけど、私たちが犠牲になるよ?」

「それは困った問題ですねぇ……」

 カナは眉をハの字にして戸惑っていた。

 カナの疑うことを知らない純粋さと優しさが今後足枷になるんじゃないかと、不安になってくる。

「とりあえず、追いつくかどうか分からないけど、あのアシホを追いかけるしかないよね」

 カナを動かすために華生が出した答えは、これだった。アシホを助けるにしても、助けないにしても、これなら先に進める。

「そうですね。先に行きましょう。アシホさんが罠にかかってないか、心配ですから」

 二人は奥へと進み始めた。


 しばらく進むと、右に折れ曲がった角が見えてきた。

「カナちゃん。これ曲がったらゴールとかじゃないよね?」

「そんな簡単な構造ではないと思いますよ?」

 二人が角を曲がると、またまっすぐ延びた通路が見えた。今度は途中にキラリと光る何かが見える。

「あれ何だろう。隠し財宝かなぁ?」

「ハナさん。隠れていないので、隠し財宝ではないと思いますよ」

 正論ではあるが、そこが問題じゃないのではないかと疑問が浮かぶ。

 二人は光る物を確かめるべく、慎重に近づいた。

「うわぁ……」

 華生は光る物の正体が分かった瞬間、足を止めた。

 壁には自分の身長ほどの縦長な穴があり、そこから出てきたと思われる重々しい斧が、床へと突き刺さっていた。

「これ完全にりにきてるよね? 脅すとか、ブラフとか、そんなレベルじゃないよ? これ。もう殺人未遂の世界。からくりですら無いよ? 殺人兵器。死ぬって。絶対死ぬ」

 華生は斧を指さしながらカナに言った。

 カナは斧を見ても表情一つ変えない。それどころか、よく見れば安堵の表情を浮かべているようにも見える。

「……良かったですね」

「何が? 良くないよ! 斧だよ? 斧。当たったら死ぬって。オーノーなんて言う暇も無いよ!」

 カナから出てきた予想外の言葉に、華生は思わず叫んだ。斧で喜ぶのなんか、ホラー映画で有名なジェイソンか、川に落とした鉄の斧をヘルメスに拾ってもらった木こりぐらいしか知らない。

「いえ、そうではなくて、アシホさんが被害に遭わなかったことです。もし怪我か何かしていたら、跡が残っているはずですから」

「ん?」

 華生は斧の辺りを見た。その付近にアシホが倒れてる訳でもないし、血溜まりがあるようにも見えない。まぁ、あっても困るのだが。

「てことは、アシホは先に行ったってことか。先に行かせて良かったのか、良くなかったのか……」

 今後もこんな本気の罠があると思うと、華生でさえアシホのことが心配になってきた。

 アシホの姿が視界に入っている方が、まだ心臓に優しいかもしれない。目の前で罠にかかって心臓に悪くなる可能性もあるが。

「行こう。彼女に追いつこう」

「そうですね」

 二人は奥へと進んだ。


 今度はそこまで歩かずに右へと曲がる角が見えてきた。

「これ、全部右曲がりなの?」

「最初は左でしたよ?」

「いや、そうだけど……。最初左に曲がって、それからずっと右じゃない? 次もまた右だったら、最初の所に戻っちゃいそうじゃない?」

「それは無いかと……」

 カナは突然後ろを振り返った。この斧の通路に入ってから、カナはちょいちょい後ろを振り返っては、頭を捻っている。

「カナちゃん、どうしたの? さっきから。そんなに後ろが気になるの? 誰か来てる?」

「……いえ、さっき角を曲がってから、通路が緩やかな勾配になっている気がするのです」

「…………勾配ってなに?」

 華生には馴染みの無い言葉だった。

「簡単に言えば、坂道です。少しずつ上がっている気がするのですよ」

「ふぅーん……」

 華生も後ろを振り返った。見えるのは、まっすぐ延びた通路と床に刺さった斧だけ。他には何も感じない。

「うーん、よく分からないよ」

 華生は首を傾げた。自分の平衡感覚がおかしいのかと疑ったが、逆にカナの平衡感覚が鋭すぎるのかもしれない。

「まぁ、例え坂道になってたとして、この先で答が出るのかもしれないね」

「そうですね」

 二人が角を右に曲がると、また同じようにまっすぐ延びた通路が見えた。遠くになにか細長い物があるように見えるが、ここからではハッキリとは見えない。

「あれ、作動した後の罠かなぁ」

「行ってみないと、分かりませんね」

 二人は遠くに見えていた物体に近付いてみた。

「これって……」

 そこには、天井から垂直に垂れ下がったロープがあった。床は途切れており、数メートル下がった所にに広がるのは、水と思われるプール。そして、ここから離れた位置に丸い床があり、そこから細い足場を渡った先に、また通路が広がっている。

「こういうの、テレビで見たことがある気がするんだ」

「私も、そのような物が記憶されています」

 二人の頭の中には、これと似た風景の物が繰り広げられていた。

「SASUKE!」

「風雲たけし城!」

「「ん?」」

 二人は別々の単語を口に出した後、顔を見合わせた。

 カナは見た目が華生と同じぐらいの歳でも、中身をインプットしたのは四十に突入したおっさんなのだから、ジェネレーションギャップが生じても仕方無い。このズレを修正できるかどうかは、華生の教えにかかっている。

「ところで、カナちゃん。これってからくりなの? からくり要素が無いと思うんだけど」

「私に聞くんですか? 私は制作者ではないので分かりませんが、予算が尽きたのでしょうか。おそらく、槻田さんの自作だと思いますし」

「早いなぁ、尽きるの。そんなに凝った物じゃ無かったのに。まだ色々出来るでしょ」

 華生は端っこから下を覗き込む。湯気は登っておらず、先ほどのようなお湯ではないと思われる。先の方の床にも、何か仕掛けがあるような感じは無い。緩やかな勾配で少しずつ上がっていた高さは、あの低い位置にある床でリセットされるようだ。

「ところで、どうしよっか、これ」

 ロープは今いる所と丸い床の間の途中、ややこっち寄りぐらいで垂れ下がっている。手が届くような距離では無い。微かに先端が揺れており、おそらくアシホが使った後だと思われる。

「ハナさん。通路の端っこにこんなのが」

 カナが指差した先には、シャッターを下ろす時に使うフック棒が置いてあった。これを使えば、ロープを手繰り寄せることが出来るだろう。

「ずいぶんと優しい仕様だなぁ」

「槻田さんも、奥に行く時に使うのではないでしょうか」

 それを聞いて、テレビで見たふくよかなお爺さんがロープで空を飛ぶ所を想像して吹き出しそうになってしまった。

「とりあえず、これを越えないとどうしようも無いよね。行こっか」

 華生はロープをたぐり寄せながら言う。ロープが手元に来ると、フック棒を元の位置に戻した。念のためにロープを強く引っ張ってみるが、簡単に取れないような強度のように思える。

「ぶら下がったらロープごと落ちるってことは無さそうだね。普通に飛べそう」

 見た感じ、そんなに難易度が高いようにも見えない。華生はロープを握り直した所で、ふと疑問が浮かぶ。

「もし、これ下に落ちたりしたらどうなるんだろう」

 普通なら、下に落ちたらアウトになってしまう。そんな判定が出来るような装置があるようには見えない。

「うーん……普通の水っぽいので、この後全身濡れたまま行動することになると思いますよ? きっと」

「うっへぇ……」

 想像するだけで寒気がした。下着までぐっちょり濡れてままで行動なんて、気持ち悪すぎてゴメンだ。

 目を閉じて頭の中でイメージを描き、落ちないようにしっかりとシミュレーションをした。

「よぉしっ!」

 華生はロープを強く握りしめる。

 そして目を開いた。

「行ける!」

 そう言うと勢いを付けて床を蹴り、宙へ飛び出した。

「うっひゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ」

 頭の中で描いてたよりもスピードが出て、全身に風を受ける。華生は思わず声が出てしまった。

 加速を続けながら下降していき、やがて水面が近付いてきた。ロープの長さ的には水面には落ちないはずだが、ロープを握る手に力が入る。

 華生の身体は水面スレスレを通過した後、減速をしながら上昇を始める。

 宙へ飛び出してから丸い床の付近に来るまで、あっという間だった。

 華生は自分の進んでいる速度と事前のシミュレーションを照らし合わせて手を離すタイミングを計ろうとしたが、そんな時間など有るわけもないし、そんなことをきっちり計算出来るような頭脳も持ち合わせてなどいない。

「ここだぁっ!」

結局、最後に頼れる直感を信じて手を離すことになった。

 華生の身体は放物線を描き、丸い床が徐々に近付いてくる。

 まっすぐ身体を伸ばした華生は丸い床の中心に降り立つと、両手を挙げて静止した。ぐらつくことのない、綺麗な着地だった。自分でも、この着地はよく出来たと思う。十点満点をあげたい。

 華生はそのまま百八十度反転して、カナの方へ振り向いた。

「カナちゃんもおいでよ」

 カナは無人になった後も揺れ続けているロープを、フック棒で手繰り寄せた。

「行きますよー」

「来てー」

 数歩下がって着地をするスペースを空けた華生は、両手を大きく広げてカナを待つ。

 ロープを握ったカナは、恐れること無く宙へと飛び出した。

 飛び方は先ほど華生がやった綺麗な着地を見ている。それを記憶していた。

 同じようにやれば、同じように着地出来る──はずだった。

 ロープを手放したカナの身体は華生よりも速く宙を舞っており、より遠くへと飛んでいた。

「……ん?」

 華生はカナとぶつかると感じたが、時すでに遅し。二人はもつれるように床へと倒れ込んでしまった。

「だ、大丈夫ですか?」

 カナはすぐに身体を起こし、華生の身を案じる。

「う、うぅん……いや、大丈夫大丈夫。へーきへーき」

 華生はどう答えるか少し迷ったが、軽く返事をする。

 倒れ込む際、頭は上げたので打たずに済んだ。背中とお尻は床に打ちつけられたので少し傷むが、じきに治まるだろう。ここでカナの不安を煽るようなことをしても、何の得にもなりやしない。

「す、すみません。ハナさんと同じように飛べば大丈夫と思ったのですが、私の身体がハナさんよりも重かったようで、距離が出たようです。これでも所長が軽量化を頑張ったのですが、まだまだ重かったようですね」

「重い、ねぇ……」

 華生の目の前にあるのは、カナの厚みがある胸部。ここが重さの原因なんじゃないかと疑いの目を向けるが、多分違うと思う。思いたい。

「今後は、その辺りも考慮して飛びたいと思います」

「いや、まぁ、この後こんな仕掛けあるかどうか知らないけどね……」

 華生は首が疲れてきたので、後頭部を床につけた。そこでふと気付いた。

「ねぇ、ところでカナちゃん」

「なんでしょう」

「あの……いつまでこの体勢?」

「え?」

 華生は顔を少し赤らめていた。

 カナは両手両足をついて四つん這い。そしてその下に、華生が仰向けで寝ている状態。華生とカナの顔が近い距離にあり、カナから放たれる甘い香りが、華生の鼻孔をくすぐっていた。

 女の子同士とはいえ、華生はちょっと変な気分になってしまった。

 端から見れば、カナが華生を押し倒したか、床ドンでもしているかのように見えるだろう。事実、カナが華生を押し倒したのではあるが。

「あ、す、すみません」

 カナは慌てて立ち上がると、右手を差し出した。

「ハナさんも起き上がって下さいよ」

「うん。カナちゃんがいたから起きれなかったんだけどね」

 華生はカナの柔らかな手に捕まり立ち上がると、体を軽く動かした。

 背中やお尻の痛みは、だいぶ治まっている。これなら、問題無く動けそうだ。

「とにかく、次だ次。先へ進もう。アシホに追いつかないとね」

「そうですね」

 二人は先へと進んだ。

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