五章 白ポプラ秘話 ⑤



 エリュシオンを後にして、ヘルメスは一直線にオリュンポス山へと向かった。

 そろそろ一度経過を報告しないと、ゼウスがしびれを切らして宮殿を飛び出してきかねない。

 そうなると迷惑以外の何物でもないので、ヘルメスは一目散に宮殿を目指した。



 オリュンポスの山頂に降り立ち、ゼウスの宮殿の門前にやって来たところで、急ぎ足のヘルメスはぴたりと立ち止まる。

 いや、凍りついたといった方が正しいかもしれない。


 宮殿の前に、怒気を陽炎のように立ち上らせてたたずむ女神の姿を見留めたのだ。


「――待っていたわ、ヘルメス」

「……デメテルさま……」


 ヘルメスののどから引きつった声が出る。


 デメテルは全身を、喪を表す黒の衣で包んでいる。

 愛娘を探して地上をさまよった女神の姿は、哀しみと疲れのためにやつれてしまっていた。

 そして今は、身体の内からわき上がる怒りのために元来の美貌が凄味を増して、底光りする双眸を向けられただけで、ヘルメスはのど首を締め上げられる心地がした。


「いるんでしょう、あの男は。……案内なさい」

「……はい」


 デメテルの怒りの理由はわかっていた。

 どんな用件かもわかりきっていた。


 ヘルメスは言われるままに、宮殿の奥、ゼウスの部屋へと怒れる女神を案内した。



 部屋の前にたどり着いて、ヘルメスは深呼吸をして心を落ち着けると、何も知らないでいるであろう、部屋の主に声をかける。


「ゼウスさま……入ってもよろしいでしょうか」

「おお、ヘルメスか。どーぞー」


 案の定、脳天気な返事が聞こえて、ヘルメスは背に冷や汗をかく。

 もう、どうなっても知らないぞ――ヘルメスはやけっぱちな気分で雲の帳を押しのけた。


 神酒の酒瓶、アンブロシアの盛りつけられた瀟洒な器の載ったテーブルの前で、ゼウスは長椅子に悠然と座していた。

 ゼウスは入ってきたヘルメスを笑顔で出迎えた。


 が、その後ろから続いて現れたデメテルを見て、笑顔から音を立てて血の気が引いた。


「でっ、デメテル――」


 情けない声を上げて、ゼウスは長椅子の背に張りつく。


 その姿を見下ろすデメテルのたたずまいは静かだが、周囲は今にも炎が立ち上りそうなほど、空気が荒れ狂っている。

 ヘルメスは大災害の気配を察して、こっそり部屋の隅に避難した。


「やあ、随分久しぶりだねえ、デメテル。

相変わらず美しい。元気にしてたかな――」

「単刀直入に言うわ、ゼウス。私の娘を返して」


 ゼウスのわざとらしい社交辞令には耳を貸さず、デメテルは鋭い口調で用件を告げた。

 デメテルの苛烈な視線から逃げるように、ゼウスはゆったりと金髪をかき上げる。


「さて……何のことやら、私にはさっぱり……」

「とぼけないで。私は知っているのよ。

あなたがハデスをそそのかして、私の娘をさらわせたと」


 ぐっ、とゼウスののどが締め上げられたような音を出す。

 まなじりをつり上げ、デメテルは燃える瞳でゼウスをにらみつけた。


「私の可愛いペルセポネを、無理矢理にさらって地下の世界に閉じ込めるなんて……私のペルセポネ、日の光も差さない闇の世界にたった一人で……なんてひどいことを――」

「デメテル、落ち着いて――」

「触らないで、不埒者!」


 長椅子から立ち上がったゼウスが肩に伸ばそうとした手を、デメテルは容赦なく打ち払う。


「あなたはいつもそう。

自分勝手に振る舞って、そのせいで誰かの気持ちが傷つくことも考えないで、無責任に周りを振り回してばかり……」


 怒りの炎が燃え上がる瞳の底に、脈打つ憎しみが潜んでいる。

 その激しく暗いデメテルの眼差しを、ゼウスは真正面から受け止めた。

 主神に向かって、デメテルは鋭くとがった爪を突き立てるように吐き捨てた。


「あなたのすることは不幸しか生まないのよ、ゼウス」

「……デメテル、それは違うよ」


 高ぶる感情を抑えきれずに震えるデメテルの声とは反対に、ゼウスの声音はとても落ち着いていた。

 まるで荒れ狂う感情ごと身体を抱き込んでしまうような深い声と、真摯に見つめてくる青い瞳に、デメテルは鼻白んだ表情を浮かべた。


「デメテル、私は常に皆のことを思っているんだ。

ハデスのこともペルセポネのことも、もちろん君のことも」

「うそよ、そんなこと……」

「本当だ。

よく見てごらん。この瞳の中に、うそが欠片でも見えるかどうか」


 そう言って、ゼウスは一歩、デメテルに近づく。

 デメテルは身を引くことも忘れて、吸い寄せられるようにゼウスの瞳を見つめていた。

 精悍な青い双眸が、女神の心まで見透かそうとするかの如く、瞳の奥底をまっすぐに見つめる。


「よく聞いて、デメテル。

ハデスは心からペルセポネに恋している。

そして、ペルセポネもきっとハデスに恋するだろう。

いや、気がついていないだけで、本当はもう恋しているのかもしれない」

「でたらめを言わないで」

「でたらめじゃない。

デメテル、君が一人娘を大切に思う気持ちはよくわかる。

だけど、永遠に今のままでいいのかい?」

「え……」

「美しく整えた箱庭にペルセポネを閉じ込めておくのが、君たち母娘にとって本当に幸せなことなのかと、私は心配しているんだ」


 責める風ではなく、静かに諭すようなゼウスの言葉に、デメテルは瞳を戸惑いに揺らした。


「君だって知っているはずだ、恋する気持ちのすばらしさ、尊さを。

想い合う二人を引き裂くなんてこと、君にできるはずがない。

そうだろう?」

「でも、私のペルセポネが……」

「デメテル、君の心はいつからそんなに冷たくなってしまったんだ。

君もかつては、その胸に燃える恋の情熱を宿していたというのに……」


 また一歩、デメテルに近づくと、ゼウスは女神のしなやかな腰を優しく抱き寄せた。

 たくましい腕と熱のこもった視線に絡め取られて、デメテルは少女のように頬を紅潮させ、大人しくされるがままになっている。

 胸が触れ合い、互いの鼓動と息づかいを間近に感じながら、二人ははじめて出会ったときのように見つめ合った。


「デメテル、誰よりも美しい私の女神、たとえ君の心が鋼のように頑なになってしまったとしても、私の胸には燃えさかる恋の炎が宿っている。

鋼をも溶かす、決して燃え尽きることのない炎が。

この炎で私は君の心を溶かし、いつでも恋の熱をよみがえらせてあげよう……」

「ゼウス……」


 熱っぽく見つめるゼウスの口元に笑みが浮かぶ。

 恍惚とした表情でゼウスの腕に身をゆだねていたデメテルだったが、大きな手のひらが頬をなでる感触にはたと我に返った。


「触らないで!」


 叫ぶと同時に、腕に全力を込めてデメテルはゼウスの身体を突き飛ばす。

 そして、間髪入れずに右手が鋭くひるがえった。

 室内に響いた痛覚を刺し貫く音に、事の成り行きを息を潜めて見守っていたヘルメスは身をすくめる。


 はたかれた頬を押さえて唖然としているゼウスを、デメテルは一層険しさを増した双眸でにらみ据える。


「そんな言葉で私をごまかせると思わないでちょうだい。

今更、あなたの手管に惑わされないわ」

「デメテル、ちょっと待った――」

「お黙り!」


 ゼウスの言葉をさえぎって、今度はデメテルの左手がひるがえる。

 頬を打つ音が甲高く響く。


 両頬を押さえて床にうずくまったゼウスに、デメテルは冷ややかな一瞥と言葉をとどめとばかりにたたきつけた。


「いいこと。一日も早く、ペルセポネを私の元に返しなさい。

ペルセポネが無事に戻らなければ、私は女神の務めを放棄します」


 黒い衣の裾をひるがえし、デメテルはほとんど駆けるように部屋を出て行ってしまう。

 その後ろ姿を呆然と見送って、ゼウスは深々と床に向かって溜息をついた。


「……デメテルも昔は、もうちょっと素直で可愛かったのになあ……我が妃といい、女は母になると変わってしまうものなのかなあ……」


 愚痴っぽいつぶやきを、ヘルメスは独り言と思って聞かなかったことにした。


 湿った空気をまとってうつむいていたゼウスだったが、しばらくすると立ち直ったらしく、おもむろに部屋の隅に視線を向けた。


「ヘルメス」

「いやです」

「……まだ何も言ってないじゃないか」


 むっとした表情でゼウスはヘルメスをねめつける。

 その視線と目を合わせないようにそっぽを向いてヘルメスは、言われなくてもわかりますよ、と淡々と切り返した。


「冥府へ行って、ペルセポネさまを地上に帰すよう、ハデスさまを説得してこいっていうんでしょう。

僕はいやですよ」

「なんでー」

「せっかくお二人が少しずつ歩み寄って、いい感じになってきたとこだったのに。

ここで引き離されなきゃならないなんて、ひどいですよ。

僕はそんな使い、やりたくありませんから」

「でも、デメテルがー」

「それですよ。

そもそもデメテルさまになんの相談もなしにこんなことして、あの方が黙ってるわけないじゃないですか。

話せばわかる、なんて言ってたくせに、あっさり説得に失敗してるし。

自分にできないことを人に押しつけるの、どうかと思いますよ」

「お前まで私を責めるのか……父は悲しいぞ……」


 再びうつむいてしまったゼウスを、ヘルメスは憮然と見つめる。


「私だって、考えなしにハデスをけしかけたわけじゃないのに……本当に心から、よかれと思って助言しただけなのに……ペルセポネの夫として、ハデスは決して不釣り合いな男じゃないのに……私の見立ては間違ってないのに、味方は誰もいないのか……」

「泣きまねしないでください、主神ともあろう方が」

「いや、真面目な話さぁ……」


 床にしゃがみ込んだまま、ゼウスは独り言のようにぽつぽつとつぶやきだした。


「ハデスは地下の支配者としての手腕と信用がある。

配下の者たちからの信頼も厚い。

けどさ、忠実な配下だけじゃなくて、心を許して思いを打ち明けられる、対等な友なり伴侶なりが、ハデスにも必要なんじゃないかな。

そういう相手が、ハデスにはいないんじゃないかと思って、私なりに気にしていたんだよ」

「…………」

「支配者は孤独だ。

その心を理解して、寄り添ってくれる相手は誰にだって必要だろう。

ペルセポネはきっと、ハデスの心を支えてくれる。

そう見込んだからこそ、だったんだけどな……」

「……意外にも真面目なお考えがあったんですね」


 ヘルメスはゼウスの思いがけず真摯な様子に目をみはって言った。

 その言葉に、ゼウスはすねた子供のような顔をして、


「お前、私がおもしろ半分に二人をくっつけようとしていたとでも思っていたのか?」

「はい」

「ひどい子だなー」

「日頃の行いのせいじゃないですか」

「本当にひどい……でも、まあ、私が日頃、地上で好き勝手にやってられるのも、ハデスが地下の世界をしっかり守ってくれているおかげだからな。

だから、感謝もしているし、私にできることならなるべく、力になってやりたいとも思っているわけさ」

「今日は実に意外な日ですねぇ、父上がそんなこと言うなんて。

それ、ハデスさまに直接言ってあげたらどうです?」

「言えるか、こんな恥ずかしいこと。実の兄に向かって今更……」


 そう言ってゼウスは、ますますすねた様子であらぬ方に顔を背けた。

 それを見てこっそり笑ってしまってから、ヘルメスは顔つきを改めて考える。


 やり方のぜひはあれ、ゼウスにはまっとうな考えがあって、ハデスとペルセポネを引き合わせたのだ。

 そして、ハデスはペルセポネのことを心から想っているし、ペルセポネもハデスのことを決して嫌ってはいない。

 ならば、少しばかり強引ないきさつはあっても、二人の婚姻には何の問題もない――が、それであのデメテルが納得するはずがない。


「どうしたものですかねぇ……まさか、デメテルさまの要求を呑むつもりじゃないですよね、父上」

「うーん……ま、聞かないわけにはいかないんじゃないかなぁ」

「……本気ですか?」


 軽く目をみはって、ヘルメスはゼウスの顔を見返した。

 ゼウスの顔には、事の深刻さなど欠片も考えていないような、のんきな微笑みが浮かんでいる。


「まあ、これはそう悪い結果にはならないと思うよ」

「は?」


 ぽつりとつぶやかれた一言を聞きとがめ、ヘルメスは思わず聞き返していた。


「どういう意味ですか?」

「やー、結局は二人の気持ち次第ってことだけど……」


 顔を上げたゼウスが微笑んでるのを見て、ヘルメスは怪訝そうに首をかしげる。

 その隙をすかさずゼウスが突く。

 腕を伸ばしてヘルメスの肩を押さえ込むと、逃げようのない距離からしっかりと目を合わせる。

 しまった――ヘルメスは自分の迂闊さを後悔したが、時すでに遅し。

 ゼウスは青い双眸を光らせると不敵に笑った。


「つまり、これも恋の試練ってことさ」

「試練……」


「というわけで、行ってくれるな? ヘルメス」


 何が、というわけで、なのかさっぱりわからなかったが、ヘルメスは身体に染みついた習性のためにうなずいてた。


   * * *


 ゼウスの宮殿から帰ったデメテルは、即座に自分の宣言を実行に移した。


 神殿の奥に閉じこもり、外界との交流を一切絶ち、女神の力の全てを封印したのだ。


 豊穣の女神の恩恵を絶たれた大地は、瞬く間に冷え切った。

 冷たい大地は種を内に抱えたまま、その芽生えを拒んで沈黙する。

 作物は実ることないまま枯れ果て、花も緑もたちまちのうちに色あせてしまった。


 ギリシアの大地は酷薄な冬に覆われた。

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