四章 心の庭に咲く花は ②
ペルセポネは館の外にいた。
乙女のかたわらにはヘカテがたたずみ、その姿は見えないが、エリニュスが陰ながらつきそっている。
そして今はもう一頭、ケルベロスが漆黒の身体をペルセポネにぴたりと寄り添わせていた。
ペルセポネは平らな岩に腰かけて、ヘカテと何か談笑しながらケルベロスの毛をすいていた。
ケルベロスはうっとりと心地よさそうにペルセポネの手に身をゆだねきっている。
冥府の番犬として恐れられる怪物も、この乙女の前では牙のない子犬同然になってしまうらしい。
ペルセポネの膝にあごをのせてまどろんでいるケルベロスを見て、獣の屈託のなさをうらやましく思いながら、ハデスは静かに近づいていった。
後に続くヘルメスは、それと気づかれないようにこっそりと距離を取った。
足音にすぐさま気がづいたのはケルベロスで、目と耳を向けた先に主人の姿を見留めると、大慌てで身を起こし、地面に伏せて畏まった。
こわごわと自分を見上げてくる三対の視線にハデスは一瞬淡い苦笑を向けたが、すぐに表情を改める。
やって来たハデスを、ヘカテは意外そうな表情で迎えて、
「やあ、坊や。
あんたもあたしたちのおしゃべりに加わりに来たのかい」
「……何を話していたんだ」
「いろいろさ。
この冥府に住んでる連中のことや、昔あった出来事なんかをね」
言って、ヘカテは微笑みペルセポネの方に視線を向ける。
それにペルセポネも微笑みを返してうなずいた。
「はい、ヘカテさまのお話はとってもおもしろくて、勉強になります。
ヘカテさまは物知りでいらっしゃるんですね」
「冥府暮らしが長いからね、いやでも事情通になるさ。
地上のことも、大概は知ってるしね」
「長く生きておられる方はさすがですね」
「……その言い方は気に入らないねえ」
顔をしかめて、ヘカテは指先でペルセポネの額を小突く。
小突かれた額を押さえて、ペルセポネが無邪気に笑みをこぼすのにつられて、ヘカテも軽やかな声を立てて笑った。
「そうだ、お嬢ちゃん。
坊やにあれを見せてやったらどうだい?」
「あっ、そうですね。
ハデスさま、見ていてくださいね――ケルベロス、おいで」
手招きされて、ケルベロスは尾を振りながらペルセポネの足元にやって来る。
「おすわり」
ペルセポネの言葉に従って、ケルベロスは大人しく地面に座る。
「お手」
そしてペルセポネが差し出した手に、言われるままに右の前足をのせ、
「おかわり」
今度は替わって左の前足をのせた。
「ごちそうさまは?」
ペルセポネの言葉に従順に、ケルベロスは真ん中の頭を下げると、そのあごを白い手の上にのせてみせる。
「いい子ね、ケルベロス」
見事に芸をやり遂げたケルベロスを労って、ペルセポネは三つの頭を優しくなでてやった。
心なしか、ケルベロスの表情は誇らしげだ。
「どうだい、坊や。飼い犬を手なずけられてしまった気分は?」
「……ああ、すごいな……」
愉快そうな表情のヘカテの言葉に、ハデスは感心したような呆れたような声で答えた。
知らないうちに、ペルセポネは冥府の住人たちに受け入れられ仲を深めている。
まるで、最初から冥府の一員であったかのように――胸の内に浮かび上がったそんな考えを、ハデスは慌てて打ち払った。
「それで坊や、何か用事だったんじゃないのかい?
お一人でわざわざお越しなんだからさ」
「一人……?
いや、ヘルメスが――」
ヘカテの言葉にハデスが振り向くと、後からついてきていたはずのヘルメスの姿はどこにも見えない。
謀られた――ようやくそのことを悟って、ハデスは憮然とした表情をヘルメスのいなくなった空間に向けた。
「……ああ、そういうこと」
そのハデスの様子から、ヘカテも事情を敏感に察したらしく、口の端をつり上げて意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「お嬢ちゃん、坊やはどうやらあんたに用事があるようだよ。
邪魔しちゃ悪いからね。ケルベロス、今日のところはおいとましようじゃないか。
エリニュス、あんたも一緒においで」
「ヘカテさま?」
「じゃあね。お嬢ちゃん、暇があったら、今度あたしの館においで。
興味があるなら、まじないの道具を見せてあげるからね」
言って、ヘカテはひらひらと手を振ると、名残惜しそうなケルベロスを引き連れて、引き止める間もなく去っていく。
その後に続いて、エリニュスの立てる羽音も遠ざかっていった。
「ハデスさま、私にご用って何でしょうか?」
二人きりにさせられてしまった。
一瞬、呆然としてしまったハデスは、ペルセポネの声に我に返る。
仕方なく、意を決してハデスはペルセポネに向き直った。
「案内したい場所があるのだが……」
「私をどこかに連れて行ってくださるのですか?」
「庭を見たいと、言われただろう? よければ、今から案内したい」
「覚えていてくださったんですね。うれしいです」
ペルセポネの表情がぱっとほころぶ。無邪気な笑顔に、ハデスの鼓動は大きく跳ねた。
動揺を悟られないように、ハデスは長身をひるがえして歩き出す。
「こちらへ――」
肩越しに振り向いて言われた言葉に引かれて、ペルセポネは小走りに黒衣の後ろ姿を追いかけた。
ハデスの先導で連れてこられたのはある川の岸辺だった。
「ここですか?」
これといって変わった様子もない川辺の風景に、ペルセポネはきょとんとしてハデスの長身を見上げた。
乙女の問いかけに、しかしハデスは首を横に振る。
「いや、この先だ」
そう言って、川岸に沿って歩いて行くハデスの後ろを、ペルセポネは大人しくついて歩いた。
ややあって、川辺の簡素な船着き場にたどり着く。
船着き場には一艘の小舟が泊まっていた。その小舟には、小柄な人影がうずくまるように乗っている。
「――カロン」
ハデスが呼びかけると、その人影は緩慢な動きで顔を上げた。
小舟に乗っていたのは、灰色の衣を頭からすっぽりとかぶった老人で、ハデスの顔を見るとうやうやしく頭を下げる。
「彼女を案内したい。渡してくれるか」
ハデスの言葉に、
先にハデスが小舟に乗り込み、差し出された手に支えられてペルセポネも続いて乗船した。
二人が並んで腰を落ち着けたのを確認すると、カロンは自分の身長の倍は長さがある櫂をようよう操って、黒い川の上に船をすべらせる。
「この川の先に、ハデスさまのお庭が?」
ペルセポネは隣に座るハデスの横顔を見つめて尋ねた。
「……ああ。しばらく、船に揺られることになる」
ハデスは視線を黒い川面に向けて答える。
その答えにペルセポネは素直にうなずいて、水が船底を打つ音に耳を傾け、すべるように進む船の乗り心地に身を任せながら、ハデスに話しかける。
「地下にも川があるなんて、何だか不思議ですね」
「……そうか?
地下の世界には多くの川がある。地上から水が注ぎ込んで作られたものだ」
「この川の他にも、まだたくさんあるんですか」
「ああ……最も大きな河は、ステュクスという。
この冥府を七重に取り巻いている。他に
「火の河? 火でできた河まであるのですか?」
「興味があるなら、そちらも後で案内しよう――」
ペルセポネが好奇心いっぱいに尋ねてくるのに、ハデスは平静に受け答えしている――かのように見える。
だが、さっきから間近で見つめてくる輝く緑の瞳と、一瞬でも目を合わせないように川面ばかり見ている。
うっかり目が合ってしまったら、緊張と動揺をごまかしきる自信がないのだ。
ヘルメスがもし見ていたらそのことに気づいて、盛大に溜息をついてしまうだろう。
しかし今、船の上にいるのは、黙々と船を操る渡守を除いては二人きりだ。
「……この川の名前はアケロンという。
アケロン川を下っていくと……ああ、もう間もなく見えてくる――」
ハデスがそう言って指し示す方へ、ペルセポネはつられて視線を向けた。
船の進む先が明るくなっている。
暗く長い洞窟を抜けた先に、日の光の差す出口が現れたかのように。
カロンの操る船はまっすぐにその光に向かって進んでいく。
地下の暗がりに慣れた目にはそれはあまりににまぶしく、ペルセポネは思わず強くまぶたを閉ざした。
船は溶けるように、光の中に呑み込まれる――。
「――到着した。目を開けてみるといい」
静かなハデスの声に、ペルセポネはおそるおそるまぶたを持ち上げた。
そして見えた目の前の風景に、ペルセポネの唇から感嘆の声がこぼれる。
そこに広がっていたのは、果てしなく広がる緑の野原だった。
地下の川を下ってたどり着いたというのに、この野原には柔らかな光の粒子が降り注いでいて、温かく明るい。
緑の絨毯の上には見たことのない真っ白な花がペルセポネの視界いっぱいに咲いていて、かすかにそよぐ風に清楚な風情で揺れている。
ハデスの手を借りて野原に降り立ったペルセポネは、柔らかな緑と淡い白が彼方まで広がっている様を、瞬きも忘れて見入ってしまっていた。
視線を上に向けると、ずっと高いところに真珠色をした靄が、薄雲のように広がっている。
そこにはきっと岩の天井が続いているだろうに、その靄のために白い空が広がっているようにも見えた。
太陽もないのに地上のように明るく、清々しい香りを運ぶ風も吹いている。
その香りを吸い込むと、心がふと穏やかに、優しい空気に包まれる心地がした。
「……不思議……なんてきれい……」
つぶやいて、ペルセポネは野原に足を踏み出した。
目の前に咲いていた白い花に、両手でそっと包み込むように触れてみる。
ほっそりとした背の高い茎に、細長い花弁の白い花がいくつも房のように集まって咲いている。
顔を近づけてみると、ほのかに爽やかな香りが漂った。
「これは何という花ですか」
ペルセポネは顔を上げて、かたわらのハデスに尋ねる。
「アスポデロスという、冥府の花だ」
「……アスポデロス……」
初めて知った花の名前を、ペルセポネは唇で確かめるようにつむいだ。
熱心に花を見つめるペルセポネの横顔をうかがいながら、ハデスが尋ねる。
「その花が、気に入ったか」
「はい、清らかで香りもよくて……初めて見る花ですけど――」
ペルセポネはハデスの顔を見上げると、白い頬に朗らかな微笑みを浮かべて言った。
「とても好きです」
あどけない口調の一言に、ハデスの心臓は音を立てて跳ね上がる。
好き――自分に対しての言葉ではないのに、たった一言なのに、想いをつのらせた心は容赦なく乱される。
動揺が顔に出てしまうのを、そしてそれを見られるのを恐れて、ハデスは明後日の方に顔を背ける。
風が、野原を吹き抜ける。
さあっと、野原をそよがせる風は、アスポデロスの花を揺らして、白い花びらを舞い上げた。
ハデスの黒髪が風にあおられ、舞い上がる花びらを視線で追いかけるペルセポネの栗色の髪も、輝きながら風の中になびいて広がる。
さやかな風の奏でる音楽に耳を傾け、その心地よい空気にペルセポネはうっとりと身をゆだねた。
風が止み、はらはらと落ちてくる花びらを見つめていたペルセポネの視線が、舞い散るその動きを追って、ふとハデスの方を向いて止まる。
何かに気づいたように一瞬ハデスを見つめた眼差しが柔らかくほころび、そしてペルセポネは微笑みを浮かべたままハデスの側に近づいていった。
「……?」
気づいて、視線を向けたハデスは全身を硬直させる。
ペルセポネがすぐそばにいた――互いの衣が触れ合ってしまうほど側に。
間近でハデスを見つめたまま、ペルセポネはつま先立ちになって伸び上がる。
その場で金縛りに遭ったように身じろぎできずにいるハデスに向かって、ペルセポネはまっすぐに手を伸ばした。
白い指が、黒髪に触れる。
その指先につまんだものを見せながら、ペルセポネは無邪気に微笑んだ。
「花びらがついていましたよ」
ペルセポネは、ハデスの髪からつまみとったアスポデロスの花びらを、そよぐ風に乗せて飛ばした。
ひらり、と舞い上がって遠ざかっていく花びらをペルセポネは見送る。
そして、ハデスの様子に気がついて不思議そうにペルセポネは首を横に傾けた。
「どうかなさいましたか?」
「――な……何でもない……」
脱力して、片手に顔を埋めて浮かんだ顔色を隠そうと、ハデスはペルセポネに背を向けた。
不意打ちの、極至近での自分の振るまいがハデスを動揺させたことなど思ってもいないペルセポネは、無邪気というより鈍感な表情でひたすら首をかしげた。
首をかしげたまま、ペルセポネは緑の瞳を瞬かせた。
視線はハデスの肩越しに向けられて、遠くの景色の中に見つけたものを、ペルセポネは目をこらして見つめる。
「ハデスさま」
不意に可憐な声で名前を呼ばれて、ハデスの心臓はまた大きく跳ね上がる。
呼びかけたペルセポネは、些細なことで動揺するハデスの胸の内など知らずに、屈託のない調子で問いかける。
「ハデスさま、向こうに誰かいます。
あの方たちはどなたです?」
ペルセポネが指さす方に、確かに人影が見えた。
数人の人影が、特に何をしている様子でもなく、ただ花の間を当てもなくさまよう風に歩いている。
「……あれは死者たちだ」
「ししゃ?」
「このアスポデロスの咲く野には、地上から下ってきた死者たちが集うのだ」
気を取り直して、ハデスはペルセポネの問いに丁寧に言葉を選んで答える。
「地上での生を終えた者たちは、地下につながる洞窟を通って冥府にやって来る。
地下を流れる忘却の河の水を飲み、地上での記憶は全て忘れて、アケロンを下ってこの地に集う――」
男も女も、幼い者も老いた者も、賢者、愚者、生前にいかなる地位にあった者も大きな財を築いた者も、何も持たずにいた者も、その生を終えた後は、等しくこの地に受け入れられる。
区別なく、あらゆる生命がまっさらな魂となって平等に。
地下深く、暗い冥府の内に抱かれたここは、王の守る安らぎの庭園なのだ。
ハデスは静かな眼差しでさまよう死者の姿を見つめている。
並んでたたずむペルセポネも粛然とした面持ちで、初めて見る死者の、どことなく穏やかな居住まいを見つめた。
「……亡くなられた方たちは、皆ここにやって来るのですか」
「いや……エリュシオンと呼ばれる場所がある。
生前、地上で大きな功績を立てた英雄たちのために、死後も幸多くあれと、特別に整えられた土地だ。
神々に祝福された者は、死して後はエリュシオンで暮らすのだ」
「エリュシオン……どんなところなんでしょう」
「……興味があるか?」
問われて、ペルセポネは微笑んでうなずいた。
無邪気な様子につられて、ハデスの表情もかすかにゆるむ。
「では、案内しよう」
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