第10話 姫と鬼

「殺すのだ。帰すでないぞ!」



 途端に、ならず者が匕首を手に包囲をせばめてきた。

 千冬も、すかさず刀を抜きあわせる。

 左右から飛び込んでくるのを、



「う、うわっ!」


「ぎゃああッ!」



 と、瞬く間に三人、四人と切り伏せ、なおも息を乱さない。さすがは、神林流の免許皆伝と感心するしかなかった。

 一方の善八は、奇妙な動きをみせていた。



「こいつぁ、どうなってんだ」



 律は目を疑った。

 丸腰の善八は、ただ歩いているだけに見える。

 まるで羽虫でも避けるように、ときおり、ひょいと上体を揺らすが、どうもそれだけの動きで、繰り出される刃を躱しているらしい。

 らしい、というのは、ならずもの達が善八の間合いに入ることもできず、誰もいない宙を突いては、つんのめっているからだ。

 何かの錯覚をおこしたのかと、律はなんども目をこすった。善八は、顔だけまっすぐ浪人に向けて、立ちどまるでも急ぐでもなく、ゆっくりと相手に近づいていく。

 その動きは、修行を積んだ武芸ではなく、天性の働きのようだった。素人くさい足運びが、どうにも頼りないが、それでいて無駄がない。

 それを見ていた浪人が、



「思い出したぞ。姿が変わって気づかなかったが――」



 と、殺気のこもる笑顔をみせた。



「長谷川――そう、長谷川宣為。かの長谷川宣以の血を引く男だな」



 長谷川宣以――通称を長谷川平蔵という、火付盗賊改方として名高い『鬼平』が活躍した天明年間は、およそ七十年ほど昔になる。善八こと長谷川宣為は、平蔵からかぞえて四代目の子孫にあたった。



「その名は、捨てました」


「そのようだな。修行に耐えられず逐電し、家も勘当されたというが、どこでどうしていたのやら」


「おさむらい様には、かかわりのないことで」



 浪人はふん、と鼻を鳴らした。



「一度、手合わせをしたいと思っていた。俺は――」



 そう名乗りかけるのを、初栄が遮った。



「名のるな!畜生にも劣る外道の名など、我らに興味のないことだ」


「立ち合おうとする侍に、女子供が口を出すな」


「厚かましくも、まだ、さむらいのつもりか。貴様ごときは白洲で裁かれ打ち首になろう。切腹など許されぬと思え」


「な、なんだと」


「嘘だと思うなら、善八に打ち込んでみることだ。ひとすじでも傷をつけたなら『さむらい』ということにしてやる」


「言わせておけば――」



 怒り心頭の浪人が、中腰に身を沈めた。

 善八は、ぶらりと両手を垂らしたままである。



「貴様、剣は」


「それも昔、捨てました」


「おのれ、剣もいらぬ相手と言うか」


「いらぬ!」



 かわりに叫んだのは初栄だった。



「少しばかり剣をかじっていい気になり、罪なき人々を手にかけた外道め。本物の天賦の才を目に焼きつけて、驕りを恥じながら首を晒すがよい」



 もはや怒りで言葉もなくした浪人が、気合とともに地を蹴って、嵐のような一撃を善八に見舞った――いや、見舞おうとした。



「!?」



 いつの間にか、相手が目と鼻の先にいた。

 飛び込むつもりが、飛び込まれたか――それすらも理解できないうちに、顔の中心に拳を打ちこまれ、鼻骨が砕けていた。

 思わずのけぞって、がら空きになった脇腹に、胴に穴を穿つごとき強打が襲う。肋骨が粉々になって、がくりと膝が落ちた。



「ぐ――」



 見上げると、霞む視界の向こうで善八が腕を振りあげていた。その表情には何の感情もなく、無造作に、無感動に、ただ拳を振りおろそうとしている。



「お、鬼――」



 脳天を打たれて転がった時には、浪人はもう昏倒していた。



「善八、殺してはおるまいの」


「はあ、それは大丈夫かと」



 傍らには、ならずもの達を斃した千冬が、怒りに全身を震わせていた。



「貴様というやつは!」



 すっかり血がのぼり、容易に言葉も出てこない。



「これほどの、これほどの天分がもちながら――」


「あのう、いったい何が起こったんで?」



 釈然としない律が訊くと、



「言うなれば、間合いの達人といったところかの」


「間合いの達人?」


「この善八はの。相手が誰であれ、また何人であれ、すべての動きを先読みして、然るべき自分の間合いに身を置くことができるのだ。攻撃しようと思えば届かぬ間合いに離れている。防御しようと思えど叶わぬ間合いに寄られている。考えてのことではない。皮膚がそれを感じて、自然と身体が動くらしい。まさに天賦の才よの」


「へええ――」


「脚力は先ほどみたであろう。膂力のこの通りじゃ。本来であれば、まさに戦うために生まれついたような男なのだ」



 千冬は歯軋りをして善八を睨みつけた。



「千冬。そう怒るな」


「貴様が真面目に修行を積んでおれば、江戸一の剣士、いや天下一も夢ではなかったものを」



 以前から積もる感情があったのだろう、怒りは、なかなかおさまりそうもなかった。



「それでも、わたしは剣というものを、どうしても好きになれませんでした」



 善八はそう言って、寂しげな笑みを浮かべた。



「争いが嫌い、血が嫌い。身体の天分は十分だったが、心の天分は備わってなかったということよ。人は望んだものを持てるわけでもないが、望まぬものを持っていることもあるのだ」



 初栄が、ふたりを取りなすように、



「それにな、千冬。天下一と言うが――どうも我らの知る天下の向こうには、まだ見ぬ天下もあるようだ」


「それがしは、それがしの知る天下だけで結構」



 憮然としたままの千冬に笑顔をみせて、



「そんな千冬の頑固なところを、私は好いておる。しかし誰より強いくせに、さむらいを捨てるほど優しい善八も、私は好いておるのだ」



 千冬は、思わず睨みつけた。



「なりませぬ!滅相もございませぬぞ」


「勘違いいたすな――それに善八は剣を捨てたが、なんの、包丁の天分は剣それを凌駕するやもしれぬぞ」

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